ロープ

猫色傘

ロープ

 首吊り用の、ロープを買った。


 首吊りをする際に上手く事が成功するよう、補助アイテムも一緒に買った。

 ネットでうんうん唸って購入したそれは、数日後、無事に手元にやってきた。

 新しい家電やゲームを買った時に似ているようなソワソワとした手つきでそれを開けると、中には、注文したロープがでんと鎮座していた。

 太すぎず、けれど途中で切れないよう、細すぎず。

 恐る恐る触ると、いい素材なのか、滑らかに指が馴染んだ。


 これが、私の命を奪ってくれる。

 私は、これでいつでも死ねるんだ。


 そう思うと、なんだか心がとても満たされた。

 嬉しいのかなんなのか、涙が溢れ、頬を伝っていく。

 もう一度ロープに触れると、やはり滑らかだった。

 安心感。

 ロープからは、そんな印象を受けた。

 今後、何か辛いことがあっても、このロープがあれば、私は死ぬことができる。

 自由。

 自由だ。

 もう電車に飛び込んだり高層ビルから飛び降りるような、そんなことを考えなくてもいい。

 私はいつでも死ねる方法を手に入れたのだ。



 その日以来、そのロープは、お守りとなった。



 何か辛くても、家に帰ればロープがある。

 いつでも死ねる。


 そんな想いは、日々の心の負担を減らした。

 ロープを購入してからあまり間を空けずに死ぬ日がくるだろうと思っていたのに、皮肉にもお守りのお陰で実行に至ることはなくなっていた。

 いつでも死ねる。なら、もう少し頑張ってみようか。もう少し、生きてみようか。

 そう考えられるようになった。






 ロープを購入してからしばらくたった、ある日のことだった。

 いつものように、仕事から帰ってくる。中身のない笑顔で、侮辱や罵倒には聞こえないふりで、意味の見出せない業務に手を動かして。自分の中のMPは0になっていて、椅子に座って夜ご飯を食べている途中に、意識がなくなった。

 疲れて寝ていたらしい。

 しばらくしてそう認識した私は、重い瞼を開き、ベッドに入ろうと上半身を起き上がらせる。

 ……違和感。

 あれ、と思った。何か、変な臭いがする、気がした。

 加えて、冬真っ盛り、北部屋で普段温度計が十度を示すような部屋なのに、なんだか少し温かい気がした。

 この小さな違和感を、無視してはいけない……ような気がした。なんとなく。

 次の行動に迷って少し考えてから、部屋の扉をあけ、玄関へと向かった。賃貸アパートの一人部屋。少し歩けば、すぐに玄関に到着する。

 違和感は大きくなった。

 何か、変な音がしていた。ごおおお、という低音。それに耳を澄ませていると、突然甲高い音が、一定間隔で鳴り出した。

 ――サイレンだ。

 驚いて、ドアの覗き窓から外を見渡した。

 外は橙色に染まっていた。眩しさに、目をパチパチと瞬かせた。覗き窓から見る景色は、毎日見ている御馴染みの景色がまるで別世界のように変わっていた。

 火事だ。

 そう判断した時には、鍵をあけ、ドアを開けていた。

 温かい……いや、熱いくらいの風が、身体がよろめくほど吹き付けてきた。続けて、視界を奪うように黒い煙が入り込んだ。

 思わず涙目になり、ごほ、とせき込んだ。黒い煙の端々には、爛々と燃える炎が見えた。全てを飲み込むような、そんな怖さがあった。

 急いで扉を閉めた。炎が辺りを塞いでいて、出られそうではなかったし、煙がこれ以上入り込むとまずい気がした。

 早足で、先程まで寝ていた椅子のある部屋へと戻る。心臓がバクバクと五月蠅いくらい鼓動を速めていた。

 非現実的だが、火事が起こっている。これは揺るがない事実であり現実。なんとかして、逃げねば――

 部屋に入って、ピタッと、動きを止めた。

 あれ? と、心の中で、首を傾げた。

 私、死にたいんじゃなかったっけ?

 先程の炎を脳裏で反芻する。ゆらゆらと大きく燃える炎。恐らく、あれに飲まれれば、生きてはいられない。

 こんな世の中、もう生きていたくないんじゃなかったっけ?

 日々、家に帰って泣く生活。毎日、私は生きるのに向いていない、と思って、明日が怖くてやっぱり泣いて、眠れない生活を送ってきた。頼れる人もいない。周りからの視線は全て怖く、受け入れがたいものばかり。親孝行も出来ず、両親にはお世話になった恩返しも満足に出来ていなくて。今後の仕事だって、辞めてばかりで受け入れてくれるところなんて、見つかるかわからない。そもそももう、心が折れて、働く気なんて起きない。

 もう、こんな毎日を続けるのは、嫌だと思ってきた。

 死ぬことばかり考え、死ぬ方法を考え続けてきた。

 そんな中、火事が起きて逃げ遅れるという、絶好の死ぬ機会がやってきた。

 喜ぶべきことだろう。首吊りをするまでもなかった。もう、こんな毎日苦しい思いをする生活から逃れ、死ぬことが出来るのだ。

 なのに。

 「……死にたくない、のかな」

 私の足は動かなかった。

 どうすればいいのか、脳がフル回転していたが、答えは出なかった。自分のことなのに、自分の気持ちがわからなかった。

 炎に飲まれればいいだけなのに。

 心が怖いと叫んでいる気がした。死にたくないと、震えている気がした。

 「そんなこと言ったって、もう生きていく自信ないよ。疲れたよ。死ぬしかないんだよ」

 誰にともなく呟く。酸素を上手く取り込めなくて、肩で息をした。涙が、溢れて頬を伝った。煙のせいじゃなかったけれど、煙のせいにしたかった。

 その時、玄関から、大きい音が不意に響いた。何かが倒れたような、腹に響くような低音。それに加え、炎が辺りを焼く音が、一層大きくなった。

 はっとした。恐らく、玄関まで炎が移った。ドアが焼け落ちたのだ、と思った。

 刻一刻を争う状況だ。胸の鼓動は、これ以上はないと思っていたのに、より早くなって、思わずぎゅっと目を瞑った。

 どうする? どうすればいい?

 その時、脳裏にお守りが過った。あの、首吊り用のロープだ。

 焼死は苦しいらしいし、いっそ先にロープで首吊りを……と思ってから、私は、ある考えに至り、茫然とした。

 ロープ。首吊り用に買った、ロープ。

 ロープの使い道は、何も首を吊ることだけではない。

 私は思わず、部屋の奥に隠していたロープを取り出し、強く握った。

 いつ触っても、手触りがよく、がっしりとしたその硬さは、安心感を与えた。

 私は、先程考えついてしまった使い道に、きゅっと口を結び、ロープを食い入るようにみつめた。

 「…………」

 しばらくそのまま動けず、ロープを見つめる。すると、玄関の方から何かが落ちるような音が響き、燃えるような音が、一層大きく耳に入った。

 もう、時間がない。

 「……!」

 私は涙を湛えながら、ロープを抱え、ベランダ側の窓へと向かった。カーテンを開け、扉を開ける。冬の冷たい風が、まるで責めるように、身体に吹いた。そのまま裸足なのも厭わず、ベランダへ出る。

 この部屋は五階だ。ベランダから下を見下ろすと、何人かこちらを見ている人々が、小さく見えた。大通りに面しているのに、車が走っていない。規制がかかっているのだろう。消防車も、すぐに来るようだ。サイレンの音が、小さく耳に入ってきた。

 私はロープをじっと見つめ、そして――ベランダの格子に、一方を結び始めた。

 太くて結びづらいが、必死にロープを引っ張った。火事場の馬鹿力とはよく言ったもので――人生一ともいえるくらい、踏ん張り、手に力をこめて、ロープを引っ張った。

 固く結ばれたのを確認し、結んでいない方のロープを抱える。

 ぐっと唇を噛んだ。一瞬躊躇した後、そのロープを、ベランダから外へと落とした。

 ロープを伝って、地上へ逃げる。

 ロープのことを思い出した時、そんな使い道に思い至ってしまった。

 死にたかったはずなのに。死ぬために、ロープを手に入れたはずなのに。

 私は、生きるために、それを使うことを思いついてしまった。

 今なら、引き返せる。これが、最後のチャンスだ。

 私は、部屋を振り返った。

 部屋のすりガラスの扉越しに、炎の赤がもうすぐそばまできているのが見えた。今引き返して、炎に飲まれれば、死ぬことが出来る。

 私は……。

 まだ、どうすればいいのか、結論が出ていないような気がした。涙が溢れて、炎の赤が滲んだ。

 私は……、私は……

 ベランダの外へと、顔を戻した。固く結ばれたロープが、長く長く、下へと垂れて、風に揺れていた。

 背後でまた、何かが燃え落ちる音が響く。

 私は……!


 「私は……、生きるっ!」


 身体が動いた。

 ベランダを跨ぎ、外側へと足をかける。そしてロープを一度引っ張ってから、そのロープへと乗り移り、全体重を預けた。

 思っていた以上に揺れるし、結び目の強度も信用ならない。

 ただ、いつもお守りにしていた、このロープへの信頼感があった。

 今まで、私を精神面で守ってきたロープ。

 貴方になら、全部託せる。

 私は一度唾を飲み込んでから、ロープを伝って、下に降り始めた。

 下に向かうにつれて、揺れが大きくなる。下を見れば、何も足場のない、遥か下の地上が見えた。何人かが私に気付き、指をさし、何かを叫んでいた。

 怖い。

 それでも、両の手で掴んでいるこの感触は、いつも安心感を得ていたものと同じだ。初めて触った時も、辛くて使おうと触った時も、同じ感触だった。手触りがいい滑らかな表面、そして程よい太さの安定感。

 大丈夫。

 「こんなところで、死なない……!」

 死なない。

 あんなに死を渇望していたのに。

 私は、死ぬためにこのロープを買ったのに。

 今は、生きるために使っているんだ。

 「死なない……! 死なないから……!」

 私は譫言のように呟いた。不安を全部押し出すように、自分に向けて言っていたのかもしれない。

 「生きるって、決めたから……!」

 ロープを、より強く握った。掌が痛くなるほど、ぎゅっと。

 命を奪うためのそれは、命を続けるために、役目を果たしたのだった。



 ロープは、千切れたりしなかった。結び目も、解けたりしなかった。

 私の期待に応えるように、地上に足がつくその時まで、頼もしく私を運んだ。

 その後、私は周りにいた人に保護された。後のことはあまり覚えてはいない。

 すぐに消防車がきて消火活動をしたようだが、建物は全焼してしまった。

 コンロの火が原因とか、違うとか。そんな話をされたが、こちらもあまり覚えていない。

 私は病院に運ばれ、別状はない旨診断されたあと、トイレでひとしきり泣いた。何故と云われれば答えられないが、いろんな感情が押し寄せて、とにかく泣くしか出来なかった。

 私は、死に損なった。

 この苦しい日々を、また続けることになったのだ。

 後悔がないかと言われれば、よくわからない。ただ、あの時、ロープを握って、生きると決めたことだけは、強く覚えている。

 だから、苦しくても、辛くても、もうしばらく、生きようと思うのだ。

 

 ロープは結局、建物から火が移り、燃えてしまったらしい。

 しばらくしてから現場へ見に行った際、上の方から一本長く垂れている、それらしき残骸が黒焦げになっていた。

 私はしばらくその光景を前にして、その場に突っ立っていた。涙が溢れて零れ落ちた。

 火事を目の前にした時より、自分の生死が問われた時より、衝撃を受けた。

 精神的お守り代わりで、自分の命を助けてくれたそのロープが、黒焦げになって、自分の元には、もう戻らない。

 その事実に茫然とし、喪失感に駆られた。

 ある意味恋人よりも友人よりも家族よりも大切なそれは、私を生かせることで失ってしまった。

 死ぬことを目的として手に入れたのに、結局生かせるために働いて、役目を終えるだなんて。

 ――ありがとう。

 泣きながら、そんなことを思った。

 それを合図とするかのように、黒焦げのロープの残骸は途中から崩れ落ちた。

 それが、ロープとのお別れだった。




 また、ロープを買おうとは思わなかった。

 首吊りをしたくなったら、またロープを買ってしまうかもしれない。

 ただ、もしかするとまた、死ぬために買ったロープで、生きるために使ってしまうことを選択するかもしれない。

 それが怖くて、買えない。

 つまり、死のうとせず、普通に生きている、ということだ。

 ……相変わらず辛くて、泣きたくて、苦しい人生だけど。

 でもあの時、ロープを使って生きることを選択したことは、不思議と私の中で受け止められている。

 死ぬために手に入れたロープが、生かしてくれた命。

 不思議な縁。

 私は、死にたくなった時、ロープのことを思い出す。

 涙を流して、涙を拭いて、そして、「死のう」じゃなくて、「もう少し頑張ろう」と考える。

 ロープはなくなってしまったけれど。



 今でも、大切なお守りだ。



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