最終話 またいつかどこかで
詩冬と柚香がユズカのアパートに到着。
アパートの駐車場には、海道の白い車はもうなかった。
海道はすでに帰ってしまったようだ。
二人が二〇二号室の前に立つ。呼鈴を鳴らしてから手を繋いだ。
玄関のドアが開き、ユズカが顔を出す。
彼女は二人を見咎めると、布団の敷かれた部屋に連れていった。
そこに実体の柚香が眠っている。
ユズカが布団の右脇に座った。
布団の左脇には、詩冬と柚香が並んで座った。
ここで二人が手を離す。
詩冬は霊体の柚香に横目を送った。
親しかった彼女を見るのは、これが最後になる。
いまから霊体と実体がふたたび一つになろうとしている。一つになれば柚香は霊体のときの記憶をなくす。詩冬のことを忘れてしまうのだ。詩冬を知っている柚香はもうじき存在しなくなる。
胸が締めつけられるほど寂しい。だから時が止まってほしかった。でも柚香が前に進むためには、それを望んではならない。
柚香が詩冬の名を呼ぶ。
「ねえ、詩冬」
彼女に名を呼ばれるのも、これが最後だろう。
「どうかしたか?」
互いに見つめ合う。詩冬は堪え難い気持ちを抑え、無理に笑顔を作って見せた。
それなのに柚香は下を向いてしまった。黒髪が柚香の顔を隠す。
「あたし、詩冬には感謝している。もし詩冬と出会わなかったら、きっと本来のあたしには戻れなかった。母のことを嫌ったまま死んでいったと思う。それと父に会うこともなかった。でもそうならずに済んだ。すべて詩冬のおかげね。いまからあたしはこの子と一つになる。失うものはとてもとても大きいけれど」
「オレも柚香に会えて良かった。毎日が……すっごく……楽しかったし……」
詩冬は言葉が詰まった。いろいろな思い出を想起してしまったのだ。
柚香はゆっくりと顔をあげた。髪に隠れていた顔が露わになる。
涙交じりの瞳は詩冬を見つめていた。
その瞳から雫が落ちた。
詩冬はふたたび言葉を発しようとしたが、顎が震えてしまって言葉が声にならない。いくら口を動かそうとしても、口が言うことを聞いてくれなかった。
無言の詩冬に柚香が顔を近づけてきた。
「そこにもう一人のあたしが眠っているでしょ。その子は生きている。このあたしだって生きている。いつだったか、屋根の上で言ったことを覚えてるかしら? あたしはいま生きてる、もっと生きたい――って言ったの。そう、いまの『このあたし』として、もっともっと生きたかった。そう願ったのは詩冬のせいだったのかもね」
「えっ?」
柚香が胸に飛び込んできた。
霊体なのに確かな柚香の感触……。
ほんの僅かな時間であったが、過去の思い出を共有する最後の時間でもあった。
それは詩冬の忘れられない確かな思い出。
そして柚香の忘れてしまう白紙の思い出。
奇妙で不思議な二人の思い出。
「さようなら、詩冬」
詩冬から柚香が離れ、浮きあがった。
ふわりと実体の上に位置する。
眠っている自分自身に体を重ね合わせた。
少しずつ霊体の柚香の姿が消えていく――。
さようなら、柚香。
完全に見えなくなった。
見えているのは布団の中の柚香だけとなった。
まもなく布団の中の柚香が体を起こした。目が覚めたようだ。
あくびするように両手をいっぱいに伸ばし、それをまたおろす。
涙をこぼした霊体の柚香とは違い、嘘のように清々しい表情をしていた。
「どうしたのかしら。ここ、車の中じゃなくてウチね」
彼女の記憶は華之江の車の中までらしい。
柚香の双眸が母ユズカの姿を捕らえる。
目覚めたばかりの彼女はにっこりと微笑んだ。
「お母さん。あたしいつの間にか眠っちゃって……」
柚香の視線が詩冬を見咎める。
彼女はハッと大口を開けた。
「誰? あっ、さっきもこの部屋にいた人ね。自転車にも乗ってた。どうしてまた戻ってきたの。ここはあたしの寝室だってこと知ってる?」
掛け布団でパジャマ姿を隠す。
パジャマ姿を恥ずかしく感じるようになったのか。
とにかくもうすっかり元気だ。
詩冬は満足そうに立ちあがった。
「ごめん悪かった。今度こそ、これで失礼するよ」
母のユズカに会釈し、寝室を出ていく。
玄関で靴を履き終えた。
外に出ようとして、玄関のドアを開けたとき――。
「ねえ」
柚香の声が聞こえた。
ちらりと後ろを顧みる。
ピンクのパジャマ姿が見えた。
廊下の奥から歩いてくる。
「あなたの名前は?」
「えっ、オレの名前を訊いているのか。詩冬だ」
「詩冬って言うのね」
柚香は何か躊躇でもするように、視線を少し泳がした。
「あなたはたぶんいい人……そんな気がする。なんだか不思議。まだ会ったばかりなのに、ずっと前からよく知ってる人みたい。でも何故か、あたしをユウカって呼んでたでしょ? とても聞き心地が良かった。もしもまた会うようなことがあったら、もう一度だけユウカって呼んでくれないかしら」
たぶん二度と会うことはないだろう。
それでもバッタリ再会する可能性は、決してゼロではない。
生きていれば奇跡は起こるものだ。生き続けてさえいれば。
「そうだな。またいつかどこかで会ったときに」
「うん、また偶然会ったら。そのときは友達になれるような予感がするの」
「友達に……か。だといいな」
詩冬は寂しさを心の中に隠し、最後に笑顔を作って見せた。
「じゃあっ」
「お元気で」
もうあの日々の柚香に二度と会うことはできない。
だけどここにいる柚香とならば、ある日どこかで偶然、会うことがあるかもしれない。もちろんそれは再会といえば再会なのだろうけど、実質的にはほとんど初々しい出会いとしてだ。
それもいいかもしれない、また柚香と会えるのならば。
見送られながら玄関を出た。
互いに会釈して、静かにドアを閉める。
外はもう真っ暗だった。
星がたくさん見える。
ガチャ
閉めたはずの玄関のドアが開いた。
どうしたのだろう?
そこに柚香がいる。
ドアノブに手をかけながら立っていた。
「また会ったね、詩冬」
「ユウカ……」
彼女が無邪気に微笑む。
詩冬は震える自分の胸に手底を当てた。
熱いものが込みあげてくる。
……柚香、またイチから始め直そう。
階段はまたのぼり直せばいいだけのことだ。
新しい友達のユウカ、よろしくな。
柚香との思い出の日々を深く刻んだ石板を、大切に心の底へと仕舞い込む。
そしてまっさらな石板を心に準備するのだった。
<おわり>
ある夏の日の君の思い出 ~迷子の美少女霊が部屋に居着いてしまうという困った日常~ ん @nnn-finish
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます