第59話 さようなら


 柚香が犀鶴を呼ぶ。


「お父さん。あの、これを持っていって。あたしとお母さんだと思って」


 柚香は腕輪を外し、犀鶴の前に差しだした。

 二匹の蛇が絡み合った形の輪だ。

 そこには『柚香 生きて』と刻まれている。


 犀鶴が声をあげて笑う。


「ほっほっほっ」

「何がおかしいの?」


 小首をかしげる柚香。

 犀鶴はふたたび着地し、細めた目で腕輪を眺めた。


「あまりに懐かしいと思ってのう。その腕輪は生前のワシがユズカ――つまりおぬしの母さんにプレゼントしたものじゃ。ただし文字についてはワシが刻んだものではあらぬがな。愛しい娘ユズカよ、母さんからその腕輪を譲り受けたのならば、それを生前のワシからの最後の贈り物として、受け取ったままでいてくれるかの」


 柚香は差しだした両手を引き戻した。

 そして腕輪をしっかりと握り直した。


「お父さんが生きてたときの最後の贈り物……。わかった。お父さんの最後の贈り物を、親子三人の絆としてずっと大切にする」


 犀鶴はうれしそうだ。

 そして妻ユズカに言葉をかける。


「ユズカよ、約束する。ワシがこの世から消える前に、必ず一度ここへ戻って来よう。それまで娘のことは頼む」


「犀鶴、待ってる」


 それ以上の言葉は交わされなかった。

 院長を抱えた犀鶴はうなじを反らせ、顔を快晴の空に向けた。

 これからまた高く舞いあがろうとしている。


「やっぱりわたしも行く」


 犀鶴に飛び乗ったのは、なんと卯月だった。


 犀鶴の体が一瞬よろける。

 卯月は犀鶴にしがみついたまま詩冬を顧みた。


「お願い。深雪姉さんに『ありがとう』って伝えて。叔父様は唯一の身内。だからわたしも行く」


 この思わぬ展開に、詩冬が口をぽかんと開ける。

 だがすぐ我に返り、卯月に首肯した。


「了解だ。伝えとくぜ。でも日本に帰ってきたら、姉貴に会いに来いよ。姉貴はあれで結構寂しがり屋だし」


「当然」


 久々に卯月の無邪気な笑顔を見た。


 卯月と院長を抱えた犀鶴は上昇を始めた。

 ふらついているようにも見える。大丈夫だろうか?

 心配になった詩冬が、犀鶴を見あげながら尋ねる。


「二人も連れて大丈夫ですか?」

「なーに。畏れ多くもこのワシは、聖人賢者たる高僧にして名僧と言われた犀鶴じゃ。二人連れくらい造作もない」


 卯月と院長を抱えた犀鶴は、ぐんぐんと高くのぼっていった。

 西の空へと向かって飛んでいく。


「達者でな……」


 三人の姿は小さく小さく消えていった。



 ……  ……  ……  ……

 ……  ……  ……  ……



 華之江は黒い車のドアを開けると、魂の抜けた柚香の実体をおろした。

 動かない体を海道に引き渡し、改めて皆に頭をさげる。

 そして黒い車に乗り込み、一人で帰っていった。


 海道は柚香の動かない実体を白い車に乗せ、さらに犀鶴の妻ユズカも乗せた。

 車のウインドウを開けて、詩冬に笑顔を送る。


「詩冬くんも家まで送っていくよ」


 詩冬にはもう自転車がない。事故で大破してしまったため、乗り捨ててきたからだ。それでも海道の誘いを断った。


 海道の白い車がエンジン音とともにユズカのアパートへと向かっていく。


 その場に残ったのは詩冬と霊体の柚香だ。

 二人で詩冬の家まで歩いて帰るつもりだった。

 道草しながらゆっくりと。


 柚香が詩冬の家に向かうのは、そこに寓居するためではない。

 もちろん深雪に最後の別れを言うためだ。



 ……  ……  ……  ……

 ……  ……  ……  ……



 詩冬の家に到着。

 深雪はまだ会社から帰宅していなかった。


 居間でしばらく待っていると、深雪が帰ってきた。


 まずは詩冬が姉に卯月のことを話した。叔父とともにインドへ旅立ったと。

 そして卯月との約束どおり、『ありがとう』の言葉を伝えた。

 深雪はとても驚き、寂しそうな顔をした。


 続いて柚香が深雪に話す。

 実体の柚香との融合に成功したことを細かく語った。

 そしてこれまでの感謝を深雪に告げた。


 深雪が柚香を抱き締める。


 柚香は温もりを感じた。

 とても心地よい温かさだった。


「深雪お姉さん……」



 玄関へ向かう。

 実体のあるアパートに戻らなければならないのだ。

 彼女は壁でも窓でも透り抜けられるのだが、敢えて廊下を歩いていくのだった。

 歩いているのに、やはり足音はない。


 玄関でふり返る。

 深雪は再度、柚香を抱き締めた。


「さよなら、柚香ちゃん」

「深雪お姉さん、さようなら」


 柚香は深雪と詩冬に背を向けた。

 いま家を出ていこうとしている。


 詩冬は声をかけずにはいられなかった。


「あのさ、柚香……。アパートまで送っていくよ。お前ともう一人の柚香が融合するのを、最後にまた見届けたいんだ」


 柚香が詩冬の袖を乱暴に引く。


「そのつもりよ。当たり前じゃない」

「だよな」


 ドアが開いた。玄関を出る。

 柚香は手を振って深雪と別れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る