第58話 お断り
海道が犀鶴の耳元で囁くように尋ねる。
「玖波院長を一、二ヶ月もインドへ連れて行くって、どうするつもりですか?」
「ワシは一、二ヶ月などとは言っておらん。たった一、二ヶ月でヤツが宇宙を見ることなど不可能じゃろう。ワシですらそれなりにかかった。ヤツならばおそらく数十年はかかろう。それでも
海道は首をひねっている。納得いかないようだ。
「犀鶴さん。インドでは毎日毎日、大勢の人が生まれてきて、大勢の人が亡くなっていくのです。そのような地で個々の命の重さや尊さなんて学べるものですか?」
「何をぬかす! 多くの魂が生死を迎えるからといって、一つ当たりの魂の価値が薄まるなんてことは決してない。魂は絶対的な『意味』と『重さ』を持っておるのじゃ。うわべだけで考えるでないぞ。大勢の魂が往来する地だからこそ、あれこれ考える機を得られるのじゃ」
玖波院長は手帳に何やらメモをとっていた。
ボールペンの尻で頭を掻きながら、ぶつぶつ言っている。
「インドかぁ、パスポートの準備もせねばなるまい。ビザは要るのだろうか……」
犀鶴はふわっと浮き、玖波院長の体を背後からすくいあげた。
「さあ、ゆくぞ」
「わあ」
宙に浮きあがった院長は、ひどく驚愕していた。
「ふ、ふざけるな。いまからか? 行く前に支度がある」
「要らぬ」
「要らないことはない。必要だ。それにパスポートも……」
「なくとも構わぬ」
玖波院長を抱えた犀鶴は、その場に残る者たちの顔を眺めた。
「これよりこの男を連れて、
話を聞いた院長が騒ぎだす。
「いつになるかって……。本当に一、二ヶ月のことだろうな?」
「おぬし次第じゃ」
「うわー、聞いてないぞ、そんなこと!」
…… …… …… ……
…… …… …… ……
柚香は詩冬の手を握ることで、正面に立つ母に自分の姿を見せていた。
浮かびあがった犀鶴を見あげる。柚香の潤んだ瞳は惜別の思いを映していた。
「お父さん。あたし……、あたしもいつかインドへ行きたい」
詩冬はそんな彼女の横顔を一瞥した。
そして考え込みながらボソッとつぶやくのだった。
「マッドな院長、怪しげな迷僧、それと柚香かぁ……。このとんでもないトリオを送り込んじゃったら、インドの皆さんにご迷惑がかかるだろうに」
「ご迷惑って、なんでその中にあたしも入るのよ!」
「こんな近くで大声出すなよ。耳がキンキンするだろ」
柚香が片手で詩冬の頬をギュッとつねる。
もう片方の手は詩冬と握り合ったままだった。
腫れた頬を擦る詩冬。
柚香は元気な笑顔を犀鶴に送った。
「お父さん。あたしの実体が、いつかお父さんに会いに行くような気がするの」
「ほっほっほっほっ。インドは広いぞ。ワシが見つかるかのう」
「簡単よ。高僧で名僧の『犀鶴』だもん。探す手掛かりはいくらでもあるはずよ」
犀鶴は顔を赤らめ、照れ笑いをする。
「じゃがのう。インドの旅というものは女人には、ちぃーとハードかもしれぬ」
「大丈夫だってば。そのときはきっと詩冬がお供するから」
「誰が行くかよ。勝手に決めんな!」
詩冬はきっぱりと拒否の意を呈した。
犀鶴は詩冬の声など耳に届いていないようだ。
上機嫌に二度三度とうなずいている。
「それは名案じゃな」
「名案じゃねえ。てか、そんな真顔で冗談言うな」と詩冬。
「愛しい娘ユズカよ。期待はせずに待っておるぞ」
「実体のあの子はきっときっと絶対に行くはず。だってあの子はあたしだもん」
このとき偶然、玖波院長と卯月の目が合ってしまった。
なんだか気まずい空気を漂わせている。
「あー、ないない。わたしはない。何があっても叔父様には会いに行きません」
玖波院長は口をへの字に曲げた。
犀鶴を見あげる柚香の隣に、にんまりした顔で海道が立つ。
「ユズカちゃん。さっき話した戸籍のことだけど、実体のユズカちゃんがいつでもインドへ行けるように、できるだけ早い取得に向けて努力するからね。戸籍が得られれば合法的にパスポートも取れる」
間髪入れず華之江が口を開いた。
「それはいい。戸籍取得で詩冬さんと入籍。新婚旅行でインドとはシブい」
「ちょ、馬鹿なこと言わないで。それ最悪だから。どうして詩冬なんかと!」
柚香が目尻を吊りあげている。
「はあ? オレの方からお断りだ!」と声を荒げる詩冬。
そうは言っても、柚香の声が皆に聞こえているのは、詩冬に腕を掴まれているからこそである。ずっと長いこと手を取り合っている二人は、傍から見れば仲睦まじいリア充そのものだった。
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