第57話 いい研究課題


 華之江が泣きやんだのち、霊体の柚香は犀鶴の脇に立った。

 犀鶴に声をかける。


「犀鶴さん……ううん、お父さん。ありがとう。お母さんを心配してくれて、そして愛してくれて」


 犀鶴が照れ臭そうな顔をする。

 柚香は小さく肩をすぼめた。


「あとね、お父さんに謝らなければならないことがあって……」

「なんじゃ? 言うてみよ」


「うん、正直に話すね。ごめんなさい、実は初めて会ったとき、犀か……お父さんのことを気味悪がっていたの。それに、ごめんなさい、お父さんのことを怪しい浮浪者か、変質者じゃないかって勘違いしていたの。それと、ごめんなさい、お父さんに触るのも汚らしいと思っていたの。それから、ごめんなさい、お父さ……」


「もう、いいわい! それ以上、言わんでくれ」


 いま言ったことを思い返してハッとする柚香。


「ご、ごめんなさいっ」


 犀鶴が苦笑する。

 とても優しく穏やかな父親の目だった。


「ワシの方こそ、心から詫びたいと思っておる。生まれたときから父親がおらぬことで、不自由もあったことじゃろう」


「さあ、どうかなぁ。霊体のあたしには、この夏の前の記憶なんて皆無だから」

「そうじゃったか」


「でもね、お父さん。あたし、実体のあたしと融合することに成功したのよ。すごいでしょ。お母さんのおかげなの。実体と向き合っているとき、あたしを見守ってくれていた。あたしを信じてくれていた。いまはちょっとまた実体と分かれちゃったけど、ふたたび一つになれる方法ならばちゃんとわかっているから」


「ユズカは母としても立派じゃな。おぬ……ユズカをここまで育てたのじゃ」


 犀鶴が妻ユズカを呼ぶ。


「すまぬがここへ来てくれぬか?」


 ユズカが歩いてくる。

 犀鶴の正面に立ち、娘の柚香と並んだ。


 犀鶴は二人の手を取った。


「ワシはあの世からユズカとユズカを見守ることとする。最後に二人のユズカの顔を見れて、ワシはとても幸せじゃ」


 柚香がハッとする。


「お父さん、行っちゃうの?」

「ユズカと違ってワシは死者じゃ。行かねばならぬところがある」


 犀鶴はそう言いながらも困った顔をした。


「じゃが……まだやらねばならぬ大仕事が一つだけ残っておってのう」

「大仕事?」


 柚香の大きな瞳がじっと父の顔を見据える。

 犀鶴はゆっくりと首肯した。


「うむ。あの男にも困ったものよ。どうにかせんとなるまい。人間の生と死がどれほど意味があり、どれほど深いものなのか、ヤツにわからせてやらねば」


 柚香とユズカの後方に立っていた海道が苦笑する。


「根づいた性格をいまさら変えさせようだなんて不可能ですよ、犀鶴さん」

「いいや、為してみせよう」


 犀鶴の顔には溢れんばかりの自信が漲っていた。


「おぬし」


 犀鶴が卯月を呼ぶ。


「あの男を借りるが構わぬか? おぬしにとって唯一の身内のようじゃが」

「ええ、ご勝手に」


 卯月はなんら逡巡もせず即答した。

 犀鶴がうなずく。


「ふむ。ならば」


 犀鶴の体が宙に浮きあがる。

 玖波院長の前に着地すると、指先を彼の額に置いた。


 玖波院長の金縛りも解けたようだ。

 自由になった手足を動かしている。

 そして驚嘆の声をあげるのだった。


「おお! いまのが霊的金縛りかぁー。これもいい研究課題になりそうだ」


 彼は自分がかけられた金縛りにも大いに喜んでいた。

 犀鶴もにんまりと表情を緩める。


「のう。おぬしに面白いものを見せてやろう」


 玖波院長は腕を組み、怪訝そうに首をかしげた。


「面白いものだと? いまの霊的金縛り以上に面白いものなのか?」


 大きくうなずく犀鶴。


「そうじゃ。もっともっと面白かろう。それはな……宇宙じゃ」

「宇宙?」

「いかにも。宇宙を通して人間の生死を探究してみるのもよかろう」

「しかし宇宙って、あの……」


 玖波院長が空を指差す。

 犀鶴はおかしそうに声を殺して笑った。


「おぬしに見せてやるのはな、さまざまな次元を超えた宇宙じゃ。何も大気圏の外へ行くわけではない。場所はインドで十分じゃ」

「インド? おい、インドで見れるのか。そんな凄いのが本当にインドで観測できるのか。それならば一、二ヶ月行ってくるのも悪くない」


 院長は嬉しそうに合意するのだった。

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