第56話 花柄のハンカチ


「そうだ、いい知らせがある」


 白っぽい眼鏡をかけた海道はそう言って、詩冬と霊体の柚香に体を向けた。

 もったいぶるような顔つきで腕組みする。


「いい知らせですか?」


 詩冬が聞き返すと、海道はうなずいた。


「ユズカさんとユズカちゃんはね、もうすぐ正式に戸籍を取得できるよ。実は『旧国立生命研究局にて誕生したすべての者に、戸籍を与えることになる』って、親交のある政府関係者から数日前に内通があったんだ。あっ、もしかして……。それで焦った院長は、予定していた研究を早く済ませるべく、サンプルとなる人々の捕獲を急いでいたのかなぁ。それはさておき、ボクはね、近いうちにユズカちゃんを学校に通わせたいと思ってる。卯月ちゃんのようにね」


 詩冬は目を見開いた。

 柚香に笑顔を見せる。


「良かったじゃん、柚香」


 柚香は戸惑いながらも、小さく首肯した。


「でも通うとしたら、実体の方のあたしだけどね」

「同じことだろ」


 犀鶴が地面を踏み叩く。


「政府のヤツらめ、決断が遅すぎるわい! じゃが、海道よ。妻と娘の面倒を見てきてくれたことに、心底感謝しておる」


 海道は珍しく赤面するのだった。


「何言ってるんです。照れ臭いじゃないですか。ユズカさんたちを支援している研究者は、ボクだけではありませんよ。少しずつ増えてきているのです」


 マッド・サイエンティストらしくない清々しい微笑がそこにあった。


「根っからの冷血で非道なヒトデナシと言えるは、あの人くらいでしょうか」


 玖波院長に指を向ける海道。


 ところがその指を慌てておろすのだった。

 院長の姪の卯月がこの場にいたのを思いだしたからだ。


「あっ、卯月ちゃん……ごめん」


 卯月は首を横に振った。冷たすぎるくらい淡々と。


「問題ない。わたしには」



 海道は華之江のもとへと歩いていった。華之江は犀鶴に金縛りをかけらたまま、ずっと身動きできないでいる。


「華之江さん、あなたには失望しました。あなたがそんな人だったなんて」


 犀鶴も海道に並んで立ち、大きな目を華之江に向けた。


「おぬし、華之江じゃったか。珈琲屋で見かけたときには気づかんかったわい。おぬしの方もワシに気づかんようじゃったがな。およそ十七年か……。昔のおぬしはもっと貧弱で、なよなよした体つきじゃった。いまでは見違えるほど逞しくなったものよのう。しかしおぬしは姿だけではなく、すべてが変わってしまった。何か言いたいことがあるのならば話してみるがよい」


 犀鶴の指先が華之江の額に触れる。


 するとマッチョな体が揺れた。華之江は驚きつつも自分の手足を確認する。

 彼の体が動いたのだ――犀鶴のかけた金縛りは解かれたらしい。


「犀鶴さん……」と華之江。大きな体を小さく丸めている。「……ごめんなさい。私、辛かった」


「おぬしもワシの妻と娘の面倒を、長いこと見てくれていたそうじゃが?」


 華之江はガクガクと顎を震わせた。それでもなんとか言葉を声に出そうとしている。胸元に手を当てると、目つきに力が入った。


「だってそれは……ユズカさんが犀鶴さんの大切な人だったから。それで私……」


 犀鶴が華之江に頭をさげる。


「礼を申す」

「犀鶴さん……」


 明らかに華之江は涙ぐんでいた。

 犀鶴が眉間にシワを寄せる。


「でも何故じゃ。何故あの男に手を貸したのじゃ。修行を積んだこのワシでさえ、おぬしのことが少しも理解できぬ」


「それは……」


 華之江は途中で大きく息を吸った。



「……犀鶴さん、私はあなたが好きでした」



 その場の誰もが一驚を喫した。

 皆、目を丸くしている。


 だが犀鶴だけは表情を変えなかった。


「そうじゃったか。おぬしの気持ちも気づかんですまんかった」

「いいんです。私の勝手な想いでしたので……」


 華之江は力なく顔を伏せた。

 ゆっくりした口調で話を続ける。


「……私は犀鶴さんより一年遅れて、研究局に入ってきました。そのときからずっとあなたのことを想っていました。犀鶴さんのユズカさんに対する想いを知ったとき、私はとても辛かった。でも私は決めました。いつまでも犀鶴さんを見守っていくって。ですからユズカさんの件でも、犀鶴さんを応援していました」


 華之江は大きな体をしおらしく屈めている。

 目から落ちた大粒の雫を、太い指先で拭う。

 人差指のごわごわした指毛は涙で濡れていた。


「そして数週間前のことです。行方不明だったはずの犀鶴さんが、ふたたび研究院に現れたという話を耳にしました。そのとき胸がぐっと締めつけられて、息ができないくらい苦しくなって……。私は昔のことをいろいろ思いだしました。戻ってきた犀鶴さんを、ユズカさんに会わせたくなかった。そして……」


 華之江は花柄のハンカチを取りだし、鼻汁を拭った。


「そして……急にユズカさんが憎くなってしまった。いままで憎いなんて思ったことなかったのに、どうしてなのか……。ごめんなさい、犀鶴さん。ごめんなさい、ユズカさん。ごめんなさい、ユズカちゃん」


 犀鶴は華之江の肩にそっと手を置いた。

 大きな華之江は地面に両膝をつき、犀鶴の胸の中で大泣きした。

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