第55話 犀鶴とユズカ
犀鶴がじっと妻ユズカを見つめる。その顔は真剣だった。
「ワシは修行の途中で命を落としてしまった。生きてユズカの前に現れることができなかったのが残念じゃ」
「犀鶴……」
犀鶴は妻の声を聞き、目を瞑った。
「ユズカと出会ったときのことが思いだされる」
ずっと人形のように無表情だったユズカの目が潤み始めた。
「犀鶴」
「初めてユズカと出会ったのは研究所の一室じゃったな。遺伝子操作により人工的に生まれ、『新生命体6号』と名付けられておった。それでもヒトには変わらぬのじゃ。ヒトを実験体として扱うのは心苦しかった。ユズカはまだ子供じゃった。あの頃のユズカの瞳はいつも寂しそうで……。周囲の者たちに言わせれば『無表情で感情の無い子』とのことじゃが、ワシにはユズカの顔に寂しさが明瞭に見えておった。ゆえにワシだけはユズカの理解者になりたいと思った……」
犀鶴は瞑っていた目を開けた。
昔を懐かしむような遠い目をしている。
話は尚も続いた。
「……それからどのくらい経った頃じゃろうか。どうやらそんなワシの気持ちは、ユズカに伝わっていったらしい。ワシに笑顔を見せてくれるようになった。しかし他者に言わせれば、笑ってなどおらぬとのことじゃ。以前となんら変わっておらぬと言うではないか。ユズカの表情の多様さは顕然たるものじゃったのに……。ユズカが感情豊かな子だと知っておる者は、残念ながらワシだけのようじゃった。いつしかワシはユズカに心が惹かれていった。幸か不幸か、ユズカもワシに特別な好意を抱いてくれるようになった……」
妻ユズカはゆっくりうなずき、耳を澄ますかのように目を閉じた。
「……ユズカ。あのままユズカの実験が続くようならば、いつか命を落としてしまうことに気づいた。いろいろ悩み考え抜いた揚句、ユズカをさらって遠くへ逃げることを思いついたのじゃ。信頼のおける若干の同僚に打ち明け、逃亡の援助を求めた。その同僚の中には、そこに立つ海道の御令兄もおった。海道の御令兄にはいまでも深く感謝しておる」
海道は改めて犀鶴に笑顔を見せた。
犀鶴がユズカに視線を戻す。
ユズカも閉じていた目を開き、互いに見つめ合った。
「慣れぬ異国の地での生活、たいへん苦労をさせたと思う。特におぬしの場合、他人から誤解を招きやすいのでのう……」
辛そうに話す犀鶴に、ユズカが声をかける。
「犀鶴」
犀鶴はがっくりと頭を垂らし、小さな溜息をついた。
「……ワシは過ちを犯した。ユズカを守るはずが、ユズカに甘えてしまった。ワシはユズカを一人置いて修行の旅に出た。それがワシらの二人のためじゃと、勝手に思い込んでしまってのう」
それからしばらく黙り込んでしまった。
この沈黙を強引に破ったのは海道だった。
「犀鶴さん」
「なんじゃ」
犀鶴は顔を起こし、海道に目を向けた。
「前から訊こうと思ってたんです。修行の旅で何を得ようと考えたのですか?」
「家族を幸せにする力じゃ」
「回答としては曖昧すぎます。それってなんでしょうか」
「ある確信のようなもの。それが力になると思ったのじゃ。それはつまり……」
視線を海道からユズカに戻す。
しかしその目にはもう力がなかった。
「……ユズカよ。すまんかった」
「犀鶴」
「ユズカを愛していながら、無意識のうちに偏見を持っておったのかもしれぬ。ワシは実に愚かじゃった。ユズカが他の人間と少々異なっておることは、認めざるを得ぬと考えるようになっていた。それでユズカと他の人間とで『こころ』に違いがあるのか否か、その答えを探し求めるため、おぬしから離れて旅へ出たのじゃ。これが夫としてのワシの、最大の過ちじゃった」
「犀鶴……」
ユズカが犀鶴の手を握る。
穏やかな眼差しは、夫を優しく包んでいた。
「ワシは偉い僧侶につき従い、またさらに偉い僧侶のもとで修行した。そしてとうとう『生』と『死』の宇宙を見るに至った。同時にワシ自身、僧侶としての高みに到達したはいいが、所詮ちっぽけな世界のちっぽけな人間に過ぎぬ、ということを認識せざるを得なくなった。そのときじゃ。宇宙よりも大きな愛でワシを見つめていてくれたユズカの奥深い『こころ』、そしてワシにとって宇宙よりも大きなユズカの『存在』、これらがハッキリと目に見えたのじゃ」
「犀鶴」
犀鶴はユズカの手をほどいた。
目を虚ろにして、首を横にふる。
「ワシは気づくのが遅すぎた。あらゆるものが見えたとき、もうワシには肉体がなかった。修行に没頭するあまり、つい命を落としてしまっていたのじゃ」
ユズカは犀鶴にほどかれた手を、もう一度握り直した。
「犀鶴、ずっと会いたかった」
「許してくれるのか……。ワシも会いたかった、ユズカ」
ユズカの頬には『涙』が伝わっていた。
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