#115 : a complete farce / ep.3

 はじめてこの部屋で抱かれたとき、彼女は部屋の大きさを心の広さに喩えたけれど、今にして思えばここは、空虚で満たされることのない彼女の内面を如実に表していた。

 都心の一等地、港区。

 メゾネット式のタワーマンション最上階の部屋に住まう彼女は、まさしく現代の殿上人だった。巨大なガラス窓から見下ろす都会では、たいていの願いはカネさえ積めば叶えられる。実際彼女はそうしてきたし、これからもそうするだろう。カネで買えないものなどないと、本気でそう信じている。

 だから彼女は今日もカネを積む。側から見れば空回りするばかりの空虚な指示を出し、多くの奴隷たちを路頭に迷わせ、決して手に入らない愛のために空虚な人生を送り続ける。

 私の主人あるじ、芦屋千枝はそういう空虚な女だった。

 ならば、こんな空虚な女の好みに合わせている自分もまた、空虚なのだろうか。宮下花奏は考える。

 カネを受け取り恋人ごっこをする、ただそれだけの繋がりの中に愛らしきものを探しては絶望する私も同類なのだろうか。

 鏡に写った胸の下、肋に走る4本のミミズ腫れじみた赤の痛みだけが、私を、宮下花奏という生き物の中に繋ぎ止めている。


「今朝は早いんだね、花奏」


 ふたつ並ぶ洗面台。暗黙のうちに決まった、マスター用の左側に立つなり、窒息しそうな朝の挨拶が向けられる。キス。されるがままに唇を貪られ、昨夜つけた背中のミミズ腫れに、さらに爪がたてられる。痛い。


「痕が残ります」

「君が遠くへいかないためのおまじないだよ」


 この4年、この言葉に騙され続けてきた。

 地位、名誉、財産、美貌。すべてを備えた芦屋千枝に必要とされること。完璧な女が覗かせる心の隙間を自分が埋めていること。空虚な愛だと分かっていても、その自負は全身を満たす美酒のようで、際限なく求めてしまう麻薬のようでもあった。


「朝から浮かない顔だね。私が嫌いかい?」


 私は、 誰よりも彼女が欲しかった。芦屋千枝に依存していた。

 だから、命令を反故にすることはおろか、嫌いだなんて口が裂けても言えなかった。


「愛しています」


 打算の末に、すべて差し出すことを選んだのが4年前。

 宮下花奏の生き方、在り方、存在。自分自身の「らしさ」を切り売りして、その対価として与えられる芦屋千枝の愛情で埋めていった。

 要はすべてを彼女に合わせたのだ。姿も、話し方も、考え方さえも。

 忖度し、慮り、彼女が望むように振る舞ってきた。それでいつかは芦屋千枝を手に入れられる。あの日の私はそう信じていた。

 空虚な女に愛されたいなんてことが、雲を掴むような話だと気づいたのは数週間前のこと。


「花奏らしいね、素敵だよ」


 私がすべてを差し出しても、芦屋千枝が寄越すのはいくらでも言える褒め言葉と、カネ。そして嫌われてしまうかもしれないという恐怖。


「ああ、そうだ。紗和がピアスを片方失くしたらしい。探しておいてくれるかい?」


 だから、洗面台横のトレーに無造作に置かれた見覚えのないピアスにも、住民の数より多い歯ブラシにも、ゲスト用バスルームに置かれた知らないボトルにも、見て見ぬフリをするほかなかった。

 嫌われたくない。

 もし嫌われてしまえば、生き方も在り方も失ってしまう。私が私でなくなってしまう。もう、嫌うことすら許されない。


「わかりました」

「いい子だね、花奏は」


 吐き気がした。私以外にも頻繁に向けているであろう作り笑顔の汚らわしさに。そして、ここまで不信感を募らせていながらも、愛情らしきものをいまだに探してしまう、自分自身の愚かさに。

 彼女は、どれだけの人間から愛されようと満たされない多重恋愛者。何人たりとも決して「ただひとりの人」にはなれない。

 ただのひとりだけ居る、例外を除いては。


「美琴くんの記事はいつ掲載されるんだい?」

「再来週です。大臣クラスの首が飛ぶようなスキャンダルがなければですが」

「琴音くんのスキャンダルは? 話題性は抜群だろう? 天下の人気女優の熱愛相手が元風俗嬢だなんて」

「調整中です。相手が一般人ですから名誉毀損での訴訟リスクや世間のバッシングがこちらへ向かう可能性も——」

「ふ〜ん」


 生返事で遮って、彼女は顔を洗い始めた。バシャバシャと散る水音。彼女が顔面を湿らせるのを待っているだけの単なる日常のワンシーンですら、喉が渇き、鼓動が高鳴る。緊張が拭えない。


「つまり、花奏は我が身が可愛いというワケだ。だから記事は載せられない、と」


 手渡したタオルで顔を拭うと、芦屋千枝は笑顔でそんなことを言う。心臓がはち切れそうだった。


「いえ、これはあくまで編集長の判断で——」

「そう言えば、君の上司はずいぶんだらしない男だそうだね。妻も子どもも居るというのに信じられないな」


 言わんとすることを、理解なんてしたくなかった。

 仮にも「愛している」なんて言い合っている人間が命じていい内容じゃない。


「悲しいよ。男を手玉にとるくらい、花奏はワケなくやってのける賢い女だと思っていたから」


 言って、彼女に乳房を鷲掴みにされる。

 芦屋千枝の命令はいつもこうだ。指示を絶対に言葉にしない。言質を取られることを警戒してか、主人と奴隷の間でのみ成立する言語で済ませる。

 子どもを嗜める母親のような微笑みの裏側には、露ほどの慈愛もない。


「分かったかい?」

「それは」

「心配ないさ。どんなに汚れていようと君は綺麗だよ、花奏」


 汚らわしいキスとともに命令を残して、千枝は早朝のランニングへ出掛けていく。

 がらんどうの部屋の主は、まさしく空虚だった。

 仮にスキャンダルが世に出て黒須姉妹が路頭に迷おうと、あの女——シャルロット・ガブリエル——が首を縦に振ることは絶対にない。彼女は意のままになる奴隷でも、綺麗に飾っておかれるだけの人形でもないから。


 どうして、あの女でなければいけないの。

 どうして、私の心をめちゃくちゃにしておいて平気で愛を囁けるの。


 震える指で編集長の電話番号を探った。口から出ていくのは汚らわしい誘いの言葉。女であることを利用しろという暗黙の命令に従う。待ち合わせは夕方。池袋北口。ホテルが多いから。


 電話を終えて、洗面台を背にうずくまった。

 立つ力すらない理由は保身だと図星を突かれたからか、あの女に負けた悔しさなのか、それとも愛してもらえないことの寂しさなのか。それすらもわからなくなって結局、アイメイクをやり直して職場へ向かう。


 どうして、私は。私を失ってしまったの。


 *


 一流商社、日比谷商事。

 日本を動かす巨大総合商社の新橋本社ビルは、社員たちがいっさい預かり知ることのない、観客参加型の巨大な劇場に変わっていた。

 その演目の中心人物はふたり。新入社員のシャルロットと、その元カノであるキャリアウーマン、黒須美琴。

 酔狂な台本に従って恥ずかしげもなく行われる大茶番は、仕掛け人の目論見通りクチコミで広がる。湧き上がる嘘と噂は濃霧のように、登場人物たちの真実を包み隠していく。

 例えばそれは、観客もまばらな談話室で。


「み、美琴さん。あたしは……」


 談話室の角にシャルロットを追い詰めて、美琴は彼女の手首を掴んだ。逃げる様子がないのを見定めてから、周囲に聞こえる声量で告げる。


「嫌なら逃げればいいのに、逃げなかった」

「それは……」

「いい加減、素直になったら? 忘れられないのは貴女の方でしょ」


 シャルロットは何も返さなかった。ただ掴まれた腕を振り払い、美琴を押しのけて休憩スペースを早足で歩き去る。一部始終を見守る人々の中に役者が消えたところで、美琴は手近にあったゴミ箱を蹴り倒す。カランと音を立てて転がった空き缶を無視して、周囲を睨みつけた後、シャルロットとは異なる方向へ。

 そして、美琴唯一の安息地、女子トイレ個室の扉を閉めた途端、便座に向かって崩れ落ちたのだった。


 *


 ここは六本木——ではなく、ガールズバーの聖地・池袋。

 表向きは営業終了した分厚い扉の向こうには、オーセンティックとは正反対の、モダンで明るいショットバーが広がっていた。

 店名を《アット・キュート》。

 ホワイトとピンクの小物をふんだんにあしらったカワイイ世界に相応しい、2名のメイドがバーカウンターの内側で仕事もせずに飲んだくれている。

 そんな駄メイドふたりを頬杖をついて眺めている美琴へ、傍らに座る凛子が尋ねる。


「それで、どうして六本木の店じゃないの? ここも金髪女の店?」

「早苗さんが教えてくれてね」


 今回のチェシャ打倒計画には、美琴ら以外にも多くの協力者が顔を揃えている。となれば必要になるのが、実際に顔を揃えられるアジトだ。

 だが、六本木のアンティッカも経堂のマンションも場所が割れている。考えた末に早苗が選んだのが池袋北口、雑居ビルの4階に位置するガールズバーだった。


「ミシェルがバイトしてたメイドバーなんだってさ」


 お酒を作らず飲んだくれているほうのメイド——ミシェルはまるで笑い袋だ。ハイペースでグラスを干してけらけら笑っている一方、凛子の顔には「大丈夫なのか?」と書いてあった。なんせ必要などないのにメイド服を着ているような連中なのだから。


「なら、ご主人様には頭下げるモノよね? メイドのシャルロットちゃん?」

「お帰りくださいませ、ご主人様」

「帰る」

「これから打ち合わせするから我慢して……」


 「ふたりとも」と続けて、美琴は《シャーリーテンプル》の縁をなぞった。何も頼んでいないのにノンアルコールが出てきたのは、「酔うと使い物にならないでしょう?」と暗に言われているからだ。

 事実、これからやってくる相手は、素面じゃないと対応できそうにない。

 本音を言うと飲みたかった。緊張して息苦しい。思わず泣き言のひとつでも言いたくなって、ノンアルコールで弱音を飲み下す。


「打ち合わせ、って正気なの?」

「他に方法もなさそうだから。大嘘だけど」


 例の計画はつつがなく進行していた。日比谷の人間関係を揺るがす壮大な茶番はちょうど第二話を終えたところ。怪しげな人物も数人、捜査線上に浮かんでいる。

 早苗によれば、キーになるのは秘書課に送り返したミシェルと、独立して動いている来瞳だ。明らかに怪しいミシェルを隠れ蓑に、来瞳に動向を探らせる腹らしい。

 空になったグラスの代わりに、またしても《シャーリーテンプル》が出てきた。とことん「酔うな」と言われている。


「大丈夫ですよ、あからさまな大嘘ほどバレないものです。こんな茶番を大風呂敷広げて演じる連中がいると思います? 恥ずかしげもなく」


 シャンディにとっては昔取った杵柄だろうけれど、美琴は違う。

 美琴の役どころは、現実とは180度真逆の人間。それも突然のイメチェンだ。築きあげてきた人あたりのいい黒須美琴のイメージが一瞬で吹き飛んでしまっている。


「私は恥ずかしいんだってば! なんでこんな役!?」

「素敵だと思いますよ? 気位もプライドも高いキャリアウーマンも」

「せっかくいい人のイメージが浸透してきたのに!」

「でも、いいと思うの。ああいう美琴。相手が最悪だけど」


 項垂れた肩を凛子に撫でられた。慰めているつもりなのだろうが、ちらりと見えた凛子の台本には、美琴の台詞にまでマーカーがびっしり引かれている。凛子の好みはよくわからない。


「大事なのは嘘を突き通すことです。あたしを見ていればわかるでしょう?」

「嘘つき村の住人だものね、貴女」

「ええ。嘘なんてついてませんよ、あたし」


 ベー、と凛子は舌を出していた。嘘つきしか居ない嘘つき村と、正直者の暮らす村。その岐路に立ったとき、正直村へ辿り着くにはどんな質問をすればよかったのだろう。


「ふふ。思い出してますね? 正直村へ行く方法」


 美琴の考えなどお見通しなのだろう、シャンディはいたずらに微笑んでいた。

 六本木とは違う明るい店内では、彼女の金髪も琥珀色の瞳も、普段と同じはずのメイクも若々しく鮮やかだ。見た目だけならば、20世紀初頭の欧州で働いていた愛らしいメイドそのものだ。実際はご主人様をからかって遊ぶ、素行不良だけれど。

 「さて」と言い置いて、シャンディは軽く手を合わせた。遊戯の合図だ。


「時間もありますし、久しぶりに遊戯ゲームといきましょう。手伝ってくださいな、ミシェル」

「わーい!」


 素行不良のメイドふたりは、この後の来客のことなど気にする様子もなく耳打ちしあう。その後準備が整ったようで、向かって右にシャンディ、左にミシェルが立つ。正直村と嘘つき村だ。異国情緒あふれる顔がふたつ並ぶと、ここが日本だとは思えない。

 そして十中八九嘘つき村の住人であろうシャンディが告げた。


「では問題です。貴女は正直な人が住む正直村と嘘つきが住む嘘つき村の分かれ道に立っています。左右の道には、正直村と嘘つき村のメイドが立っていて——」

「はいはい。右でも左でもいいから指差して『貴女の住んでる村はこっちですか?』って聞けば終わり。『はい』って言った方が正直村」


 出題を待たず、凛子がうんざりした調子で告げた。言われてようやく美琴も思い出す。指差した方が正直村なら、嘘つきも「はい」と答えるし、嘘つき村を指させば、どちらの答えも「いいえ」になる。ポイントは、正直と嘘つき両方の答えを一致させることだ。


「さあ、美琴? どうします?」


 さすがはシャンディというべきか、凛子の答えなどすっかり無視していた。睨みつけたままの凛子を尻目に、美琴はシャンディの立つ右を指差す。


「シャンディさんの住んでる村は、こっちですか?」

「ふふ、どっちでしょうね」


 いつもの天邪鬼が発動したので、美琴は「いいえ」と読み替えた。


「じゃ、正直村は左。ミシェルのほう」

「えへへー。正解。わたし嘘つかないよ」


 嘘つきしか言わないような発言をくれるミシェルは、一年ほど前に大嘘をついて美琴を陥れようとしたことなどけろりと忘れているようだった。

 一方、嘘つき呼ばわりされたシャンディは「ぶー」と唇をすぼめつつも問題を続ける。


「では、ちょっと問題を変えましょう。次は、あたしもミシェルも天国に住んでいる天使。分かれ道は天国か地獄へ続いています。天国へ行くにはなんと質問——」

「『こっちが天国ですか?』と聞いたら、あなたは『はい』と答えますか?」


 凛子はすばやくミシェルの立つ左を指さす。アルコールでふわふわになったミシェルの頭脳が間を置いて弾き出したのは「はい」だった。


「はあ。空気まで読めないんですね? 頭が弱いのが貴女のキャラだったのでは?」

「姪っ子がよく出してくるの、こういう問題。子ども騙しは通用しない」


 質問をふたつ重ねれば、嘘つきシャンディと正直ミシェルの答えは一致する。嘘の嘘は真実だ。

 美琴は黙って左の天にも登りそうな夢心地ミシェルを指さす。ネタは上がっているというのに、意味深なニヤケ面を続けるシャンディがおかしくて笑ってしまった。

 そんなときだった。来客を知らせるシャンディのスマホが鳴り響く。


「さて、遊戯あそびはおしまいです。商談の成功を祈っておりますよ、美琴」


 閉ざされた入口ドアをそっと開けて確認したのち、シャンディは来客をアジトに招き入れた。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


 来客の正体は、いつかアンティッカを訪ねた記者・宮下花奏。

 早苗いわくの打ち合わせの始まりだ。


 *


 花奏が現れた途端、店内は水をうったように静まり返った。無理もない。美琴が知る限り、チェシャ陣営としていちばん最初に接触してきた先鋒に当たる人物であり、ミシェルを除くこの場全員と遺恨がある。

 シャンディは過去の死亡記事の件、凛子は担当女優のスキャンダルの件。そして美琴は。


「……渡しておくわ。これが掲載予定だった記事」


 手渡された記事の見出しには『日比谷商事の美しく黒き魔性、社員Kはいかにして巨額横領を遂げたか』とある。名前こそ伏されているが、美琴を想起させる文言が踊っていた。

 ざっと目を通して、美琴は肩を落とした。もしこの記事が予定通り掲載されていたら数日後には檻の中だ。嘘と出鱈目で社会的に抹殺してしまえるほどに強大なチェシャの力が恐ろしい。

 隣に座す凛子は凛子で、別の記事に目を通していた。おそらくは琴音のスキャンダルについての続報だろう。即座に破って灰皿に移し、マッチで火をつけた。

 それを横目に、シャンディが告げる。


「交換条件は成立でよろしいですか、おふたりとも」

「私は。凛子は?」

「信用するしかないよね」

「いいでしょう、条件成立です。宮下花奏さん」


 花奏を信用なんてできるはずもないが、これは早苗からの指示で、シャンディの希望でもある。4年前からチェシャに協力している腹心とも呼べる人物が手の内を明かすのは、確固たる理由があるらしい。


「約束の件、覚えている?」

「ええ。あたしは嘘つきですが、約束は違えませんから」


 くすりと笑って、シャンディは花奏に告げた。


「チェシャが垂らした操り人形の糸を切る方法、貴女に教えてさしあげます」

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