#116 : a complete farce / ep.4

 ここは池袋の貸切ガールズバー《アット・キュート》。

 アンティッカとは真逆の煌々と灯るLEDが、美琴の手元にあるノンアルコールカクテル《シャーリー・テンプル》の液面に浮かんでいた。

 打ち合わせは、シラフでなければならないからだ。


「ちょっと整理していい? 芦屋千枝の人間関係について」


 右隣の凛子が割って入った。カウンターの向こうで微笑んでいるシャンディと、美琴を挟んで左側に居る宮下花奏を交互に指さす。


「まず、芦屋の元カノがクソ女。これはあってる?」

「クソ女以外はあってます」

「で、今カノが宮下さん」


 「今カノ」という言葉に、花奏は迷いながらも曖昧に頷いた。

 シャンディに鍛えられたせいなのか、美琴はすぐに指摘する。


「芦屋千枝とはうまくいってない?」

「まあ、普通の恋愛じゃないので」

「ここにいる女全員、普通ではないでしょ」


 ミシェルのことはまでは知らないが、すでに普通では済まない大酒を飲んでいる。彼女もジャンルは違えど普通じゃないから大丈夫。

 話しやすい空気を作ろうとしたけれど、花奏は自虐でもするようにせせら笑った。


「三股されたことある? それも全員、女」

「さんまた」


 鸚鵡返ししてしまった美琴は、どうにか論理的に考えようと脳内に相関図を作り出す。芦屋千枝から伸びる矢印は、シャンディを加えて4本だ。

 美琴の理解力の乏しさを見かねたのか、花奏が補足してくれた。


「最低でも三股。そこのバーテンダーは別枠。実際何人いるかは私も知らない」

「何それ無理。ハーレム気取りなの?」


 凛子が眉を顰めて非難しようと、花奏はなんの返事もしなかった。

 どれだけ裏切られたって好意は捨てられない。沈黙したままのスマホから目を離せない花奏を見れば一目瞭然だ。その様子を見たシャンディは肩を竦ませて、自分用のカクテルを作りながらつぶやく。


「チェシャは自身のだらしなさを、都合よく正当化しているだけです」


 芦屋千枝のこととなると、シャンディはシュガーコートをしない。ハッキリした非難の上に、氷を砕いてクラッシュアイスを作る腕の振り加減で、静かな怒りが伝わってくる。


「あの女の空虚さは、ひとりやふたりで埋まるものではないんです。愛を貪る魔物ですよ」

「違います。千枝様はあくまでも皆を平等に愛しているんです……」

「本当にそう思っているなら、あたしの誘いには乗りませんよね?」

「…………」


 静かに語るシャンディの目元に影が落ちる。一度はチェシャを愛し裏切られた女だから、経験として知っているのだろう。

 右隣の凛子が、美琴の脇腹を突いてきた。話についていけなくなったのか、身を寄せて「教えて?」と甘えてくる。本当はそっちが目的のような気もするけれど。

 ふたりが暗に言い争っているのは、複数人と関係を持ってしまうチェシャと、その相手たちの関係だ。ざっと図に描いて説明していると、業を煮やしたのかシャンディが口調を強めた。


「ハッキリ言いますね。ひとりに決めきれないチェシャはクズです」

「貴女は差別主義者です。ポリアモリーを許容しないんですから」

「チェシャの思うツボですよ。社会的弱者を名乗れば何をしても許されると思っている。人の優しさにつけ込んでいるに過ぎません」

「いいえ! 私は千枝様を愛すると……千枝様の生き様を認めると決めたんですッ!」


 シャンディは俯く。そして真意を図るような物言いで告げた。


「彼女に愛されるためなら、自身の愛をも歪めるんです?」


 ミシェル以外が黙り込む。ひとりに決めきらないで言えばミシェルも似たようなものだが、本人はどこ吹く風とグラスを干していた。

 沈黙を破って、シャンディは花奏を責め立てる。


「なるほど。貴女は自分を歪められるんですね。愛するチェシャが望むなら、たったひとりになれなくてもいい。愉快な仲間たちの一員として、他の愛人たちと時に枕を並べ、同じ女を愛する喜びや悲しみを共有しあおう。だってくだらない人生を送っていた宮下花奏を選んでくださったんですもの。与えてくださったんですもの。つまらない俗人には理解できない、何より幸せな人生を!」


 シャンディは、芝居がかった仕草で朗々と叫び上げた。昔とったなんとやらだけあって、ついつい見惚れてしまっていると、ウインクをひとつよこして続ける。


「ああ、なんと素晴らしい真実の愛でしょう! かのシェイクスピアもこの結末は書けません。なんたって事件はあまりに奇妙! クズの浮気者を、貴女をはじめとした浮気された女たちが庇ってあげるんですから」

「……浮気という考え方がそもそもの間違いです。貴女はポリアモリーを理解できていない」

「ええ、理解なんてできません。それでも、あたしは言えますよ? チェシャは単なる浮気者のクズだって」

「どうしてそんなことが言えるのよ!?」

「だってあたしは浮気なんて許しませんもの」


 ついでに美琴に目配せしてシャンディは宣言した。

 浮気は許さないというアピールなら、それなりにアメやらムチを与えてほしいところだけれど。口にしかけて、美琴はシャーリー・テンプルを飲み込んだ。いま口を挟むといろいろと面倒だ。


「質問です、宮下様。もしあたしがチェシャの誘いを受けたら、貴女がたはどうなさいます?」

「……チェシャ様が選んだ女なら受け入れます。一番になれなくとも構いません」

「残念ですが、二番にすらなれませんよ?」


 シャンディは悪魔のように微笑む。


「あたしは恋人を独占しないと気が済まない女です。恋人の周りに付きまとう女なんて、同僚であろうが実の妹であろうが許しません。徹底的に排除します」


 琴音にすら嫉妬心を向けているらしい。

 こんな発言の直後にあえて身を寄せてくる凛子には背筋が凍りそうだった。琴音の言う通り、体温は高い。変なことを想像して頭を振る。


「ですから、あたしがチェシャを選べば、チェシャにはあたしだけを選んでもらう。貴女がたはお払い箱ですね」

「そんなことできない! 千枝様はそんなことしない!」

「では、確認してみましょうか」


 自身のスマホから芦屋千枝の名前をタップして電話を掛けた。3コールもしないうちに電話に出たところでスピーカーに変えて、皆に聞こえるようにシャンディは問いかける。


「チェシャ。ひとつ確認しておきたいことがありまして」

『ああ、シャル。愛しい君の願いを私が違えたことがあったかい?』

「なんの臆面もなく出まかせを言える面の皮の厚さは好きですよ」

『相変わらず手厳しいな。それで、確認とは?』


 唇に人差し指を当てて、静かにしているようシャンディがジェスチャーを入れた。

 興味深げに覗き込んできたミシェルの口元を、美琴はとりあえず両手で塞ぐ。


「あたしの未来の王子様は、幼気なお姫様をたくさん手懐けているでしょう? だから心配になったんです。あたしも他のお姫様たちと同じ枕を涙で濡らすことになるのかしらって」

『可愛らしいことを心配するね。つまり君は、私に選べと?』

「ええ。なんせあたしを娶りたいと仰るのですもの。甲斐性を見せてくださらない?」

『多様性という言葉を知っているかい?』

「ええ、身につまされるほど。ですが、あたしという人間を尊重しない浮気者のことまで尊重する必要はあるのかしら?」

『私の愛し方は尊重できないと?』

「あたしの愛し方を尊重してくれない限りは」

『……安心してくれたまえ、君が一番だ』


 平行線の議論に折れたのはチェシャの方だった。それでも、いや、そんな発言すら見越していたかのように、シャンディは矢継ぎ早に鋭い言葉のナイフを振るう。


「ふふ、誰にでも言える子供騙しをあたしが望んでいると思います? 君が一番だなんて美琴さんですら言える言葉ですもの」


 ちらりと美琴に視線をやって、シャンディは耳に手をやった。聞き耳を立てている。言えということなのだろう。

 美琴はおずおずと身を動かして、シャンディの耳元に注文通りの言葉を耳打ちした。同じように聞き耳を立てる凛子やミシェルにまで聞かれたのが恥ずかしい。何か納得できない。


「あたしの愛し方を。互いを一番に愛し抜くことを尊重いただける方でないと、この身は預けられませんね。色よい返事を聞かせてくださいな、チェシャ」


 電話口では、芦屋千枝がゆっくりと唸っていた。


『そうだな……』

「簡単ですよ。あたしを愛する代わりに、他の恋人たちを棄てると誓ってくださいな。王子様を名乗る以上は、ワガママを聞き届ける器の広さを証明してくださらないと」

『それが君の望みならば、分かったよ』

「あたし以外の女とは縁を切る。確かですね? あたしは一筋縄ではいかない、ずる賢くて狭量な悪い女ですから、きっちり録音していますよ?」

『趣味まで悪いな、君は』

「録音していると分かった途端、歯切れが悪くなりましたね? 言質を取られることを恐れているのは、浮気も不倫も続けたい、ふしだらな気持ちの現れかしら?」

『会って話そう。今君はどこに?』

「答えは迅速に、ASAPで。貴女の口癖でしたね。さあ、3秒以内。3、2……」

『わかったわかった! 別れる! 私が愛するのは君だけだ!』


 目の前で行われている会話があまりに痛々しくて、花奏の表情を見ることはできなかった。

 だが、シャンディはやめない。ダメ押しとばかりに告げる。


「以前、あたしの店を尋ねた記者さん……宮下花奏さんと仰るんですが、彼女も貴女の恋人でしたね?」

『さて、どうだったかな』

「あたし、あの方嫌いです。ちゃんと別れてくれますか?」

『言っているだろう、二言はない。君だけだ』


 「ふふ」とシャンディは笑った。目的は果たしたとばかりに終話ボタンを押す。


「それだけ聞きたかったんです。おやすみなさい、いい夢を」

「なんなのよ、これが操り人形の糸を切る方法だっていうの……? 私の気持ちも知らないで……」


 沈黙を破る、花奏の震えが聞こえた。顔色など伺わずともわかる。むしろ伺う勇気などあるはずもない。

 美琴は反射的に、シャンディを諌めていた。


「シャンディさん。やることがひどすぎ」

「そうですか? あたしは真実を教えてあげただけですけれど」

「ただマウントしてるだけじゃない……」

「凛子さんには分かっていただけたでしょう?」


 美琴の訴えるような視線に晒された凛子は、戸惑いがちにグラスをあおりおかわりを要求する。味方してくれると思った凛子は、しぶしぶ口を開いた。


「今回はアンタが正しいわ。悪意しかないけど」

「なんで!?」


 「美琴には分からないかもしれないね」と言い置いて、凛子は言葉を選ぶように告げる。もちろん、言葉を選ぶのは失意に暮れる花奏のためだ。


「芦屋にとっては誰でもいいの。そんな人に惹かれ続けるなんて虚しいだけ」

「それは——」


 ——花奏も折り込み済みのはず。

 そう言おうとしたところで、とうとう花奏は嗚咽をあげて泣き始めた。気丈に振る舞ってきた宮下花奏の本性が露わになる。


「そんなことは分かってんだよ! でもどうしようもない……! どうしたらいいんだよ……!」


 花奏は動いた。カウンター向こうで笑うシャンディの襟首に掴みかかる。あれだけ冷静だった彼女は豹変した。


「これが、貴女が自身の愛を歪めた報いです」

「ふざけんな……!」

「本当はただひとりの恋人になりたかったのに、気に入られたいあまりラクな方へ逃げた」

「だからあの人は、大勢を愛する人で……!」

「それは逃げだと言っています」


 泣き喚く花奏の腕を払いのけて、シャンディはひとつ咳払いする。

 そして今度は逆に、花奏の襟首を掴んで締め上げる。やられたことはきっちりやり返す義理堅い人間だ。多少口調が強いのは、花奏が仕掛けた様々な策略に対しての意趣返しなのかもしれない。

 トレードマークの微笑みが消え去った彼女の無表情が怖くもあり、反面、頼もしくもあった。


「貴女は配慮しすぎたんです。好かれようとするあまり、先ほどのあたしのように争おうとしなかった」

「それじゃ私は好かれない!」

「だからって言いなりになってどうするんですか!」


 珍しく、怒気を上げてシャンディが叫んだ。ただ怒りをぶつけている訳ではない。襟首を締め上げ、鼻先まで迫っている宮下花奏のために怒っている。


「自分を大事にしなさいと言ってるんです。本当の愛を……真に互いを尊重しあうことを愛と呼ぶのなら、操り人形じゃいけません。時に戦わなければならないんです」

「千枝様は世間の偏見と戦ってる! 私はそれを支えようと思ったの!」

「世間ではなく、貴女とチェシャの問題です。支えたいと思うこと自体は否定しません。あたしはその考えに支配されて、本当の願いを殺している貴女に怒っているんです」

「だってしょうがないじゃない! 私は——」

「チェシャの特技は自身の弱点をうまく晒すこと。どうせポリアモリーだから世間から理解されないとでも聞かされたのでしょう?」


 図星を突かれたのか押し黙った花奏の首を、さらに締め上げて続ける。


「人間は、弱点を晒してくれた相手への警戒を解くんです。自分にだけは心を開いてくれていると錯覚して、今度は自身も弱点を晒すようになる。そして次に相手が与えるのは承認です。誰にでも言える『ツラかったね』や『わかるよ』で救われ、愛してしまう」

「違ッ……!」

「違いません。あの女の手練手管なんてこの程度。心理学の本を紐解けばどこにでも書いてある初歩的なテクニックですもの」


 シャンディは腕を離した。そして大きくため息をついて、美琴に向けて苦笑する。


「だから言いたくなかったんですよ。こんなチョロいモノを信じてしまった自分があまりにも愚かですもの」


 シャンディは、一度は芦屋千枝を愛した。ひた隠しにしてきた過去のシャンディがどうだったか、今の美琴には理解できる。不幸な境遇で育った彼女に一番必要だったのは、全幅の信頼を置ける理解者で、存在を承認してくれる人だったのだろう。


「だから、愚かな過去ごと愛されて嬉しかったんだ?」


 ボソリと零した凛子の含み笑いに、シャンディはわずかに頬を赤らめていた。

 瞬間、美琴も意味をなんとなく理解して、胸が熱くなる。アルコールなど飲んでいないのに、どくりと心臓が大きな音を立てた気がした。

 凛子に意味深な笑みを——あとで覚えておいてくださいね、だと美琴は読みかえた——向けて、シャンディは咳払いして告げた。


「さて。お約束の操り人形の糸を切る方法です。宮下様、チェシャとぶつかってください。別れたくはないけれど関係を変えたいというのなら、自分を尊重しない人間を自分の尊厳で殴りつける他ありません」

「嫌われたらどうしてくれるのよ……」


 力なく返した花奏に、シャンディは笑った。


「そんなの、あたしの知ったことじゃありませんよ」


 一同が度肝を抜かれた。ここまで言っておいてぶん投げたのだ。美琴は叫ばざるを得なかった。


「そんな無責任な話ある!?」

「外野が介入する方が無責任ですよ。すべては当事者同士で決めること。美琴さんだって、あたしと話し合って今の関係になることを決めたでしょう?」

「それとこれとは話が違わない?」

「一緒ですよ。男が好きも女が好きも、愛する人を決められなくてもひとり以外愛せない人でも。関係を永遠にしたいなら、遅かれ早かれ話すか殴るかするしかないんです」


 腑に落ちたようで、結局ケンカ別れに終わるような気もする。

 芦屋千枝の考えを尊重すれば、宮下花奏は今の操り人形のままだ。反面、花奏の考えを尊重すれば、千枝は折れなければいけないことになる。ふたりの——あるいはもっと大勢の——関係性はどう心を砕いても平行線にしかならないはずなのに。


「そういった争いの果てにたどり着くものこそが、お二人の答えになると思いますよ」

「ふたりの答え、ね……」


 美琴には納得できなかったが、花奏には何かが響いたようだった。ぼそりとつぶやくと、花奏は水の入ったグラスを干す。そして、おかわりを注ごうとしたシャンディの手を遮って言う。


「……千枝様が好きだったカクテル、貴女なら作れる?」

「ええ、《エックス・ワイ・ジー》ですね。お待ちを」

「え!?」


 《エックス・ワイ・ジー》。それはアンティッカ名物、迷惑客お断りのサインだ。今でもたまに出しているところを見かけるし、より意味合いを持たせるため、わざわざスノースタイル——グラスの縁に塩をまとわせて提供したりもする。塩撒いとけってことね。

 バーテンダーとして腕を振るうシャンディの姿は、普段とは様変わりしているけれど絵になる。店内照明が明るいぶん真剣な目元や白く発光する後れ毛がよく見えて、目を逸らせない。抱えていた過去の謎は明るみになった今になっても、いや、今だからこそより美しかった。

 花奏にカクテルを提供すると、シャンディは「そうです」と手を叩いた。どうせまたよくない思いつきだろう。せっかく見惚れていたのに損した気分だ。


「あたし、宮下様の恋路を応援してあげたくなりました」

「舌の根も乾かぬうちによく言えたよね。当事者同士の問題っつったのに」

「じゃあ言い換えます。チェシャに痛い目を見せたくなりました」

「ならいいや」


 凛子とシャンディ、二人して手のひらを返して言い出したのはそんな話だった。凛子もチェシャに対しては腹に据えかねているのだろう。彼女の浮気癖の話になったとき、ずっと眉間に皺を寄せていたくらいだ。


「どうやって?」


 美琴の問いかけに、シャンディはカウンターから出てくる。そして立つように告げ、二人して向き合う。いつもは少しだけ背の低いシャンディの瞳が、ブーツで底上げされて同じ高さにある。顔の大きさも腰の位置もまるで違うけれど、その違いが愛おしい。


「あたし、ちょっとだけチェシャの女になろうと思います」


 一瞬、何を言っているのか意味がわからなくなった。普段から意味不明で理解が難しいこともあるけれど、今回は輪をかけてわからない。仮にも婚約は——口約束ではあるけれどしているというのに、こんな堂々たる浮気宣言をされるなんて思ってもみない。

 何か考えがある。それは美琴にも理解できた。

 だけれどその考えを認めることは。


「ごめん、ちょっと……何言ってるかわかんない……」

「ですよね、あたしもそう思います」

「アンタいい加減にしてよ! なんのために董子さんがワケわかんない台本書いたと思ってんの!? アンタと芦屋を遠ざけたまま終わらせるためでしょ!?」

「いいから聞いてください、凛子さん。美琴さん」


 手を握られた。俯いた視線に合わせるように、シャンディが身を屈めて言う。


「不安で、許せない気持ちはわかります。あたしだって本意ではありません。美琴さんの信頼を失うことがどれほどツラいことかは身に染みて理解しているつもりです」

「ならどうして……」

「過去を精算したいからです」


 触れられたくなくて、シャンディはずっと過去を嘘で覆い隠してきた。その過去がすぐそばまで追いかけてきている。もう覆えないし、見ないふりはできない。


「あたしはいつまでもチェシャの影を引きずっていたくない。だからあの女に教えてやる必要があるんです。貴女の愛したシャルロットはもう居ないんだって」


 その気持ちは理解できる。自分がシャンディなら同じようにしたとも思う。

 だけど答えに詰まる。

 怖い。嫌だ。


「嫌だというなら諦めます。あたしだって怖いですから」


 その答えはズルいよ。


「そんなこと言われたら、嫌なんて言えないじゃない」

「ですね。ちょっとだけズルをしました」


 くすりと、どこか自嘲めいた空気がこぼれた。

 彼女の本気はわかった。本気で過去と決別したがっていることも充分理解はしていた。


「嫌なら構いません。回りくどいですが柳瀬家の案でいきましょう。あちらも楽しそうで——」


 美琴は息を吸い込み、背筋を伸ばす。


「……おやおや。貴女がそんな日和ったことを言うなんて。明日はシャンパンの雨でも降りそうですね」


 不安も悲しみも苦しみも、飲み込むと決めた。

 どこで仕込んだものかわからない、最大限の背伸びをする。

 するとわずかに怯んだが、彼女も同じく謎めいた笑顔を見せる。


「ふふ。シャンパン・シャワーなんかより、ライス・シャワーが欲しいのでは?」

「ええ、大いに望んでいますよ。ですが私の恋人は、なかなか首を縦に振らないもので」

「愛想が尽きましたか?」

「日に日に愛着が増すばかりですよ。答えてくれないから……苦しい日もありますが」

「まあ。こんな素敵な方を待たせるなんて、ひどい女」

「それもまた、彼女らしさですから」

「そこまで思われているなんて、きっとその女性は幸せ者ですね」

「そう思いますか?」

「ええ、誓って」


 久しぶりのくすぐったい会話だった。毎度、この応酬に流されている気がしないでもないけれど、せめて今日は流されてしまいたい。不安も恐怖も嫌悪感も、背伸びと甘酸っぱいシャンディ・ガフで。


「では、ちょっとした遊戯ゲームです。あたしを抱き止めてくださいな」


 言って、シャンディは厚底のブーツを脱いでフロアに立つ。目線はいつもと同じ位置。メイド服の絞りのせいで、ロングTシャツ姿の家シャンディよりもウエストが目立って見える。


「そんな簡単な遊戯でいいのですか?」

「では、注文をつけましょう。あたしが一番好きな女性が、あたしにいつもしてくれる抱き方で。他所のバカ女に抱かれても絶対に帰ってきたくなる、実家のような安心感のある抱擁を」

「なかなか難しい注文の上に、実家ですか……」

「簡単でしょう? だってあたしはもう、家族だと思っているんですもの」


 シャンディはチェシャに流れたりしない。絶対に帰ってきてくれる。

 だからせめて、一度は離れても二度はないように。


「ぐ、ぐるし……」

「あ、あ! ごめん!」

「紳士的にお願いしますよ? か弱い女の子なので壊れちゃいます」


 「どこがよ」というツッコミなどさらりと無視して、シャンディは腕の中に収まった。

 いつもの力加減を思い出して、やさしく、そしてキツく抱きしめる。腰に回した腕から、触れ合った胸元から鼓動が伝わってくる。どちらも早い。これから起こることを想像したら、緊張するのは当たり前だろう。


「……合格です。実家のような安心感でした。まあ、あたしに実家はないですけれど」

「ないなら用意すればいいだけですよ」

「子どもはふたり欲しいですね。一姫二太郎で」

「そ、それはまたおいおい……」

「ふふ、冗談です」


 そして、シャンディはカクテル作りに戻った。材料からして景気づけの《シャンディ・ガフ》だろう。緊張して不安なのは彼女もいっしょだ。それでも、すべてを笑顔で覆い隠してバーテンダーとしてカウンターに立っている。

 だからわかる。確信できる。

 彼女なら大丈夫。だったら私も大丈夫だ。

 

「ねえ、今のなに……」


 一部始終を目撃していた花奏が、凛子に小声で尋ねていた。


「見せつけてるだけ。あり得ないと思わない?」

「……私も千枝様とああなりたい」

「まずその千枝様って呼び方やめたら!?」


 凛子の叫びとともに、夜は更けていった。

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