#94 : Impossible / ep.8

「どうしちゃおうかしらね」


 美琴は顔を伏せたままシャンディの声に耳を傾けていた。傾けるどころか釘付け、磔にでもされた気持ちで言葉を待つ。

 永遠にも長い時間だった。もしシャンディから三行半を突きつけられたら露頭に迷うことは必死だ。貯金も大してないし、衣食住すらままならない。それよりも一番に——


「シャンディさん一筋って言ったのに裏切っちゃってごめんなさい……!」


 ——彼女を失うことが何より怖かった。

 経堂にも、足繁く通ったアンティッカにももう近寄れない。自らの心にしっかり染みつき根を張ったシャンディという存在がそばにいてくれなければ。


「失いそうになって初めて、価値が分かった?」

「はい……」

「もう信頼はとうの昔に失っているのに?」


 言葉が出ない。


「あたしが他人を信じられない人間不信だと知った上で裏切ったのかしら?」

「ごめん、なさい……」

「回答はイエス・オア・ノーで。もう一度、他人を信じてみようと立ち上がった人間の足元をすくった自覚は?」

「の、ノー……」

「ですが結果としては? 道徳の授業です。あたしの気持ちになって考えてくださいな」


 シャンディは絶対にイエスと言わせるつもりだ。当然、答えられないし答えたくない。それこそ、せっかく立ち上がった人間不信に二度と癒えないほどの傷を与えてしまう。


「ゆ、許して……」


 だから美琴が言えるのは、設問を無視した回答だけだ。床に額を擦り付ける勢いで頭を下げる。誰が見ていようと関係なかった。穴を掘って埋まってしまいたい。


「罰としてなんでもするから!」

「なんでもしちゃうからこんなことになっているんでしょう。おバカさん」


 返す刃が喉元に突きつけられた。今日のシャンディにはどうやったって勝てない。たとえ遊戯を宣言されても確実に負ける。


「そうそう。あたし、罰ゲームは好きですけれど罰は嫌いなんです。どうしてか判りますか?」

「…………」

「人間は罰を与えると、許されたと思い込んでしまう愚かな生き物なんです。だったら罰なんて与えない方がいいと思いません?」

「なるほど、そっか……」


 なぜか納得しきりのミシェルの一方、美琴の体はすくみあがった。身長だけならこの場の誰よりも高いのに、ナノメートルサイズまで小さくなってしまいたくなる。


「貴女が罰を受け容れるのは、許されたいからでしょう? あたしの気持ちなんて考えもしないで、ただ自分の罪の意識を忘れるために謝っている。違っていて?」


 そこまで言われると、さしもの美琴も思うところはあった。自分だって舞踏会のとき、ろくすっぽ謝らなかったくせに。


「そして今はおそらく、『お前だってろくに謝らなかったくせに』とか思っていますね? いかがです?」

「お、思ってないです!」


 思考を先回りされ、退路を断たれた。意表を突かれて裏返った声が、本音を如実に物語っている。


「嘘はあたしの専売特許。あたしを見ていれば分かる通り、嘘ばかりついているとろくな人間になれませんよ?」

「もう……嘘はつきません……」

「あたしがろくでなしってところは否定しませんでしたね?」


 そして揚げ足を取り、話をまぜっ返す。口撃に完全に圧倒されて、美琴は己の愚かさを呪うより他なかった。


「シャンディさんは……人格者です……」

「それだけですか?」

「綺麗で可愛くて魅力的で……」

「どこをお気に召したのかしら?」

「攻撃的なところもあるけど、本当はとても優しくて……私を守って、育ててくれて……」

「だから?」

「好きで、別れたく……なくて……」

「ふふ。もうひと声」


 途中から詰問の内容が変わっていた。わずかに声色に笑みが混じっている。からかわれているだけかもしれない。そう思っても、抵抗はできない。


「一生かけて、幸せにしたかった、から……」


 恥ずかしさと申し訳なさと惨めさでどうにかなりそうだった。


「内定のためなら身体だって許すと?」

「い、や! 身体は……!」

「同じようなものです。少なくともあたしは、好きでもない人間に唇を許すほど浅慮ではありませんけれど」


 やれやれとばかりに重苦しいため息をついて、シャンディは続けた。


「貴女は今日、ふたつの罪を犯しました。ひとつはあたしを裏切ったこと。そしてもうひとつは、そこの泥棒猫——あら失礼。愛らしいお嬢さんの心を掻き乱し、踏み込んだこと」

「ひうっ……!」


 ミシェルの悲鳴も当然だろう。シャンディは被害者に寄り添うフリをしながら、しっかり牽制をかましている。


「確かに仕事は大事です。ですが、ハニートラップを仕掛けてまで臨むようなことかしら? 何より大事なのは互いの信頼ではなくて?」

「は、い……」

「まだまだオトナには程遠いですねー」


 嗚咽で詰まりかけた喉をどうにか鳴らしたところで、後頭部を撫でられた。温かで柔らかい手の感触。そこからは怒りも失意も悲しみも感じられない。きっとシャンディが感じさせないように振る舞ってくれている。

 シャンディは優しい。優しくて甘い。

 そんな人を好きになってよかったと思う。

 が——


「どうして貴女が撫でてるのかしらね……」

「だってだって、美琴さん可哀想だよ……」


 ——通りで怒りも失意も悲しみも感じない訳だと納得した。

 広尾ミシェルはとにかく間が悪い。


「いいかげん、顔を見せてくださらない? 美琴」


 ようやく顔を上げる気になった。恐る恐る、床に立つジーンズ姿の足を見上げていく。胸元に差し掛かったあたりで勇気を振り絞り、どうにかシャンディの顔を直視した。

 じっとりとした下弦の瞳に睨みつけられて、思わず目を背ける。


「不誠実な行いをするから、目を背けずにいられないんです。一度ひび割れた信頼関係を再び繋ぎ合わせるにはより時間が掛かる」

「ごめん、なさい……」

「お説教させないでくださいな。怖い女の役回りなんて凛子さんで充分ですから」

「誰が怖い女なの」


 シャンディに続き、なぜか凛子と琴音まで本部長室に現れた。それに続くのは早苗の使いを買って出てくれている董子だ。

 まるで事態を把握できなかった美琴に先んじて、琴音が化けの皮を被ったほうの声色でテンション高く叫んでいた。


「とうとう見つけました、日比谷商事の隠し部屋! しかも中にいたのはなんと動画では初登場。実の姉、美琴お姉ちゃんでーす!」

「あんた何やってるの、こんなとこで……」


 事情を知らない美琴の鼻先まで顔を近づけて、琴音は急に思い出したかのように語る。


「あ、そっか。お姉ちゃん日比谷に勤めてるんだったね!」

「はあ? いや私はまだ——」

「まだ勤め始めたばかりなんですよね。皆さんも応援してあげて——あっ、そうそう。隠し部屋ということはどこかにお宝があるはずです! あの段ボール箱が怪しい!」


 自撮り棒片手に琴音が向かったのは、美琴が企画を忍ばせた段ボール箱だった。

 琴音は撮影中なのだろう。が、ここは機密にあふれた企画部で、箱の中身は製品化・商品化を待つ未来のドル箱かもしれない企画資料だ。

 社員でもないのに、情報流出だとかコンプライアンスという言葉が脳裏をよぎり、背筋が凍る。


「琴音、その箱は撮影しちゃダメ!」

「なんと美琴お姉ちゃんの企画が見つかりました。へー、鉛筆の削りカスでポプリですって。発想がケチで面白いですね」


 静止も虚しく、琴音は《削りカスポプリ》の企画資料にくわえて、サンプル品を取り出してカメラの前に並べていく。凛子がブレンドしたそれぞれの香りを的確な言葉で表現する様はさすがの芸能人ぶりだ。

 感心している場合じゃない。今すぐ琴音を止めなければ。


「もういいでしょ、やめて!」

「というわけで、日比谷さんの5階には隠し部屋があって、これから発売される新商品が眠っていました! 以上、現場から黒須琴音がお伝えしました。ばいばーい」


 ひと息で喋り終えて撮影を終えると、琴音は深く呼吸して、したり顔で微笑んだ。


「ん。いっちょ上がり。この黒須琴音様がタダでCMやったげたんだから感謝しなよ?」


 早苗に言われた計画のゴールは、既成事実を作ることだ。コンペに美琴の企画が紛れ込んでいて、それが優秀な成績を収めれば人事部も動かざるを得なくなるというもの。

 美琴にはようやく、琴音の意図が飲み込めた。


「そんな裏口入学みたいなマネ、ありなの……?」

「はは。タレントパワー舐めんなー」


 琴音は美琴を日比谷社員だと紹介し、くわえて商品化前の企画を宣伝してのけた。この動画が全世界に向けて公開されたら、日比谷は動かざるを得ない。広告塔である黒須琴音の発言は、日比谷の公式見解になる。拡散されてしまえば邪険にできない。

 すべて、早苗の計画通りだった。美琴にはよくわからないままに、どうにかなったのだ。大きな遺恨を残したが。


「さて、たっぷりお話しましょうか。河岸かしを変えて」


 シャンディは告げると、ミシェルの手を握る。白い手が触れ合い握られた瞬間、ミシェルの眉間にわずかな皺が寄る。


「ど、どこに行くの……?」

「遊戯の舞台です。琴音さん、送迎をお願いしても?」


 琴音は心底意地の悪い笑みを浮かべる。

 禊の地は、六本木だ。


 *


 ここは六本木。要請に従って硬く閉ざされていた禁断の花園、ガールズバー・アンティッカ。お上が厳に取り仕切る密閉・密集・密接、三密の権化の封印が、重い扉の音とともにとうとう解かれることとなった。


「というワケで、まずは美琴への罰です。うちの予防策を徹底してくださいな」

「罰は与えないって言ったくせに……」


 珍しく煌々と照らされた照明の中、美琴は右手に除菌スプレー、左手に布巾の罰ゲームを開始することになった。


「姉ちゃん、キリキリ働けよー」

「シャンディさんお酒作って! 凛子さんは?」

「桃のやつ!」

「ふふ、久しぶりで腕が鳴りますねー」


 アンティッカは、席数を減らさず営業することになった。ただし、カウンターには飛沫対策のアクリル衝立。琴音たちが寛いでいる奥のテーブル席は人数制限策をとることになった。

 指示通り、いつの間にか用意していた衝立を立てたり什器を消毒しながら罰を受ける美琴は、特等席に所在なさげに座っているミシェルの身を案じていた。

 なぜシャンディあの場からミシェルを連れ出したのか。何が起こるかわからず気もそぞろで、まるで作業が進まない。


「……はい。《シャーリー・テンプル》は琴音さんに、《マティーニ》は董子さんに。《カシス・ピーチ》は凛子さんに」


 ミシェルの前に3つのグラスを饗して、シャンディは告げる。その意図を図ろうとミシェルはカウンター越しのバーテンダーを見上げていた。


「え……?」

「オーダーが判らないだなんて、困ったウェイトレスさんですね? もう一度お教えしましょうか?」

「うぇいとれす……?」

「ささやかながら、貴女への罰ですよ」


 再びシャンディがカクテルと客の名前を対応させて話すと、ミシェルもようやく理解したのかグラスをテーブル席に運んでいく。ただ、なんの罰なのかは最後まで理解していないようだった。顔じゅうに疑問符が散っている。


「さて、貴女のご注文は?」

「う、え……えっと……」


 シャンディは小さく嘆息すると、美琴にちらりと目線を向ける。困惑しているのだろう、頬に手を当てて思案してからゆっくりとミシェルに向き直って語り出した。


「貴女は話を聞いてほしいんでしょう? お酒のチカラを借りたいんじゃなくて?」


 分からなかったシャンディの微笑みの奥に潜む意図。

 それは、美琴では受け止めきれなかったミシェルの話を、シャンディが肩代わりしようとしているということ。不可抗力とは言え、仮にも浮気相手で泥棒猫呼ばわりまでしたミシェルに。


「でもでも、私……泥棒猫って……」

「気をつけてね? そこのバーテンダー、恋敵にマウント取るのが趣味だから」

「嫌な女だよねー」

「そこがいい!」


 我関せず、対岸の火事と観戦を決め込んだテーブル席の外野がやかましい。特に妹の顔面をアルコールスプレーで除菌してやりたくなったが、下手をすると大損害になる。不承不承、美琴は感染防止活動に戻っていく。


「あなたの秘密は口外しません。口外したくなるほど面白いお話なら別ですけれど」


 相変わらず一言多いが、ミシェルにとっては渡りに船だったのだろう。「まずは注文を」というシャンディに、ミシェルは恐る恐る口を開いた。


「あの、《ギムレット》って……できますか?」


 《ギムレット》。

 レシピは、ジンとライムジュースを3:1でシェークする英国海軍生まれのカクテル。比率が示す通り8割近くをジンが占めているため、とにかく度数が高いのが特徴。そして《ギムレット》には、有名な小説に登場した常套句がある。


「《ギムレット》には早すぎるんじゃないかしら?」

「よ、読んだことあるんですか?」


 目の色を変えたミシェルに、シャンディは上弦の瞳を向けた。

 《ギムレット》には早すぎる。

 チャンドラーのハードボイルド小説「長いお別れ」の中に登場する、物語のキーフレーズとなる一節。並々ならぬ《ギムレット》へのこだわりを語るシーンでは、登場人物が本当の《ギムレット》のレシピについて語っている。


「ええ。作中のレシピでお作りしますね」

「すごい……!」


 素直に感心されたからか、シャンディの鼻がなんとなく伸びていた。

 作中のレシピはジンとライムジュースが等量。本来のレシピよりはいくぶんか飲みやすく度数も和らいでいる。

 シャンディが銀色のシェイカーを振る姿は久しぶりで、やはりバーテンダーとして腕を振るっているととても絵になる。思わず見惚れていると視線で「仕事しろ」と釘を刺され、美琴はアクリル衝立のフィルム剥がしに戻っていった。


「お待たせしました、《ギムレット》です。ロング・グッドバイにならないことを祈って」

「いただきます」


 ミシェルはグラスを持ち上げた途端、干した。あまりに一瞬のことで何が起こったか認識できない。確かにカクテルは60〜120ミリリットルで饗されるもの。一口で含むことは不可能ではないが。

 度数にして20度はある《ギムレット》を数秒で干しても、ミシェルはけろりとしていた。直後、はあっと熱っぽいため息をついて対面に立つシャンディを見上げる。


「おいしいです!」

「そ、そうですか」


 驚きと呆れの色が、シャンディの横顔に浮かんでいた。視線が合いそうになったので、美琴は背中を向けてやり過ごす。

 ミシェルの面倒を見る気になったのはシャンディだ。我関せず。存在感を限りなく消して、黙々と作業に没頭する。


「あの……次もいいですか? 《ダイキリ》と《スレッジ・ハンマー》と《ライジング・サン》と《マミー・テーラー》と……あの、日本酒って……ありますか?」


 没頭していられなかった。怒涛の注文に、うるさかった外野も水を打ったように静かになっている。通常営業のときのように、静寂の間を埋める有線放送のクラシックはない。


酔鯨すいげいでよろしければ。ああ、でも……オーダーのラインナップを考えると、お望みのモノは《ラスト・サムライ》かしら?」

「そうです! あと、チェイサーに《ジン・トニック》と《モスコ・ミュール》で」

「そんなに飲めるの?」


 尋ねた美琴に、ミシェルは笑みを浮かべていた。


「わたし、カクテルがいちばん好きなんだー。いっぱい飲めるし、酔わないし。最近は外で飲めないから、すごく飲みたくなっちゃって」

「いやいや、酔うでしょ……」

「ううん、ほんとほんと。酔ったことないんだよ? いろんな会社のえらい人とかによく連れてってもらうけど」

「けど?」

「あのね……お酒好きって話したら飲みに連れてってくれるんだけど、誰もわたしの話聞いてくれなくて……」


 壮大な勘違いで、美琴は膝から崩れ落ちた。ミシェルが話を聞いてもらえないのは、第一印象の枠に当てはめられているからだけじゃない。

 酒に強すぎるのだ。だから誰も、最後までミシェルの相手ができない。ハイペースでグラスを干すミシェルが話し始める頃には、相手が潰れてしまう。まさに蟒蛇。


「それ、聞いてくれないじゃなくて……酔い潰れてミシェルの話を聞けなくなってるってことだよね……」

「あ、そうだね。えへへ。日本語って難しい」 


 これまでの苦労はなんだったのか。項垂れる美琴の一方、シャンディは、肩と手首を回し始めた。長いステイホームで鈍っていた全身をほぐすように、首に背中にと大きく体を伸ばし始める。


「……美琴。あたしに許してほしいですか?」


 猛烈に嫌な予感がしたが、イエス以外の選択肢があるはずもない。なんでもすると言った手前、本当になんでもするハメになりそうで。


「なんでもしますよ……」

「お使いを頼めるかしら。このままだと、店じゅうのライムを絞りつくされそうですので」

「まずは口をとことん酸っぱくして、甘いカクテルを飲むのが好きなんだー」


 まだ飲む気らしい。呆れるシャンディの一方、特等席に座ったミシェルは注文がすべて通ったことに上機嫌だった。


「失礼ですが、持ち合わせはあります?」

「えと……カード使えるかな?」

「……いいでしょう」


 シャンディは首をぽきりと鳴らし、臨戦態勢を取った。美琴が、そして外野の3名が引くほどの笑顔で、ミシェルをすごんでいる。ただ、どれだけ奥まった感情を匂わせても、彼女には効かない。

 ミシェルは社交辞令や思わせぶりが通じない、言葉を額面通りにしか受け取れない女。

 シャンディの天敵だ。


「貴女が悲鳴をあげるのが先か、あたしの腕がちぎれるのが先か。本気の遊戯ゲームといきましょう!」

「わーい!」


 シャンディは久々の営業でたんまり絞り取れる。ミシェルも久々に大酒を飲んではしゃげる。怪物同士、どちらも楽しそうでよかった。そう思い込んで、美琴は逃げるようにスーパーへ走ったのだった。

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