chapter #4 : Amor magister est optimus

#95 : Night Cap

 夢を見ていた。

 半身どころか自身の大部分を占めるほどに膨れ上がった大切な人が、住み慣れた2DKのどこを探しても見つからない夢。人生を支え合って、互いの夢を語り合って、いつかこの息が詰まる行き止まりを越えよう、性別の壁を突き破ろうと約束しあった王子様が去ってしまう夢。


「どこに行ったの、——」


 泣いていた。溢れ出る滂沱はやがて滝になり、2DKを滝壺から深い海の底に変える。目まぐるしく変わる夢はまるで人生の潮流のようで、棹を刺せども流されて、手のひらで水の塊を掻けば、自身の姿は人魚に変わっている。人魚姫。そう認識した途端、喉が詰まり気管が潰れる。声が出なくなる。先ほどまで両足だった尾鰭おびれが泡になって消えていく。

 体組織が泡になる。副流煙で黒ずんでいるだろう肺の空気が、使い道のない子宮の中の空気が炭酸の泡みたいに立ち登る。剥がれた尾鰭の鱗が水面から差し込む陽光に照らされ煌めく。グラスの縁に撫でつけたスノースタイルの塩のように。あるいはコーラルスタイルに仕上げた砂糖のように。

 叶わぬ恋に、やり場のない愛に、肥え太った自惚れに溺れていた。泡になって消えていく。このまま海の藻屑。高望みして手に入れた王子様の、その愛を失った人魚姫に相応しいアンデルセン流の末路はあまりにも因果応報で。

 これが悲恋の物語なら、抗いたい。もう弱い自分じゃない。愛らしきものに流されるだけの人間じゃない。さんざん擦り倒されカビの生えた脚本に縛られる人形になんてなりたくない。

 過去を捨て、現在を生きて、未来が欲しい。泡になりきれず残った2本の腕と顔だけで、人間の世界を。温かな陽光煌めく水面の向こうへ手を伸ばす。


 どうか、あたしを。

 あたしを深い海の底から救い出して——


「いったあ……」


 ——夢から現へ。深海から経堂の2DKに女を連れ戻したのは、傍らで眠る者の腕だった。かつて人形のようだと形容して口説いた顔面を叩き壊すなと文句のひとつも言いたくなって、だけれどその寝姿のあまりの無防備さに怒る気力もなくし、内に芽生えた温かさが冷えた体に染み渡る。


「困った王子様だこと」


 何も身につけない素肌とトリートメントのアプリコットが香る髪に口づけを残して狭いベッドを後にすると、王子様はころんと寝返りを打って寝床を占拠した。ベッドは私のものだと言われているようで——事実それは彼女が自宅から持ってきたベッドで——おかしくて、愛おしかった。

 他者を愛おしいだなんて思ったのはいつぶりだろう。あれだけ斜に構え、御託を並べて蔑んで人間不信な被害者面して生きてきたのに、今では彼女を取り巻くうるさい女たちすら愛おしい。

 王子様に与えたのはカクテルで、対価として与えられたのは誰かを愛するということ。自身のすべてを天秤の片方に置いても釣り合わないほどに貰いすぎていて、一生かかっても返すに返せない。返したくもない。

 だから操を立てたいと思った。純朴で人を疑うことを知らぬ彼女に相応しい人間になるために。そしてようやく、捨てようと思えた。

 引き出しの封印を解いた。自身の名前だけが書かれた4年前の日付の誓いの紙切れ。そして先代の王子様が残していったマルボロのメンソール。

 ベランダでその最期の1本に火をつけて、誓ってもらえなかった赤い届で丸めて包んだ。やおら紙屑は焦げ広がり、赤い焔の稜線が誓いと呪いをじわりと焼いていく。


「これくらい簡単に忘れられたらいいのに」


 過去の遺灰を階下にバラまいた。住民に文句を言われたら、菓子折のひとつでも持って謝りにいこう。どうせそのうち御祝を四方八方に配るのだから——水引と熨斗のしで彩られたそれを配りたいのだから、予行練習として。

 焦げ臭くて目が染みた。そしてやっと、別れの涙を流せた気がした。


 *


「辞令? 私に?」


 令和3年、3月。

 とある若手女優の暴走によって日比谷社員となった美琴の元に、企画部の同僚である寺門がやってきた。

 彼女は社内での上下関係を気にしない気さくな性格で、美琴も気負うことなく接している。勤務歴では先輩でも年下だから、それで差し引きゼロ。タメ口でいいよと歩み寄ってくれたことに甘えている格好だ。


「なんか悪いことしたのかもねー」


 心当たりがありすぎた。元本部長を吊し上げ、秘書課のパーティーをめちゃくちゃにし、あげくは姉妹共演の末に情報を流出させてネットでバズった。

 入社後も企画を上げ続けていくらかの成果は上げたが、正直どうにもパッとしない。企画屋・黒須美琴の代表作はいまだに明治文具時代のデジタルメモだ。ちなみに削りカスのポプリの方は、エコだのSDGsだのと流行語を並べたてて関連会社を口説き落とし商品化もしたが、所詮は削りカスだ。ゴミなのだから不良在庫もろともちりとりで集めてポイされるのは当然と言えば当然である。


「憂鬱だ……」

「評価してくれる人が居るうちは心配ないって」


 寺門から手渡された辞令に従って、美琴は企画部オフィスから最上階の直下、26階を訪れた。いくつかある部屋の扉には、A4用紙に印刷しただけの急ごしらえの表札がマグネットで止めてある。

 《総務課特命係》とあった。


「……だろうなとは思ってたよ」

「話が早くて助かります」


 新設部署の《特命係》は、紳士が紅茶を飲みながら推理を披露するような場所ではなかった。伶俐で聡明な人物は居るものの、ドラマのように冷遇されている訳でもなければ、ふたりだけの特命係と呼ぶにもメンバーが多すぎる。


「総務課特命係係長、柳瀬早苗です」


 今さら面と向かって自己紹介するのが気恥ずかしいのか、早苗はどこか居心地が悪そうだった。それは相対する美琴も同じことで。


「黒須美琴です」


 形式上の自己紹介が今さらで、同時ににやけて吹き出してしまった。寺門曰くの「評価してくれる人」というのは、間違いではないと思う。いろいろ迷惑をかけたりかけられたりしたものの、チームを組めて素直に嬉しかった。


「あとはご存知でしょうが改めて。まずは飯田くん」


 飯田太郎。早苗の下でこき使われている将来有望だが前途多難な青年だ。早苗には引きずり倒されていても出世コースに乗れたからか、頼り甲斐なさそうな朴訥としたメガネ面にもほんのり自信が宿って見える。がんばってね、死なない程度に。


「秘書課から引き抜いた広尾ミシェル」

「えっ!?」


 部屋の奥にある給湯スペースから、ミシェルがひょっこり顔を覗かせる。秘書課時代より生き生きしているのは、人事異動したからではない。


「聞いて聞いて? シャンディさんひどいんだよ? 疲れるからシェイクカクテルは3杯までって決められちゃってー」


 広尾ミシェル。あの一件以降、アンティッカ随一の太客になった彼女は、毎週、それもただでさえ忙しい金曜日に開店から駆けつけて、閉店間際までハイペースで飲んだくれているらしい。おかげで土曜朝のシャンディは腕を振り過ぎて筋肉痛で、ミモザのようにだらだら寝転んでいる。


「あんまり腕振らせないであげてね。長袖着られないかもって悩んでたから」

「どういうこと?」


 相変わらず、冗談の通じないミシェルのふしぎちゃんぶりに呆れていると、突然背後から耳に息を吹きかけられた。変な声を上げてしまって振り向くと、真っ赤なアイラインが目を引く悪女が微笑んでいた。


「会いたかったわよぉ。あらぁ、みーちゃん痩せたぁ?」

「私は会いたくなかったよ……」


 赤澤来瞳。彼女はこれまで同様、秘書課に籍を置きながら早苗のスパイとして活動するらしい。そしてそれは美琴も同じだ。


「美琴さんには企画部に籍を置きながら《特命係》のスパイとして活動してもらいます。他にも数名協力者がいますが、今は出払っているので」

「企画部をクビになった方がマシかもね。責任重大だし……」

「クビになったら言ってねぇ? ミシェル奪られてギスギスしちゃって癒しがほしいの」


 なんて、ふわふわミシェルを抱きしめながら来瞳が言う。課長はストレスのはけ口に、怜美は猥談の聞き役に、りえるはマウントしてガス抜きしていたのだから、穴が空いた秘書課は地獄だ。近寄りたくない。


「来瞳さんが居なくてさみしいですー……」

「おーよちよち」


 結果として望み通り秘書課を壊したミシェルは幸せそうだった。まるでタイプが違う来瞳と仲のいい姉妹のようで、微笑ましくてつい眺めてしまった。


「本日は顔合わせが目的です。仕事があれば連絡しますので通常業務に精を出してください」


 特命係を後にして、コピー用紙の表札を眺める。

 あの騒動で棚ぼた的に就職してそろそろ一年。成果は芳しくはないものの、仕事にも慣れてきたし頼ってくれる人もいる。


「やったるぞー!」


 せめて意気込みだけは一人前でありたい。深呼吸してまなじりを結び、誰も見ていないのをいいことにえいえいおーと勝鬨を上げて、美琴はエレベーターホールへ戻っていった。


「……今の撮っちゃった。みーちゃんかわいい〜」

「だよねだよね!」


 *


「ただいまー」

「なあお」


 誰も居ない経堂のマンションに帰宅して、家主のキスマークつき書き置きを読み、ミモザに晩御飯をパッカンして撫で回すのが美琴の日課になっていた。

 アンティッカは稼げなかった分を取り返そうと昨年6月から休日返上で営業を再開した。オーナーバーテンのシャンディには労働基準法も36協定もどこ吹く風で、盆暮れ正月以外フル回転で現在も怒涛の60連勤のただ中にある。


「ミモザはいいよね、ウチでシャンディさんと会えて」


 生活時間はちょうど半日ズレていた。出社する頃にシャンディが眠たげな顔で戻ってきて、定時で退社すると運がよければ駅ですれ違う。「すれ違いの愛ですね」なんて駅改札でシャンディは笑っていたけれど、それを笑うにはまだ経験が足りない。


「大事なのは仕事じゃなくて信頼だって言ってたのにね」


 一年は矢のように過ぎた。仕事が変わって給料が増えたぶん、おカネもちょっとは貯まったけれど、遊びに行くにもどこへも行けず。かといってアンティッカに足を運ぶと、シャンディは決まってこう責め立てる。


『ふふ、さみしくて会いにきたのかしら?』


 実際、さみしいと認めてしまえばいいことは分かっていた。平日はすれ違いでも、休日朝の数時間はシャンディと一緒に寝ていられる。それだけで充分じゃないかと自分に言い聞かせても、すぐに「けど」と否定が続く。


「頑張ってるから足は引っ張りたくない、けど……」


 「けど」の先にあるのは、ただの子どもじみたわがままだった。

 さみしいとシャンディに言えば、彼女はきっと「一緒に過ごす時間を確保しましょう」と日曜を定休日に戻してしまう。すれ違わない1日を送れるようになりたい。

 けど。


「ダメだ……」


 2ヶ月間の休業期間に戻りたいなんてよからぬことを考えて、それじゃいけないとミモザ撫でに精を出す。心が乱れるのはそういう日だから仕方がない。堂々巡りの思考は右回転で進み、時計の針は就寝時間を告げる。これが昨年6月から続く美琴の1日。

 会いたいのに、一緒に住んでいるのに。

 会ってはいけない。会いたいと伝えてはいけない。


「シャンディさんは私のこと本当に好きなのかなー。ねーミモザ?」


 ミモザ相手に愚痴を吐いたら、「うるさいわね」とばかりに立ち去られた。当然、シャンディのことは信じている。なのに、さっきの愚痴を「けど」と否定しきれない自分が嫌になる。美しく人当たりがよくて気まぐれな彼女なら、代わりになる人なんていくらでも見つかるのだから。

 とうとう、ただアンティッカに通ってシャンディと話している客にさえ嫉妬を覚えてくる。思考は堂々巡りな右回りのドリルで、どんどん地中深く沈んでいく。そんなときのためにあるのが、毎日綺麗にファイリングしているシャンディからの書き置きだ。目を通して気を紛らわせるのが日課になっていた。


『あたしの洗濯物を取り込んでおいてくださいな』

『悪戯してみました。あたしは何を隠したでしょう?』

『しいたけ嫌いですよね? あたしの目はごまかせませんよ』

『天ぷら食べたかったので買いました。冷蔵庫にありますよ』

『またしいたけ残して。ダメな子ですね、美琴は』


 シャンディの丸い筆致を目で追うだけで、ありありと姿と声を思い出せた。飄々とした態度も、頬を膨らませる顔も、空気が抜けるような軽やかな笑い声も、書き置きを見返している間だけは近くに感じられる。

 LINEを見ないシャンディが残してくれた文通よりも短いフレーズで、どうにか我慢するしかない。今日の分もファイリングしようと拾い上げる。


『すごく鈍いですよね? わかりやすい遊戯なのに』

「意味不明……」


 あまりに前後の脈略がなくて、シャンディの書き置きに吹き出した。直近5日間の書き置きをどう読んだって、文面以上に意味は——


「あ、ああもう……そういうことする……?」


 ——普段は横書きなのに、今日の書き置きだけ書きになっていたから気がつけた。連日恋しくて穴が開くほど見返しているのに、こんな簡単なことにも気づけなくて、疑ってしまった自分が恥ずかしい。


「留守番よろしくね、ミモザ」

「にゃおう」


 まだ電車は動いている。わがままのひとつでも言いに行こうと、美琴は経堂駅へ駆け出した。 


 *


 重い扉を開けた。

 入ってすぐそばの暗闇は、どれだけ目を凝らしても何も見えない。店内のクラシックと客の気配に耳を澄ませていると、軽やかな笑い声が耳元で囁く。


「気づきました? あたしの遊戯ゲーム

ときてかもしれないと肝を冷やしましたよ」


 書き置きに込められた遊戯は、1文字目の縦読みだ。すべて繋げれば。


「実際のところ、いつ気づいたのかしら? 今日のヒント?」

「それはもちろん——」

「正直に仰ったらご褒美をさしあげます。最近、ご無沙汰でしたものね」


 触れられた指先は艶かしく、腹のあたりを撫でている。下へ、下へ。その場所を意識させるだけさせておいて、触れずに上へ。

 どちらを選んでも恥ずかしいだけの悪い遊戯に勝つには、ルールを壊してしまうこと。自身に課したシャンディの足を引っ張らないという禁を破るように。


「正直に言いますよ」


 触れられれば、暗闇の中でもシャンディの位置はわかる。大きく手を広げて抱きしめればすぐに捕まった。あとは体が、彼女の唇の位置を覚えている。


「ん……」


 きつく抱きしめて、唇を奪う。玄関で、駅で、すれ違いざまにかわすだけだった挨拶とは違うもの。冷えた唇と温かい舌を重ね合って、壁に彼女を押し当てる。


「き、聞こえますよ。お客様に……」

「構いません。今日の私はわがままですから」

「困った人……」


 自分から舌を絡めてくるくせに。困った人はどちらだと言いたくなっても、それが発せられることはない。すべてをかき消す暗闇と、漏れ聞こえる有線放送のクラシックに感謝する。


「……凛子さん、見てます」

「うえ……」


 ぎょっとして飛び退くと、カーテンの隙間から見知った輪郭がのぞいている。逆光で見えなくとも、漂う桃の香りで正体はわかった。

 まだ暗がりでよかったと思うことにした。


「へー? あの暗い場所って、そういうことするために作られたんですねー。勉強になりましたー、白井凛子的にー」

「どうぞご自由にお使いになってくださいな」


 美琴と違い、情事を目撃されたのにシャンディは通常営業で、凛子のからかいを笑顔で跳ね除けていた。


 ここは六本木のはずれ、要請解除のその日からオールナイト営業を再開した遵法精神にあふれるガールズバー・アンティッカ。

 自粛明けでシャンディ恋しさに集まったのか、あるいは営業努力の賜物か、アンティッカは満員御礼だった。壁際の特等席には先客がいたので、凛子の隣に滑り込む。


「聞いたよ。美琴さん、ここ来てないんだってね? 愛想尽きた? 私と遊ぶ?」


 半分本気がにじんでいるナンパは聞き流したけれど、いきなり本題に近すぎて言葉を飲んだ。もう少し場を温めてから切り出したくて、別の話題の糸口を探す。


「忙しくてね。琴音も忙しそうじゃない」

「そうなの。聞いて? この間あいつリモート出演したんだけど、意地でも私をお茶の間に流してやるって聞かなくて! 一緒に映りたくないしどうせカットされるんだからやめてって言ってるのにいつまで経ってもやめないの! あいつにどういう教育してきたの黒須家のご両親は!」

「ああいう教育です……」


 苦笑いを浮かべるほかなかった。あの女は昔から、やらなくてもいいことにばかり心血を注ぐ悪い癖がある。

 クイズ番組や体力系企画で、間違えたり失敗した方がオイしいと分かっていながら全問正解やハイスコアを叩き出してスタッフに苦い顔をされただとか、興味すらなかったカードゲームの公式アンバサダーに就任したのを機に悪知恵とカネにモノを言わせて大会仕様のデッキを作って小学生チャンプをボコボコにしただとか、凛子から出る愚痴はいかにも琴音がやりそうなことばかりで。


「泣くの必死でガマンしてる小学生の隣で、トロフィーもらってヘラヘラ笑ってるの! 信じられないよね!?」

「あいつのことだからフォローはしてたでしょ?」

「それも分かんないの! とうとう泣き始めたその子に『悔しいなら這い上がりなさい』とかなんとか言ったら会場すごい湧いて! あとで聞いたらアニメ版の重要なセリフらしくて以来ネット上のあだ名が女帝コトネリアスよ!? 何それ!?」

「あははは……」

「笑いごとじゃないから!」

「いや、琴音と暮らす苦労を凛子さんも知ったんだって思ったら、ちょっとおかしくて」

「ほんと、毎日が『こんなやつだと思わなかった』の連続!」


 そこまで言ってマネージャーを辞めないのはどうして? と聞きたくなって、やめておいてあげた。分かりやすい。

 時折、琴音から凛子の隠し撮り写真が送られてくるので、横浜に住み込み——同棲と言うと凛子に怒られる——を続けているのは周知の事実。忙しい仕事のせいでふたりの距離は変わらないのかも。と思ったところで、凛子のネイルに目が留まる。左手薬指の先には、琴音の大好きな赤。


「そのネイルいいね。普段してたっけ?」

「ああ、これは……」

「琴音さんのマーキングです。さっき聞き出しちゃいました」


 注文せずとも饗される《シャンディ・ガフ》とともに、シャンディが口を挟んできた。ロケで数日横浜を離れる琴音が残していったものらしい。


「琴音に着いてかないんだね?」

「事務所のチーフマネージャーになったから、べったりってワケにもいかなくなっちゃったの。変なことやらかさなきゃいいけど……」


 やおら取り出した凛子の名刺には、芸能事務所、《アンブッシュ》のチーフマネージャーという肩書きが踊っていた。見た目だけはおっとりしているのでやり手感には欠けるけれど、担当タレント2名の人気ぶりを見れば順当な人事だ。


「心配なんだろうね、琴音。凛子さんモテるから」

「モテるなら女の子にモテたいよー。シュッとしたお姉さんがいいよー……」

「あらもったいない。せっかくイケメンに口説かれたのに?」

「まあ……あのね? ナイショなんだけど、あれに出てた……」


 若手イケメン俳優に局の前室で口説かれたという話。美琴も知っている名前で、しかも既婚者だったので、空いた口が塞がらなかった。


「それは、すごいね……」

「いやいや私の勘違いかもしれないんだけどね? でもそれ琴音に話したらすごい怒って相手の事務所にトラックで突っ込むぞとかバカなこと言い出して大変で」


 シャンディはわざと聞こえるように大きな大きなため息をついて言う。うんざりした顔のおまけつきで。


「それが嬉しかったんでしょう? マーキングしちゃう心配性なトコとか、怒っちゃうくらい独占欲強いトコに母性本能くすぐり倒されちゃったんでしょう? 色ボケマネージャーさん」

「この……!」


 凛子は烈火のごとく怒り——かけて声のトーンを落とした。我慢できるようになっててえらい。


「……家出るとき塗られただけって言った」

「だったら落とします? リムーバーありますよ?」

「爪傷むから嫌」

「塗ったままにしておくほうが傷むと思いますけど」


 正論を叩きつけられて、凛子はぎりりと歯噛みした。

 分かりやすーい。


「ふふ、遊戯にもなりませんね」

「そんなことより美琴さんはどう? 日比谷には慣れた?」


 話題逸らしが露骨すぎるが、とりあえずと昨年からの変化を振り返る。あの騒動で無事に就職できたこと。ポプリは失敗に終わったけれど、パッとしないながらも企画は何本か通っていること。本日付けで早苗の部下になったこと。秘書課が地獄になったこと。


 発言を一喜一憂しながら聞いてくれるふたりの存在がありがたかった。仲が良いのか悪いのかわからない掛け合いを横目に、カクテルを飲む時間が心地よい。

 アンティッカはやはりいい店だ。悩みや怒りを受け止めてくれて、楽しさや喜びを共有できる場所。そこにはカクテルがあって、カクテルばかりか場の空気まで作り上げる酒場の世話役バーテンダーのシャンディが居る。


「わがままだったな、私……」


 「明日は犀川さんの収録だから」と退店した凛子の隣には、すでに別の客が座っていた。ひっきりなしにやってくる客と注文をさばくシャンディは、怒涛の連勤のさなかなのに疲れひとつ見せず、微笑んだりおどけたり頬を膨らませてみたりして、客を楽しませている。

 この場を作るのがシャンディの仕事。

 カクテルと小粋な会話で客を癒すのが彼女の仕事。

 それをたった1日でも奪って独占してしまうのは、あまりに子どもじみたわがままだ。

 さみしい。

 けど。

 それがシャンディのやりたいことならガマンしたい。ガマンできるようになりたい。


「明日あるから、そろそろ帰るね」

「ええ、ベッドを温めて待っててくださいな」


 同棲の事実なんて知らないはずの客にヒューヒュー囃し立てられて小さくなりたくなった。

 会計を終えて、暗闇に戻る。預かってもらっていたコートを受け取ったところで、シャンディに手を引かれた。暗闇の奥、扉の向こうは蛍光灯が灯るバックヤードだ。闇から日の下へ。急激な明るさの変化がまぶしくて。


「んっ!?」


 突如、唇を塞がれた。入店時とは真逆、廊下の壁に押さえ込まれて、長くて熱い唇への愛撫。どちらが困った人なのかわからない。


「ガマンしなくていいんですよ」


 そのひとことだけで、シャンディが何を言わんとしているのかわかった。結局彼女にはすべてお見通しで、「けど」のわがままの先を待っている。


「なんのことでしょうね?」

「ふふ、あたしのマネ? 素直じゃないところはそっくりですね」

「今宵の貴女はいくぶんか素直なようですが」

「素直なので素直に欲しがります」


 再びの熱い口づけが心地よかった。残り香でない、生のシャンディの香りを手放したくなくて抱きしめる。こんなにも求めてしまう人間じゃなかったはずなのに。わがままは言わないと決めたはずなのに。


「……もっと一緒に居たいよ」


 言ってしまう。わがままを止められない。すれ違う日々を埋めたい本心は、熱に侵されると留めることはできない。全身の、血潮の一滴までが求めてしまう。


「よく言えました。それにしても、ずいぶんガマンしましたね? 1週間くらいで根を上げて、のび太くんみたいに泣きついてくると思ってました」

「ドラえもーん!」

「ふふふふー。どうしたのかな、美琴くん?」


 あまりに似てなくて吹き出してしまう。それを一緒に笑って、撫でられて、聞き入れられるのが落ち着く。温もりで声で香りで、そしてシャンディの心で優しく包み込まれる。


「仕事頑張ってるの分かってたから、足引っ張っちゃいけないと思って……」

「ええ」

「ずっとガマンしてた、けど……さみしくて……」

「ええ、ええ」

「もう……」


 言えなかった言葉の続きは、彼女が察してくれた。


「貴女以外の誰を愛せるというのかしら。人間不信のこのあたしが」


 きつく背を抱かれる。


「あたしは現在いま未来さきに繋げたいんです。過去むかしを捨てさせてくれた、貴女とともに」

「よくわからないよ、それ……」

「決意表明のようなものですよ」


 最後に額に口づけされる。蛍光灯の白色光の下では、彼女の頬に走った朱がよく見えた。同じ気持ちでいてくれると、言葉に出さなくても感じられる。


「さて、あたしは仕事に戻ります。ゴールデンウイークまであと60連勤ほどしないと」

「そうね、無理しない程度に頑張って」


 思い描いた通りにはいかなかった。それだけ働けば体にだって悪いのに。遠回しに何度指摘してもシャンディは頑なに譲らない。


「……ほんと、嘘が下手ですね。かわいい美琴さん」


 俯いてへこたれていたら、そんな独り言が聞こえた。そして「ちゃらららーん」とまるでひみつ道具でも出すときのようにおどけてみせる。


「行きましょうか。婚前旅行というものに」


 旅行予約サイト、温泉旅館の写真を見せて、シャンディは微笑んでいた。上げて落としてまた上げる、シャンディの手のひらの上でただただ転がるのも、今は嬉しい。


「今週末、開けておいてくださいな。お店は臨時休業しますから」

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