#91 : Impossible / ep.5

「急なお話になってしまってすみません。なにぶん先ほど急遽決まったものでして」

「はあ」


 凛子の生返事も無理からぬことだった。

 早苗から身に覚えのない連絡を受けた凛子は、新橋の日比谷本社を訪れていた。指示によれば「今日一日、日比谷本社のどこを撮影してもいい」というもの。ちょうどチャンネル用動画のネタにあえいでいた琴音は二つ返事で快諾し、自撮り棒片手に録画を始めていた。


「こんにちは、黒須琴音です。今日はなんと! CMでもお世話になっている日比谷商事さんにお招きいただきましたー!」


 このあたりで拍手の効果音でも入れるのだろう。そんなことを考えながら、凛子は画角に入らないように琴音のオープニング撮影を見守っている。

 琴音を遠巻きに取り囲んでいるのは、日比谷の社員たちだ。やんわりとディスタンスを取って小さな声ではしゃいでいる。そんな彼ら彼女らのために「ありがとうございまーす」と自撮り棒を持ったままくるりと回り、ひとりずつ目線を合わせていくというファンサービスを忘れない。「顔ちっちゃ!」「背、高!」「細っ!」とチヤホヤされる様子を見ていると、まるで自分のことのように嬉しかった。自慢の推しだ、存分に褒めてほしい。性格は最悪だが。


「こちら、総務の柳瀬から預かっているゲスト用のIDです」


 そう言って、早苗との橋渡しを受け持つ広報部社員がIDを手渡してきた。怜悧で仕事のできそうなイメージを抱かせる細面。タイプの女性を見ると反射的に指輪を探してしまう癖はそう抜けない。ちなみに既婚者だった。お幸せに。


「早速で申し訳ないんですが、できれば黒須の動画に出演いただけませんか? 案内をしていただければと」

「か、勘弁してください……!」


 広報部所属のくせに即座に断ったが、凛子の見立てでは、この場の日比谷社員たちの中では彼女が一番という仕打ちに耐えられそうなのだ。

 なんせ琴音は周囲のお褒めに預かったように「顔ちっちゃ!」「背、高!」「細っ!」な存在だ。そんなバケモノと同じフレームに収まれば、大抵の人間は残酷な現実に直面して死にたくなるのである。だから凛子は絶対に琴音の写真にも動画にも映り込まないし、マスクにサングラスで完全防備を決め込んでいる。


「その役、あたしにやらせてくれるぅ?」


 現れたのは、神経を逆撫でするような猫撫で声だった。涙袋と真っ赤なスカートが目をひく妖艶な女が微笑みを浮かべている。見覚えがある。


「秘書課の赤澤来瞳ですぅ。どうもぉ、かわいいマネージャーさん?」


 その名を耳にした瞬間、凛子のはらわたは煮えくり返った。赤澤来瞳、この女はかつて、美琴とシャンディのスキャンダル写真を琴音だと偽ってばら撒こうとした、不倶戴天の敵である。

 だが、これはあくまでも仕事。

 少なくとも衆人環視の状況では、事を荒立てる訳にはいかない。本音を言えば半殺しにしたいところをぐっと堪えて、凛子は来瞳に指示を出す。


「……じゃあ、黒須と合流していただけますか。案内は赤澤さんにお任せしますので」

「はぁ〜い」


 高いヒールを鳴らして、赤澤は悠然と歩いていく。一瞬ぎょっとした顔を見せた琴音にアイコンタクトを投げて、凛子は早苗にメッセージを入れた。


「赤澤って人、ヤバいんじゃないの?」


 *


 空を見上げていても、思考は停止したままだった。

 浜松支社、屋上。

 突然のお義父さん登場で構築していたロジックがすべて無に帰した。早苗は前後の脈略がないサプライズ要素に弱い。理由なき突発的な行動を取る人間は強敵である。

 早苗の知る限り、そういう人間はふたりいる。董子と、その父親、野村であった。


「何か分かったかい、我が義娘むすめよ」

「やめてください、気が散ります」

「冷たいなあ」


 屋上、喫煙スペースに置かれたベンチに座った野村がショボくれて紫煙を吐いていた。人が考えこんでいる時に、対策本部の司令官が呑気にリラックスしているのが腹立たしい。


「董子は煙草、苦手だそうですよ」

「董子の前では吸わないからね」

「私が副流煙を吸って肺がんになれば、董子が悲しみます」

「うむ、それは困る……」


 ただ董子を悲しませたくないという理由で吸い殻を灰皿に捨てて、野村は大きく伸びをした。そして「さて」と気を入れ直し、脱力した顔面を引き締める。


「君の見立てでいい。人狼として疑わしき者は?」


 対策本部の面々の所属、言動をひとつずつ思い浮かべながら、条件に合致する人間を絞っていく。

 第一の条件は、早苗以外にセキュアの管理者権限を持っていると思われる者。対策本部は47名。ただし、誰が管理者権限を持っているかは分からない。早苗は身の潔白を証明するため初手で公表したが、普通は機密中の機密。公表する者はまず居ないだろう。

 ならば第二の条件は、芦屋千枝率いる《チェシャ》と接触を持った人物が潜んでいる可能性だ。


「ちなみに47名の選抜時、接点は徹底的に探っている。プライベートを詮索するような真似はできなかったけどね」

「コンプライアンス的には致し方ありません、が……」


 条件に合致する人間は、思い浮かばなかった。情報が圧倒的に不足しているのだ。現状で確信できるのは、自身と野村を含む2名のシロだけ。残り45名のうちの誰が人狼なのか、はたまた人狼が何人居るかすら分からない。


「拙速になってもいけない。幸い、明日の重役人事まではまだ時間もある」


 野村に続いて、早苗もベンチからひょいと起き上がる。

 もちろん、早苗に腹案がない訳ではない。すでに彼女らは日比谷に着いている。

 スマホに踊る凛子からのメッセージを一瞥し、早苗は僅かにほくそ笑んだ。


「揺さぶりをかけてみましょう」


 *


 自撮り棒片手に練り歩く琴音と、解説を続ける来瞳の後を追いながら、凛子は早苗からの返信を待っていた。

 琴音が動画を撮り続けているのは、チャンネル動画のためでもあり、自衛のためだ。動画を撮っている体を装っておけば、来瞳も下手な行動は打てない。

 凛子と琴音にとっては、赤澤来瞳はまだ仇敵である。

 だからこそ、エントランスを抜けてエレベーターに乗っても、エレベーターが地下2階に停止しても。コンクリート剥き出しの廊下を歩いている時も、撮影は辞めなかった。琴音たちの後を歩む凛子の後ろをぞろぞろと、物見遊山の日比谷社員たちが着いてくるからである。仕事しろ。

 そして地下2階の突き当たり、扉の前で停止する直前、凛子のスマホが震えた。早苗からのメッセージは。


『赤澤来瞳は協力者です。彼女から説明を受けてください』


 協力者という言葉が引っかかった。

 金魚の糞のようにぞろぞろ続く社員たちを散らし、野次馬が三々五々職場に戻っていくのを確認したのち、来瞳は地下2階の突き当たり、第2防災用品倉庫に自身のIDをタッチする。

 重い扉を腰を入れてゆっくり開き、ヒールの音を響かせながらがらんどうの倉庫に入る。オートロックが作動して、ガチャリと音を立てた。


「こちらが第2防災用品倉庫。あたしの秘密基地で〜す」

「ん、案内ご苦労さん!」


 3人だけの密室。それを伺っていたのだろう。

 琴音は来瞳を羽交締めにかかった。アクション作品にも出演経験のある女優だけあって、さすがの手際の良さだ。しっかり首にヘッドロックが入っている。


「うぎ、ぐ、ぐるし……!」

「おーおー、あん時はやってくれたなあ? どう落とし前つけんだ、赤澤来瞳ちゃんよぉ?」


 ついでに、かつて演じたチンピラの役柄まで演じてみせている。琴音オタクの血が騒いで思わず見惚れてしまったが、首を絞められている赤澤の顔が文字通り真っ赤になっていた。

 このままでは犯行動画を残すことになってしまう。マズい。


「ちょ、待って琴音! この人、今は味方!」

「は? なんで?」

「早苗さんがそう言ってる! 指示を仰げって」


 琴音が拘束を解くと、赤澤は膝から崩れ落ちた。肩で息をしながらゲホゲホ咳き込んでいる。今だに半信半疑といった状態の琴音に事情をかい摘んで告げると、申し訳なさそうにヘラヘラ笑っていた。


「死ぬかと思ったわよぉ……」

「や、ごめんごめん。ま、これでチャラってことで」


 とは言え、いい気味だとは思った凛子だった。


「貴女に説明してもらうよう早苗さんに言われたの。私たち、日比谷に来いとしか言われてないから」

「本当に手が回ってないのねぇ、完璧主義のあの子にしては珍しいけどぉ……」


 説明が面倒臭いと顔に書いてあった。うんざりしつつも呼吸を整えると、赤澤は自身が知る限りの情報を説明する。

 曰く、琴音と凛子を呼んだのは美琴の就活計画の一環である。秘書課に目をつけられて内定のチャンスを潰された美琴のために、早苗が用意したものだ。しかし計画は頓挫しかけていて、そのテコ入れのために琴音たちが呼ばれることになった。

 説明を終えた来瞳に、琴音は肩をすくませた。


「ん。さっぱりわかんね!」

「私も。美琴さんに会えるかもってことしか分からない」

「揃いも揃っておバカさんなのぉ?」


 吐き捨てるも、来瞳自身それもそうかと納得したようだった。

 実際、凛子にはまるで事態が飲み込めない。たかが美琴ひとりの内定を阻止するために、どうしてそこまで秘書課が必死になっているのか。

 訳が分からない。難しい。難しいことだから考えるのをやめた。よほどのことでない限り悩まずすっぱり忘れるというのが、凛子の生きる知恵である。


「とにかく、早苗さんは手伝ってもらいたいのね? 上手くいけば美琴さんが日比谷に就職できる、と」

「ついでに早苗ちゃんも浜松から帰れるのよ、奥さんの元へ」


 突如故郷の名を出されてどきりとした。

 どうやら早苗は秘書課との争いに負けて、左遷されてしまっているらしい。つまりはこの計画は、美琴のためであり早苗のためでもあるという。

 浜松の居心地の悪さは、凛子が一番よく知っている。


「こっちとしても動画のネタになるってことか。早苗姉の考えそうなことだなー」

「ウィンウィンならぬウィンウィンウィンね」

「はは、バイブみたい」


 推しの声でなんてことを言うんだ、琴音の頬をつねっておく。

 とは言え、事情は飲み込めた。琴音としても利があるし、ついでに美琴や早苗を助けられるなら協力しない理由はない。三方よしは商売の基本だ。


「それで、琴音に何させるの?」

「なぁんにも聞いてないわ。自分で考えろってことじゃなぁい?」

「はあ?」


 赤澤はくすくす笑って懐から細い煙草を取り出した。地下禁煙と目の前の壁に貼っているにも関わらず、何の遠慮なく火をつける。むせ返るようなバニラの香りと煙が、距離を置いているにもかかわらず凛子の鼻腔をくすぐった。

 鋭敏な嗅覚を持つ凛子の大敵、それが煙草である。


「一服してる場合なの? けほっ……! 禁煙でしょ!? 煙草は無理! あっち行って!」

「ここ、あたしの隠れ家なのぉ。電波は繋がんないし、誰も来ないしぃ。それに不思議なんだけど、ここだけ入室記録が残んないのよねぇ」

「なによそれ……。けほ……」

「セキュア。IDカードもらったでしょ? あれをセキュアの端末にタッチすると、何時何分何秒に、誰がどこに入ったのかバレちゃうの。ここ以外はねぇ」


 「困ったものよねぇ」と悪びれる様子なく語る来瞳が典型的なサボり魔であることは分かった。おそらくここで誰にも邪魔されず煙草を吸うのが日課なのだろう。

 意味深な様子で考えを巡らせていた琴音が声を上げた。


「質問なんだけどさ。なんであんたはここ入れんの?」

「わかんなぁい。あたしもたまたまだったのよねぇ」

「ん。たまたまIDタッチして回ってたら、隠れ家を見つけた……」


 言い置いて、琴音は立ち上がった。訝しげだった表情は、まるでオモチャを買ってもらった子どものような満面の笑みだ。十中八九ろくでもないことを閃いたのだろう。


「無理だから」

「まだ何も言ってないじゃろがい」


 琴音は先だって拒絶しても——いや、拒絶したところで諦めるような女ではない。諦めなかったからこそ女優として登り詰めたし、凛子の拒絶を砕いてしまったのだから。


「動画ネタはこれだ!」


 ケケケと悪ガキみたいな笑い声を地下倉庫内に反響させて、琴音は先ほど三ノ輪から預かったIDカードを掲げた。


「本社のありとあらゆるドアにこのIDをタッチして隠し部屋を探す! 黒須琴音の日比谷本社探検ツアーだ!」


 ろくでもない企画だ。誰が喜ぶのかまるで分からない。そんなことは当然分かってはいても、凛子は付き合うしかなかった。

 白井凛子は、黒須琴音のマネージャーだ。

 足取り軽やかに倉庫を抜け出す琴音の楽しげな姿には呆れつつも、内心どこか嬉しかった。


「一応ここの端末もタッチしとこうぜー」


 瞬間、琴音はスマホの録画ボタンを押して企画意図を説明し始めた。瞬時に女優の皮を被れるなら、あの妙に小っ恥ずかしい儀式はなんだったのかと言いたくなる。


「残念。わたしのIDじゃダメみたいです。凛子さんは?」


 物は試しと首から下げていたIDをセキュア端末にタッチした。入室拒否を示す赤のインジケータが点灯して、来瞳のようには開かない。


「私のもダメみたい」

「あはは、なんだか探検隊みたいで楽しいですね」

「そう? 私はあんまり……」


 あまりに自然で忘れていた。

 今、琴音が持っている自撮り棒に取り付けられたスマホのカメラは回っている。


「……ちょ、っと待って? 私を巻き込むつもりじゃないよね……?」

「探検ですから。さあ、行きましょう凛子隊員!」


 背筋が凍った。

 推しと同じフレームに映って顔出しで、顔面の大きさやら背丈やら細さやらありとあらゆるものを比較されてしまう。全世界規模の公開処刑だ。


「むっ、無理無理無理無理! 今すぐ撮影止めて!」

「カメラを止めるな!」

「止めてーっ!!!」


 琴音はケタケタ笑いながら地下を全力疾走していった。

 芸能界、一瞬の油断が命取りである。


 *


「あ、あの……。もう大丈夫だよ、美琴さん……」


 無人の男子トイレ個室から顔だけ出して、様子を伺った。お嬢様ミシェルがトイレの外側で小さく手を振っている。なんとか秘書課課長の襲撃は撒けたらしい。

 そそくさと男子トイレを退散して、美琴は周囲を見渡した。本社ビル5階の廊下には、ミシェルの姿しかない。先のエレベーターは上を目指して登っている。


「ありがと、助かった……」


 安堵で膝から崩れ落ちた。緊張と緩和の連続であまりに心臓に悪い。ただ企画を提出するだけなのに、どうしてここまで心臓が破裂しそうな想いを繰り返さなければならないのか。

 挙げ句、計画は失敗した。

 IDを端末にタッチしても扉は開かず、おまけに敵を呼びつけてしまっている。セキュリティにもシステムにも疎い美琴でも分かることだ。

 何者かが、この計画を邪魔している。


「課長が駆けつけた理由、何か言ってなかった? 私がIDをタッチしたからとか」

「ええ、と。言ってなかったよ。課長は、美琴さんが来てるなんて知らない、と思う……」


 ならば、とIDをもう一度端末にタッチする。ただ、やはりインジケータは赤く光るばかりだ。閉ざされた扉が開くことはない。

 企画部内に出入りする社員に紛れて入り込むことも考えたが、テレワークの進んだ社内ではほとんと人を見かけない。


「……ミシェルさんのID、借りてもいい?」

「わ、わたしのは……ちょっと……」

「ダメ元でもいいの、お願い」


 美琴は言い淀むミシェルを詰める。頼りになる人間は彼女しかいない。後ずさりした彼女に追い縋って壁際に追い詰める。

 上目遣いに美琴を見つめるミシェルは、小さくなって震えていた。怖がらせてしまっただろうが、今は細かいことを気にしていられない。


「貸してくれたら、そうだな……」


 これはミシェルとの交渉。彼女の欲しそうなものを思い浮かべて、今はいちおうデート中だったことを思い出す。

 ならば、初デートでは早いかもしれないが。


「……キスしてあげる」

「え、えぅ……」


 声にならない声を上げてミシェルは狼狽えた。

 一方、美琴は美琴で恥ずかしさを必死で抑え込んでいる。さらには心の中で何度となく最愛の人に向けて謝りながら、背伸びを保つ。

 すべてはシャンディのため。そのための背伸びなら、女のひとりやふたり堕として泣かせるしかない。歯が浮いて飛び出していきそうな台詞を、六本木で鍛えた紳士面で放つ。


「……忘れさせてあげますよ、11人の恋人たちのことなんて」

「で、でも……」

「拒絶する時間は与えたのに、逃げないんですね?」

「み……美琴さんにも、彼女さんが居るから……」

「居るからこそ。道ならぬ恋だからこそ、燃え上がるんですよ」


 琴音が演じていた妖艶な美女を思い出し、壁に追い詰めたミシェルの足元を塞ぐ。股間の下、フレアスカートを自らの膝で釘付けにして、彼女の顎先に指を掛けた。

 何をやっているんだろう。ただただ恥ずかしい。それでもここで折れるワケにはいかない。曲がりなりにも女優の姉だ、演じきってみせる。シャンディさんごめんなさい。


「……じっとしてて」

「ん、う……」


 ミシェルは瞳を閉じた。唇までの距離が遠く感じる。否応なしに鼓動が高鳴った。恋などではない。恥ずかしさと、バレたらどこまでの辱めに遭うか分からない恐怖。

 フロアにはふたりきり。誰も見ていない。美琴のことを知るものなど、社会にはほとんど居ない。だから大丈夫。静かに湿らせて、薄桃色の小さな唇を奪った。


「……」


 唇を離しても、ミシェルは瞼を閉じたままだった。余韻を味わっているのか、はたまた自身に芽生えた葛藤と戦っているのかは分からない。それでも、美琴の腰に回された彼女の両手は、拒まずに受け入れたことの証。


「……ID借りるね」

「ま、待って。美琴さん……」

「今のキスじゃ足りない?」


 ふるふると首を振って、ミシェルは壁にもたれるように崩れ落ちた。

 秘められた自分の才能が恐ろしい。こんな性格でなければ、男も女も泣かせまくっていただろう。


「美琴さんは……わたしの味方に、なってくれる……?」


 広尾ミシェル。彼女は秘書課内でツラい目に遭っている。味方と呼べる者など来瞳しか居ないし、その来瞳も唯我独尊人間だ。ミシェル自身のことを見てくれる人間は、彼氏彼女を含め居なかったのかもしれない。

 真っ赤になって半泣きのミシェルに、美琴は手を差し伸べた。


「最初から貴女の味方ですよ」


 もちろん、手伝ってくれるならという条件付きだ。


「……わかった、よ。協力するね……」


 ミシェルは立ち上がり、首から下げていたIDをセキュア端末にかざした。ピッ、と先ほどとは違う音。緑のインジケータが灯り、自動ドアが静かに開く。


「あとひと息……!」


 逸る気持ちを抑えて、美琴はミシェルを連れて企画部へ足を踏み入れる。ひとっこひとり居ない企画部フロアの最奥部、ガラス張りだが、ブラインドが下されて中の様子が伺えない部屋。そこが企画部本部長室だ。


 一方。

 一部始終を、物陰に隠れて盗み見ていた者が居た。先の様子はすべてスマホの動画で抑え、話している内容も盗聴器で筒抜けだった者。


「ええー! みこミシェとか聞いてないよ美琴さん、今の完ッ全に地雷! 私固定カプ以外受け付けないんだよー! やめてよー! そんなのってないよー!?」


 柳瀬董子である。


「……いやでもあの攻めてる感じはすごくカッコよかったし私もちょっと攻められてみたいけどでも浮気って!」


 その場で盗聴音声をリンクさせて即席の動画を作り、何度となく見直して、熱っぽいため息をついたり「よくない!」と憤慨したりと忙しい。

 複雑だ。ときめいてしまう自分自身が許せないが、やはりときめくものはしょうがない、複雑な感情を催すシーンに出くわしてしまった。


「あ、ああーっ! 誰でもいいから語らいたい、この複雑な感情をシェアしたい……!」


 董子は我慢ができない。自他ともに認める堪え性ゼロ人間である董子は、《美琴さん浮気現場ディレクターズカット版》を即座に早苗に送信したのであった。

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