#90 : Impossible / ep.4

「んなトコで何してんだよ、おめーはよ……」

「うち、ひふみんのマネージャーになったんよ!」


 犀川家の玄関を開いたのは琴音の従姉妹、黒須葵生だった。言葉を失ってドアにもたれかかった琴音に代わり、凛子が訝しげに尋ねる。


「事務所に就職したの?」

「ひふみんに永久就職したんよ!」

「ああ!?」


 琴音と声を合わせ、凛子は叫んでいた。「どういうこと!?」と矢継ぎ早に尋ねたところで、ようやく家主が廊下の隅からゆっくりと顔を出した。


「……上がって。説明するから」


 犀川家のリビングは、ひどくモノが少なく殺風景だった。モデルルームでももう少し家具家電が揃っているものだが、リビングにはラグとテーブルのみ。そこへ、葵生が実家を出る時持たされたという場違いな座布団が4つ並んでいる。

 自室から戻ってきたひふみは、チラシをテーブルに置いた。裏返すと、雇用契約書と書かれている。丸文字の手書きで。


「……雇った」

「えっへん!」

「永久就職って言うのは……」

「すごくいい条件なんよ! 家事やるだけで日給5千円で、住み込みだし生活費も全部ひふみんが払ってくれるし! こんな仕事なら永久にやりたい!」


 雇用契約書には

 『お仕事:炊事洗濯掃除』

 『お給料:一日5千円(残業代込み)』

 『福利厚生:うちに住んでいいよ(生活費は犀川ひふみ持ち)』

 『備考:副業していいよ』

 とざっくりしすぎた条件が並んでいた。

 呆れて物が言えなかった。ちらりと何やら言いたげな琴音が視線を送ってきたので、凛子も頷いて重々しく口を開く。


「葵生ちゃん、これなんて言うか知ってる?」

「働き方改革!」

「ヒモだよバカ!」


 住み込みで、家事をこなせば月収15万円。生活諸経費は全部家主持ち。こんな条件で働ける職場なんて、それこそ永久就職した董子みたいな専業主婦か、ヒモだけである。


「お前も何考えてんだよ、ひふみ……」

「ヒモやないよ! ね? ひふみん?」

「……そう」


 ひふみは雇用契約書を裏返す。それは家政婦派遣サービスのチラシ。料金表の部分には、1回あたりの派遣料1万円と書いてあった。


「……自慢じゃないけど、私は何ひとつ家事ができない」

「ホントに自慢じゃねえな!」

「……試算したら、家政婦さんより葵生に頼んだ方が安上がりだった。住み込みなら交通費も掛からないし、知らない人を家に上げるよりいい。身元も知れてるし」

「お金はあるの……?」


 なんて、訊く意味もないことを凛子は思い出す。所属事務所アンブッシュは、黒須琴音と犀川ひふみの二枚看板だ。このふたりで他十数名の所属タレントと5名の正社員を食わせているのだから、葵生ひとり増えたところでびくともしないだろう。


「……使い方分からなくて、貯まってるから」

「ね? これぞウィンウィンってやつ!」

「ヒモが威張んな。凛子ちゃんこれ法的に問題ないワケ? 事務やってたんなら分かんでしょ?」

「事務は何でも屋じゃないの。私に聞かないで」


 無論、分かるわけがない。明治文具でも前職でも、副業の方でも雇用契約はノータッチだったし、犀川ひふみと事務所の契約まで把握していない。マネージメント業にしても、適当でいい加減な事務所社長から「隣に住み込んでるならひふみの面倒も見てよ」とついでに頼まれているだけである。


「でもまあ……約束としては効力あるんじゃないの?」


 「約束?」と聞き返してきた琴音に、チラシの裏の雇用契約書を指さす。ふたりの記名と拇印が押されている。内容はひどく曖昧だが、ふたりの間の取り決めには違いない。


「だからうち、ここを足がかりに東京の女になるんよ!」

「ここ横浜だけどな」

「ならハマの女!」

「あ、月収15万だと余裕で20万円の壁超えちゃうんじゃない?」

「なんそれ?」


 琴音と葵生の声が重なった。年20万円までの雑収入なら申告義務はない。逆に、それを超えると申告義務が生じ、怠ると脱税になる。犯罪だ。

 凛子は黙っておくことにした。と言うよりは、聞かなかったことにした。


「まあ、記録さえ残さなければバレないから。好きにして……」

「や、事務所的にマズいっしょ。干されるぞ」

「バレないようにうまくやるけん!」

「お前が一番信用できねえの!」


 喧々諤々の言い合いを続けている従姉妹同士から目を逸らすと、ひふみが雇用契約書をじっと見つめていた。

 ひふみの行動について気になることはいくらでもある。ただ、それを直接尋ねるのはあまりに配慮に欠ける気がした。凛子なりの、女の勘だ。


「ねえ、犀川さん」

「……?」


 きょとんとした様子の、がらんどうの瞳が見つめてくる。二、三度仕事に同行した時と同じ、暖簾に腕押しするような空虚な反応だった。

 ただ、凛子の目はごまかせない。特に、なんらかの悩みを抱えている者を前にした時は。


「ふたり暮らしは楽しい?」


 ひどく長い沈黙だった。聞こえていなかったのかと不安になるほど返答が遅い。

 犀川ひふみは霧のような女だ。

 漂っているだけで、掴みどころがない。どれくらい霧が深いのか分からないし、霧の先の景色を見通せない。深いのか浅いのか、遠いのか近いのか、分からない。だから問いかけが心の奥底に届くまで時間がかかる。

 ひふみの返答を待っていたところで、とうとう我慢の限界がきたのか葵生が叫んでいた。


「こと姉やって、他人のこと言えんけん!」

「あ?」

「住み込みでお給料払っとるよ! うちのことヒモとか穀潰しって言うんやったら、凛子さんやって同じやけん!」


 側から見ればそうなのだろう、と凛子も思う。明治文具をクビになって、なし崩し的に琴音の下に転がり込むことになった。挙げ句に衣食住と仕事まで、よりにもよって最推しの女優に面倒を見てもらっている。

 これをヒモと言わずなんと呼ぼう。年収600万円、ヒモどころか、太すぎてロープかケーブルカーの鉄線だ。食わせてもらえなければ、ヒモが切れたら生きてはいけない、琴音がよこす愛情みたいなものを一方的に貪っている、何の価値もない人間だというのに。

 だが、琴音は静かに告げた。


「お前とは違うんだよ」

「何が違うん?」

「凛子ちゃんは灯台……」


 言いかけて、琴音は訂正した。


「何もかも違うの。もういい帰ろう凛子ちゃん」

「あ、うん」


 結局、ひふみには答えてもらえず、葵生の「あっかんべー」に見送られて犀川家を退散することになった。玄関前で立ち尽くす琴音の顔色は、真剣そのものと言った様相で。


「うちの従姉妹がごめん。アイツ大バカでさ……」

「気にしてないから。実際ヒモだし」

「や、違うんだよ……」

「灯台のことでしょ。言ったって理解されないよ、普通」

「そうじゃないんだってば」


 強い口調の琴音に見つめられる。いくら近くにいても、推しの顔に見つめられるのはまだ慣れない。むしろ、ひとつ屋根の下に暮らすようになって余計に、鼓動が早まっている気がする。


「……したいんだよ」

「真っ昼間からバカじゃないの?」

「違うっての。私は凛子ちゃんが、ヒモとか穀潰しとか言われないようにしたくてさ……」


 琴音は負けず嫌いだ。自身のことだけでなく、マネージャーとして雇っている凛子の汚名まで晴らそうとしている。琴音なりの優しさなのかもしれない。そう思うと笑えてくる。


「何それ、ふふっ……」

「な、何もおかしなこと言ってないんだけど?」

「誰に何言われたって、私は黒須琴音のジャーマネでしょ? それで充分じゃないの」


 万人を虜にする外見に似合わない、子どものような精神性。まるで大人びていなくて、大人気なくて、お金の使い方ひとつとってもバランスに欠いたダメ人間。挙げ句、人を灯台呼ばわりして、所有物か何かのように思っている。

 それでも、凛子を守ろうとしている。それだけは先の葵生との口論で伝わった。あらぬ誤解や非難から遠ざけようとしてくれている。

 言いたいヤツには言わせておけばいいだけなのに、ただ「好き」という理由だけでわざわざ気を回すところが、優しくて、愚かで。そして。


 芽生えた感情を直視したくなくて、凛子は話題を変えた。


「だいたい、ヒモって呼ばせたくないにしても、何か方法あるの? ないでしょ、そんな都合のいいこと」


 言ってから、ひとつだけ思い当たった。生計を同一にする人間が、ヒモという汚名を捨てられる方法。


「や、あるよ! だからさ!」

「ごめんちょっと待って。電話」


 琴音は子どもだ。何を言い出すかなんて手に取るように分かったので、掛かってもないスマホを取りに自宅へ戻った。


 まだ早い。というより、絶対に無理だ。

 気持ちの整理どころか考えたことすらない。はじめからそんなことなどあり得ないと分かっていた。諦めているとかそんな次元の話じゃない。いかに「勢い」だと説かれても、どだい無理なのだ。

 それをこんな些細なことで意識するなんてどうかしている。

 そもそも、今をときめく将来有望な女優相手に何を考えているんだ、何者でもないただのマネージャーの一般女性、白井凛子は。


「電話なんて掛かってないじゃん」

「これから掛けるの」

「誰に!?」

「誰でも」


 そんな時だった。凛子のスマホがタイミング良く震えている。電話相手は早苗。要件は分からないが、これも天の思し召し。これ幸いと通話ボタンを押して、耳に押し当てた。


「え? 日比谷本社での撮影の許可が下りた? そんなの頼んだ覚えないけど……」


 *


 エレベーターは5階、企画部のフロアに音を立てて到着した。隅に隠れているよう言われた美琴に、ミシェルが指示を出す。


「誰もいないよ、大丈夫」


 箱を出て、美琴は静かに息を吐いた。

 ふわふわミシェルをどうにか丸め込むことに成功した美琴は、デートという体裁で計画を実行に移していた。敵である秘書課とは言え、先だって来瞳が手懐けていたし、ミシェル自身も秘書課にはあまり忠誠心がない。ように見える。


「まだ、好きになってくれない……?」


 上目遣いで見つめられると、声を失う。

 美琴は初めて、自身の女性の好みがなんとなく分かった。パッと見、可愛い系に弱いらしい。自分にはないものを持っているからだろう。


「まあ、一応は敵だからね……」

「悲しい、な。わたしはこんなに信じてるのに……?」


 ぎゅっと腕を絡められ、自身の胸元に押し当てるように抱きしめられる。デートということになっているからかミシェルは先ほどよりも積極的で、そして天然のあざとさを存分に振るってくる。

 脳裏にシャンディの笑顔と、本気でキレている時の影が刺した満面の笑みを思い浮かべて、美琴は深呼吸した。


「とにかく、企画部に入らないと。本部長のデスクに企画書とサンプルを提出して……」


 エレベーターを出てすぐの場所に、企画部オフィスの自動ドアがあった。日比谷商事の新商品を生み出す心臓部。IDカードがなければ門前払いの壁の向こうへ飛び込むべく、リーダーにIDを読み込ませる。


「……あれ?」


 ピッという音が鳴っても、セキュア端末は赤く光るだけだった。入室拒否のLEDインジケータが点灯し、すぐに消える。


「入れないね? 故障かな?」

「いや、そんなはずないんだけど……」


 IDのタッチ速度が悪かったのか。何度となくタッチを繰り返しても、灯るのは赤のLEDのみ。緑の入室許可は灯らず、自動ドアが開くこともない。


「ど、どうなってるのこれ!? 早苗さん!?」

「み、美琴さん! エレベーター見て!」

「え?」


 三基並んだエレベーターのうち、中央の一台が下り表示になっている。現在地表示は27階だ。

 27階。日比谷本社ビルの最上階には秘書課がある。


「か、課長だ。課長が来るよ……!」

「まさかバレたの!? じゃあIDがダメなのも……!」

「逃げて! 美琴さん!」


 逃げてと言われて、美琴が一番に目をつけたのは間近にあったトイレだった。女子トイレに逃げ込もうとして、秘書課課長もまた、女子だったことを思い出す。やり過ごせない。


「緊急事態だから、ごめん!」


 逡巡したが、美琴は男子トイレに飛び込んだ。用を足していた男子社員と目が合って気まずかったが背に腹は変えられない。


「あー! お腹痛いなーっ! 女子トイレが混んでたからなーッ!」


 盛大に「仕方がなかった」ことをアピールしながら、男子トイレの個室に飛び込んだ。どうしてここまで恥をかかなければならないのか。真っ赤になっているだろう顔を抱えて、便座に座り込む。

 日比谷への入社試験は前途多難だ。


 *


「……そうですか」

『先を越されたわ。まさか秘書課がセキュアにまで手を回していたなんてね』

『変な喋り方ねぇ? 女スパイなのぉ?』


 董子からの連絡で、早苗は計画変更を余儀なくされた。

 美琴が消息を絶ってすぐ、董子には来瞳と合流してもらった。その後、仕込んでいた盗聴器が再び音声を拾い出し、事態を把握したのだという。


「美琴さんは広尾ミシェルが逃したんですね?」

『ええ、今は男子トイレの中。浮気現場の写真もバッチリ抑えたわ。ついでに言うと、私たちはその隣の女子トイレの個室よ』


 その喋り方はどうにかならないのかとは思ったが、まったくの善意で協力してくれている董子にとやかくは言いたくない。

 董子はお祭りごとやイベントが大好きだ。全力でエンジョイしたがる。だから本人が女スパイのロールプレイを楽しみたいのなら好きにさせてあげたいとは思う。

 が、女子トイレの個室の中で、董子が来瞳とふたりきり。そう考えると、さしもの早苗も気が気ではない。


「赤澤に何かされていませんか?」

『あらあらぁ。早苗ちゃんヤキモチぃ? かわいい』

「……最愛の人です。汚したら冗談抜きで殺しますよ」

『キャーッ! 好きー!』


 やれやれと頭を抱えたところで、対策本部の野村からチャットが飛んできた。クーデター対策本部の会議室内、早苗の真正面に居る相手からわざわざ個別メッセージが飛んでくるということは。

 美琴と董子の安否は確認した。

 ひとまずは計画変更を脇に置いて、早苗はチャットに踊るたった一言「屋上」を目指し、すでに切れた董子との通話を続けながら会議室を出る。

 ひと足遅れて、屋上に野村が現れた。


「誰も居ません。ご用件は?」

「さすがに話が早いね。《総務の猟犬》の名は伊達じゃない」

「そのあだ名は好きではありません。ときおりダックスフントなどと言われます」


 ダックスフント。猟犬である。

 上から下まで早苗を眺めて、野村はぷっと吹き出した。


「小回りが利く忠犬で可愛らしいじゃないか」

「先の発言はパワハラ、セクハラ、モラハラ、どれに当たりますか?」

「いや、申し訳ない。どうにも対策本部内での人狼ゲームに疲れてしまってね、冗談のひとつでも言いたくなったんだよ」

「冗談では済まない……」


 言いかけて思い出すのは、琴音の家で催された人狼遊戯だ。

 善良なる村人に紛れた狼人間を排除できれば勝利の心理戦。もちろん、何も対策本部は遊んでいる訳ではない。日比谷商事社長・恵美御前の支配体制を守るために13ヶ所で同時発生したクーデターと不眠不休の戦いを水面下で繰り広げている。

 ということは、野村が指している人狼とは。


「……協力者に渡したIDが書き換えられていました。確信はまだ持てませんが、内通者が居ると考えるのが妥当でしょう」

「そうだね。こうして君に話している私自身がオオカミである可能性もゼロではない。が、そこは信用してもらうとしてだ」


 野村に手渡された缶コーヒーは、ブラックだった。

 黒。これほど不吉な差し入れもない。


「一応、確認しておこう。弊社は今、敵対勢力による侵略を受けている。敵の狙いは明日の重役人事だ」

「そうですね」


 日比谷商事の社長は、重役による多数決で決まる。

 そして重役らは、子会社や各部署から選び出される。

 日比谷ほどの大企業になると、重役人事はちょっとした国政選挙の様相だ。

 間接民主制。国民の投票で選び出された議員から総理大臣が選び出されるのに似ている。つまり、さまざまな思惑によって選び出された重役たちが、最終的に社長を決定し、新たな期が始まる。

 敵は日比谷を乗っ取る方法として、この重役の選出に目をつけた。


「13人の重役の首をすげ替えて、恵美御前ではなく別の人物を社長に推薦する。最初に聞かされた時は驚きました」

「ああ。僕も寝耳に水だったよ。ひとりやふたり送り込むならまだしも、13人すべての重役選出に手を回してくるとは」

「私ならそんなことはしません。非効率です」

「その通りだね。社長は多数決で決まる。13人と言わず、7人選出させれば済む話だ。ならば敵はなぜ、こんなことをしでかしたと思う?」


 攻撃を受けているのは、日比谷グループだ。

 営業部では営業本部長と営業の花形・海外営業部の覇権争い。

 赤字続きの子会社ホソカワ化学は事業存続派と売却派の対立。

 他にも子会社の統合計画や買収計画、企業献金についての派閥間齟齬が原因で、13人の重役の首がどう転ぶかは分からない。

 そのうちのひとつが、本社機能の中枢にまで忍び込んだ秘書課による騒動である。ちなみに秘書課は、セントヘレナへ左遷された小杉を重役に担ぎ上げようとしているらしい。要は操り人形になってくれる者なら誰でもいいのだ。

 わざわざそんな回りくどいことをする人間の目的など決まっている。

 早苗は缶コーヒーを流し込んだ。苦い。睡眠不足の頭に、カフェインがぐるぐる回り始める。


「今回の敵が誰かを考えれば、自ずと結論は出ます」

「君の推理を聞かせてくれるかな」

「敵の名は、芦屋あしや千枝ちえ。ベンチャーコンサル、《チェシャ》を率いる若き起業家です」

「さすがだ、情報が早いね」

「小杉を除く12名の重役候補は、いずれも《チェシャ》の関係者でした。簡単な推論です」


 《チェシャ》は、ベンチャーを中心にコンサルタント業務を請け負う若い企業だ。創業者の芦屋千枝はすでに両手で収まらない数の事業を起こし、都度売却して勢力を拡大させている。


「そこで疑問だ。弊社はベンチャーではなく、老舗の古臭い大企業だ。ベンチャーを得意とする《チェシャ》の芦屋千枝は、何故こんな方法で弊社を狙うのかな?」


 早苗はふうと息を吐いて、強ばる口を動かした。


「……単刀直入に言います。示威行為です」

「ふむ」

「自らの計画性、人脈、根回し、カリスマ。そういったものを見せつけて、恵美御前や我々に引導を渡すことが目的かと」

「随分と私怨めいた動機だね。執念とも言うべきか」

「もちろん、商社を抑えればビジネスが優位になると判断してのことでしょう。株式取得による正攻法が不可能となると、回りくどくとも理に適っていると考えます」

「その人脈と根回しのために、我々は後手に回っている?」

「はい。内通者のひとりやふたり居てもおかしくはありません。うちひとりは、セキュアのIDを書き換えられる管理者権限を持っている社員。私のような人間です」

「となると、君はということになるね。柳瀬早苗さん」


 野村は皺を寄せて笑っていた。見覚えのある笑顔だ。

 管理者権限を持つ者は、早苗の知る限り7人しかいない。しかもセキュリティの観点から、残る6名の正体は秘されている。

 自らの身の潔白を証明するため、早苗はセキュアの管理者権限を持っていることを対策本部のメンバーに明かした。その直後、美琴のIDカードが書き換えられる事件が起こり、計画は頓挫した。

 対策本部の計画を失敗に導いた裏切り者。

 現時点で最も人狼と思しき人物、それが早苗である。


「待ってください、その論理は破綻しています」

「どうぞ」

「現状の情報から、一番疑わしき人物は私です。ですが野村さん、貴方は私を疑わなかった。それはおかしいです」

「はは、おかしいのは君だよ。否定しなければ、自分が人狼だと認めているようなものじゃないか」

「もちろん私はシロです。現社長には相応の恩もある。ですが、野村さんが私を信用するに足る根拠がない」

「根拠ならあるよ。いや、いつか言おうとは思っていたんだけど、こういうのを僕の口から言うのは違う気がしていてね」


 言って、野村はスマホを取り出した。画面には、妻と思われる女性の姿が映っている。歳は野村と同じ、五十代後半くらいか。

 その女性の面影にも、どこか見覚えがある。


「実は、僕はずっと浜松勤務だったワケじゃないんだよ。恵美御前直々の要請でね、二十年ほどニューヨーク支社に出向していたんだ。妻とひとり娘と一緒にね」

「はあ……」

「ただまあ、ちょっと夫婦間で問題があってだね。浮気とか不倫ってワケじゃないんだが、もう十年ほど前かな、離婚することになったんだよ。娘の親権は妻に移ったが、まあ今でも仲良くやってるよ。離れていた方が上手くいく関係、なんて妻は笑っているがね」

「あの、なんの話でしょう……?」


 野村は切り出しにくそうに照れ笑いを浮かべていた。

 まるで読めない。腹芸の達人だ。


「ええとだね、僕の妻の旧姓なんだが、柳瀬と言うんだよ」

「え……」


 早苗は絶句した。


「ひとり娘の名は、董子。日比谷の総務課を辞めてから音信不通でね。今どこで何をやってるか君は知らないかい? 岡村は旧姓で、今は柳瀬早苗さん?」

「お……お義父さん……?」


 野村は朗らかに笑っていた。早苗の虚をつけてよほど嬉しかったのか、むせ返って咳き込むほどに笑っている。ハッと我に返った早苗は、野村の背をとりあえず撫でておいた。


「これが、僕が君を信用する根拠だよ。娘の夫……か妻か、まあどっちだっていい。言葉に縛られない素晴らしい関係にあるんだ。疑う方がどうかしているよ」

「い、いえでも、しかし……」

「不束な娘だが、よろしく頼むよ? いやあ、言ってみたかったんだよこの台詞。やっぱり女の子の父親としては外せないイベントだからね! ははは」


 董子の血を感じた。顔は母親に似たのだろうが、性格は父親譲りだ。妙にイベントごとにこだわるところや、笑いかた。そして、どこまでもオープンな気質。

 早苗は何を言えばいいのかまるで分からなくなった。


「あ、挨拶が遅れて、すみません……?」

「いやいや、それはこちらこそだよ。董子のことだから、全部サプライズにしようと思っていたんだろうね」

「それは本人から聞いていました。パパやママの驚く顔が見たい、と……」

「だから、僕が早苗さんと話したことは内緒で頼むね。あと、僕はニューヨークに居ることになっているから」


 早苗の中でようやく、点と点が繋がった。

 董子は帰国子女であり、語学力の一点突破で日比谷の総務に入社した。が、もしその背後に恵美御前の寵愛厚い父親、野村の存在があったとすれば、採用にも理解ができる。

 そして、そんな董子を手助けした早苗だから、野村の手によって本社から浜松へ転勤することになったのだとしたら。


「あ、『お前みたいな若造に娘はやらん!』ってやつもやりたかったな。今やっていい?」

「もう好きにしてください……」


 野村はシロだと早苗は判断した。

 仮にクロだろうとしても、少なくとも董子に被害が及ぶことはない。董子と似たような性格なら、きっと野村も董子を溺愛しているのだ、早苗を騙して娘が実害を被るようなことは絶対にしないだろう。


「お前みたいな若造に娘はやらーん!」

「そこをなんとか」

「その意気やよし! 娘をよろしく!」

「ありがとうございます」


 面倒臭いのが増えたなあ、と早苗は思ったのだった。

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