#92 : Impossible / ep.6

 地下2階。専用喫煙所である隠れ家で、来瞳は塗り直した真っ赤なマニキュアが乾くのを待ちながらぼんやり時間を潰していた。

 先ほど鉄砲玉みたいに飛び出していった琴音は、おそらくしらみ潰しにIDを端末にタッチして、隠し部屋探しを楽しんでいることだろう。


「あっちが本性なのねぇ〜。まあ、そうだろうとは思ってたけど」


 ふふ、と小さく笑って、スマホに録音しておいた音声を再生する。これが世に出れば、そこそこのスキャンダルになるだろう。知人の記者を当たれば、百万単位で買い取ってもらえるかもしれない。


「あたしがカネに汚い女じゃなくてよかったわねぇ」


 琴音の素がありありと残された録音データを消して、来瞳は立ち上がった。そろそろ秘書課オフィスに戻らないと、課長にどやされる。ヒステリックおばさんの相手をするのも仕事のうち、そう自分に言い聞かせて、倉庫を後にする。背後でオートロックが作動する機械音がした。


「でも、どうしてあたし、ここに入れるのかしらねぇ」


 何か、きっかけになるようなことがあっただろうか。来瞳はうんうん唸りながら、職場へ戻っていった。


 *


「私は、スキャンダルの瞬間を抑えるよう頼んだつもりはありませんが……」

『でもだって美琴さんが浮気なんだよ!? 地雷だよ!』


 董子からの電話連絡で再び屋上に舞い戻った早苗は、送りつけられた動画を見ても何の感情も抱かなかった。むしろ、まあそうなるわな、といった納得感の方が強い。


「あんな性悪と付き合っていたら、浮気したくなる気持ちも理解はできます」

『シャンディさんはいい人だよ! 早苗ひどい! うわーん!』


 電話口でわんわん泣き叫ぶ董子には、ほとほと困り果てるばかりだった。


「それで、この動画を見せてどうするんですか?」

『地雷なんだよ!? 公式が解釈違いなんだよ、慰めてよ!』

「はいはい、よしよし」

『心がこもってない!』

「ツラかったですね」

『それ! つらいよぉ……。私雑食だけど最推しは固定カプ以外地雷なんだよ! 他のカプだったらNTRとか全然平気だし感情〜ッってなるから好きだけどみこシャは純愛じゃないといけないのねえ早苗聞いてる?』

「そうですね」

『その「そうですね」って興味ないときのやつ!』

「そうですよ」

『いいからちゃんと見て!』


 言われるがまま、早苗はタブレットで『美琴さん浮気現場ディレクターズカット版』を再生した。開始数秒で見なくていいと判断していたが、董子のご機嫌を取るには最後まで目を通さなければならない。

 動画は離れた場所から撮影したものだ。ゆえに映っている2名は小さいが、それが誰かわかっている人間なら判別できる。さらには音声は美琴のIDカードに仕込まれた盗聴器がクリアに拾っている、言い逃れのできない浮気の証拠だろう。

 動画のあらましはこうだ。

 美琴がミシェルを壁に追い込み、IDを貸す代わりに唇を差し出すと迫る。美琴はずいぶん芝居がかっているようだが、六本木のアンティッカではこんなものだ。女を口説くときは、こんな態度を取るのかもしれない。

 その後、簡単な鞘当ての後に口元が触れ合う。機転を利かせた美琴のハニートラップでミシェルは陥落。ミシェルのIDを使って企画部のドアを解除、ふたりしてドアの向こうに消えていった。


「……うん?」


 早苗はすぐ気づいた。

 あり得ないことが起きている。


「董子。この映像は何分前ですか?」

『十分くらい?』


 早苗はすぐさまセキュアの管理者システムにログインした。データベースに問い合わせのクエリを投げて、返ってきたログを参照する。


「……ないですね」


 早苗が確認していたのは、5階企画部の入室記録だ。

 映像には、ミシェルが自らのIDを使って企画部の扉を開ける様子——すなわち、入室記録がセキュア上に残るはずのアクションが行われている。にも関わらず、ミシェルの入室記録はどこを探しても残っていない。

 セキュアは早苗が設計した、信頼のできる我が子。

 ならば、記録がないのはセキュアの故障ではない。

 記録が残らないようにセキュアが細工されている。


「お手柄です董子、おかげでオオカミに近づけました」

『確かに美琴さんはオオカミっぽくはあるけど!』

「ひとまず切ります」


 董子の言を遮って、早苗は容疑者をひとりに絞った。

 対策本部に潜む人狼。犯人の動機と証拠が掴めたのだ。


「……楠本香織」


 早苗はしかめっ面で、会議室に戻っていった。


 *


 対策本部内の末席。

 情報システム部所属4年目社員、楠本香織はずりおちたメガネを上げることも忘れて、管理画面に現れるセキュリティ警告に対処していた。

 突如として現れた未登録のゲストIDがふたつ、先ほどから本社内のありとあらゆる端末にタッチしまくっている。そのたびに『未登録のIDが確認されました』というポップアップ通知を消さなければならない。

 どこの誰だ、しらみ潰しにアクセスして回っている大バカは。


「皆さん、お話したいことがあります」


 通知を消しながら、香織は発言者を睨みつける。それは仕事を奪うばかりか、香織の部内での立場や面目、プライドをズタズタに引き裂いた許し難い存在。

 同期入社の総務社員、柳瀬早苗。


「現在、俳優の黒須琴音さんが本社内を見学されています。必要であれば彼女を誘導し、敵の行動を阻害できますので、仰っていただければ」


 未登録IDの正体は、この忙しい時に見学に現れた女優だという。わざわざふたつもIDを与えられ、縦横無尽に社内で暴れているらしい。

 さらに度し難いことに、議場の人間が早苗の元へ集まって、どこの入室許可を出してほしいだとか、ここには入れてくれるなだとか、そんな注文をつけて回っている。

 全員、柳瀬早苗を信用している。

 秘書課と戦うという柳瀬早苗の計画を、柳瀬早苗に疑いの目が向くように潰したのに、誰も柳瀬早苗を疑っていない。完全なるシロ、信用のおける人物だと全員が信じ切っている。

 許せなかった——


「楠本さんの設計に重大な不具合が見つかりました。再設計が必要です」


 ——2年前。

 日比谷情報システム部の若きホープとして《セキュア》の設計を完成させた香織は、総務部員の分際で横槍を入れてきた同期社員、当時は旧姓だった岡村早苗の発言を鼻で笑った。


「お言葉ですけど、総務の岡村さんにシステム設計の何がわかるんですか?」

「単刀直入に言います。再設計案を用意しました。情シス部の責任問題に発展する前に、私の案を検討してください」


 早苗は、部内全員が閲覧可能なサーバに設計の修正案——どころか、フルスクラッチした完璧な代案を提出してみせた。ついでに香織設計案のセキュリティホールを嫌がらせのように列挙して、である。

 分野外の人間にそんな芸当ができる訳がない。たかを括っていた香織だったが、情シス部は現行案の問題を認め、検討の末に代案を採択した。

 セキュアの設計は香織の出世がかかったチャンスだった。ここで存在感を示すことができれば箔がつくし、社内に寄って立つ居場所を作ることができる。そう考えて寝食を惜しんで作り上げたというのに、得られた評価は欠陥設計者の汚名だけ。


「岡村さん、工学部卒って聞いた? 京大の」

「道理で。総務で腐らせるの惜しい人材だな」

「なー。そのくせ小さくて可愛い癒し系だし」

「うちに来ないかな、総務のダックスフント」

「取り替えてほしい! 誰とは言わないけど」

「おいおい、言ってるようなモンだぞ、それー」

「だってアイツさ、岡村早苗の劣化版でしょ」


 ツラかった。鳴り物入りで日比谷に入社して、成果を積み上げてきたのに、あの事件を境に、出世レースから弾き出された。情シス部では腫れ物扱いされ、誰も楠本香織を必要としなくなった。出社するのも嫌だった。

 だけど、あの人だけは違った。

 香織と同じ話し下手で人見知りな、秘書課の新入社員。

 広尾ミシェル——


「楠本さん。リクエストはありませんか?」


 物思いに耽っていた香織は、眼前に迫っていた早苗にバレないようセキュアの管理画面を隠した。何食わぬ顔で目を合わせる。

 相変わらずの仏頂面。怒っているのか悲しんでいるのか分からない、消えてほしいくらいに平常心の顔面が覗いている。


「リクエスト?」

「先の俳優、黒須琴音の件です。彼女は《探検》と称して本社を歩き回っています。楠本さんも立ち寄ってほしい場所、あるいは入室を拒否したい場所があれば」

「特にありません」

「そうですか」


 小さく息を吐いて、早苗は微かに微笑んだ。冷徹の化身たる彼女に似合わない表情に、香織は目を見開く。


「そう言えば以前、貴女には失礼を働いてしまいましたね。謝罪します」


 突然、早苗は頭を下げた。なんのつもりか分からないし、たかが謝罪程度で彼女を許せるはずもない。


「なんのことですか?」

「セキュア設計の件です。あの時の私は仕事を焦るあまり、配慮が足りていませんでした」


 早苗の優秀さは香織も認める他ない。悔しいが、セキュアの新設計案は完璧だったのだ。

 ただ、世の中に完璧な人間などいないように、彼女は高い問題解決能力と引き換えに、共感性を致命的に欠いている。仕事を奪い面目を丸潰しにした人間に頭を下げられることが、どれほど相手の心を傷つけ激怒させるか理解すらしていない。


「……気にしてません」

「そこでお願いしたいのですが、黒須琴音のIDの修正作業、手伝ってくださいませんか。仮の管理者権限を発行しますので」


 言って、早苗は対策本部の面々から頼まれた、IDの拒否リストと小袋のキットカットを差し出してくる。詫びの後で気さくにお菓子を差し出せば和解できるとでも思っているのだろうか。不信感と苛立ちばかりが募る。


「…………」

「貴女の情報処理能力を貸していただきたいのです。この通り」


 一度はオトナの対応を試みるも、香織は返事を保留した。途端、早苗は会議場で土下座する。なんの抵抗も迷いもない、鮮やかな所作。配慮や遠慮はおろか、プライドも足りないのかと疑う。

 香織にとって都合が悪いのが、あの柳瀬早苗に頭を下げさせたという事実だ。皆の信頼を勝ち得た者が下げる頭には、強制力が生じる。

 衆人環視の中、申し出を断る度胸は香織にはなかった。仕方なく拒否リストをつまみ上げる。


「……やります。頭を上げてください」

「ありがとうございます。分担はどうしましょうか」

「では私はふたつ目のIDを」


 ここまでの一連のやりとりがすべて罠だと気づいたのは、直後。

 喉元を凍りつかせるほどに冷たい言葉が投げられたからだった。


「なぜ、IDがふたつあるとご存知なのですか?」


 気づき、思わず声をあげかけて飲み込む。

 それが却って悪手だと気づいたときには、早苗に睨みつけられていた。


「私は、俳優の黒須琴音が社内を見学しているとしか言っていません。ゲストだろうとIDカードはひとりにひとつが原則です」

「そ、れは……」

「管理者権限を持っていて、アクセスログを見られるから。ですよね」


 香織と早苗のスマホが同時に震えた。セキュアのポップアップ通知だ。未登録のIDがふたつ、社員食堂のキッチンにタッチをしたと表示されている。

 もう言い逃れはできない。言い逃れようと並べ立てたところで、目の前の猟犬は食らいついた獲物を絶対に逃しはしない。


「顔色が悪いですね、楠本さん。こんなご時世です、休んだ方がよいでしょう。野村さん」

「休暇申請ヨシ! ご安全にー」

「わ、私は……!」


 早苗は手際良く荷物をまとめて、会議室を出て行った。追いすがり、早苗の肩に手をかけた瞬間、香織の体は壁に叩きつけられる。

 獲物を捉えた猟犬の鋭い眼光に貫かれた。


「敗れて悔しいのなら、他人の足など引っ張らず実績で私を上回りなさい。愚か者」

「う、あ、あ……ああ……」


 完膚なきまでに負けた。

 香織は別室に連行され、野村の取調を待つことになった。


 *


「こちらが日比谷商事社員食堂名物、日比谷カリーです! 見てくださいこの色! 濃いっ!」


 社員食堂のど真ん中に陣取って、琴音は女優モードのまま昼食兼食レポを始めていた。周囲は、出社している社員がソーシャルディスタンスを守りつつ人垣を作っている。

 一方の凛子は、完全にへばっていた。凛子を同じフレームに納めようとする琴音と、絶対一緒に映りたくない凛子の戦いは地下2階から続き、最終的に凛子の方が体力負けする形で終わったのである。

 女優の体力を甘く見てはいけない。ただ綺麗な訳ではないのだ。


「じゃあ、まずは凛子隊員、食レポをどうぞ!」

「はあ……!?」

「はい、あーん?」


 隣に座した琴音が、きらきらした笑顔でスプーンを運んできた。

 推しに「あーん」してもらう。大多数の琴音オタクから羨望と嫉妬を向けられる、マネージャーの特権だ。必死に接触・認知拒否を拗らせようとしたが、もうそんな防御は使えない。

 眼前の女は、最愛の推しだ。

 琴音の芝居はぐんぐん磨きがかかっていて、ひとたび女優の皮をかぶると、小学生みたいな本性はすっかりなりを潜めてしまう。

 彼女は、凛子が愛してやまない方の黒須琴音。そんな人間がこちらを見ていて、「あーん」していると思うと。


「む、無理……」

「どうして?」

「か、顔が良すぎるーっ……!」


 マネージャー、白井凛子が本気で悶える様子はその後インターネット上でちょっとだけ話題になり、それが原因で琴音に笑い者にされるのだが、それはまた別の話。


 *


「やっと……たどり着いた……」


 企画部内、本部長室のドアをミシェルのIDで開けて、美琴はようやく張り詰めていた糸を緩めることができた。早苗から指示があった通り、企画部長デスクの隣には、段ボール3箱分の企画書や、そのサンプル品が収められている。


「ありがとね、ミシェルさん」

「う、ん……えへへ……」


 ミシェルの肩をひとつ、ポンと叩いた。すると、ミシェルはその手を掴んで自身の頭に持っていく。ゆるやかなパーマがかかった髪の毛はクッションのように手触りがよくて、温かい。


「撫でられるほうが、好きだから」

「かわ……!」


 かわいい。まるで小動物のようなかわいらしさに飲み込まれそうになる。というよりもう、美琴は完全に飲み込まれていた。子どもの頃から背の低い順で並ぶと一番後ろ、顔つきも大人びていた美琴は、小さくて可愛いものに弱いのだ。無いものねだりだから仕方がない。

 しばらくミシェルの頭をわさわさ撫でてから、美琴は忘れかけていた仕事に取り掛かった。

 美琴がコンペに参加した、という既成事実を作るため、段ボール箱の中に、自身の企画を紛れ込ませる。ひとつは例のポプリ、残りふたつは明治文具時代の同僚、青海椎菜と共同で作り上げたコロナ禍でのオンラインイベント案である。

 箸にも棒にも掛からないかもしれないが、弾は撃たねば当たらない。企画は質より量だ。


「終わった!」

「お疲れさまだよ、美琴さん。よっ……ほっ……!」


 今度はミシェルが美琴の頭を撫で——ようとして、背丈が足らずにうんうん背伸びしていた。仕草がいちいち愛らしい。11人の恋人たちの気持ちが痛いほどわかるというものだ。

 膝を折って撫でられてあげると、ミシェルの顔が正面に見えた。ほんのり赤く色づいた顔。その翡翠色の双眸と視線を合わせた途端、小さく微笑んで瞼が閉じられる。

 キスを待っている。どう見てもそんな顔だ。


「……目、つむって?」

「えっと……?」

「いいから」


 油断して背伸びを忘れてしまった。が、彼女は気づくはずもなく、ささやくように笑っている。今は一応、デート中どころか浮気の真っ最中だ。美琴のキスでスイッチが入ってしまったのか、ミシェルはやや積極的に向かってくる。

 美琴はとりあえず、言われるがままに目を閉じた。暗闇の中、ミシェルの声だけが聞こえてくる。


「美琴さん……やっぱり背が高いね……。ちょっと座ってほしいな?」

「こう?」


 言われるがまま、本部長の机に腰掛ける。耳元で「そうそう」と囁く声。その後両手が小さなミシェルの手で持ち上げられ、体の後ろで、まるで逮捕されて連行でもされるような位置で組まされる。

 ガチャリ、と音がした。


「……え?」


 両手を動かすと、金属のジャラジャラした音と手首の痛みに変わる。体の前に持ってくることはおろか、元の位置に戻すこともできない。


「まだ開けちゃだめだけど……もう、いいかな……」


 ミシェルはなおも恥じらって微笑んでいる。が、目を開けた美琴が見たものは、自身の足首と手首に光る銀色の枷だった。

 またしても、やられてしまった。


「な、何してるのミシェルさん……?」

「だって、こうでもしないと……わたしの話、聞いてくれないよね……?」


 彼女は曲がりなりにも秘書課だ。

 かわいくあざとい天然だと侮ったのが間違いだった。


「私を騙したの、ミシェル……!?」


 白く透き通った肌が、悲しみで曇っていた。


 *


「……さて。悪く思わないでね、楠本さん。僕も仕事なんだ。できれば穏便に済ませたい」


 対策本部のある会議室の隣、小さな個室で楠本香織の取調べが行われていた。座って俯いたまま顔を上げない香織を、野村とともに見下ろして早苗は息を殺している。

 彼女、楠本香織は同期だ。

 2年前、セキュアの設計を早苗が引き受けたのは、香織の設計に重大な不具合があったため。それをいっさいの配慮なく指摘したことが原因で、彼女は部内での居場所がなくなってしまった。早苗を恨む理由としては充分だ。


「君はセキュアの管理者権限を持っている。相違ないね?」


 香織は黙秘を貫いていた。早苗は野村と目を合わせ、代わるよう目で合図を送る。何を言ってもパワハラだのセクハラだの言われる昨今では、男性かつ三十歳は歳の離れた野村だと発言しにくいことも多い。

 早苗はこれ見よがしに香織のスマホを机に置く。例の探検隊が、3階フロアの端末をタッチしたというアクセス通知が踊っていた。


「管理者権限を持っていることは明らかですので、話を続けます」

「……お前には、話したくない……」


 香織の返答は無視することにした。

 その程度で折れるなら、猟犬なんて呼ばれていない。


「野村さん、退出いただけますか。女子会をします」

「なるほどね」


 渋々と言った様子で、野村は退出した。入ってこれないよう鍵をかけて香織の向かいに座る。

 顔を上げない。そればかりか、ダダをこねる子どものように机に突っ伏した彼女を見て嫌気が刺した。

 早苗は北風だ。冷たい言葉の暴風を浴びせて、旅人の外套を剥ぎ取って正体を明らかにする。太陽のように温かな言葉で騙くらかすバーテンダーのような真似は早苗にはできない。


「貴女に恨まれていることは百も承知です。こちらも貴女に好かれる気はありませんので存分に嫌ってください」

「…………」

「私が知りたいことはただひとつです。貴女と広尾ミシェルの関係について」

「……!」


 突っ伏した体が強ばる。かすかな動揺。

 早苗は尋問ではなく、推論を確認させる方法を選んだ。

 正しいか、正しくないか。はいかいいえの2択で答えられる形を選んだのはせめてもの優しさのつもりである。


「まず、ここは当て推量ですが。広尾ミシェルのIDに細工をしたのは貴女ですね」


 証拠は、セキュア設計時の出来事だ。早苗が挙げた楠本香織案の重大な不具合の正体について。


「貴女の設計にはバグがあった。確率はかなり低いですが、いっさいの入室記録を残さないIDを自動生成してしまうというもの。条件さえ判っていれば、悪意ある者が故意に作成することもできる」


 香織は黙って聞いている。聞いていなかったとしても、どうでもよかった。どうせ薄い扉一枚隔てた廊下で、野村がすべてを盗み聞きしている。


「例えば地下室、男子仮眠室、社長室。このIDを持つ者は、どこへ忍び込んでも記録が残らない。幽霊のようですから、このIDを便宜上ゴーストプロトコルとでも呼びましょう」


 香織の設計は、このゴーストプロトコルが混入していた。それにいち早く気づいた早苗が不具合を修正、現状のセキュアには含まれていないはずだった。


「潰したものだと思っていましたが、不具合、ゴーストプロトコルは仕様として今も動いています。貴女を褒めるところがあるとすれば、誰にもバレず、巧妙に実装してのけたことでしょうね」


 早苗は董子から送られてきた動画の結末だけを再生した。美琴とミシェルがあれこれやっている場面を見せなかったのは、早苗なりの配慮である。


「広尾ミシェル。彼女は秘書課であるため、企画部への入室許可は本来与えられません、が」


 早苗は企画部の入室記録画面を見せる。

 調べた通り、ミシェルのIDはどこにもない。


「彼女は容易く企画部内へ侵入し、さらには記録すら残さなかった。ゴーストプロトコルの上にマスターキーまで持っている。社長すら持たない強力な権限を与えたのは貴女ですね?」

「…………」

「はいかいいえでお願いします。貴女を責めるのは、私の仕事ではありません」


 ロジックは破綻している。楠本香織と広尾ミシェルを繋ぎ合わせるだけの証拠を見つけることができなかったためだ。だから外堀を埋めて、当て推量の形で真実に迫る。

 黙りこくっていた香織は、弱々しい声を上げた。


「ミシェルだけが、優しくしてくれたの……」

「続きを聞かせてください」


 先のセキュアの一件で、香織は部内に居場所がなくなった。上司も同僚も欠陥設計者の香織から距離を置き、心ない陰口を耳にしたことも二度三度ではなかった。

 そんな折、広尾ミシェルに出会ったのだという。


「ミシェルは……私の話をずっと聞いてくれた。愚痴を聞いて、慰めてくれた……。ミシェルも同じように、居場所がないって言ってたから……作ってあげた……」

「ゴーストプロトコルをですか?」


 香織は頷き、続ける。


「IDに細工して、どこにでも行けるし、バレないようにしてあげた。そして、一般社員には許可が下りない、地下2階の倉庫をミシェルの居場所にしてあげた」

「それが接点ですか」

「そう頼まれたのよ。だけど、ミシェルは……」


 香織は泣いていた。


「……いろんな人に、地下2階倉庫の権限を与えるよう頼んできた……。営業部の田沢とか、経理部の小池とか……秘書課の赤澤も」


 どういう理屈で香織が泣いているのか理解できなかった。

 ただ広尾ミシェルにいいように振り回され、利用されただけ。そう結論づけた後で、ようやく楠本香織が抱える機敏が見えてくる。


「ミシェルは、私なんか居なくてもよかったんだ……」

「そうですか」


 早苗は退席した。野村に後始末を任せ、屋上のベンチに寝転ぶ。薄目を空けて青空に情報を貼り付けながら、事態を整理する。


 美琴のIDが書き換えられた件。すなわち早苗の計画を潰したのは楠本香織だ。彼女は秘書課の広尾ミシェルに一方的に好意を寄せていて、彼女のために強力なID、ゴーストプロトコルを設定した。

 楠本香織がミシェルを通じて秘書課と繋がっているとすれば、これで事件は解決のはずだ。


「いや、何かがおかしい……」


 広尾ミシェルの行動には違和感しかなかった。

 秘書課としては美琴のコンペへの参加を是が非でも拒絶しなければならないのに、ミシェルは心を許してしまった。その上、繋がりがあるはずの楠本香織すらも裏切っている。明らかに秘書課への叛逆行為だ。

 それに、広尾ミシェルは秘書課で居場所がない。人事考課資料に仕事のできないグズだと言葉が並んでいる通り、秘書課長持田ラティーファは彼女を見限っている。そんな人物を、ラティーファが対策に起用するだろうか。


「……ミシェルと秘書課は、連携していない?」


 誤って繋いでしまっていた点と点を再び繋ぎ直した。

 楠本香織の妨害工作と、ミシェルの行動には関係がなかったとしたら。犯人が一枚岩でなかったとしたら。ひとつに思えた事件が、実は同時に起こった別々の事件なのだとしたら。


「そうか、単独犯! マズい!」


 早苗は自らの誤ちに気づいた。

 自身が戦っていたのは、ラティーファ率いる秘書課でも楠本香織でもない。

 広尾ミシェルだ。


「美琴さん、すみません。切り札を使わせてもらいます!」


 早苗は《美琴さん浮気現場ディレクターズカット版》を、迷うことなく送信した。相手は彼女。経堂で惰眠を貪っているであろうバーテンダーで、美琴の保護者。


「……あとで謗りは受けます、シャルロット」

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