#72 : Mint Julep / ep.3
「いい加減諦めたらどうですかっ!」
「そっちが諦めたら!?」
脂肪燃焼
にっくきバーテンダー・シャンディと死闘を繰り広げている凛子の足取りはさすがに重かった。運動習慣があったとて、五キロの行程を走るのは容易くはない。おまけにこれはレースで、優勝者には賞品が待っている。となればペースも狂ってしまう。最初の軽いジョギングペースはどこへやら。もはや体育の授業でやったっきりの中距離走へとその様相を変えている。
それは食らいつき、食らいつかれる宿命のライバルたるシャンディも同じこと。
「あたしそろそろ、限界かもしれません……」
「それウソ。油断させるつもりだよね」
「本当ですよ? あたし、身体はか弱い乙女なんですから」
「心は悪女でしょ」
「ええ。凛子さんは悪女のあたしが好きみたいですから」
「ふざけないで。貴女という存在が嫌い」
「ふふ。そういうこと言われると好きになっちゃいますねー」
口数はまるで減っていない。疲れ知らずなのかとちらりと横目に伺ってみるも、凛子の意に反してシャンディは苦しそうに顔を歪めていた。あのシャンディを追い詰めることができたらしい。胸がすくような思いだ、せいせいする。
だが、相手はウソが得意な元女優、シャルロット・ガブリエルだ。発言が真実である保証はどこにもない。
「いいかげん諦めたら? 疲れたんでしょ? 私はこのまま走るから」
「ぶー。凛子さん薄情者です。美琴に嫌われますよ」
「もうじゅうぶん距離置かれてるからいいの」
「それが分かってて美琴を抱こうだなんて。可愛い顔して肉食獣ですね」
「美琴さんをモノにできるなんて思ってない。貴女に抱かせたくないだけ」
「走る理由は同じですね」
嫌いなヤツに好きな人を抱かせたくない。
それこそが二人して息を荒げている最大の理由だが、凛子にはもうひとつ、それに勝るとも劣らない訳がある。
「……いや、私の場合はそれだけじゃなくて」
「あら、他にも理由があると?」
凛子は昨晩、琴音に持ちかけられた遊戯を思い出していた。
*
昨夜。みなとみらいのタワマン中層階、琴音の自宅。
この日、仕事らしい仕事のなかった琴音は、日がな一日見ていなかった海外ドラマをイッキ見して過ごしていた。
女優たる琴音にとっては、ドラマ鑑賞もまた仕事のうち。そして雇い主が「一緒に見ようぜー」と誘ってきたら、付き合わない訳にはいかないのがマネージャー凛子の悲しい運命である。
ただそれも、九時五時の勤務時間だけ。事前通知のない残業はしないと強硬姿勢を貫けるのは、雇い主が凛子には甘いからだ。
「ねー、凛子ちゃん晩メシ何にするー?」
「はい午後五時になりました凛子マネージャー営業終了ですお疲れさまでした!」
夕食の誘いを定時で切り上げて、凛子は逃げるようにリビングから自室へ駆け込んだ。見ていた海外ドラマの続きが若干気になるが、ドラマの結末より推しの元へ居たくない感情のほうが遙かに勝っていたのである。
凛子に割り当てられたのは、3LDKの一室。ベランダのある一番大きな客室だ。
以前住んでいた北千住のワンルームよりも広いその部屋は、凛子の籠城戦の舞台。鍵の代わりに百均で買ってきた突っ張り棒をドアノブに引っかけて、敵の侵入を防いでいる。
「別にいいじゃん晩飯くらいさー? シェアハウスしようよー」
「無理! 絶対シェアしない!」
ただ、凛子の引きこもりを許さないのが雇い主たる琴音である。
ドア越しに琴音の気配を感じて、凛子は必死で部屋のドアを押さえた。一歩たりとも侵入は許さない。戦国時代の武将にでもなったような心持ちだ。武将の名前なんて織田豊臣徳川の三名くらいしか知らなかったが。
ドア越しのねだるような甘えるような声色に、凛子は心のシャッターを下ろした。本日の営業はお終いだ。
「や、トイレと玄関はシェアしてんじゃん?」
「部屋に近いほうのトイレは私の! 貴女はメインの大きいほう使って!」
「急にうんこしたくなったらどうすんの?」
「琴音はうんこなんてしない!」
「んなワケねーでしょ!? 人間だぞ!?」
「なら人間やめて! いっそ女神にでもなって、私が触れられないくらい遠くへ行って!」
「女神は凛子ちゃんのほうじゃん?
「なにそれ分かんない! 頭良さそうなこと言う人嫌い! でも踊るなら言って! 隙間から見るから!」
こうしてドア越しに吠え合うのが、シェアしないシェアハウス暮らしのふたりの日常だった。
凛子の部屋には、ギリギリ暮らしていけるくらいの家電が――キッチンとは別に揃っている。小型の冷蔵庫、電子レンジとケトルがあるのでシリアルやカップ麺、レンチン食材は調理可能。トイレは部屋を出てすぐのサブ化粧室を使い、風呂場と洗濯は徒歩数分の温泉旅館のお世話になっている。入浴料金だけでも毎日二千円近くするが、特に風呂場はシェアしたくないので致し方ない。
「つかさあ、キッチンも風呂も洗濯機も好きに使えばいいっしょ? わざわざ高いカネ払って温泉旅館で入浴だけするとかバカじゃねーの?」
「無理なの!」
「なんなんそれ……」
「貴女が推しだから! 推しの人生に影響与えたくないの!」
「あはは。一つ屋根の下に暮らしてる人間の言いぐさとは思えないんだけど」
誰のせいだ、と凛子は外開きの扉が開かないようドアノブを抑えながら思う。
年収は明治文具時代の倍になる上、凛子の希望はほぼすべて通った。理想の働き方だ。働き方改革バンザイと内心ほくそ笑んだ凛子はまだ知らなかったのだ。
――琴音がここまでしつこくアプローチを繰り返してくるなんて。
似たようなことはアロマティック在籍時代にもよくあった。一夜の夢だけでは飽き足らず、店の外で付き合いたがるルール無視の迷惑客だ。
多くのキャストに漏れず、凛子はそうした迷惑客がすこぶる嫌いだった。だからつれない態度を取って距離を置こうとするも、そんなことをすれば迷惑客が余計に入れあげるのは必定である。財布の限界まで注ぎ込んでも、凛子の心が動く訳もないというのに。
その結果が、端から見れば客から搾り取るだけ搾り取ってポイ捨てしたように見える、ナンバーワンキャスト・りんだった。おかげでキャスト仲間からの評判は最悪である。
「とにかくイヤ絶対イヤ! 九時五時過ぎたら私に関わらないで!」
「えーやだ関わりたい」
「言ったでしょ!? 私は貴女の見せる夢が好きで、それ以外の姿は見たくない。純粋な黒須琴音であってほしいの! 私の汚れが混じって、貴女が変わっちゃうのがイヤなの!」
途端、ドアが力強く叩かれた。
物音に凛子はびくつくが、この程度で怯えている訳にはいかない。
「ドア越しにすごんだって効かないから! 美琴さんも芸能関係の人たちも貴女には甘かっただろうけど、私は違う! 甘えないで! 意識しないで! どっか行って!」
「……じゃあさ、遊戯」
「するわけないでしょ!?」
「凛子ちゃんが勝ったら、諦める。意識しない。ただのジャーマネとしてビジネスライクな付き合いにするし、ずっと凛子ちゃんが喜ぶわたしのままで居る。これならどうよ」
凛子は生唾を呑み込んだ。
遊戯に勝てれば、琴音は女優・黒須琴音の姿を維持したままで居てくれる。凛子の夢を壊さず理想の姿のままだ。少なくとも、軽いノリでセックスを要求してきたり、部屋の扉を乱暴に叩いたりはしてこなくなる。
「……遊戯の内容聞かせて」
問いかけに答える琴音の声は弱々しいものだった。
「凛子ちゃんが三日以内に姉ちゃんを抱けるかどうか」
「そんなの……!」
無理、と言いかけて凛子の口は止まった。
ちょうど明日は、明治文具最後の出社日。美琴と会うチャンスがある。会えさえすればドサクサに紛れてベッドに持ち込めるかもしれない。
「ま、凛子ちゃんにできればの話だけどねー」
付け入る隙は把握済みだ。美琴は酒と甘い言葉に弱い。特に酒は、缶ビール二杯程度でできあがるほどだ。いっぽうの凛子はそこそこ強いので、就活のツラさか琴音の愚痴にかこつけて持っていく方法がない訳ではない。
どう持っていけばゴールできるか。考えを巡らせていたところで、凛子の脳裏にはたと疑念が浮かんだ。
「ていうかなんで美琴さん巻き込むの。大好きなお姉ちゃんが傷つくトコ見たいの?」
「んー……」
照れ臭そうにはにかんだ声が、ドア越しに聞こえた。声が小さい。聞き漏らしてなるものかと凛子はドアに耳を押し当てる。
「姉ちゃんのモノ、盗る趣味はないからさ。もし姉ちゃんが凛子ちゃんに身体許したら、私も諦められる」
「なんなのそれ……姉想いの妹アピール……?」
「自慢の姉ちゃんっつったでしょ。あと単純に、姉ちゃんと比べられんのイヤなんだよね」
「姉へのコンプレックスってこと……?」
「比較対象が大人気若手女優サマなんて、比べられる姉ちゃんが可哀想じゃん? 姉ちゃんクソザコだし」
本当に仲がいいのかと疑問に思わなくもないが、長年付き添っているがゆえの姉妹愛なのだろう。凛子とて兄ではなく姉がいたら、同じような気持ちになっていたのかもしれないと自身をとりあえず納得させた。
となると気になるのは遊戯で、負けた場合だ。
「……私が負けたらどうするの?」
「一個だけお願い聞いて」
「どうせ性欲処理でしょ。無理」
「や、凝ってるから普通にマッサージしてほしいんだって。スキャンダル起こしちゃいけないし、ご時世的に呼べないんだよ」
五つの約束で誓った内容は、とにかくスキャンダルを起こすなの一点だ。デリバリーのエステなど八割がた怪しいのでバッサリ禁止した凛子だったが、失念していた。世の中には極めて健全な出張エステティシャンもいる。
「ホントに普通のマッサージでいいの?」
「ん、先っちょだけでいいから!」
「それ、誘うほうの台詞だけど……」
普通のマッサージとは言え、推しには触れたくない。だが、遊戯に勝てば認知されずに済む。両者を天秤にかけた凛子は、勝負を選んだのだった。
「……分かったよ。その遊戯、受ける。美琴さんを私のモノにして、諦めてもらう」
「頑張ってねー」
ケタケタ笑う琴音にムカついて、今度は凛子の側からドアを力強く叩いてやった。
自身の琴音像を壊さないためにも、負けられない勝負の始まりだ。
*
「――美琴さんを一度でも抱けば、琴音は私を諦めるの!」
代々木公園へ向けて走る凛子は、自身に言い聞かせるように昨晩の遊戯の内容を告げた。横目に見たシャンディは、五キロのランはそこそこキツいのだろう。肩で息をしながら苦悶の表情で凛子に食らいついている。
「だからこの勝負は私に譲って! 私は美琴さんを奪うつもりなんてないの!」
「だったらなおのこと、負けられませんね……!」
ほぼ体力も残っていないだろうに、シャンディは琥珀色の瞳を輝かせてみせた。せっかく下手に出たというのに、余計に闘志を燃やさせてしまったらしい。
「どうしてよ!?」
「愛のない行為を、美琴に教えたくありませんので……!」
「別にいいじゃない!? ていうか貴女、支配欲強すぎ!」
「美琴を育てて導きたいと思うことの、何がいけないのかしら……!」
「どこへ導くつもりなの!?」
「代々木公園です!」
「真面目に答え――速っ!?」
シャンディは一気呵成に飛び出した。やはりへばったフリは芝居だ、油断も隙もない。凛子も一段階ギアを上げる。交通標識には代々木公園の文字が躍っていた。そろそろゴールが近い。
「見えたっ……!」
凛子とシャンディ、ふたりともが声を上げた。ゴールが見えたのではない。優勝賞品たる美琴の背中をようやくにして捉えたのだ。
ゴールたる代々木公園へ続く幹線道路の歩道、遙かに伸びた一本道の遠くに、脇腹を抱えながら走る美琴の姿がある。
おそらく、シャンディとの禅問答のときに脇道に入って抜いていったのだ。あのくだらない時間がなければ、今頃勝利をモノにできていただろうに。
「恨みっこなしだから!」
「いーえ恨んで末代まで祟ります。まあ、凛子さんが末代でしょうけど」
「女同士で子ども作れるようになれば末代じゃないから!」
「琴音さんとの間に生まれたお子さん、きっと可愛らしいでしょうね」
「だから琴音は無理って言ってるでしょ!?」
「イヤよイヤよも好きのうちですよ。ツンデレ屋さん」
「違うって言ってんでしょ!」
「でもあたし、負けませんよ?」
シャンディがまた一段階、速度を増した。細い身体のどこにそれだけの体力が眠っているのかと凛子は目を疑う。それでも負けられない。自身の中の琴音像をこれ以上壊したくない。
肺が痛い。足も悲鳴をあげ始めている。オマケに借り物のランニングシューズ――最悪なことにシャンディと足のサイズが同じだった――が絶妙にくるぶしあたりを擦って痛めつけてくる。靴まで凛子の敵だ。シャンディ憎けりゃ靴まで憎くなる。
「少しくらい私に譲ってくれたっていいじゃない!?」
「ふふ。あたし、貴女と琴音さんを応援してますもの。考えてみてくださいな。お二人が上手くいけば、なんとあたしと凛子さんは義理の姉妹になるんです。シャルロットお義姉ちゃんですよー? リピートアフターミー」
「絶対に言うかあッ!」
凛子はラストスパートを掛けた。
ゴールである公園前交番までおよそ五百メートル。
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