#71 : Mint Julep / ep.2
ダイエット改め脂肪燃焼
経堂から一駅、豪徳寺付近。
「冗談でしょ……!?」
二人に対してというより、自身の衰弱っぷりに息を荒げながらひとりつぶやく。数十メートル小走りで走っては脇腹を押さえて小休止するなんて無様な走りを繰り返せば
路肩の郵便ポストに手をやって呼吸をどうにか整える。さしもの連休中とあって周囲にひとけも多かった。突き刺さる人々の視線が痛い。
そんな時だった。背後に忍び寄るように、赤のSUVが静かに横付けする。
「へい姉ちゃん。乗ってくー?」
「乗っけて! バレない程度に!」
「ん?」
別に車に乗ってはいけないとは言われていない。美琴は迷うことなく、勝手知ったる妹の後部座席に乗り込んだ。助手席には何故か、董子が乗っていたためだ。
「なんで董子さんが……?」
「みんなでお茶しようと思って! 早苗も行ってきていいよって言ってくれたし」
「で、迎えに行ったら葵生から走ってるって聞いて探してたんさ。つか姉ちゃん、走んなくていいの?」
「これはただのダイエットじゃない、遊戯なんだよ……!」
「まーたシャン姉の思いつきか」
先行する二人を追い越してしまわないようにゆっくり走るSUVの車内で、美琴は遊戯について琴音と董子に説明した。話を聞くやいなや他人事のように爆笑されて、美琴は後部座席に顔を埋めたのだった。
「こっちは笑い事じゃないんだけど!?」
「いーじゃん別に。抱かれちまえば。どうせ毎晩ヒイヒイ言わされてんだし、相手がシャン姉だろうが凛子ちゃんだろうが変わんないって」
「ちが――」
「みーこーシャー!」
夜のことを暴露された。否定しようとした言を遮って、董子が声を大にする。どうやら例の解釈違いとやらが発生してしまったらしい。普段の朗らかな印象はどこへやら、董子は早口でまくし立てた。
「美琴さんが優勝、シャンディさんを最下位にする以外あり得ない! だって優勝した方が攻めなんでしょ!? 絶対優勝しなきゃダメだし、シャンディさん最下位にするしかない! シャンディさんを死なない程度に轢くか拉致ろう!」
「あんさ、私が芸能人って知ってる? とーこ姉」
「そうだった……! だったら美琴さん二人とも抜いて! 私の解釈のために!」
「無理だって!」
「あ、でもこれマジで遊戯だな……」
無茶苦茶な董子の発言に何か気づいたのか、琴音がSUVを路肩に停めて何やら思案し始めた。同じく董子も勘づいたようで、不意に謎のノート――《百合ノート》と書かれている――を持ち出し、何やらメモを取り始める。
「どこが遊戯よ……ただの体力勝負でしょ……」
「や、考えてみ?」
琴音はハンドルに顎を乗せた。そして考えをまとめながら話す時特有の、若干間延びした声で遊戯の論理を語り始める。
「今は姉ちゃんが最下位だから、あの二人が本気出してんじゃん? まあ多分二人とも、抱きたいんじゃなく、姉ちゃんを抱かせたくないから走ってんだろうけど」
「《りんみこ》は解釈違いだよね、わかる。私の中だと美琴さんは圧倒的に攻めだし!」
「でも姉ちゃんは賞品になんのも、賞品を抱くのもイヤなんでしょ? つーことは二位狙いしかないじゃん?」
「だよねだよね! となると《シャりん》か《りんシャ》。これすごく悩む……! どっちが上かな!?」
「身軽さで言えばシャン姉なんだろうけど、凛子ちゃん体力あんだよね。瞬発力もあるし。ていうかあの二人にとっちゃ、姉ちゃんが二位で終わるのが最悪のケースなんだよな」
「そう、嫌い合ってる者同士のカップリングも……素敵なの! そこから愛が芽生えちゃったりするかもしれなくて……!」
「つまり、姉ちゃんの二位は意地でも阻止してくるか……」
明らかに琴音と董子の会話は食い違っているが、二人ともまったく気にしていない様子だった。どちらも人の話を聞かない人間だからしょうがない。
問題は、二人とも遊戯のルールの枠に考えを当てはめていることだ。こんなふざけた遊戯は即刻中止しないといけない。
「いや考えるなら遊戯を中止する方法考えてよ! なんかあるでしょ!?」
「シャン姉の頑固さは姉ちゃんがよく知ってんじゃん。負けないくらい凛子ちゃんもめちゃクソ頑固だから、平和的解決なんて無理無理」
「あんた凛子さんがどうなってもいいの、好きなんでしょ!?」
「えっ《ことりん》だったの!?」
「んー。どっちでもいいな、私は」
董子の問いかけに答えたのかと思いきや、琴音は美琴に視線をやって口角を上げてみせた。
「そもそも凛子ちゃんキャストだから、私なんかより全然人数多いでしょ。姉ちゃんじゃあるまいし、今さら誰抱こうが誰に抱かれようが気にしないよ」
「深い愛!」
「私はイヤだから! シャンディさんは誰にも渡したくない……って何言わせんの!?」
「ソクバッキーもまた深い愛!」
「ケケケ、乙女だなー? 姉ちゃん、身体だけの
「お父さーんお母さーん! うちの次女はふしだらですーッ!」
「私も早苗の不倫は無理! でも他は大いにやればいいよ!」
「ダメです! ともかく私は走るから!」
恐ろしいお誘いを全力で断って、美琴はどうにか呼吸を整えた。
この遊戯を比較的平和裏に終える方法はどう考えたところで一つしかないのである。後部座席から再び大地に降りたって、屈伸とアキレス腱伸ばしの準備体操を行う。脇腹の痛みもようやく引いたところだ。
パワーウインドウ越しに、琴音と董子が笑っていた。
「やっと気づいたんね? この遊戯に勝つ唯一の方法」
「……董子さんが最初に言った通り、私が優勝してシャンディさんを最下位にする。それ以外にないんでしょ?」
「うん! 私的には《みこシャ》でよろしく!」
「その《みこシャ》だとか《シャりん》だとか、よく分からないけど!」
最下位で賞品になるのはイヤ。かといって二位になって想い人が凛子を抱く抱かれるの関係になるのもイヤ。となると方法は、美琴が優勝してシャンディを最下位に落とす以外にあり得ない。
凛子とシャンディの体力差がどう出るかは分からないが、シャンディは華奢だ。きっと体力が先に尽きるはず。
意気込む美琴の一方、董子が何かに気づいて口を挟んでくる。
「あ、でも仮に美琴さんが優勝しても――」
「んじゃ、救護車としてビリッケツ追っかけてあげる。頑張ってー」
董子が何を言いかけたのか分からないまま、赤のSUVはパワーウインドウを上げた。そしてのろのろと動いたり停まったりしながら美琴の背後に付けている。
美琴は久しぶりに――実に学生時代以来に闘志を燃やし、代々木公園へ向けて駆け出した。
*
一方、上位二名は熾烈なデッドヒートを繰り広げていた。
ちょうど遊戯の折り返し地点、小田原線が地下化している下北沢駅付近。
「……あんがい体力あるね?」
「そちらこそ、です」
「私ちょっとバテてきたから先行っていいよ?」
「バテた方を見捨てるようなマネしませんよ。あたしも少し疲れましたし」
「なら休んだら?」
「そちらこそ休んでは?」
シャンディと凛子、二人の熾烈なデッドヒートはほとんど歩くような速さで行われていた。
それもそのはず。経堂のイカサマ自販機の前でスタートダッシュを決めた二人だったが、勢いがよかったのは途中まで。シャンディも凛子もこの遊戯が持久戦であることに気づいたのだ。
だから歩くような速さで互いの力量を計り、体力を温存している。
実際二人ともさほど体力は残っておらず、かつラストスパートにはまだ早い距離だ。先にスパートを掛けた者が負けることは必定。シャンディは遊戯で鍛えた洞察から、凛子は元陸上部の経験から全く同じ結論に辿り着いていた。
「さすがに凛子さんもバカじゃありませんでしたね?」
「なら私に勝たせて」
「そんな屈辱を美琴に味わわせるとお思いで? このあたしが」
「これだけは言っておくけど、技術では私のほうが絶対上だから!」
「これだけは言っておいてあげますけれど、合意がないなら強姦も同じですから」
「美琴さんは遊戯に乗ったの! 勝ったら合意!」
「心の通ってない行為なんて虚しいだけではありません?」
「心なんて後からついてくるもの。元キャスト舐めないで」
「その手練手管で何人の女を泣かせてきたのかしら?」
「そっちだって似たようなものでしょ。言葉に毒込めて何人喰らった?」
「貴女は今まで食べたパンの枚数を覚えているのかしら?」
「朝食はグラノーラとスムージー、いま糖質抜いてるの! ていうかなんでパンの枚数聞くの関係ないよね!?」
「ふふ。凛子さんに足りないのは知性ですね? 今の、有名な
「バカにしないで!」
二人の歩調も議論も一歩も譲らない。平行線だ。小走りの小学生にすら抜かれるような走っているんだか歩いているんだか分からない速さで、互いを出し抜く遊戯が続いている。
そんな状況に嫌気が差したのか、それともいつものイタズラの虫が騒いだのか。はたまた凛子を動揺させて愉しむ魂胆なのか、シャンディは会話の切り口を変えた。
「琴音さんとはどうなんです? 普通の女優とマネージャーは一つ屋根の下で同棲したりしませんよ?」
「何もないし、同棲じゃないから。住み込みで働いてあげてるだけ。どうせ貴女も見たでしょ、五つの条件」
「ええ、五箇条の御誓文。あるいは竹取物語の五つの無理難題とでも言いましょうか」
「いちいち知性匂わせてくるのやめて! 学歴自慢嫌い!」
「あたし中卒ですよ?」
「どうせウソでしょ!?」
「逆算すれば分かることじゃないですか。凛子さんはあたしの年齢や芸歴知っているのですから」
凛子の脳内で苦手な計算が始まった。美琴は知らされていないが、シャンディは二十四歳。舞台を降りたのは四年前で、その時点で芸歴五年目。ホテル・マーベリックには演劇の専門学校があり、その学校の卒業生でなければ主役・準主役級の役は貰えない。琴音がマーベリックの舞台に立てたのは、端役も端役だったからだ。
そう考えるとたしかに事実めいて思えてくる。が、計算に集中しすぎて、凛子の足は止まってしまっていた。悠々とシャンディが先を進んでいる。
――ハメられた!
「考え込ませて足止めするとかズルい!」
「勝てばよかろうなのでーす」
「貴女、ミステリアスなキャラ作ってるんだよね! だったらもっとそれっぽく振る舞ったら!?」
「どうでもいい人にはどうでもいいでーす」
「ムカつく! 私だって嫌いなんだけど!」
「あたしはその一億倍嫌いでーす」
「私はその一兆倍!」
「やめませんか、こんな頭の悪いやりとり。品性疑われますよ?」
「誰のせいなの!?」
「知的レベルの低い人に合わせてしまったから貴女のせいですね?」
「この――」
くすくす嫌みったらしく笑うシャンディに、凛子は怒りが爆発しそうだった。
が、すぐに気づく。シャンディの目的は揺さぶりだ。凛子を怒らせて煽って、先にスパートを掛けさせようとしている。非常に狡猾。勝ちに貪欲な凛子の想いを逆手に取った舌先三寸だ。
「――その手には乗らないから。そんな簡単に煽れるほど私バカじゃない」
「ふふ、プラス1ポイント。やっぱり守るものができると違うのかしら?」
「今度は琴音を持ち出して揺さぶりかける気?」
「あら。あたしは何も、守るものが琴音さんだなんて言ってませんけれど?」
思わず凛子は言い淀んだ。押しては引く、引いては押してくるシャンディの言葉は油断も隙もない。こんなものを相手にしている美琴の気が知れなかった。
「以前、ぶつけ合ったことを覚えています? 育てるのがあたしの愛なら、守るのが貴女の愛。貴女にとって守るという行為は、特別な感情を伴うものでは?」
「琴音は無理!」
凛子はざっくり腹を割ることにした。腹を探られるから美琴のようになってしまうのだ。だったら最初から潔く腹をかっさばいてしまった方がいい。
「あらあら、秘めなくてもいいのかしら? 愛する琴音さんとのプライベートを」
「秘めたら特別な意味を持っちゃうの。だから全部言う、凛子マネージャーになんでも聞いて。貴女が相手だったら琴音も文句は言わないだろうし、言ったところで黙らせる」
「少なくとも力関係は見えましたね?」
「ふふ」と愉しげに笑うと、シャンディは凛子と並んで早歩きを始めた。行程は下北沢を過ぎて東北沢へ。地下に沈んでいた小田原線が再び地表に顔を覗かせている。線路脇のレースだ。
「じゃあ、イエスかノーで答えてくださいな。琴音さんのこと嫌いなんです?」
「イ! エ! ス! でも女優としてはノー!」
「複雑な感情ですねー。恋愛感情と推しの感情は違うということかしら?」
「イエス。聞くまでもないでしょ、あんな劇団にいたならなおさら」
「あたしは、ファンの皆さんが向けてくれる想いの内訳は考えないことにしていましたので」
接触・認知の一切を拒否する凛子とは真逆に、推しと友人やそれ以上の関係になりたい者もいる。アイドル界隈だとそちらがおそらく多数派だろう。
アイドルではなく女優である琴音のファン層については凛子にも分からないが、インスタやツイッターを更新するたびに山のようなリプが届く以上、オン・オフの差はあれど認知されてもいいと感じているファンは相当数いると思われる。
「……想いの内訳、ね。上手いこと言うじゃない」
シャンディが暗に言わんとしたのは、向けられた想いが憧憬なのか恋慕なのか、それ以外のあらゆる感情なのか分からないので、奥底は無視して表層的に返事をするということ。芸能人の大半が取る安全策だ。
それで凛子にもようやく納得がいった。
「だから貴女、他人の言葉とか気持ちを信じられないの?」
「今のはマイナス1ポイント。美琴はそんな配慮に欠けた発言しません」
「貴女に気に入られるつもりなんてないから」
彼女が女優を辞めた理由がおぼろげに理解はできた。ファンの感情は推しの背を押すこともあれば、時に枠にハメてしまうこともある。推しに対してこだわりが強く狭量になってしまうあまり、推しらしくないことをしたときに心が離れてしまう。
「なら、琴音さんに気に入られるおつもりは?」
「無理。認知拒否」
「もうバッチリ顔も名前も身体も覚えられているんじゃなくて?」
「だからそれが無理なの。私なんて目に留めない、気高く凜とした琴音らしい姿でいてくれればそれでいいの」
そう実感した途端、凛子の中にほのかな罪悪感が芽生えた。
その芽を必死で摘み取って自己を正当化する。
「凛子さん、ひとついいかしら?」
「何」
シャンディは足を止めた。凛子はこれ幸いと代々木公園までの距離をスマホで調べて、同じく足を止めた。まだラストスパートをかけるような距離じゃない。対戦相手が休憩するなら、こちらも温存した方がいい。
怪訝と不機嫌そのものの凛子の問いかけに、シャンディは珍しく真顔で答えた。
「琴音さんが可哀想ですよ」
突きつけられた言葉の刃は、凛子を確実に刺した。放心してしまった凛子に追い打ちをかけるかのごとく、シャンディは続ける。
「貴女は琴音さんの気持ちに気づいているんでしょう?」
「……知らないから」
「ヘタなウソをつかないでくださいな。恋愛音痴の美琴だって気づくくらい、琴音さんが貴女に向ける気持ちは分かりやすいんです。経験豊富なら手に取るように分かるでしょう?」
そんなことは分かっている。
分かっているからこそ、どれだけ悩んでもキリがないのに。
「私は、推しと恋愛はできないの」
「できないの内訳を聞かせてくださる?」
「言う必要ない」
「なんでも聞いてと仰ったのはどなたかしら?」
「私の問題だから関係ない!」
「貴女がたの問題だから琴音さんにも関係あります」
「違うったら違うの!」
「どれだけ意地っ張りなのよ。よくそれで経験豊富だなんて言えたわね」
「貴女に言われたく――って、とうとう本性を現したの!?」
シャンディの表情が一瞬曇った。が、すぐに「失礼」と取り繕って、再び鉄壁の敬語を纏う。
「琴音さんと恋愛できないじゃなくて、しちゃダメだと思い込んでるだけじゃありません?」
「当たり前だよ、琴音は神聖で不可侵なの! 私が触れちゃいけないし、私が影響を与えちゃいけない! ずっと今の黒須琴音のままでいて欲しいの!」
「それこそ無理ですよ。あたしたちは生きている。生きて時を刻んでいる。時の試練、寄る年波に棹を指せるモノなどこの世には存在しません」
「知性の匂わせ禁止! 何が言いたいのか分からない!」
「panta rhei」
「貴女いい加減に――!」
これも遊戯のための揺さぶりだ。シャンディの口車に乗ってはいけない。
ほとんど口車に乗りかけの危ないところで、凛子はどうにか冷静さを保つ。手のひらに心と書くのと同じ要領で、脳裏に心と書いて、大好きな《イランイラン》の香りを思い出そうとする。
シャンディは一切の笑みを浮かべることなく、生真面目に告げた。
「
最近、赤のSUVの中でそんな話をしたことを凛子は思いだしていた。
「……それが何?」
「貴女は、今はもう存在しない琴音さんの夢幻を愛してるんです」
「悪いの!? 琴音は私の夢なの、私は夢を見ていたいだけなの!」
「いっさい悪いことではありませんね、凛子さんにとっては。ですが――」
シャンディのまなじりが歪む。そしてハッキリとした軽蔑の意思をもって、細い下弦の三日月のような琥珀色の瞳が凛子を貫いた。
「――信用して心を開いてくれた琴音さんの想いを、貴女は踏みにじっています」
凛子はとうとう我慢ができなかった。
「貴女に何が分かるの!? 琴音を前にしたら消えてしまいたくなる私の気持ちなんて、貴女には一生掛かったって分かんないよ!」
「ええ、分かりませんね。あたしは凛子さんを理解する気がありませんので」
「踏み込んでおいて何なの、その言いぐさ!? 私は琴音と恋愛できないの! 私みたいな女と恋愛しちゃダメ――」
「はあ、やっと本音を引きずり出せましたよ……」
一瞬、シャンディが何を言っているのか凛子には分からなかった。その数秒後、割ってはいけなかった腹の内を晒してしまっていたことに気がつく。
シャンディはほとほと懲りたとばかりに付近にあったベンチに腰掛けた。その隣をとんとんと手のひらで叩いて、凛子を座るよう誘う。
「シャルロットお
「……ふざけないで。貴女の優しさとか哀れみとかそういうのいらない」
「なら、いつぞやの借りを返すだけ。貴女に助けてもらったぶん、お返しさせてくださいな」
柔らかく微笑むシャンディを前にすると、怒れる自分の方が間違っているような気になる。ひとたびシャンディが余裕を纏えば、自分はいつだって悪役にされてしまう。それがひどく嫌で、ずっと抵抗してきた。
優しさも余裕もすべてまやかし。夢を売る女優だった時の名残でしかない。
そう考えれば考えるほどに、彼女の見せてくる夢の完璧さと、その内側にひそむひび割れた心を意識せずにはいられない。
――シャン姉はもう戻ってこれない。
琴音が灯台の喩えを持ち出した時のことを思い出す。
推したる琴音が、シャンディのような優しくも憐れな女になってしまうのは、凛子にとっては当然嫌なことで。
「……恩返しなら受け取ってあげる」
「ふふ。ツンデレですね?」
「ね。凛子ちゃんツンデレ気味だよねー。堕とし甲斐あるー」
凛子は固まった。背後に、居ないはずの女――琴音の気配を感じ取ったからだ。
「……今の幻聴?」
恐る恐るつぶやくも、ベンチに座ったシャンディの表情を伺うだけで真実はすぐに分かった。慈母のような微笑みを見せていたと思った途端、心底愉しげに笑っている。
「シャンディさん凛子さん。急がなくていいの? 美琴さんもう行っちゃったよ?」
「えっ!?」
乗り付けた琴音の赤のSUVの助手席から、董子が朗らかに手を振っている。
そしてふたり分の声が同時に響いた。
「ま、今からスパートかければギリ間に合うんじゃ――」
琴音の発言も待たずして、シャンディと凛子はレースに戻った。一瞬見た二人の顔がどちらも鬼気迫っていて、琴音は背中を見送ってすぐ、二人の表情を真似てみた。
育てる愛と守る愛、ふたつの感情の発露はどちらも格別のもので。
「盗み甲斐もありそうなんだよなー」
鼻歌交じりにサイドブレーキを降ろして、赤の救護車は必死に走る二人の背を追いかけていった。
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