#73 : Mint Julep / ep.4

「お。姉ちゃんが一位か」

「美琴さん頑張って! 《みこシャ》のために!」


 脂肪燃焼遊戯、終盤戦。

 ゴール地点である代々木公園前交番近くに車を――タレントパワーを駆使して――停めて、琴音と董子はやってくる三名を待っていた。


 経堂から代々木公園と都市部を走るコース最大の難所は、なんと言っても信号待ちだ。

 特にゴール前、幅広の赤坂杉並線と渋谷のテレビ局方面へ抜ける井の頭通りの交番前交差点は、最後の最後で追いつかれる可能性を秘めた魔のストップエリア。ここを上手く使えるかどうかが肝になる。

 その魔物に一番に捉えられてしまったのは美琴だった。ちょうど信号が青の点滅から赤に変わった。幅広の道路かつ眼前には交番である。信号無視をしてしまうほどの勇気は美琴にはなかった。


「せっかく走ったのに追いつかれる……!」


 交差点の向こう、交番前では琴音と董子が手を振っている。逸る心をどうにか抑えよう、身体が冷えないようにしようと足踏みを繰り返しても、気になるのは背後のプレッシャーだ。

 振り向くと、迫る人影が二つ。結局数十秒もしないうちに美琴は後続に追いつかれる。

 シャンディは美琴に抱きついて止まった。じっとり汗ばんだ彼女の温かさと早すぎる鼓動を美琴は感じる。


「追いつきましたよ……美琴……」

「そんな必死に走らなくても……」

「こっちは必死だから!」


 シャンディの隣で、同じく全力疾走してきた凛子も膝を折ってうずくまっていた。額に前髪が張り付いていて、化粧も若干崩れている。必死の形相だ。


「いや、こんな遊戯やめよ!? 一位が三位抱くとか意味わかんないでしょ!?」

「優勝目指してた美琴に言われても説得力ありませんね」

「優勝しなきゃヒドい目に遭うから! ていうか私が二位だったらふたりはどうする気なの!?」


 シャンディは苦悶の表情を浮かべながらも、口角をイタズラに上げた。


「宣言通り抱きますよ? 普段突っかかってくるぶん全力で……枕とベッドに大雨を降らせてやろうかと……」

「こっちの台詞! 美琴さん大丈夫、私、身体だけの関係とか慣れてるし……!」

「こんなバカげたことで身体の関係持つのがイヤなんだってば!」


 シャンディの売り言葉に、凛子は当然ケンカを買って出る。美琴よりも抜群に経験値が高いふたりのどちらがのか、怖い物見たさで知りたい気持ちがない訳ではない。ただ、実際そうなると自身の心がどう動くかは美琴にも見当がつかなかった。

 なんせこの遊戯、誰が勝ったところで立派な浮気である。


「ていうかふたりとも狂ってるよ!?」

「狂おしいほど……愛しているんですよ……」

「私は、琴音との約束があるから……!」

「なんで琴音!?」

「……聞いてくれる?」


 凛子は何かを語りだそうとして、ちらりと真横に視線を送った。その先を不意に追った美琴は、向かいの歩行者用信号が赤に変わる寸前だと気づく。

 

「今、信号確認したでしょ! 説明してるフチして不意打ちしようとしたよね!?」

「し、してないよ? そんなシャルロットみたいなマネする訳ないって!」

「ふふ、似たもの同士ですものね。あたしたち」

「貴女と一緒にしないで!」


 凛子がシャンディに喰って掛かったところで、とうとう歩行者用の信号は赤に変わった。数秒の時間差を置いて、美琴たち三名を遮る自動車用信号が青から黄へ、そして赤と右折許可の矢印に変わる。

 歩行者用信号の待ち時間表示が消えていく。

 赤の逆三角形がひとつ、またひとつ。さながらモータースポーツのスタートシグナルだ。逆三角のカウントダウンが終わればコースオープン。五キロランの勝敗は、横断歩道を先に渡りきった者が勝ちである短距離に委ねられることとなる。

 ゴールでは、琴音と董子が手を繋いてゴールテープらしきものを作っていた。ふたりの間に割って入った者が遊戯の勝者ということだろう。

 シャンディを両脇から挟むように、美琴と凛子が再び位置につく。


「ねえ、美琴」

「こんな時に揺さぶり掛けてくる気?」

「だってお遊びですもの。揺さぶられるのがお好きでしょう?」

「こういう揺さぶりは嫌いだよ!?」

「ふふ、それでこそ。遊びの関係なら何股掛けてもいいですけれど、添い遂げるならマジメが好みですので」

「今さらそんなこと試さないでよ……!」


 美琴がどう頑張ってもシャンディ以外愛せないのはすでに分かりきったことのはずだ。それでもシャンディは信じようとせず、遊戯を仕掛けてくる。どこまでも人を信用しない彼女には美琴も呆れかえるが、そうそう疑り深く用心深い性格が変わるなら本人も苦労はしないだろう。

 息荒く微笑んで、シャンディは告げた。


「なら、最後に質問です。仮に貴女が優勝したら、誰を抱きたい?」

「だから勝つとか負けるとかじゃなくて! そういうことはそういう関係の人としたいの私は!」

「仮の話です。あたしか凛子さんなら?」

「言わせないでよ……」

「言ってくれなきゃ分かりませんから」


 これ以上、心拍数を早めるようなことをしないでほしい。

 美琴は汗ばんだ頭をくしゃくしゃにかきむしって叫んだ。


「あーはい、わかりました! 私が抱きたいのはシャンディさん! これで満足!?」

「ええ。とっても満足――」


 瞬間、信号が変わった。シグナルグリーン。横断OKを示す青信号が灯り、三名の身体が前のめりになる。

 勝負は一瞬、短距離勝負。

 だが、駆け出したのは美琴だけだった。横断歩道の中腹まで迫ったところで、ゴールテープを買って出た琴音の爆笑を耳にする。

 残るふたりに何かが起こったらしい。

 振り向くと――


「何やってんのふたりともーッ!?」


 ――ふたりは追ってきていなかった。

 それどころか逆に遠ざかっている。

 逆走だ。


「あーあ、凛子ちゃんも気づいちゃったかー。勝ち条件に」


 流れ上、とりあえずゴールテープを切った美琴に、遙か遠くへ消えていくふたつの陰を眺めながら琴音がつぶやいた。


「シャンディさんが逆走したら、凛子さんは優勝する訳にはいかないんでしょ……」

「そ。てゆーかこの遊戯、誰かひとりでも不真面目だと成立しないんよね」


 琴音は屈託ない笑みを浮かべ、自販機で買ってきたであろうスポーツドリンクを渡してきた。ほぼほぼ残っていない握力で栓を開けたところで、理系出身らしい論理を展開する。


「ぶっちゃけシャン姉は、姉ちゃんが優勝すれば走んなくても勝ちなんよね。しかもシャン姉がビリを選ぶと、凛子ちゃんは絶対優勝できないし」

「シャみこ以外認めたくないから美琴さんおめでとう!」


 合いの手を入れる董子は勝負の行方などどうでもいいのだろう、結果だけ受け取ってにこにこ微笑んでいた。毎日楽しそうでうらやましい。


「でもシャンディさん、本気で走ってたけど……?」

「そりゃ、姉ちゃんが思った以上に体力なかったからでしょ。つかどうなん、その腹? 女優の姉の自覚あんの?」

「言わないで……」

「そんなだから、シャン姉も本気で走るしかなかったんよね。凛子ちゃんに負けたくなかったからってのもあると思うけど」

「凛子さんもシャンディさんには負けたくなかったんだよ。愛のなせる技だね!」

「ま、凛子ちゃんの場合はもひとつオマケの理由があんだけどさ」

「何よそれ……」


 琴音はケタケタ笑うだけで答えなかったが、凛子が必死だったのは美琴も預かり知らぬ理由があるのだろう。


「ともかく一位が決まっちったから、こっからは壮絶な三位決定戦。逆走してるからゴールもへったくれもないんだけど」


 脂肪燃焼遊戯の勝者は美琴だ。ただ美琴が勝利を飾ったことで、今度は三位争奪戦が幕を開けた。

 ただ疲労困憊の美琴は、遊戯の行方を見守る体力も気力も残っていない。


「あのふたり、まだ走るの……?」

「スタート地点まで走って戻る気かもねー」


 逆走していたふたりは結局、コース上でへばっていたところを赤の救護車に回収されたのだった。遊戯はうやむやなまま終わり、美琴は流れゆく車窓を安堵して眺めていた。


 ――本日の恋愛遊戯、無効試合。


 *


「というワケで。カンパーイ!」


 無効試合と決まった途端、経堂に帰ったシャンディの行動は早かった。即座に風呂場に飛び込んでシャワーを浴びて、冷蔵庫で帰りを待っていた缶ビールを手に掛けた。まだ昼過ぎだ。

 美琴と凛子がシャワーを済ませた頃には、シャンディと董子はすでにできあがっていた。お茶会なんて生やさしいものではない。酒飲みが酒飲みの家に集まると、こうなるのである。


「運動したぶんのカロリー、すぐにリセットしちゃうの……?」

「運動した後だからビールが美味しいんですよ。ねえ、董子さん?」

「運動してなくてもお酒は美味しい! 凛子さんも飲も!」


 酒飲みのたまり場、テレビ前のローテーブルは一瞬で宴会場になっていた。そこから少し離れたソファで、ハンドルキーパーたる琴音がウーロン茶でちびちびやっている。


「姉ちゃんも飲めば?」

「ダイエット中だから」


 美琴は琴音の隣に座して、なぜかマッサージ談義に花を咲かせる酒飲みたちを他所に、背もたれに身を預けた。五キロランを終えた心地よい倦怠感と達成感に包まれる。


「これで一キロは減ったはず」

「そうそう減るかよ。体型維持ナメんなー」


 ようやく居場所を見つけたとばかりに駆け寄ってきたミモザにボディーブローめいた猫パンチをかまされ、美琴は現実に引き戻される。つく時は簡単にまとわりつくくせに、そうそう贅肉は落ちてくれないのである。

 口を開いたのは琴音だった。


「……あんさ、就活できそうなん?」

「葵生ちゃんの?」

「そっちは別の意味で心配だけど、姉ちゃんのほう」


 葵生はまだ惰眠を貪っているところだった。毎晩夜遅くまで起きて朝方に寝るというシャンディのような生活をしているのは、友人たちと遅くまで通話しているからだろう。

 美琴は先日の日比谷での顛末について琴音に説明した。コンペの〆切はちょうど一ヶ月後。それまでにコンペを通過できる優秀な企画を用意しなければならない。


「で、なんかアイディアはあるん?」

「なーんにも」


 美琴はミモザを持ち上げて、アイマスク代わりとばかりに顔面を覆った。ネコ様特有のおひさまの匂いが美琴の嗅覚を刺激する。通称、ネコ吸い。


「大丈夫なん、それ」

「元同僚からネタ帳は貰ったんだけどね。全然ピンとこなくて」


 明治文具・青海椎菜のネタ帳には軽く目を通したが、水平展開の難しい非常に細かい要望ばかりだった。日比谷で企画を通すには、もっと幅広い購買層を味方につけるようなものでなくてはならない。

 さらに、美琴を悩ませる理由はもうひとつある。


「今までは一応文具屋って縛りがあったんだけど、今回はそれがないから」

「自由研究で何やればいいか悩む、みたいな?」

「それ。早苗さんには『どんなものでもいい』って言われたけど、なんでもいいとなるとどこから手をつけたらいいのか分かんなくて」


 創造に必要なものは得てして、創造を縛る制約である。

 自由が利かないからこそ、できる範囲で創意工夫するのは人類の――とりわけ日本人の遺伝子に刻み込まれてきた伝統だろう。

 結果として「安い賃金で新商品を立ち上げろ」と無理難題を吹っかけられもしたが、美琴にとっては制約があった方が考えをまとめやすいのも事実というもので。


「……じゃあさ、私のために一本考えてくんない?」


 酒飲みたちに聞こえないよう耳打ちしてきた琴音の声はにやけていた。いつもの冗談半分と言ったところだろう。


「アンタだけ相手にしたって商売成り立たないでしょうが」

「ユーザのニーズに応える練習、みたいなモンだよ。よく言うじゃん、ひとりを満足させる仕事は、他の人たちにも届くって」

「早苗さんもそんなこと言ってたけどさ……」


 ビジネス書の受け売りだ、と早苗は言っていた通りだ。というよりも、琴音ほど視聴者のニーズに自分を折ってまで応え続けている存在もない。

 琴音は人間である前に、女優という商品だ。セルフプロデュースとセルフブランディングで売れ続けているという点では、企画屋より企画している。


「じゃあ聞くけど、アンタのニーズって何よ?」


 琴音の吐息が耳に当たった。

 よほど酒飲みたちに聞かれたくない内緒話なのだろう。美琴の想像は当たっていた。


「……凛子ちゃん欲しい」


 それがいつもの冗談半分でないことは美琴にもすぐ分かった。


「もうそばにいるでしょ……」

「分かってんでしょ。どういう意味か」


 琴音は本気だ。本気で凛子をどうにかしたいと思っている。

 ふたりの性格と会話の端々から、どちらも一筋縄でいかないのは想像の範疇だった。

 マネージャーを引き受けたと知った時は凛子もとうとう折れたのかと思ったが、実際は折れるどころかより強固になっただけらしい。濁流のような琴音のアプローチに、凛子は流れに棹さすどころかダムを造って耐えているという。


「……諦めたら?」

「やだ。姉ちゃんのお下がり欲しい」

「お下がりじゃないし、モノ扱いしない」

「だったら考えてよ、人が人を好きになる方法。邪魔な推し感情ブッ壊して、人間として見てもらう方法」

「そういうのはアンタのほうが得意でしょ」

「私じゃダメなんだって」

「それは――」


 脈がないから、と言いかけて、さしもの琴音相手と言えど美琴も口を噤んだ。

 そもそも脈が本当にないのか美琴には分からない。凛子が琴音に寄せる推しの感情の正体はおそらく、一種の憧れだ。美琴がいくつもの顔を使い分けるオトナびたオトナたるシャンディに惹かれていったのに似ているのかもしれない。


「――琴音みたいになりたいのかな?」

「ないものねだりってヤツ?」


 凛子は初心に見えるタイプの、可愛げあふれる女性である。その一方で琴音は可愛いよりは綺麗が似合うクールビューティーだ。私服やメイクの傾向からも、ふたりの系統はバッチリ分かたれている。

 それよりも、と美琴はミモザの腹で声を小さくして尋ねた。


「アンタなんで好きなの?」

「面白いから」

「あのさあ……」


 結局のところ、琴音がこの調子では凛子も頷きはしないだろう。

 ダンスパーティーの時に冗談めかしはしたものの、琴音にとって凛子はあくまで芸の肥やしだ。同じ役者同士ならそれでもいいのだろうが、普通の人間にとっては溜まったものじゃない。

 愛している相手から、本当に愛されているのか分からない。

 それは自身とシャンディの関係性にも似たものだ。そう思った瞬間落ち着きたくて、美琴は嗜まない煙草を吸うような心持ちで、ミモザを吸引した。


「……そういうトコ改めたら?」

「照れ隠しじゃんさー。分かってよー」

「私は分かってあげられても、違うでしょ」


 いつの間にやら董子相手にマッサージを実演していた凛子を暗に示して、美琴は告げる。

 姉妹の関係性があれば、琴音のワガママや照れ隠しも理解はできる。ただ凛子は違う。照れ隠しでは受け取ってなどもらえない。


「姉ちゃんだって照れ隠ししてたくせに」


 美琴は咄嗟にミモザで顔を覆った。

 シャンディにすべてを暴かれた夜を思い出すだけで恥ずかしい。今にも夢に見るほどのあの遊戯で、美琴は背伸びや照れ隠しの奥に潜む本性を露呈してしまったのだから。


「私の場合は……」

「なんなん?」

「……ああ、そっか。なら、あの遊戯かも」


 ミモザを膝に抱き直し、美琴はシャンディに視線を送った。猫のように俊敏に察知したシャンディが黒須姉妹の許にやってくる。


「ふふ。あたしの手助けが必要みたいですね、琴音さん」

「ん。そんな感じ」


 例のゲームを提案すると、結果は二つ返事だった。シャンディは愉しげに微笑んで、キッチンからカクテル道具と生卵を取り出す。

 作るカクテルは《イエス・アンド・ノー》。

 いわく付きの遊戯、イエスとノーしか言えない本音吐露合戦。


「さて。凛子さん、琴音さん? あたしとちょっとした遊戯をなさいませんか?」


 恋路を司る立場となったシャンディの瞳はイタズラに――そしてかつ、優しい光に満ちていた。

 人を食った態度と手厳しい鞭を振るう彼女が時折覗かせる、甘い飴。そんな彼女だからこそ骨抜きにされてしまったのだろうと美琴はひとり、嬉しくも気恥ずかしい後悔に苛まれるのだった。

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