#70 : Mint Julep / ep.1

 四月末日。明治文具の最終出社日。

 美琴、凛子のほか事務方ばかり五名が集められた会議室に現れたのは、明治文具三代目社長と都築専務、そしてお局事務員だった。


「誠に申し訳ありませんでした!」


 叫ぶなり三代目社長と都築専務は、床に額をこすりつける勢いで土下座を放つ。会社都合で五名のクビを切ることになった謝罪からだろうが、美琴はもちろん、顔を見合わせた凛子も、残る三名の若手社員も見事に面食らっていた。

 土下座を見るのはあまり気分のいいものではない。他の社員たちの顔色を一応伺って、美琴はひとまず顔を上げてもらうよう告げる他なかった。

 痛々しくも悲しい最終出社日は、スッキリしないまま終わりを告げたのだった。


「これで会社ともお別れかあ……」


 丸五年務めたオフィスの私物を片付けた。小さな下町工場の建屋を見上げて美琴はつぶやく。傍らに立つ凛子は、赤色の一眼レフを構えてシャッターを押していた。


「今の感情を全身で表現して!」


 凛子のレンズが、美琴を捉えている。


「なんでカメラ?」

「よく考えたら今の私、推しの写真撮り放題だってことに気づいたの! だからカメラの勉強しようと思って!」

「すごいポジティブ……」

「ヘコんだってしょうがないよ。あと私、会社辞めるの二回目だし」


 クビになった直後だというのに、凛子はひどくさっぱりした様子だった。

 美琴と違って一度は退職を経験しているし、既に次の仕事に就いているからだろう。今日は上司琴音の許しを得て、有給休暇らしい。


「美琴さん笑って~」

「笑えないって」


 苦笑した美琴の一瞬を、電子音のシャッターが切り取った。凛子が見せてくれたプレビュー画面には、笑っているのか悲しんでいるのか中途半端な表情の美琴が映っている。


「どうせならもっと綺麗に撮ってよ?」

「大丈夫、美琴さんはどんな姿でも絵になるから! あとで送るね?」

「いらないわー……」


 思うところあったのか社屋の撮影を続ける凛子を見守っていると、社屋から都築専務が見送りに来てくれた。小脇には二つ、紙袋を抱えている。


「ああ、よかった。危うく渡しそびれるところだったよー」

「えっと、何か忘れ物でもしていましたか?」

「そうじゃなくてね。餞別とでもいうのかな。ウチを辞めた人みんなに渡しているものでね」


 都築専務は紙袋の中身を見せてくれた。中身は明治文具製の鉛筆が一ダース。そればかりか他社製の筆箱やものさしなどの文房具一式。商売敵であろうシャープペンシルやボールペンが入っていた。さながら入学祝の品々だ。ただそのうち一冊だけ、使用感の漂うノートが入っている。


「このノートはね、僕が個人的に付けていたふたりのだよ」

「うえ……」


 凛子が露骨にドン引きした。都築専務を信頼している美琴とて、観察日記――すなわち、見られていたなんて言われたら一瞬ひるむものがある。

 反応から言葉足らずだったことに気づいたのか、都築専務は慌てて釈明した。


「いやいや、これは全社員分け隔てなくやってることでね? 仕事ぶりを観察したり、社員たちの噂話を聞いて、僕なりに長所を書き留めたものなんだよ」


 ノートの表紙には、美琴の名前と社員番号、そして入社日が流麗な硬筆で書かれていた。おそらく五年間、凛子の場合は二年間に渡り使っていたであろうノートはそれ相応の時を感じさせるもので。


「読んでいいですか?」

「ああ。参考になればと思ってね。僕にはこれくらいのことしかできないから」


 美琴は五年間の自身の歴史を紐解いた。

 『企画・広告部門に配属。『女性ならではの視点』なんてあやふやなモノを求められることになる、苦労するだろう。気負わず仕事できるよう環境を整えたい』

 『元気よく挨拶ができる。誰に対しても分け隔てなく接している。素晴らしいことだ』

 『仕事を覚えるのに苦労しているらしい。じっくり育ってほしいものだ、社長に提案しておこう』

 『広告案はボツになってしまったが、目の付け所は斬新だ。この方向性を貫いてほしい』

 『細かいところに気が利くと社員たちから評判だ。大雑把な者が多いウチでは大変だろうが、能力を伸ばすきっかけになるかもしれない』

 『白井さんが懐いているようだ。同じ座組で仕事をする機会があれば、ふたりとも成長できるかもしれない』


 ノートほぼ一冊に、美琴の五年間がまとめられている。長所だけに目を当てて、都築専務なりにそれを伸ばそうとしていたのだろう。例のプロジェクトの室長を任されたあたりから『企画能力はある』、『明治文具に留め置くのが惜しい』という単語が躍っていた。


「…………」

「まあ、年寄りの戯れ言だよ。必要なければ捨ててくれて構わないからね。それと黒須さんにはもう一冊」


 紙袋から都築専務が取り出したのはまた別のノートだ。手帳サイズのノートには走り書きで、《要望メモ》とある。


「これは青海さんから預かったものでね。客先での営業中に出た企画アイディアを彼女なりに書き留めたものらしいんだ」


 丸っこい字は、明治文具営業・青海椎菜のものだ。常に忙しそうでつんけんしていた彼女がまとめた要望メモには、文具以外の客先ニーズ――たとえば、もっと分かりやすい飲み屋検索サイトはないのか、とか――がこれでもかと書き溜められている。いわば企画の種。


「これを青海が?」

「直接渡すのが恥ずかしいから、と僕に託してきたんだよ。営業なのに困ったものだねぇ」


 笑い皺が刻み込まれた専務は、好々爺めいて呵々と笑った。

 専務も椎菜も、どうにか美琴の役に立とうとしてくれている。その気遣いが美琴の目頭を熱くした。


「……ありがとうございます、参考にします。青海によろしくお伝えください」

「ああ。こんなものでは埋め合わせなど到底できないだろうけれど、これからのふたりの活躍を期待しているよ」

「専務! 写真撮りましょう!」


 一度は閉口した凛子もノートを読んで思うところあったのか、近くを歩いていた社員を適当に捕まえて、一眼レフで記念撮影を頼んでいた。専務を中央に美琴と凛子で挟むような構図。


「私と白井さんで両手に花ですね、専務」

「花に囲まれて棺桶に入ったような気分だよ」

「ツッコミにくい冗談やめてくださいよー」


 写真はどこか教師と生徒の卒業写真のような、そんな奇妙な懐かしさと温かさに満ちていた。

 大卒から五年間、多少なりとも社会人として――オトナとして育てたのだろうか。社屋を立ち去って門の前で振り向き、遠く離れて小さくなった都築専務の姿を見て思う。

 美琴は一礼した。


「お世話になりました!」


 力なく手を振る都築専務に別れの挨拶をして、美琴と凛子はもうしばらく使わないであろう地下鉄・湯島駅へ向かって歩き出した。


 黒須美琴は無職になった。

 それでも気持ちはどこか晴れやかだった。


 *


「お疲れさまでした、美琴……と。どうして凛子さんまで連れてらっしゃったのかしら?」


 経堂、2LDK。

 未だパジャマ代わりのロンT姿だったシャンディは、美琴の背後にぴたりとついてきた凛子に怪訝な視線を投げていた。ほとんど刺すような具合だ。


「家に帰ったら琴音がいるから、ウチで時間潰したいんだって」

「まだ美琴のこと狙ってるんです? 諦め悪い女は嫌われますよ?」

「街じゅう休業要請でどこにも行くところないの! お酒作って!」

「まだ昼前ですよ?」

「いいの! 飲みたいの!」


 凛子にとって経堂のマンションは、実質アンティッカのようなものらしい。たしかに酒の品揃えは豊富だ。シャンディが自宅用に購入していたものにくわえて、時折六本木に出かけては店の在庫を持ってきているためだ。営業していないのでセーフである。

 が、シャンディは首を横に振った。


「今のお二人にはお出しできませんね」

「なんでよ?」

「お分かりにならないのかしら?」


 いつもの謎めいた笑みを浮かべて、シャンディは立ち上がった。華奢な身体を猫のようにしなやかに歩き、美琴と凛子の眼前に立つ。眼前まで迫った双眸に気を取られていると――


「いった!?」


 ――脇腹をつねられた。凛子も同じく、腰の辺りの肉を摘ままれている。


「何すんの!?」

「何してると思います?」


 美琴は気づいた。気づいてしまった。

 問題なのは、シャンディが突然脇腹をつねってきたことではない。

 つまめるだけの贅肉がついてしまっていること。


「やめて……!」

「このお肉は何かしら? うりうり」

「やめてええええええええええ!?」


 連日連夜のアンティッカ通いのせいか、職探しのストレスのせいか、外出自粛の運動不足のせいか、はたまた幸せを享受し尽くしてしまったせいか。

 五年ぶりのリクルートスーツに袖を通したとき、気づいてはいたのに見て見ぬフリをした報いだ。割れかけているほどではないにせよ、そこそこ鍛えてはいた美琴の腹筋は見事、お肉に覆われてポヨってしまっていたのだった。

 それは凛子も同じことで。


「凛子さんも幸せ太りかしら?」

「そんなワケないから! 私のはあのバカと一緒にいるストレス――ああごめん美琴さん違うの、妹さんを悪く言ったワケじゃなくて!」

「充分悪し様に言ってると思いますけど」

「貴女は黙ってて!」


 パッと見では、凛子が太ったのかどうかは分からない。もともと肉感的な体つきであることも相まってさほど変わったようには見えないが、シャンディの目は誤魔化せないらしい。

 一方のシャンディは、あれだけ毎晩酒を浴びるように飲んでいるというのにほとんど変化がない、人形じみた華奢な姿のままだ。恐ろしくうらやましく、恨めしい。


「あたしは別にいいんですよ? ですがこのお姿は、貴女が見せたい理想の姿なのかしら?」


 シャンディは脇腹の肉を離そうとしない。むしろそれを人質に取ったかのように、イタズラに瞳を煌めかせていた。


「しゃ、シャンディさんの愛情が身についてしまったようですね?」


 あまりにも手痛い仕打ちには、声も裏返るというもので。


「このまま愛情でブクブク膨らませて、破裂させてあげちゃおうかしら?」

「さ、最近は健康的な美が求められているという話も聞きますよ……?」

「ええ。ふくよかさもまた、美のひとつの到達点です。ですが体型維持に失敗した言い訳としてプラスサイズに妥協するのは、プラスサイズにプライドを持つ方々に対して失礼です。美の冒涜だとは思いません?」

「ああいえ、その……。先ほど『私は別にいい』と仰っていたので、私はありのままの姿を愛していただけているものだとばかり……」

「どうでしょうね?」


 ニヤリと笑ったシャンディの指先に、より力が込められた。肉が猛烈な勢いで摘ままれ、あげくにねじられている。


「いたいいたいいたい!?」

「私は貴女に体型管理される謂われないんだけど!?」

「凛子さんが太ると、一緒に暮らしている琴音さんが油断してしまうかもしれませんよ? 『あー。凛子ちゃん太ってるし、私もたーべよ』って」

「それは無理! 今の琴音がベストなの! 太っても痩せても困る!」


 推しの姿を撮るために一眼レフを買うくらい、凛子は琴音の気に入っている。おそらくカメラの中には相当枚数の琴音のオフショットで溢れているのだろう。黒須家のアルバム何冊分なのかは想像したくない。

 シャンディはようやく指先を離した。


「では、さっそく着替えてくださいな」

「着替えるって何に……」


 「ふふ」と笑ってシャンディはテレビに映った朝のワイドショーを指さした。

 四月末。美琴の頭からはすっかり抜け落ちていたが、カレンダー的にはゴールデンウィークである。自粛期間中でもソーシャルディスタンスを守って、皇居ランやら代々木公園を走るジョギングの光景が映し出されていた。


「ここから代々木公園まで走りましょう。ジョギング遊戯ゲームです」

「なんでもかんでも遊戯ってつければいいものじゃないから!」

「なら言い換えますね。ダイエットです。脇腹と心の贅肉を落としなさい」

「う……」


 直接その単語を突きつけられると、美琴も凛子も返す言葉は何もなかった。


 惰眠を貪っていた葵生に留守番を任せ、美琴達は経堂のマンションを後にした。

 ルートは簡単だ。経堂のある私鉄小田原線を登り方面へ向けて走れば目的の代々木公園に着く。その距離およそ五キロメートル。長すぎず短すぎず、絶妙な距離感だ。


「ちょっと待って、脇腹痛い……!」


 だが、絶妙な距離感なのは運動習慣がある前提のこと。

 走り始めて数分後。美琴はご近所のイカサマ自販機の前でうずくまったのだった。

 中高時代をバスケに捧げ、大学でもサークルでバスケを嗜んできた体育会系の美琴だったが、社会人になった途端その熱はさっぱり冷めてしまっていた。通勤と仕事に追われ、友人や先輩後輩とも会えなくなると運動の機会はさっぱりだ。


「しっかりなさってくださいな。体力自慢のパワーフォワードだったのでしょう?」

「まともに運動してなかったからしょうがないって……! なんで二人とも元気なの……」

「あたしは美琴と同棲するまでは毎日走ってましたから。凛子さんは?」

「短距離専門だったけど元陸上部。それに自転車通勤してたし、最近全力疾走したとこで」

「全力坂?」

「それ作ってる局の廊下」


 美琴の前方で、トレーニングウェア姿のシャンディと凛子がさらっと運動歴を告げた。黙ってるのズルい。

 普段から走っているというだけあって、シャンディのフォームは綺麗なものだ。ウインドブレーカーにハーフパンツと長スパッツを合わせたスタイルまで含めて走る芸術品のようで。

 対する凛子は、美琴が貸した予備のウェアだ。中性的な色味とデザインのウェアはフェミニンな凛子に似合わないようでいて、それが返ってギャップになっている。


「たるんでますねー、美琴?」

「ね。イメージに合わないよ。写真撮っていい?」

「絶対ダメ!」


 どうにか脇腹を押さえて立ち上がるも、歩くだけで腹側筋がひくついていた。五年分の運動不足は鉛のように重いのだ。頭ではこれくらいできるだろうと思っているのに、身体がまるでついていってくれない。


「……ウォーキングじゃだめ? 五キロなら歩いても一時間だし……」

「堕落してるー」


 凛子がくつくつと――まるで琴音のように笑っていた。一緒に暮らしていて移ってしまったのかもしれない。悪い見本だ。


「多少ペースを落としてでも走りましょう。脂肪燃焼に重要なのは心拍数。最大心拍数の六十五パーセントがもっとも脂肪燃焼効率がよいそうです」

「最大心拍数なんて知らないって……」

「美琴は二百ですので、百三十前後を目指してくださいな」

「……なんで知ってるの、美琴さんの心拍数」

「ベッドの上で測れるでしょう?」


 脂肪でお腹が破裂する前に、頭に血液が登って破裂した。脇腹が痛いフリをして、必死で真っ赤になった顔を見られないよう美琴は俯く。


「既にそれくらいドキドキしてるから……」

「ふふ。あたしに恋して?」

「もうそれでいい……」


 楽しげに笑うシャンディの一方で、凛子のうんざりしたような声が聞こえた。思いきりノロけられたのだから気持ちは充分理解できる。

 美琴はとにかく動けなかった。急に運動なんてするものじゃないと後悔し始めた矢先、スパルタ式のシャンディがイタズラに笑う。


「なら、やっぱり遊戯にしちゃいましょう。これはあたしたち三人のレース。一位の人が、最下位の人を一晩好きにできるというのはいかがかしら?」

「何言ってるのシャンディさん……!?」


 美琴は顔を上げてシャンディ――ではなく、真っ先に凛子の顔色を伺った。


「それ本気で言ってる?」

「ええ、二言はありません。勝者は敗者を好きにできる。遊戯の基本です」

「つまり、私が勝ったら美琴さ――いや、最下位の人を?」

「勝てればの話ですね。最悪、あたしが貴女を抱くこともありますけれど?」

「……覚悟の上だよ」


 凛子は入念に準備運動を始めた。表情は真剣そのもの、おっとりした垂れ目気味の瞳には、あからさまに闘志が宿っている。

 対するシャンディも瞳を妖艶に煌めかせ、凛子に攻撃的な微笑みを向けていた。

 恐ろしく悪趣味な遊戯だ、美琴はどうにか呼吸を整える。


「いやちょっと待って……! そんなのダメでしょ!?」

「イヤなら勝てばいいだけですよ、美琴。いつもの遊戯と同じです」

「うんうん。美琴さんは歩いてもいいよ? 私が守ってあげるから」

「いやいや……!」


 二人とも本気だ。アスリートのように小刻みに跳ねて準備運動を済ませると、美琴がうずくまっているイカサマ自販機の横に歩み寄る。

 三名が並んだ。つまりここが遊戯のスタート地点。


「ルートは先ほど決めた通り、小田原線沿いを。ゴールは公園前の交番って言えば分かります?」

「原宿に抜ける坂の手前だよね? 分かってる」

「ふふ。なら始めましょうか? 愉しい遊戯を」

「初めて遊戯が楽しいと思えるよ」

「ちょっ――」

「on your mark……」


 突如、流暢な英語が聞こえた。訳の分からない美琴の両サイドで、シャンディと凛子が身体を低く構えている。クラウチングスタート。


「get set……」


 慌てて美琴も準備を始めた頃にはもう遅い。


「go!」


 脇腹が痛い、呼吸も荒い。そんな美琴に容赦ひとつせず、シャンディと凛子は猛スピードで駆け出していった。

 つい数時間前まで、元職場である明治文具に想いを馳せていたとは思えない、怒濤の恐るべきダイエットレースが幕を開けてしまったのだった。

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