#64 : Side Car
「はい。分かりました、黒須と犀川に伝えておきます」
首都高を走るSUVの助手席で、凛子はスマホを片手にビジネス手帳に予定を書き入れた。元々はスマホのリマインダーを使っていた凛子が今さら紙の手帳に乗り換えたのは、電話連絡が多くてスマホが使えないことと、書き込む予定が膨大だから。
「想像以上に売れっ子でびっくりしたっしょ?」
四月下旬。凛子は未だ明治文具の有休消化期間中ながら、女優・黒須琴音のマネージャーとして仕事を始めていた。
仕事は、明治文具の事務など比較にならないほど忙しい。日夜ひっきりなしに掛かってくる電話に応対しては仕事を受けるか否かの確認やギャラ交渉、クライアントとの間に入っての折衝など、とにかく毎日琴音のことだけを考えて生きることになる。
「前向いて運転して。犀川さんも乗せてるんだから」
おまけに担当ではないのに、隣に住んでいるということで凛子は同じ事務所のタレント・犀川ひふみの面倒まで見ることになってしまった。給料は据え置き。住み込みマネージャーの落とし穴だ。
「ね、思ったんだけどさ。普通ってジャーマネが運転すんじゃない?」
「無理。免許持ってないし万が一、私の運転で事故って貴女がケガしたらどうするの? 私が耐えられない!」
「ホント琴音オタクだなー」
ケケケと愉しげに笑う琴音の一方、後部座席のひふみはヘッドフォンで耳を塞いでいた。先の連絡を行うため、ひふみの顔の前で手を振る。目元を覆うほど伸びた前髪の隙間から、胡乱な瞳が凛子を射貫いた。
「《Mステ》の収録だけど、一時間くらい押してる。楽屋の消毒とかもしなきゃいけないみたいだからあんまり早く入られても困るって」
「…………分かった」
返事だけしてヘッドフォンで耳を塞いだひふみの後で、琴音が苦笑した。
《Mステージ》。六本木のテレビ局の由緒ある歌番組だ。本日の琴音の仕事は、情報解禁が目前に迫ったデビュー曲、《スクラップ・アンド・ビルド》のステージ収録。同乗するひふみはソングライターの立場として、ステージ収録の立ち会いと、楽曲解説インタビューの収録がある。
このご時世とは言え、否、このご時世だからこそ、
「早く入られて困るならちょっと寄り道してこっかな」
「あんまり目立つところ行かないで。あと六本木近辺に限る」
「ならあそこにしよっかな。六本木と言えば?」
「店は開いてないし、あの女は経堂」
「ま、どうせ時間あるしドライブでもしよっか」
「好きにして」
SUVは六本木最寄りのランプを、一般道へ緩やかに降りていった。
時刻は昼過ぎの六本木はずれ。都の要請による営業自粛を厳粛に守っているガールズパー《antiqua》。
「やっぱ開いてないかなー?」
「開いてるワケないでしょ」
雑居ビルの真下にSUVは停まっていた。「散歩して直接現場入りする」と語ったひふみと別れ、琴音と凛子はアスファルトを踏みしめた。実に一ヶ月ぶりに訪れた六本木は不気味なくらいにひとけが感じられない。通行人はおろか車両すらも普段の半分以下で、路線バスも空気を乗せて走っている。
琴音の後に続いて、凛子はアンティッカへ続く外階段を登る。シンと静まり返った街の中は、ふたつの足音が響くのみだ。階段踊り場で琴音が振り返る。
「なんかさ、世界が私達だけになったみたいな気がしない?」
「ロマンティックなこと言っても貴女を好きにはならない」
「ただ感想言っただけじゃん?」
へらへら笑うと、琴音は階段の縁に身を預けて街を見下ろした。二階と三階の間、高さにして七、八メートルといった景色は、さほど高いという訳でもない。
「凛子ーッ! 好きーッ!」
ほぼ無人の六本木の街へ向けて、琴音が叫ぶ。昔出ていた青春モノの恋愛映画か、スポーツ飲料のCMみたいなものだ。
ただし、凛子の心は動かない。推しに名を呼ばれても嬉しいどころか全力で拒否したくなる。
「私を見ないでーッ!」
「なんそれ、ウケる!」
ケケケと、イメージをぶち壊す下卑た笑いがビル街にこだました。
どうあっても琴音は、凛子の抱いた夢を壊そうとしてくるのだ。だからこそ凛子は抵抗を続ける。美しく清廉な黒須琴音を忘れないよう、強く意識する。
せめて凛子の中にある、琴音の夢だけは守り通さなければ。
「琴音はそんな風に笑わない」
「演技指導どーも。にしてもジャーマネの才能あるよね、凛子ちゃん。仕事もすぐ慣れたし」
「そうかな?」
仕事ぶりを褒められるとちょっと嬉しくて、思わず綻んでしまった。
が、褒めてきた相手が琴音であることを思い出し、凛子はすぐにふて腐れる。
「……今のなし。意識されたくない」
「難攻不落だなー」
苦笑して、琴音は踊り場からアンティッカのある三階へ向かった。凛子も一応あとを続く。踊り場からビル内に続く廊下の先には、例の重厚な木製ドアがあるはず。ドアには《close》の札と、自粛中の張り紙か何かが張ってある、無人のアンティッカ。
そんな凛子の予想は、一点だけ外れていた。
「こっ、こと
アンティッカは閉店で、扉には自粛中の張り紙。ただ、店の前は無人ではない。傍らにスーツケースを置いた、リクルートスーツ姿の女性が壁にもたれるように座り込んでいた。首にはヘッドフォンが掛かっている。年齢は二十代前半と言ったところだろう。
マスクからのぞく薄化粧の目元には、なんとなく見覚えがあった。そして何より凛子の耳に残るのは、謎の方言。
「うげ!?
露骨に顔をしかめる琴音の反応からして、関係者なのだろう。だが、推しに危害を加える可能性もないとは限らない。凛子は咄嗟に、琴音の前に身を乗り出した。
「誰、この人?」
「あー知らない、知らない。シャン姉いないし凛子ちゃん帰ろー」
「待ってや!? ウチずっと探してたんよ、みこ姉とこと姉! おばさんに電話しても全然繋がらんから、ネットで目撃情報調べたんよ!? そしたらこのアンティッカって店にこと姉がよー来るって書いてあって!」
葵生と呼ばれた女性がマスクを取る。方言のせいか控えめなメイクのせいか、纏っている雰囲気は垢抜けない。表情も今にも泣きそうで、なんだか可哀想になってくる。それでも、顔の作りは全体的に美琴や琴音によく似ていて。
「……黒須家って実は三姉妹だったの? 隠し子?」
凛子の問いかけに、琴音は頭を抱えたまま重苦しく告げた。
「……こいつは黒須葵生。いとこ」
「いとこ……」
「いとこの黒須葵生です! ぴょろしゅくお願いすましゅ!」
垢抜けない黒須家のいとこ、黒須葵生は自己紹介を盛大に噛んでいた。
*
「やったー! 収録見学できるとか最高やー! いとこに女優おってよかったー!」
六本木のテレビ曲、スタジオそばの楽屋。
一時間押しで楽屋入りした琴音を、専属メイクのKOZOがアートしている。そんなことなどお構いなしに、いとこの葵生は楽屋の中を右往左往していた。
「葵生、うっさい。琴音様は仕事中」
「えへー、ごめんごめん」
「ホント、アンタんトコの血って争えないわねー? お姉さんのコトは知らないけど、どいつもこいつも落ち着きないトコまで含めて」
「姉ちゃんも落ち着きないよ。でしょ、凛子ちゃん」
「まあね」
楽屋の隅で、凛子は黒須琴音が完成していく様子を鏡越しにぼんやり眺めていた。ブラシを持ち替えながらファンデをはたき落としているKOZOが視線を向けずに尋ねてくる。器用なものだ。
「にしても凛子ちゃん、よくこんなヤツのマネージャーになったわねー?」
「なったというか、ならされたというか……」
「あら、アタシはお似合いのカップルだと思うわよ?」
「でしょー? さっすがKOZOさん見る目あるー」
「無理だから!」
マーベリックの時も見たが、KOZOの仕事は鮮やかだ。凛子が普通に行っている化粧とは順番や手法がまるで違っていて、琴音を見ているのかKOZOの仕事を観察しているのか分からなくなる。プロの仕事は目を見張るものがある。盗めるものなら盗みたいほどだ。
その一方で、葵生は畳間の楽屋を素人感丸出しでうろちょろしていた。琴音の顔を覗き込んだり、KOZOのメイク道具を勝手に触ったりと失礼の限りを尽くしている。
「えっと、葵生さん。ちょっといい?」
「なになに、マネージャーさん?」
にへらと何の悪気なく笑って、黒須姉妹に似た顔が近づいてくる。顔面の系統が似ているのに、美琴も琴音もめったに見せない蕩けるような満面の笑みだ。強烈な違和感で凛子の脳は一瞬バグりかけたが、なんとか平静を保つ。
「あのね、ふたりとも仕事してるの。だから待ってようね?」
「えー? そんなん退屈やん?」
最大限オブラートに包んだ「仕事の邪魔するな」の注意は、まるで届かなかった。葵生には社会通念がない。生来のキレ症の凛子ながらも、今は琴音のマネージャーだ。どうにかオトナとして振る舞おうとする。
「でもね? 琴音もKOZOさんも仕事中だから。じゃあ私とお話しようか?」
「しょうがないなー?」
カチンと来たが、顔色を見る限り悪気はない。葵生には悪気はないのだから仕方がない、と凛子はどうにか精神を落ち着かせる。
「……葵生さんはどうして美琴さんや琴音を探してたの?」
「内定取り消し喰らってもうたんよ。それもこっちに越した次の日に! もうわやよ……!」
「もうわや……何?」
「ひどくない? ってこと。そいつのは伊予弁」
話を聞いていたのだろう、琴音の注釈が入った。伊予ってどこだっけ、と考えたところで
ただ、伊予柑は柑橘類、すなわちオレンジである。オレンジにゆかりのある女は大嫌いだ、自身を除いて。
「ほれで、松山いななあかんなったのに家決めたりなんやらしておカネなくなってしもたんよ……」
「凛子ちゃん、私の財布から十万抜いて葵生に渡して。手切れ金」
「えー!?」
言われるがままお金を渡したが、葵生は首を振って受け取らなかった。「手切れ金」という言葉から、琴音と葵生の関係がなんとなく読み取れる。
「ほれ、十万やるからとっとと帰んな田舎娘。花の大東京はお前にはまだ早い」
「自分やって東京ちゃうやん!」
「バッカお前、横浜は東京より上だからいいんだよ! 横浜より上なんてニューヨークくらいだかんな!」
「ロンドンもすごいですー!」
「脈略ないこと言うんじゃねー!」
ぐちゃぐちゃで話が進まない。凛子は先の十万円をテーブルに置いた後で、さらに琴音の財布から抜き出した。合計十五万円だ。これで初任給くらいにはなるだろう。
「やさしい琴音お姉ちゃんが十五万円くれるらしいからこれで足りる?」
「いや! ウチいにとーない! こっちで仕事探す! ほやから仕事見つかるまで家泊めて!」
「却下!」
「なんでなん!? 親戚やん!」
「親戚アテにする田舎モン丸出し感がイヤなんだっつの!」
琴音はピシャリと否定した。これには凛子もKOZOも苦笑するばかりだ。ちょうどメイクが終わったのもあって、琴音は「挨拶回りしてくる」とだけ言い残して楽屋を立ち去った。当然、葵生も後を追って出て行った。
思わぬマネージャー業以外の心労に、凛子は畳間に倒れ込む。ため息が出た。
「お疲れさまねえ、新人マネージャーちゃん」
「マネージャー以外のことで疲れてるの、私は……」
広げたメイク道具の後片付けをしながら、KOZOは小さく笑っていた。
この後の彼の予定は、隣の楽屋のひふみのメイク。その後はお台場らしい。琴音の専属メイクの他にも、多くのタレント達から指名を受けて活躍している。
そういえば、と凛子は思い出した。彼はチーム黒須琴音の一員。となれば、以前のマネージャーについても詳しいはず。
「ちょっと聞きたいんですけど、琴音の前のマネージャーってどんな人だった? 女性だってことは知ってるんだけど」
「あー、チャタね?
マネージャー・北谷が辞めたのは「琴音を好きになったから」。そんなふざけた理由でクビになったまだ見ぬ彼女のことが可哀想になって、反射的に琴音の顔面を張ったのがつい先日のことだ。
「……琴音は、好きになったからクビにしたって言ってたの。KOZOさんから見てどう思う?」
「アハハ、ないない! チャタと琴音の付き合いはビジネスライクよ、凛子ちゃんとは違って!」
「無理だから!」
「あらそーなの? てっきりアタシ、同類かと思ってたけど」
KOZOの言わんとすることは凛子もハッキリと理解できた。
「同類だけど違うの。琴音は私にとって推し、憧れ。そういう対象じゃない!」
「わかるわー。アタシも女の美は大好きだけど、女そのものはどうでもいいのよね。そういうことでしょ?」
「たぶん。私は男の美にも興味ないけど」
KOZOは優しく微笑んでいた。何を言うべきか逡巡したのか、やや間を置いて語り出す。
「……琴音は相当苦しんでると思うのよね。凛子ちゃんも知ってるでしょう? あの子は自分を殺すから」
「知ってるけど。だからって琴音の望むような関係にはなれないよ」
「でも一緒に住んでるのね?」
「それは……やむにやまれぬ事情があったからで……」
琴音とのマネージャー契約で、凛子の現住所は横浜みなとみらいのタワマンだ。就業時間が終わったら割り当てられた自室に引きこもり、風呂とトイレ以外は部屋から一歩も出ない、家庭内別居のような状態を続けている。ほぼ籠城と言ってもいい。
当然、琴音の要求した仕事はまだ一度もしていない。
「アレまでマネージャーの仕事だなんて知ってたら!」
「まー、詮索はしないわ。業界じゃたまにあることよ。男性アイドルのジャーマネなんて、そういう目的でつくこともあるくらい」
「業界の闇……」
「……ああ、そういうこと。チャタを切った理由、なんとなく分かったわ」
「琴音のバカがアレを要求したからでしょ……?」
「違う違う」
チッチッチ、とメトロノームのように人差し指を左右に振って、KOZOは告げた。
「枕」
「え……?」
まるで想像だにしなかった言葉に、凛子は息を呑んだ。
売り出し中のタレントが、あるいは売れてからも仕事を得るためにクライアントと肉体関係を持つこと。一夜を共にすることにかけて、枕営業と呼ばれるものだ。
琴音が枕営業をしているのかもしれない。そう考えた途端、必死に守り通してきた黒須琴音のイメージが一瞬で崩壊しかける。ショックで言葉を絞り出すことすら難しくて。
「ウソ、でしょ……? 琴音が……?」
「琴音だけじゃなくて、マネジがやることもあるの。チャタはまあまあ綺麗な女だったからね、もしかしたらそういう話もあったかもしれないわ」
マネージャーがやることもある、という言葉が凛子に突き刺さる。それはすなわち――
「……私も?」
――KOZOは瞑目した。
「アタシは業界の悪習だって思ってるけど、手を出しちゃう気持ちは分かるわ。タレントやマネジにとって「使ってやる」って言葉は、何よりもありがたいものなの。売れるためなら身を削ってもいいと思う子は何人もいるわ。それで売れる保証なんてどこにもないのにね」
「…………」
凛子の背筋が凍る。自分まで枕の対象にされてしまう恐怖だ。ただそれよりも、琴音が対象になることの方が耐えられなくて、自身のオタク精神にどこか呆れてしまう。
「脅すようなこと言ってゴメンね。でも琴音は大丈夫。だいたい今の琴音にちょっかい出してみなさいな、大炎上間違いなしよ。それに凛子ちゃんは絶対大丈夫」
「なんでそんなこと言い切れるの?」
「だって琴音がチャタをクビにしたの、たぶんチャタを枕から守るためよ?」
凛子の中で、ようやく線が繋がった。KOZOの言うことが正解なら、元マネージャー北谷は何者かから枕営業を持ちかけられたのだろう。「琴音を仕事で使いたいと思っているが、何を差し出せる?」とでも言って。琴音に手が出せないからマネージャーを攻めるような卑怯者だ、怒りがこみ上げてくる。
「琴音はね、女優としては天才的だけど人間としては死ぬほど不器用なのよ。でもね、悪い女じゃない。それは分かってあげて?」
もし本当だとすれば、琴音は、クビにすることで北谷を守ったのだ。琴音が真実を語らなかったのは、凛子が琴音に抱いていたイメージを壊さないため。最後の一線を守ろうとしたからで。
なのに凛子はそうとは知らず、感情に任せて琴音を殴ってしまった。
「……琴音に謝らなきゃいけないじゃない」
「じゃ、アタシはひふみんを美女にしに行くわね」
KOZOが扉を開けようとした瞬間、勢いよく扉が開かれた。ノックもせず飛び込んできたのは葵生だ。あからさまに慌てている。
「まっ、マネージャーさん! こと姉が変な男に捕まっとる!」
「変な男……?」
「なんかアレなんよ、こと姉地味に嫌がっとって! あと前のマネージャーが辞めたんなんでやとか!」
凛子はKOZOと視線を合わせた。真剣なまなざしで頷いたKOZOは葵生に尋ねる。
「葵生ちゃん、その男の名前覚えてる?」
「こと姉は
「KOZOさん知ってますか!?」
KOZOの答えは単純明快だ。合掌した両手を顔の側面に持っていく。
――枕。
「葵生ちゃん知らせてくれてありがとう。楽屋の留守番してて」
凛子は立ち上がり、その場で屈伸した。そして董子にマッサージを教えたお礼に教わった、護身術を脳裏に思い出す。助走と踏切が肝心要。実践は初めてだが、今は怒りの方が勝っている、問題ない。怒りさえあれば戦える。
凛子は部屋を飛び出した。
局内の長い廊下の向こうに、琴音の姿を見つけた。傍らには小太りの男性の姿だ。琴音の手首をしっかりと握りしめて離そうとしない。その場を立ち去ろうと琴音が重心を遠くにやっているにも関わらず。
「……汚い手で、私の琴音に触らないでよ…………」
静かに、息を吐く。彼我への距離は三十メートル前後と言ったところだ。短距離走と走り幅跳びだけは自信がある凛子にとっては、楽勝の距離。一気に距離を詰めて跳躍するイメージを脳裏に描く。
そして、董子の言葉を思い出した。
――大丈夫大丈夫! 人間そう簡単に死なないから、思いきりやればいいよ!
両足にチカラが宿った。ヒールでは走りにくいと判断して、素足でフロアに立つ。ひんやりとしたタイルは、足をしっかりとグリップする。これなら滑らない。トップスピードのままぶち当てられる。
「……私は琴音のマネージャー。琴音を守るのが私の仕事……」
覚悟はとうの昔に決まっていた。凛子は右足を蹴って走り出す。局内の廊下を風になって走り抜ける。マスクが邪魔だった。それを脱ぎ捨てて、一気呵成に突っ走る。
「うらあああああああああッ!!!」
声が出た。叫び声を轟かせていた。全力疾走する凛子に気づいたスタッフ達は次々に道を空ける。当然その声は廊下の端、琴音とターゲットにも届く。琴音に当てないようにしなければならない。コントロールする自信まではなかった。だから叫ぶ。
「琴音、避けて!!!」
咄嗟に琴音は飛び退いた。何事かと狼狽えるターゲットは棒立ちのまま。いよいよ凛子は踏切予定地点を踏む。そして左足を力強く蹴り上げた。
基本は走り幅跳びと同じ。トップスピードまで加速して、勢いが乗ったタイミングで踏み切る。凛子の身体は宙を舞って、まっすぐにターゲットの顔面を射程に捉える。
身体をひねり、右膝を突き出した。
後は勢いが勝手にやってくれた。
「ま、マジか……凛子ちゃんの真空飛び膝蹴り…………」
フロアに転がったターゲットに息があることを確認して、凛子は安堵した。その傍らで唖然としている琴音に告げる。
「……北谷さんのこと聞いた。伝えなきゃいけないことはちゃんと伝えて。私は貴女のジャーマネなんだから」
「あ、うん……」
「何顔赤くしてんの。ほら、立って。楽屋戻ろ」
手を差し伸べて琴音を立たせた。
その時ようやく意識を取り戻したのだろう、ターゲットたる壬生Pが声を震わせた。
「き、君……! 出禁だ! 黒須琴音は出禁にするからなッ!」
「あのさ。東京にテレビ局っていくつあると思う?」
凛子は笑った。
「ひとつくらい出禁になっても怖くないよ。私の推しなんだから」
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