#63 : Knock Out
数年ぶりに袖を通したリクルートスーツは、成長期などとうの昔に終わったはずなのに少し窮屈だった。原因はわかる。連日のアンティッカ通いの上に、ここのところの外出自粛での運動不足だ。通勤の必要すらなくなると、身体じゅうがたるんでしまう。たとえばそれは腹筋とか。
「うげ」
自室の姿見の前。タイトスカートにほんのり乗りかけた贅肉を見て、美琴はなんとも言えぬ声を漏らす。ドアの隙間からは、琥珀色の瞳が覗いていた。
「ふふ。幸せ太りですねー」
四月下旬。ゴールデンウイークを間近に控えた頃。
美琴にとっては浮き足立てない無為な休日が迫っていた。昨今の情勢のみならず、職探しまで重なっていてはまるで喜べない。せめて連休前に再就職先を決めておきたいと美琴の心は焦るばかりで。
「それで、就活以来のリクルートスーツに袖を通したと」
「明治文具は私服通勤だったからね。客先に出向く時はカジュアルフォーマルだったし……」
一番上まで上がりきらなかったファスナーが、五年前と現在の体型の違いを如実に物語っている。衣服が縮んだのだと思いたかったが、結果は推して知るべしだ。
「あたしのスーツをお貸ししましょうか?」
「合わないって」
「ですよね。ふふ」
そしていじわるシャンディが顔を覗かせる。
彼女との体格差は歴然だ。背丈で言えば美琴が五センチ高いが、脚の長さでは腰高のシャンディに軍配があがる。あげくにモデルもしている琴音以上に華奢ときている。シャンディのスーツの袖なり裾なりに身体を通した瞬間、敗北感に襲われることは日の目を見るより明らかだった。
「スーツの仕立てとダイエット、どちらが先決でしょうね?」
「そんなヒマないよ。これからさっそく面接だから。オンラインだけど」
「あら。時代は変わりましたねえ」
ご時世ゆえだろう、新卒も転職者も、現在はほとんどの企業がオンライン面接に舵を切っていた。無料か限りなく安価で使えるビデオ通話アプリの進歩のおかげだ。
「どんな会社なんです? 面接先は」
「《きららウォーター》って会社。大学時代の先輩が勤めててね。この間久しぶりに連絡があって、流れで仕事探してるって話したら面接してくれることになって」
《きららウォーター》。
ウォーターサーバーのレンタルと替えのボトルの販売会社である。本社は水以外にも手広くやっているようだが、世話になった先輩は水の営業だ。美琴が続けてきた企画広報には掠りもしていない。
「先輩って男です?」
「女性だから大丈夫……でもないのか。私が好きなのはシャンディさんだけ」
「なら、あたしも面接に同席していいですよね?」
しれっと意味の分からないことを言ってのける。美琴は頭を抱えた。
「面接に同居人連れてくる人いないでしょ……」
「いいじゃないですか。美琴の先輩ならいずれ式にもお呼びするでしょう? 遅かれ早かれ面通しするんですから」
シャンディは「何か問題でも?」とでも言い出しそうな表情だった。
考えてみれば分かることだ。シャンディは元ホテル・マーベリック従業員。あの巨大なグランドレセプションホールで盛大な式を挙げるカップルを何組も見てきたはずである。それが基準になっているとすれば。
「待って、そんな大々的に挙げるつもりだったの……!?」
「いけません?」
とんでもない人間にプロポーズしてしまったことに気づくも、美琴は当然後悔などするつもりはない。むしろ、彼女に釣り合いたいと思うばかりで。
「では、なおのこと働かないといけませんね? 一刻も早く、美しいドレス姿の貴女に永遠を誓いたいものですから」
「あらあら、とんだ背伸びですこと。せいぜいご無理なさらぬように」
「無理などしていませんよ。まあ多少……懐具合は心許ないですけれど」
マーベリックで挙式など挙げようものなら多少どころでは済まない。そのために必要なのはお金、すなわち仕事。ならまずは《きららウォーター》の面接だと連想ゲームが結論を出す。先輩にうまく口利きをして貰わなければならない。とにかく今必要なのは、シャンディに頼らず自立することと、生活の安定、そして精神の安寧。それらすべてを下支えするお給料だ。
送られてきたURLをスマホでタップし、美琴は実に大学時代ぶりに二歳上の先輩と顔を合わせた。
「お久しぶりです、遙香先輩」
『久しぶりだね、黒須さん。……そっちの人は?』
「あたしのことはお構いなく」
「ふふ」とにこやかに笑うシャンディの一方、画面の向こうの彼女はものの見事に閉口していた。
《きららウォーター》営業、
美琴とはともにバスケサークルで汗を流した間柄で、学部も同じだったため過去問を融通してもらったことも何度となくある。学問はからっきしだった美琴がいちばん世話になった先輩だ。
遥香の背後を伺う限り、彼女もまたテレワークの状況なのだろう。壁に貼られた犀川ひふみのポスターが目を引く。意外と若いアーティストが好きなのかもしれない。
『お構いなく、と言われても……』
シャンディのことを説明すると話が脱線してしまう。美琴はとりあえず、久しぶりに連絡を寄越してきた遙香の吉報に触れることにした。
「それよりも遙香先輩、ご結婚おめでとうございます! いきなり連絡があったので驚きました」
『あ、ええと……うん。ありがとう。まだ籍だけなんだけどね』
「ご祝儀はいつ贈れば?」
『いいよいいよ。気持ちはありがたいけど、黒須さん今大変だよね?』
しれっとシャンディの説明を流して、遙香の注意を逸らすことに成功した。あとは面接に漕ぎ着ければなんとかなるはず。
ただ、さすがにそれは通らない。
『そっちの人は同棲……じゃなかった、同居人さん?』
「え、ええ。こちらは友人の――」
「美琴の婚約者、シャルロット・ガブリエルと申します」
美琴と、画面の向こうの遙香が固まった。突然のカミングアウトなのだから無理もない。
「しゃ、シャンディさん!?」
「問題ありませんよ。あたし達を見て同棲だと仰るのですから、似たようなモノなのでしょう」
『すごい人と付き合ってるね、黒須さんは……』
画面の向こうで、手で顔をぱたぱた仰ぎながら遙香はつぶやいた。ほとほと困った様子の遙香のそばに、まだ二十代前半と思しき幼さの残る女性が割り込んでくる。
『迂闊だよね、バカハル』
『言わないで……』
ふたりの指先には揃いの指輪が輝いている。ようやく美琴にも事態がなんとなく飲み込めた。早苗達と同じなのだろう。
「ああ、ええっと……ご結婚おめでとうございます……」
『ありがとう……』
なんとも声を掛けづらい沈黙の中、少女は手を振って画面外に消えた。後で遙香に確認したところ、妻の名は村瀬詩織。現在大学四年生らしい。
『と、とにかく。ひとまず、面接しようか?』
「お願いします……」
久しぶりに連絡を取った先輩の意外な一面を知った流れの中で、面接はどうにか始まった。
面接と言っても、素性は知れている。ほとんど互いの近況報告にも近い世間話の中で、《きららウォーター》の仕事が営業であること、美琴が望んでいた企画広報の仕事ではないことあたりが確認されるのみだ。
『うちは人手不足だから来てくれるのはありがたいんだけどね……』
ただ、画面越しの遙香が言い淀む。先んじて送っていた職務経歴書に目をやってから、遙香は瞑目して続けた。
『……黒須さん、本当にウチでいいの?』
「どういうことですか?」
『いやあ……。出向とは言っても、日比谷商事で企画してたんだよね? だったらうちじゃなくて、企画を活かせる職場を探した方がいいと思うんだけど……』
遙香は暗に、美琴の実績のことを告げているようだった。確かに日比谷で企画は動いている。第二弾企画はボツになってしまったが、そちらも早苗主導で動いてはいたのだ。
ただ、どちらの企画も無茶ブリに喘いだ末の偶然の産物だ。コンスタントに企画を生み出すような真似が美琴にできるとは思えない。
「企画の才能はないみたいでして」
『才能なかったら日比谷に出向なんてしないと思うよ?』
「それにはまた別の理由があるんですよ。どこから話せばいいのか……」
実際のところ、二つの企画が日比谷で動いているのはその内容というよりも経緯がきっかけだ。小杉の事件のお詫びとして企画採用と出向が決まったというある意味では幸運が重なった結果である。さすがにそれは才能とは呼べない。
『じゃあ質問なんだけど、いいかな? 気を悪くしないで欲しいんだけどね』
「はい」
『うちで働きたい理由って何かある?』
「それは――」
続く言葉が出てこなかった。遙香のいる《きららウォーター》でなければならない理由などない。美琴にとって一番重要なのはお給料――すなわち仕事とそれに準じる肩書きが欲しいだけだ。仕事さえあれば今の不安定な状況からは抜け出せる。肩書きさえあれば、シャンディと対等になれる。ただそう信じていた。
『理由はないと思うんだよ。黒須さん、営業って未経験だよね?』
「未経験ですけど、頑張ります」
『営業は潰しが効かないよ? ある意味、社会人最後の砦みたいな感じだし。お客様には心ない言葉を浴びせかけられたり、無能な上司とか部下に振り回されるよ? どこにも味方なんていない職場だよ』
「いえ、それでも私は――」
『いやいや、そういう面接じゃないよ。会社員の立場じゃなくて、貴女の先輩……というか友人として話してるの。だから追いすがらなくていいよ、素直な気持ち聞かせて?』
遙香は続けた。
『黒須さんは、うちで妥協しようとしてるよね?』
図星を突かれる。とにかく仕事と肩書きが一刻も早くほしいだけ。ただそれを認めてしまうと、この話はきっと水に流れてしまう。
「妥協だなんてそんな……」
『お隣の婚約者さんはどう思いますか?』
黙ってやりとりを聞いていたシャンディが、遙香の問いかけに口を開く。
「仰る通りですね。支倉様の会社には失礼でしょうが、美琴は自身を安売りしています」
『びっくりした、本当に失礼じゃんこの人……』
画面外から詩織の声がする。彼女もまた就活生だ、面接の様子を伺っていたのだろう。
「もう少々しっかり考えていると思っていたのですが、まだまだ考えが甘いようで。お手数をおかけして申し訳ありませんね」
「む……」
シャンディの言いぐさに腹が立った。誰のために大急ぎで仕事を探そうとしているのか分かっているのかと言いたくなる。
『ごめんね。本当はうちでよければと思ってたけど、話を聞く限り、黒須さんは紹介できないよ。うちにはもったいないし、もっと輝ける場所があるはずだから』
「……ありがとうございます、遙香先輩」
『じゃあ、ね。風邪とか引かないように気をつけて? 婚約者さんも』
「お気遣いありがとうございます。自粛が空けたらウチのお店にもいらしてくださいな。奥様とご一緒に」
二言三言交わし合って、ビデオ通話は終わった。
「ふて腐れないでくださいな、子どもじゃあるまいし」
今はシャンディの顔を見たくなかった。せっかくありつけそうだった仕事をシャンディの追い打ちで逃してしまったのだ。営業未経験でも歓迎してくれる貴重な職場だったというのに。
「……誰のために仕事を探してると思ってるの?」
「誰のためです?」
ころころと鈴を転がすような声にいら立つ。そんなことすら言わなきゃ分かってくれないのか。美琴はシャンディをにらみつける。
「貴女との生活のため。貴女の夢のため。式挙げたいんでしょ? お金がなきゃいけないんだよね? 分かってるの?」
「あんまりあたしをナメないでくださいな。挙式費用くらいすぐにでもキャッシュで支払えますよ。第一、費用なんて参列者のご祝儀でほぼ全額戻ってくるモノですし」
「だったらどうして邪魔するようなことするのよ!? そこまでして私を……飼いたいの!? 働きたいって言ってるんだよ、私は!」
「どうして働きたいんです?」
「試すようなこと言わないでよ……! 私のこと信用してくれたんでしょ!? そんなに私が働くのがイヤ!? 董子さんみたいに家庭に入ってほしい!?」
「あの方が家庭に入っているかどうかは疑問が残りますけれどね。早苗さんの行くところ、董子さんありという感じですし」
「ああもう……!」
あの家庭は事情が特殊過ぎる。参考にならない。
最近になって急激に積極的になったと思ったら、いつもの謎をまとったシャンディだ。今さら何を試すつもりなのか、美琴にはまるで分からない。
「美琴は、働くってどういうことだと思います?」
オマケに、禅問答か哲学じみたことを言い出される。答えなんて見つかりっこないし、悠長にそんなことを考えている場合じゃない。
今すぐにでも釣り合わなければならないのだ。シャンディほど稼げはしないだろうが、おんぶに抱っこの状況だけは避けたい。これ以上シャンディに金銭的な負担を強いたくない。
「そんなこと考えたって仕事に繋がらないから!」
「おろそかにしていい問題ではありませんよ。せっかく時間もあるのですから、ゆっくり考えてはいかがかしら?」
「そう言って、私に働いてほしくないだけでしょ!?」
「ええ。美琴にはずっと、おうち時間していてほしいですよ? これはあたしの本心」
「それはイヤだって言ってる! 自分で稼ぎたいの、対等になりたいの!」
「だからって仕事探しを妥協していい理由にはなりませんね。それに、稼ぎで対等かどうか決めるなら、貴女があたしと対等な関係になれる日なんて永遠に来ませんよ。うちの売上、月にいくらあると思ってます?」
「そういうことじゃない!」
「いーえ、一緒ですよ。今の貴女は、仕事がないという状況に焦っているだけ。仕事と戦っていたときの貴女は、焦ってはしていましたが輝いていましたよ? もうお忘れになったのかしら?」
アンティッカに通うようになったときのことを思い出す。
はじめて飲んだイチゴのカクテル《レオナルド》は、飴と鞭を体現したものだ。あの時はただただ貧乏くじを引かされたと思っていた次期主力商品の企画も、次第に熱が籠もっていた。モックを作る頃に至っては熱中していたと言ってもいいほどだ。
その後、小杉との事件で、美琴はあの企画そのものが我が子のように愛おしくなった。明治文具に勤めてきて初めて、仕事に誇りと魂を持った瞬間でもあった。
「じゃあどうしたらいいの……」
「それを考えるのが、このモラトリアム
また遊戯だ。美琴は項垂れる。何を見つけるのかなんてさっぱり分からない。分かったところで対等になれるとは思えない。
「……もういいよ、貴女には相談しないから」
「ええ、ご自身で考えてくださいな。どう転んでも、あたしは貴女を愛し抜きますのでそのおつもりで」
「ふふ」と意味深に微笑むシャンディから視線を背けて、美琴は自室の床に伏せった。スーツでは皺になるし、メイクのままカーペットに顔を埋めては化粧が移る。それでも、そんなことを気にする余裕すら、美琴にはない。
「……シャンディさんのバカ」
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