chapter #3 : Multae sunt causae bibendi
#57 : City Orange
四月。明朝。世田谷区経堂。
東向きのリビングに朝日が差し込んでいる。室内を満たす音は、テレビが垂れ流すニュース番組。換気扇の回転、ぐらぐら煮えるふたり分の味噌汁のお鍋。そして「なあお」と甘える声。
「ちょっと待ってねー、ミモザ」
すでに出社着に着替えを済ませたエプロン姿の女性――黒須美琴は、コンロを弱火にしてキッチン横の段ボール箱からネコ缶を取り出した。「早くなさい」と女王様のごとく高圧的なミモザの前に皿を饗したとたん、一足早い朝ご飯を一心不乱に貪り始める。
「食べ終わったらご主人様起こしてきてね」
美琴は指輪がきらめく指先でネギを押さえ刻みながら、ひとり言めいた声を投げる。すると食事を終えたミモザが「にゃおう」と声を上げて、リビングのキッチンそばからご主人様の寝室へ優雅に歩いていく。
そして。
「いったー!?」
ご主人様の悲鳴が響いた。これが朝の恒例行事だ。女王様ミモザの愛が籠もった「早く起きなさい」の挨拶は、惰眠を貪るご主人様をたたき起こす一切の甘えのない甘噛みだ。
その悲鳴を聞いて、キッチンに立つ美琴は嬉しくて微笑む。
本日の朝食は純和食。ふたり分のご飯と味噌汁、薄切りハムと目玉焼き。ただしサラダはひとり分。それらをリビングのローテーブルに並べ終えたところで、寝癖まみれの金髪を振り乱すご主人様が大あくびとともにのっそり現れた。着崩したパジャマの襟から白い右肩が覗いている。
「おあおうおあいあう……みころ……」
「おはよう、シャンディさん」
経堂2LDK同棲生活。
黒須美琴とシャルロット・ガブリエルの朝は、こうして始まることになる。
*
昨日。
美琴はとうとう町田のワンルームを引き払って、最低限の家財道具だけ持ってシャンディの暮らす経堂へ転がり込んだ。互いに踏ん切りがついたことと、《花のワルツ》事件で勢い余ったプロポーズの結果が、同棲生活の仕切り直しに繋がったのだ。
つまり今朝は、半婚約状態になった二人にとって初めて迎える朝。
忙しない朝支度を終え、出社時間が来るまでリビングで寛ぐ美琴の眼前に、ようやく目が冴えてきたであろうシャンディがコーヒーを差し出した。
「砂糖はひとつ、ミルクなし。熱いのでお気を付けて?」
「バーテンダーからバリスタに転職したの?」
「だってしばらくお休みなんですもの」
「ふああ」とシャンディは生あくびをひとつして、リモコンでテレビをザッピングし始めた。
どの局も取り扱う内容は蔓延している新型ウイルスの話題ばかりだ。三密とソーシャルディスタンスは確実に今年の流行語になるだろうとニュースを眺めながら美琴は思う。
この前代未聞の世界的大流行は、人々の暮らしを大きく変えた。影響は様々な場所へ飛び火している。
「《アンティッカ》を閉めても平気なの? お金とか」
「ええ、向こう半年間は遊んで暮らせる蓄えはあります。遊ぶ場所はほとんど自粛中ですけれどね」
「意外。シャンディさんが真面目にコツコツ貯めてたなんて。あと利益が出てたのも……」
「美琴以外にも常連さんはたくさんいますからね。最近は董子さんや琴音さんもちょくちょく顔を出してくれていましたし」
「そういや琴音がボヤいてたよ。遊びに出たトコをパパラッチされたら炎上するから迂闊に家から出られないって」
「ふふ。売れっ子は大変ですね」
正式に同棲を始めて環境が変わった美琴はもちろんのこと、身近な人達の暮らしぶりも昨今の情勢で大きく変化していた。
まずは、美琴と暮らすガールズバー《アンティッカ》のバーテンダー・シャンディ。密集・密閉・密接――三密の権化だとされたバーは長い臨時休業に突入する運びとなった。しかも法令上カクテルはテイクアウト販売できないため、シャンディにはやれることがない。ほぼ無職同然だ。
そして美琴の妹である女優・黒須琴音。公開を控えていた主演映画は上映延期、ドラマの撮影も延期、番宣のため出演予定だったバラエティも当然キャンセルで、舞台に至っては公演中止である。仕事は日替わりレギュラーを務める昼のラジオだけ。仕事が減ってヒマができたところで外では遊べないため、現在は横浜のマンションで不承不承引きこもり中だ。
「美琴の会社はお休みにならないんですね?」
「うちは出社しないと仕事にならないから。凛子さんとも話したよ、早苗さんの日比谷がうらやましいって」
同じサラリーマンでも影響は異なる。《明治文具》の従業員・美琴と凛子は、自社出勤と業務時間短縮は認められたが、テレワークは認められなかった。製造業はモノがすべてだ。工場が動き続ける限り、機械を触らないデスクワーカーの美琴や凛子も出社しないと仕事にならないのだからどうしようもないことだ。
一方、一流商社の《日比谷商事》勤務の早苗は、すでに先月の末からテレワークに突入している。週に一度だけ出社しているようだが、それ以外は基本的に在宅だ。
「仕事があるだけマシですよ。あたしなんてニートですもの」
「ホントに。従姉妹なんて先月内定取消喰らったみたいで」
「従姉妹?」
美琴はアルバムの写真をそのまま撮影した画像をシャンディに見せる。実家の母親からLINEで送られてきたものだ。
写真は十三年前の冬、祖母の暮らす愛媛に帰省した時に撮られたもの。制服姿の十四歳の美琴、十歳の琴音の間に、小学校低学年と思しき少女が映っている。
画像をしげしげと眺めて、シャンディは微笑む。
「血は争えませんね。黒須家は美人の家系ということかしら」
「お祖父ちゃんの葬式で会ったのが最後だから、今も美人かは分からないけど」
「お名前は?」
「
「ご挨拶しておいた方がいいかしら? これから親戚になりますよ、って」
「あ、いや……」
シャンディは髪を下ろしたオフの姿で、琥珀色の瞳を煌めかせている。夜の女ではない、美琴の恋人――半婚約者の顔だ。
一瞬で《花のワルツ》事件の結末が美琴の脳裏を駆け巡った。一気に顔が熱くなる。
「あらあら。あーんなにカッコよくプロポーズしてくださったのにお子ちゃまみたいに照れるんですね? ふふ」
「い、や……! そ、それを言うならシャンディさんだって恥ずかしがってたじゃない!」
「いーえ。あれはお芝居です」
くすくす笑って、シャンディはまた嘘をつく。あの照れよう泣きようが嘘であるはずがない。バレバレだ。
だが、美琴はすぐに嘘を追求するようなマネはしない。というより、シャンディの嘘に直面した途端、美琴の背筋が伸びる。つい言葉の応酬をしたくなってしまう、出逢った頃からのクセだ。
「……それはそれは。気づきませんでした。シャンディさんは私を信じてくださったものだとばかり」
「ふふ。あたしを信じさせる方法は何度もお話したはずですよ、美琴さん?」
妖艶でイタズラで美しいシャンディの思惑は、表情から伺い知ることはできない。嘘と謎で塗り固めた奥に潜む真意は、出会った頃から分からないまま。
それでも美琴は知っている。
シャンディは気位とプライドが高い女王様。素直に本心を語ろうとしない照れ屋なのだ。意味深な言葉の応酬、腹の探り合いの真相は、シャンディなりの回りくどくわかりにくい愛情表現。
「私が愛の言葉を囁き続ければよいのでしたね?」
「ええ、その通り。信じさせてくだ――」
「愛してる」
シャンディの発言を待たず、美琴は目を見て告げた。当然、分かりきった愛をわざわざ叫ぶのは気恥ずかしい。これではシャンディの思惑通り言わされているも同じだったからだ。
余裕をたたえた女王様を変えるには、美琴が思い切るより他はない。それは美琴がシャンディとの
「寝ぼけて気を抜いた貴女が好きです」
「貴女にだけ見せてあげる姿です。お気に召しました?」
「大好きです」
「…………」
シャンディは目を見開いて狼狽えた。
彼女を素直にさせる方法はただひとつ、美琴が自爆を覚悟して特攻すること。自身の顔色がどうなっているかなど美琴はもう考えない。ただ一点、シャンディの双眸だけを見つめてひたすら愛を吐き続ける。
「好きすぎて一緒に暮らしたくなったんです」
「そ、れはありがとう、ございます」
「貴女の朝ご飯を作れて幸せです」
「お、美味しかったですよ……?」
椅子から立ち上がって、徐々にシャンディに迫る。彼女の頬には朱が刺して、琥珀色の瞳は泳いでいた。美琴と視線を合わせてはくれない。大いに動揺している。
途端、シャンディも椅子を離れて、迫る美琴から距離を取るように後ろへ後ろへ、じわじわと後退していく。
「どうして避けるんですか、シャンディさん?」
「ソーシャルディスタンスです」
「同棲しても距離を取るんですね?」
「い、いえ。心の距離はとっても近いですよ?」
「でも、私が迫ると逃げますよね?」
「気のせいじゃないかしら?」
「近くで見つめられると恥ずかしいからですね?」
「さ、さあ……どうかしら?」
狼狽えるシャンディの姿が可愛らしい。後退するあまりとうとうリビングの壁に背を付けてしまったシャンディを、美琴が追い詰める。
「近くで見せてくださいよ、シャンディさんの綺麗な顔」
「……み、美琴さん? 恥ずかしくないんですか?」
多少乱暴気味に――以前、琴音が映画の中でしていたように、壁に手を押しつけてシャンディの逃げ場をなくす。壁ドン。
「こっちが恥ずかしいくらいじゃなきゃ、シャンディさんは信じてくれないでしょ!?」
「あ、あぅ……」
美琴はそのままシャンディの唇を奪った。触れるだけで唇を離した途端、今度はシャンディから濃厚な口づけを喰らわされる。温かく甘いシャンディの舌が、口の中に残ったコーヒーの風味を――それどころかこれから出社しなければならない労働意欲すら吹き飛ばす。朝から気が遠のく。ぼーっとして、本来は夜まで封じ込めなければならない欲望が顔を出す。
「……そ、そろそろ出なきゃ遅刻しそうだから」
このままだと欲望に負けそうだ。美琴はどうにか理性で労働意欲を取り戻す。だが、出社着であるカーディガンの裾をシャンディに掴まれている。
俯いているシャンディの表情は窺えない。
「あの、シャンディさん? 私はそろそろ……」
「……会社、休んじゃダメですか? あたし、我慢できないかも」
「ふぇ!?」
駄々をこねる子どもみたいなシャンディの言い分が可愛すぎて、美琴は変な声を出すばかり。途端、労働意欲がまたしても吹き飛んで、一日中愛し合ってしまいたい願望が顔を出す。
「……美琴」
それでも、仕事は大事だ。俯いたまま抱きついてこようとするシャンディをどうにか引き留めて、美琴は深く深呼吸した。今は忘れよう、今は。続きは仕事から帰ってからだと堅く誓う。
「と、とにかく私は出社するから!」
「仕事とあたし、どっちが大事なんですか?」
「い、やそれは!」
恐ろしい
途端、シャンディの唇が破裂する。
「……ふふ、あはははっ……! なーんて。言ってみたかっただけですよ」
「し、心臓に悪い冗談はやめてよ……」
「だってこの常套句、ちゃんと付き合ってないと言えないんですもの」
楽しげな笑顔を見せるシャンディに、美琴の心臓は飛び跳ねてばかりだ。これからは毎日、愛する人と同じ空間で過ごすことになる。それはとても愛おしく、そしてとても気恥ずかしい。
「さあ、お仕事がんばってきてくださいな。あたしは
「そうして……」
鞄を手に、玄関前の姿見で最終確認する。特に顔が真っ赤になってないか、口紅がズレてないか。見定めていると、パジャマ姿のままシャンディが玄関前まで見送りにやってくる。
「今日は何時に帰ります?」
「六時くらいかな。定時で上がれたら」
「晩酌は?」
「晩ご飯はって聞かないあたりがシャンディさんらしいね?」
「あたし料理はできないので」
「なら、スーパーで蕎麦でも買ってきます」
「引っ越し蕎麦ですね」
金髪、琥珀色の瞳。日本人離れしたシャンディの口から飛び出した、日本人でも忘れがちな伝統が、強烈なギャップで笑ってしまう。
「後は何かある? 私への注文とか」
「じゃあ、あたしにどんな下着を着けててほしい?」
「我慢できない」という先の発言の後に放たれた、下着の意味。それは帰宅した美琴に何が待ち受けているのかを暗に語るもので。
「も、もう……。そういうこと言うのやめて……仕事にならなくなる……」
「ふふ。あたしは下着の話をしただけですけれど」
くすくすと試すように笑うシャンディに、美琴は目を背けざるを得なかった。不意に視界に入った姿見には、なんとも恥ずかしそうな自身の顔が映っていて、余計に何も言えなくなる。
「ああ、そうです。なら、美琴があたしの下着を当てられるかどうか。それを今宵の
「な、なんでもいいから好きにして! 私もう行くから!」
「お気をつけて――あ、待って?」
玄関ドアを開けた直後、シャンディに呼び止められた。振り向いた美琴の視界に、シャンディの顔が飛び込んでくる。
そして、唇同士が触れ合わされた。的を外さない、不意打ちのキス。
「はい。行ってらっしゃい、美琴」
「い、行ってきます……」
玄関を出て、外から鍵を掛けた。途端、美琴は立っていられなくなって、マンションの廊下にへろへろとうずくまった。これまで見つめてきたバーテンダーとしての彼女とは、比較にならないくらいの強烈な愛情。それに完全に魅了されてしまっている。
「……私、完全にダメになってない? 大丈夫…………?」
情けなくなるくらいに幸せだった。完全に幸せボケだ。朝も夜も早苗にべったりひっついている董子のことを笑えない。
それでも、この生活を続けるために頑張ろうと美琴は意気込む。シャンディから向けられる愛を労働意欲に変えて、歩き出す。
「……あ、マスク忘れた」
歩き出したところで大事な忘れ物に気づいた。自身を守るため、さらには愛するシャンディを守るための必需品を取りに再び玄関ドアを開ける。シャンディの姿は玄関にはない。リビングに戻ってしまったのだろう。
美琴は町田から持ってきた引っ越し荷物の中に備蓄マスクを詰めたことを思い出し、自室の扉を開けると――
「……シャンディさん何してるの?」
「えっ!?」
――美琴のベッドに、シャンディが横になっていた。
さらに、寝転んでいるシャンディが抱えている衣服は。
「それ、私のパジャマだよね……?」
「そ、そうなんですか? 知りませんでした!」
「いや、さすがに言い逃れできないんじゃない?」
シャンディの顔は真っ赤だった。当然だろう。どんなにごまかそうとしたところで無意味だ。美琴のベッドで、美琴のパジャマを抱えているなんて状況、残り香を味わう以外の意図はない。
美琴は少し、イタズラ心を発揮したくなる。
「……私の残り香は愉しんでいただけました?」
「わ、分かってるなら触れないでくださいっ! 美琴のバカ!」
「はいはい、どうぞお好きに――ぶっ!」
イタズラの代償は、顔面めがけて飛んできた枕。
幸せボケもいいものかもしれない、と美琴は思ったのだった。
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