quiet talk #7 : Blushing Wolf / ep.1

 ホテル・マーベリックで仕掛けられた秘書課の罠、ダンスパーティーを美琴達が乗り越えた直後。

 赤澤と小杉、そして秘書課の顛末を聞かされた美琴達を待ち受けていたのは、琴音が手配していたミニバン型タクシーだった。車内に押し込まれた美琴とシャンディの後部座席には、微妙な表情の凛子が一足先に座っている。訳を尋ねようとしたが、さらに車内には早苗と董子が押し込まれて状況が飲み込めない。やたら不機嫌そうなバニーガール姿の早苗の一方、董子は終始にこやかな看護師姿だ。

 これで車内はドライバー除いて五名。助手席に琴音が乗り込んで、行き先を告げた。


「とりあえずみなとみらいまで。あとは道案内します」

「なんでわざわざ横浜なのよ?」

「打ち上げ!」


 車内――事前に聞かされていた凛子以外が同時に声を上げたのだった。


 横浜・みなとみらい。タワーマンション中層階。

 玄関すぐの廊下には、六人分の手荷物が並んでいた。


 琴音いわくの打ち上げ会場は、芸能人ゆえの事情か琴音の自宅マンションだった。初めて敷居をまたいだシャンディは「上客を見つけた」と商魂たくましく瞳を燃やし、流れで連れてこられた柳瀬妻妻ふさいは無造作に置かれたアカデミー賞トロフィーなどにいちいち反応して声を上げていた。

 一方で、すでに何度か足を運んでいる美琴と凛子は、着たままだった正装から私服に着替え、ソファに腰を落ち着けている。ウェルカムドリンクは六人分のグラスがないのか、ピクニック用のプラコップに注がれた水だ。役目を終えたウォーター・サーバーがごぽぽと音を立てた。


「んじゃ、水しかないけどとりあえずお疲れ!」


 乾杯、とコの字型のソファに座った一同がコップを触れ合わせる。広々としたリビングは六人居てもなお余裕がある広々とした3LDKだ。

 遠慮する一同を横目に、自宅か実家かとばかりに遠慮なくソファに体を沈めていた美琴に、董子が楽しげに声を上げた。


「はい! 黒須さんとシャルロットさんは仲直りできたんですか!?」

「不躾に聞くのは失礼ですよ、董子」

「や、それは私も気になってたんだよね? どうなん?」


 ほとんどコスプレ状態だった早苗と董子も、今は私服に着替えている。そこへ琴音がオフショル仕様のブラを外しながら続けた。自宅であり、撮影で慣れている。人前で半裸を晒すことに抵抗はないのだろう。凛子だけは目を背けていたが。


「ああ、いや……」


 《花のワルツ》の顛末を思い出し、美琴は言い淀む。仲直りしたついでに婚約に近いことまで取り付けたとはさすがに恥ずかしくて言い出せない。

 そんな美琴を察してか、隣に座っていたシャンディが抱きしめてくる。ワンピース代わりの薄手のロンT――琴音に借りたもの――から柔らかい温もりが伝ってきた。


「仲直りどころかもっと仲良くなりました。ね、美琴?」


 二人以外が――無感情この上ない早苗までが驚愕とも感嘆とも取れる声を上げた。シャンディを嗜める間もなく、琴音と董子がニヤニヤと笑っている。


「カッコよかったんですよ? あたしを抱いて、健やかなる時も病める時も~って」

「それ実質プロポーズじゃない! 式はいつ!? ご祝儀は!?」

「へー? やるじゃんクソ王子」

「クソでも王子でもない」

「ふふーん、あたしの勝ち。どうです? うらやましいですか、凛子さん?」


 凛子は何も言わずシャンディの両頬をつねっていた。


「ふゅふゅふゅ~。ふぇんふぇん痛くありまふぇ~ん」

「はいはい、やめなさい」


 これ見よがしに凛子を煽って愉しむシャンディを留めて、凛子の顔色を窺った。むすっとはしているが、今にも怒って飛び出しそうな様子ではない。他に人も居るから弁えてはいるのだろう。

 ふと見た壁掛け時計は午後十時を指していた。同じく視線をやって早苗がソファを立つ。


「すみません、長居をする訳にもいかないので我々はここで」

「いーじゃんいーじゃん、泊まってきなよ? 姉ちゃん達は泊まるでしょ」


 話を聞く限り、柳瀬家はここから三十分程度の武蔵小杉だ。一番遠い北千住住まいの凛子でも、終電にはまだ余裕がある。


「まあ私はいいけど」

「ええ。凛子さんはどうします?」

「……私帰る」


 立ち上がった凛子を、琴音が咄嗟に引きずり倒した。ちょうどソファに座る琴音の上に凛子が覆い被さるような格好だ。


「はい、凛子ちゃんは帰さない」


 琴音に見つめられて、凛子は解読不能な叫び声を上げて悶えていた。その様子をつぶさに観察した董子が「ことりん!」とこちらも意味不明な奇声を上げている。なかなかにカオスな状況だ。


「じゃー私達もお言葉に甘えちゃいまーす! 明日は早苗お休みだしね!」

「はあ……。ではお世話になります……」

「ん! じゃあ姉ちゃんコンビニ行ってきて。私コーラとポテチね、コンソメ! で、シャン姉はプロポーズのことじーっくり聞かせて?」

「ええ、喜んで。あたしは《シャンディ・ガフ》の材料と……あとでLINEしますね」


 横暴な妹・琴音を前に、美琴はもう抵抗する気にもなれなかった。プロポーズを――結婚は勢いという言葉の通りしてしまったのは事実だ。その場でシャンディにエピソードを擦り倒されるのも気恥ずかしくて、美琴は着の身着のままリビングを後にした。


 *


「ごめんね、買い出し……というか琴音に付き合わせちゃって。早苗さんも」

「うん大丈夫シャルロットと同じ空気吸いたくないだけだから! 大丈夫、親友だから!」

「どう大丈夫なのか分かりませんが、私のことはお構いなく」


 結局、買い出し班と恋バナ班は三対三に分かれた。何度となく遊びに来ていて勝手知ったる美琴が向かうのは、マンションからほど近いコンビニだ。LINEで次々と送られてくる注文や「さっきウーバーで頼んだからいらない」と指示された品を買い物カゴに入れたり出したりで忙しい。

 自分用のものだろう、桃味の《ほろよい》缶を取って凛子が懐かしそうにつぶやく。


「宅飲みなんて久しぶりかも。学生の頃思い出しちゃった」

「試験前とかね。過去問もってる友達の家にみんなで集まってさ」

「そうそう、勉強もしないで飲み始めちゃうんだよね!」

「え……試験前は勉強をするものでは? それに、過去問……?」


 早苗は心底驚いた様子で、意気投合した二人を眺めている。真面目一筋で歩んできたゆえだろう。過去問に頼らず試験を乗り切った早苗の姿が美琴には容易に想像できた。


「早苗さん……」

「友達いなかったんだね……」

「董子がいれば充分ですので」


 若干むすっとした調子だが、早苗はもう生涯ただ一人のサムワンを見つけている。早苗の薬指で煌めく証が美琴にはうらやましい。それは傍らで話していた凛子も同じだったようで。


「いいなー。私も早苗さんみたいに好き好き言われたいー……」

「鬱陶しいと感じる時もありますよ。電話中に邪魔してきたりしますし」

「それ全部自慢に聞こえるー……」


 がくりと肩を落とす凛子に、早苗が尋ねる。


「白井さんの好みはどのような人なんですか?」

「……ん」


 踏み込んだのは地雷原だが、早苗は当然そんなこと知るよしもない。凛子が伏し目がちに指さしたのは美琴だった。


「ありがとね、凛子さん」

「うん、ごめん……。まだ吹っ切れないよ……」


 二年もの間ずっと想ってきた気持ちは早々吹っ切れるものではない、と美琴も思う。二人の機微で早苗も事態が飲み込めたのか、申し訳なさそうに目配せと妙なフォローをくれた。


「……黒須さんが董子のようにベタベタひっついてくるでしょうか?」

「そうなるようにしたかった……けどもう売約済みなんだよね。あの女よりも大切にできる自信あったんだけどなー……」

「乗り換えるなら今ですね?」

「からかわないでくださいよ」


 不気味に笑う早苗を制して、とりあえず人数分の買い物を続ける。

 ビールに缶チューハイ、日本酒。そこまで酒に強い訳ではない美琴には、縁遠いものだった。そもそも社会人になってから、仕事の流れ以外で飲むことはほぼなかったのだ。仲の良かった学生時代の友人達とは定期的に連絡を取ってはいるが、皆全国津々浦々に散らばって会うことも年に一、二度。

 それが変わったきっかけはなんだろう、と美琴は考える。


「あ。白桃と黄桃のミックスグミだって」

「その新作なかなかでしたよ。果汁グミには敵いませんが」

「ね! やっぱり果汁グミは最強だよね。バリエーション豊富だし」


 お菓子コーナーでグミ談義に花を咲かせる凛子や早苗と、私服で、プライベートで買い物に出かけるような仲になるとは思わなかった。今は恋バナの最中であろう董子もだ。

 彼女らを引き合わせ、繋ぎ止めてくれたきっかけは。

 そこまで考えて、美琴の脳裏に彼女の顔がよぎる。


「……楽しいな」


 ひとりでに口からこぼれた言葉が、胸を温かくする。さしたる成果も上がらず、あれだけ「最悪」と思っていた仕事も今は順調で、よく分からぬうちに出世コースに乗っている。それは決して美琴だけのチカラではない。支えてくれた周囲の人達と、一番に世話を焼いてくれた人がいたからだ。


「黒須さん、残りの品は?」

「あ、ああ。そうですね、《シャンディ・ガフ》の材料と、ウォッカ、ジン。あとは適当なジュースを、と」

「いるよね。宅飲みで張り切ってバーテンごっこする人。あれ逆にカッコ悪いって思わないのかな?」

「白井さんとはよいお友達になれる気がします」

「うん! 打倒シャルロット!」

「そうですね!」


 瞳に炎をメラメラと燃やす二人は見なかったことにして、美琴は会計を済ませた。大半が酒とジュースで重たいビニール袋を引っさげて、夜のみなとみらいを歩いていく。


「……あ、すみません。頼まれたプリンを買い忘れました。ちょっと行ってきます」

「ここで待ってますね」

「お願いします」


 小走りでコンビニに駆けていった早苗を、凛子と共に待つ。

 まだ肌寒い三月の下旬。晴れ渡った夜空には、琥珀色の月。岸壁に打ち寄せる波の音がちゃぷちゃぷと飛沫を上げている。

 二人きりになった途端、凛子が身を寄せてきた。すでに香水は消えかけていて、潮の香りだけが鼻腔をくすぐる。


「……ホントに好きだったんだよ」


 それが凛子の本心であることは、美琴にも痛いほど分かっている。

 凛子には特別な感情を向けられない。好きではない人から向けられる好意の味は、美琴にとってあまりに苦かった。


「想ってくれてるのは嬉しいよ」

「脇目も振らないくらい一途なんだね。ハーレムの件、実はすごく悩んだんだよ? 二股かけられてもいいなんて思っちゃったし」

「ごめんね」

「うー……あんまり謝らないで! 思い出して泣きそう……」


 琴音とのダンスで明かされた通り、凛子の苦しみは壮絶なものだったはずだ。すっぱり関係を切るか、関係を続けるかで悩んだあげくに取った選択肢は、美琴と凛子双方の痛み分け。会って言葉を交わすたびに、フったフラれたの出来事と「これからは親友」という鎖で締め付けられる。


「……でもね。親友になりたいって言ってくれて嬉しかった。私って昔から、その気のない女の子ばっかり好きになって。しかも我慢ができない性格だから告白して……失敗して」

「前に聞いたよ」

「うん……。ちょっと戸惑ってるの。私の恋愛っていつも友達を失うことだったから。恋愛感情として好きなまま、友達で居続けることって経験なくて」


 一拍おいて「だからね」と凛子は続ける。


「またもし私が告白したら、容赦なくフってほしい。でも友達ではいてほしい。これってワガママ?」


 胸が痛む。凛子の気持ちを背負うと決意した以上、美琴に選択の余地はない。

 親友であり続けたいなら、辛い言葉を拒むことはできない。


「いいよ、何度でもフってあげる」


 凛子が抱きついてきた。柔らかく、熱いくらいの体温に抱かれる。一瞬、琴音の発言が脳をよぎってかき消した。美琴は背中に手を回さなかった。


「大好きだよ、美琴さん」

「ありがとね」


 好意を感謝の言葉で受け流す。「ごめんなさい」と言えない、言いたくないのが美琴の優しくも弱い部分で。代わりの「ありがとう」での遠巻きな拒絶はやはりちくりと胸を指す。


「……親友ってどこまで許される?」

「どういうこと?」


 凛子がきつく体を抱きしめてくる。


「ハグするのは親友?」

「ハグはOKじゃない? 今してるし」

「……あの人の前でも?」

「それは……シャンディさん次第」

「じゃあ手を繋ぐのは?」

「それくらいはいいよ」

「恋人繋ぎは?」

「……待って。その辺から怪しい気がする」

「だよね、私もそう思う!」


 がばっと勢いづいて美琴から離れると、凛子はうんうん唸りながら親友と恋人の線引きについて考え始めた。友達以上恋人未満の微妙な距離感は、つかみ所が難しい。


「二人で遊びに行くのは?」

「それは普通に友達でしょ」

「私がデートだと思ってても?」

「私にとっては友達と遊ぶだけ」


 「むう……」と少し不機嫌そうに唸って、凛子はさらに線引きの仕分けを続ける。それがなんだかおかしくて、美琴は微笑んでいた。


「じゃあ、二人で別々にクレープ買ってシェアするとして。美琴さんが食べてるのに噛みつくのは?」

「凛子さんのも貰えるなら」

「でもそれ間接キスになっちゃうよ?」

「子どもじゃないんだから」

「私は気にするんだけど!」

「私は気にしない」


 凛子は何か閃いた様子で、目を見開いて仕分けを続けた。


「じゃあ……キスは?」


 ほんのりと悪いことを企んでいる本心が顔を覗かせている。

 美琴は当然即答した。


「ダメ」

「唇以外なら? 手の甲とか頬とかおでことか」

「されたことないから分からないって」

「じゃあ試す。……手から」


 買い物袋で塞がった手に、凛子が屈んで口づけをする。柔らかな唇が触れた手の甲が少しくすぐったい。


「……どう?」

「まあ、そこまで嫌ではないけど……」

「なら次は頬」


 今度は頬に軽く唇が触れた。凛子の顔が近づいた途端、どこか警戒してしまう気持ちが湧き上がることに美琴は気づいた。パーソナルスペースに侵入されると気を揉む。シャンディの顔が脳裏をよぎる。


「頬はダメかな……」

「おでこは?」

「いや、たぶんダメ。というかキスしたいだけでしょ」

「あは、バレた」


 申し訳なさそうに笑って、凛子は熱っぽい息を吐く。美琴は拒絶したが、それでも凛子は仕分けを続ける構えだ。さらに踏み込んでくる。


「……いっしょに寝るのは?」

「ダメだってば」

「ただ寝るだけ! 添い寝!」

「どういう状況なのそれ……」

「もしキャンプ行ったら同じテントで寝るよね!?」


 それなら、と納得しかけた美琴だったが、それはそれで問題がある気もする。


「まあ……それならいいけど……」

「じゃあもし! もしもの話なんだけどその時に――」

「そういうこと考えるならキャンプは行かない」

「ごめん、そうだよね!? じゃあ、えっとえっと……」


 凛子は大慌てだ。彼女にとっては、また美琴にとっても初めての親友・恋人の仕分け作業。シャンディと約束した手前恋人にはなれないが、凛子と約束した手前親友でいないといけない。

 そのための作業ならば、協力したい。協力してあげたい。


「合意があったら!?」

「いやいや、普通に考えれば分かるでしょ……」

「そのが分からないから聞いてるの!」


 協力したいと思った途端、踏み込みすぎの勇み足だ。普通の経験がないからこそ、しっかり線引きをしないといけない。それもまた凛子のため。


「合意はしません。シャンディさんだけ」

「あの人が許すって言ったら?」

「言うわけない……とも言い切れないのが怖いところだけど。許したって凛子さんとはできません」

「抱きしめるだけなら?」

「挨拶のハグ程度ならいいって言った」

「マッサージは? 肩とか足とか」

「肩はたまに揉んでくれてたじゃない?」

「じゃあ全身は? 私オイルマッサージ上手だよ!?」

「……変な気持ちになるやつじゃないなら」

「変ってどんな!? 美琴さんはどんな気持ちになっちゃうの!?」

「だ、だからそれは……」


 逆に美琴の方が恥ずかしい。線引きどころか性癖を引き出されて詰められているような気がする。


「……ていうか、そんなに私としたいの?」

「したいよ! 美琴さんの綺麗な顔が蕩けるところ見たいのっ!」

「うぇ」


 全力の告白に、変な声が出てしまった。全身の血液が顔に上ってくるのを頭をぶんぶん振って撒き散らす。


「……親友はそんなことしません」

「そうだよね、親友とはそんなことしないよね。わかった……」


 しょんぼりする凛子を見て、本当にわかったのかと若干不安になる。とは言え、美琴は凛子を信じることにする。極端に迫られたらフるしかない。不可抗力――どうしようもない事態があった時は、それはまた別の問題だ。


「……ありがとう美琴さん。これで気持ちの整理がついた」

「大丈夫そう?」

「今はまだ、もどかしいけど……。親友で居られなくなる方がイヤだから」


 告げると、凛子は朗らかに笑う。


「好きだよ、親友として!」


 それはこれまで何度も凛子が言われてきたであろう別れの言葉だ。友人としての好きだいう宣言で、愛情どころか友情まで壊してしまう滅びの呪文。

 だがきっと、今の言葉は違う。美琴と凛子の関係はずっと続いていく。だから今は痛いこの胸もいつかは癒えればいい。ただ破談になるよりその方がずっといいと美琴は信じる。


「私も。親友として」

「……青春してましたね。二十七歳児ですか」


 背後から早苗のじっとりとした瞳が覗いていた。口元が不気味に歪んでいる。美琴は慌てて釈明せざるを得なかった。


「た、たまには童心に返ることくらいありますよ」

「そうですか。悪事はバレないようにやってください、黒須さん」

「何もやってませんから!」


 「戻りましょうか」早苗の言に手を引かれ、美琴は琴音のマンションへ向かって歩き出す。肌寒い夜でも妙に体が熱いのは、凛子が仕掛けてきた仕分けのせいではない。あくまでもシャンディしか愛す気がないという自身の気持ちに気づけたからだった。

 琴音宅、エントランスで部屋番号を押して解錠を待つ。自動ドアを抜けて、17階。1709号室の表札には当然ながら何も書かれていない。と言うより、フロアの住民ほぼすべてが律儀に表札など出していなかった。そんな酔狂なことをしているのは、琴音の隣人である1708号室の『犀川さいかわ』という者だけ。


「買ってきたよー」


 玄関で靴を脱ぐ。その時美琴は妙な違和感に気づいた。


 ――靴が一足増えている。


「お疲れ姉ちゃん。早速だけどやろうぜ、遊戯ゲーム!」

「は?」


 リビングに通される。そこには先の三人の他、もうひとり。美琴の見知らぬ女性が居た。

 長く艶めく淡い色の黒髪。ほとんど骨と皮しかないのかと見紛うほどのほっそりとした女性。


「紹介しますね、美琴。こちら琴音さんの隣人の犀川ひふみさん。同じ事務所の後輩で、シンガーソングライターさんだそうです」


 犀川ひふみ。職業はシンガーソングライター。あいにく美琴はその名を知らなかった。若い世代に人気のミュージシャンなのだろうか。

 目を合わせ、軽く会釈をする。人物紹介はすでに終わっているのか、ひふみは美琴達三名をひとりずつ指さしながら名を呼んでいく。白魚のごとき細い指で早苗を指さした後、続ける。


「……貴女が、美琴さん……?」

「え、ええ。そうです。妹がお世話になってます、黒須美琴です」

「…………そして、凛子……さん……」

「そうですけど、何か?」


 ひふみは物静かな雰囲気を漂わせている。もしミュージシャンだと明かされていなければ、作家か文学少女か何かだと勘違いしてしまったかもしれない。それくらいに、内に感情や執念を秘めているように美琴には見えた。


「そう……」


 かなりの間を置いて、消え入りそうな声でひふみは微笑んだ。


「……美味しそうね」


 ぞわ、と背筋に冷たいものが奔る。

 目元を覆うほどに伸びた前髪の奥にあるひふみの双眸は、窺えない。


「……あの女、狙ってるよ。気をつけて」


 耳打ちしてきた凛子のささやきがすとんと腹に落ちた。美琴より経験豊かな凛子には、女を狙う女の纏う空気感が察知できるのだろう。

 不意にシャンディに目を遣った。琥珀色の瞳は揺るぎない満月。相変わらず本心は読めないが、何かを試そうとしているように見えなくもなかった。

 美琴はとりあえずシャンディの隣席に腰を納め、これ見よがしに彼女の背に手を回す。身を預けてきた彼女の温もりとオレンジの香りがなければ、この警戒心はそう晴れない。

 美琴は話題を逸らすべく琴音に尋ねる。


「それで、遊戯って何?」

「それはねー?」


 もったい付けた琴音に代わって、肩を抱いていたシャンディが「ふふ」と微笑む。そして。


「がおーう」


 そのまま、美琴の首筋、喉笛にシャンディが噛みついてくる。甘噛みではあるが、ひふみに怯えていた手前、美琴の背筋はひたすらに凍った。


「あーあ、姉ちゃん死んじゃった。シャン姉はなんだから気をつけなきゃダメじゃーん?」

「ライオンの方がいいんですけどね、個人的には」

「どういう、こと……?」


 尋ねたところで、ひふみはテーブルに六枚のカードを並べていく。イラスト付きのカードはそれぞれ《村人》が二枚、《占い師》、《狩人》、《狂人》。そして最後の一枚は――《人狼》。


「今宵の遊戯は、《人狼ゲーム》。愉しみましょう、美琴?」


 ――かくして、犀川ひふみをGMに招いた六人制遊戯・人狼が幕を開けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る