#56 : Valse des fleurs

 赤澤は走っていた。

 小杉を納得させるための計画は、謎の仮面の女の登場で完全に頓挫した。

 最悪の事態だ。

 これでは、美琴と踊った《仮面舞踏会》の解釈が変わってくるのだ。あの嫌がらせのダンスの目的は、美琴のたどたどしい足取りを笑いものにすることだ。秘書課を守るため、そして個人的に付き合いのある小杉を納得させるため、何度となく失敗するようリードしたのだ。

 それがすべて、仮面の女の登場で裏目に出た。

 会場の観客は、彼女の芝居に魅入っていた。それだけならまだよかった。だが彼女に、赤澤は魔女呼ばわりされた。

 計画を潰され、顔に泥を塗られた。完全に悪役に堕とされたのだ。


「……許さないわよ…………!」


 ホテル・マーベリック15階。自身の名で予約したセミ・スイートの1508号室。震える手で鍵を解除しドアノブをひねった赤澤は、怒りのままに叫んだ。


「ブッ殺す……! 殺してやるッ……!!!」


 セミ・スイートの廊下を抜け、小杉を縛り付けた寝室へ向かう。鞄に忍ばせた果物ナイフのカバーを投げ捨て、勢いそのままに突き立てようとし――


「ダンスは楽しめましたか、赤澤さん」

「やっほー! 来瞳ちゃん久しぶり~」


 ――赤澤は絶句した。

 椅子に固定されたまま泣き叫んでいる小杉の両脇に、《総務の猟犬》柳瀬早苗と、その妻である元・日比谷総務課・柳瀬董子が立っている。


「なんっ――なんで居んだよ! 退けよ! あたしはそいつをッ!」

「結論から言います。こんなクズごときのために手を汚す必要はありません」

「はあ!?」


 動揺する。瞬間、手からこぼれ落ちた果物ナイフを、董子が割り込んで蹴っ飛ばす。一瞬で武装解除させられ、その上に董子に後ろ手を掴まれ身動きが取れない。


「はっ、離してよ痛いんだけどぉ!?」

「見て見て早苗! 通信教育の護身術が初めて役に立ったよ!」

「そうですか」


 逼迫した事態にも関わらず、背後で董子は楽しげに笑っていた。

 声にならない声を上げ続ける赤澤に対して、早苗が口を開く。


「すべて聞きました。赤澤さん、貴女はこのクズに弱みを握られていますね。それはおそらくか何かでは?」


 その言葉に、赤澤は言葉を失った。抵抗する気すらなくなって、腰から床に倒れ込む。

 隠し通してきた、事実だったからだ。


「貴女は本来、日比谷に入社できる人間ではなかった。弊社には相当の学歴信仰が根付いている。貴女の学歴では一次面接の段階で篩にかけられるでしょう。貴女が入社できたのは、何者かのチカラが働いたから」

「そうよ。それが小杉よ! そいつは――」

「皆まで言わずともよいです。それ以上傷口を広げないでください」


 慇懃無礼、なんの感情も籠もっていない淡々とした早苗の言葉が、小杉に味わわされた強烈な屈辱をわずかに鎮める。思い出しただけで押し潰され、狂いそうになるほどの嫌悪感。赤澤が小杉に従わねばならない理由の根源だ。

 早苗は赤澤を刺激しないよう、正確な事実の言及を避ける。


「……ともかく、過去の過ちのために小杉に従わざるを得なかった。小杉は、企画泥棒の疑いが晴れて本社復帰が叶えば、例の動画を削除すると約束したそうですね?」

「そうよ……失敗したけれどね……」

「仮に成功していても、その約束が果たされるとは思えません」

「……分かってるわよ。だから、殺そうとしたんでしょ……!」

「分かりやすい女ですね。推理のし甲斐もありません」


 暴れようにも、董子の拘束はまるでほどけない。なぜか看護師姿の董子にがっしりと組み伏せられたままだ。


「話を進めます。赤澤さん、助けてほしいですか?」

「アンタの助けなんて借りない! そいつはあたしが!」

「違います。ただ殺すよりもより強烈な苦痛を与え続けたくはないかと尋ねているんです」

「な、に……?」


 早苗は器用な手さばきでバタフライナイフを操ってみせた。そして刃を首筋から胸、腹部と降ろしていき、腰の辺りで止める。


を切り落としてみるのはどうでしょう?」


 早苗の発言に小杉は無様に泣き叫んだ。「それだけはやめてくれ」とばかりに頭を左右に振り乱し、必死で懇願している。


「あまりに激しく抵抗すると、うっかり切り落としてしまいますが」


 小杉は途端に硬直し、静かになる。そのあまりにも惨めな姿が、赤澤の鬱憤をわずかばかり霧散させる。


「……やってくれるの、アンタが?」

「ひとつ条件があります。私の部下になりなさい、赤澤来瞳」


 突然の意味不明な提案に、来瞳は返答ができなかった。

 入社直後の新入社員研修の頃から、同期の早苗は理解できなかった。思考のステップが飛躍しすぎていて意図が分からない。


「どういう……意味……?」

「結論から言えば、私が上層部から受けた秘書課の解体は失敗に終わったのです。そもそも面倒な社交界の掟など、ただでさえ忙しい総務課員に負わせるべきではない」


 赤澤は思い出す。赤澤が悪役に堕とされたエキシビション・ダンスは、何も知らぬ人々から見ればサプライズだ。美琴と仮面の女が最後までうまく立ち回れば、あの演出で来賓を愉しませた秘書課の株は下がるどころか大いに上がることになる。


「とは言え、秘書課の増長は捨て置けない。だから貴女には秘書課に籍を置いたまま、私に情報を流してもらう」

「つまり早苗のスパイってこと。いいな~、女スパイ! 私もなりたーい!」


 部外者なのに潜入している時点で似たようなものだろうと赤澤は思う。


「小杉への制裁の対価は、貴女がスパイとなること。この上なくウィンウィンだと思いますが、いかがですか?」


 来瞳はようやく事態を飲み込めた。

 柳瀬早苗は、自身を助けようとしている。小杉を手にかけようとした来瞳を止めるばかりか、制裁を肩代わりしようとしている。


「……それと、私の部下に貴女に惚れている者がいます。小心者で頼りない男ですが、貴女を救うためならと自ら志願してくれました。感謝のひとつでも伝えてやってください」

「慰めのつもり……?」

「どう受け取るかは貴女にお任せします」


 赤澤は静かに告げた。


「なら……助けて、よ……」

「承知しました」


 早苗はナイフを持つ手を振りかぶった。声にならない声を上げる小杉の股間めがけてナイフを突き立て――ようとしたところで腕を止め、スマホでどこかへ電話をかける。

 小杉は恐怖のあまり気絶していた。あふれ出た恐怖から黄色いシミが広がっている。


「……柳瀬です、終わりました。秘書課の解体には失敗しましたが、内部に協力者を得ました。ちょうどいい落としどころだと考えます」


 董子の拘束が解けた。床に這いつくばった赤澤の頭を、董子が優しく撫でている。


「くわえて小杉の余罪が発覚しました。至急彼の自宅を捜索し、証拠を回収させます。身柄については社長に一任……なるほど、セントヘレナ支店長就任ですか。素晴らしい、いえ、人事異動だと思います。それでは」


 早苗は電話を切ると、小杉を拘束していたロープをナイフで切った。気絶した小杉は黄色の水たまりの中に顔からダイブしていった。


「……終わりました。これで貴女は私の部下です」

「切り落とすんじゃなかったの……?」


 問いかけに、早苗は不気味に笑って答える。


「弱みを握っていいのは、弱みを握られる覚悟のある者だけです。その覚悟がある小杉には、終わりのない労働の悦びにむせび泣いていただきましょう」

「なに、それ……?」

「セントヘレナ支店はこの世の地獄ということです。董子、注射器の回収を忘れずに」

「抜かりないよー」


 董子は空の注射器を手のひらの上で弄んでいた。看護師姿なのも相まって、本物の看護師に見えてくる。


「……毒でも盛ったのぉ?」

「利尿剤! 刺すの怖くて飲ませたけどね~」


 赤澤の怒りは、二人の柳瀬の行動にすっかり上書きされてしまった。

 いったいなんなんだ、このめちゃくちゃな婦婦ふうふは。


 *


 チャイコフスキー作曲『くるみ割り人形』より、《花のワルツ》。

 同名のバレエの象徴的な曲で、美琴の耳にも馴染んだもの。先ほどのワルツと同等かそれ以上にテンポの早い曲の中で、美琴は仮面の女――シャンディを抱きしめる。


「先ほどと同じフィガーで。あたしがいくつかアレンジを加えますので、美琴さんはとにかく転ばぬように。できますか?」

「それが貴女の頼みなら」

「ふふ、なら踊りましょう」


 予備歩。そして同時に一歩を踏み出す。ようやくテンポとステップが美琴の体感に落ちた。見た目は褒められたものではないだろうが、先ほどまでのように転ぶことはない。

 観客の拍手に、感嘆の声が混じっていた。シャンディのステップとひらひらと舞うドレスが人々を魅了している。


「美琴さん」

「なんでしょうか」

「……美琴」

「だから何?」

「呼んでみただけですよ」

「しばらく呼べなかったから?」

「ええ、本当に……寂しかったですよ」


 シャンディのささやきが心をくすぐる。それが本心から出たものかどうかは分からない。分からないが、美琴はもう彼女を信じて愛すると決めた。

 心が温かい。愛する人を抱いて踊ることが、これほど心地よいとは思わなかった。


「美琴はどうですか?」

「……寂しかったに決まってるでしょ」

「ふふ。本当に好きなんですか?」

「疑いすぎ」

「あたしが他人を信じられないのはもうお分かりでしょう?」

「人間不信みたいだしね」

「ですから美琴にはずーっと、愛を囁いてもらわないと。あたしが貴女を疑わずに済むように」


 美琴の手を取って、シャンディはくるりとその場でターンしてみせる。華やかで可憐、《花のワルツ》に相応しいステップやターンを決めるたびに、会場から拍手が巻き起こる。


「ワガママな女王様だよね」

「そんなワガママに恋をしたお子ちゃまはどなた?」

「そんなお子ちゃまを選んだのは誰?」


 オウム返しの言葉の遊戯。一週間ぶりの愛の交換がひどく懐かしくて嬉しい。シャンディもそれは同じなようでわずかに頬を紅潮させて、瞳を上弦に歪める。

 ただ、美琴にはまだ言わねばならないことがある。言わせなければいけないことがある。


「その前に。私に何か言うことは?」

「あたしが何かしちゃったかしら?」


 謝る気はない、悪い女の顔だ。

 それを変えたい。少しは素直になって欲しくて、美琴はさらに詰め寄った。


「今度こそ信じられなくなるよ?」

「それは困りますねー」

「困るね。こんなに愛してるのにまだ足りない?」

「足りませんね。欲張りなので」

「……大好き、シャンディさん」

「…………」


 シャンディが胸元へ顔を埋めてくる。顔を見られるのを嫌がっているその仕草は、何度か見たことのある彼女なりの恥じらいの表現。熱っぽいため息をひとつして、彼女は続ける。


「あたし自身信じられませんよ……」

「何が?」

「こんなに誰かを好きになったことはありません。貴女を失った一週間は生き地獄とも呼べるもので……」

「寂しかった?」

「ええ。美琴は?」


 いじらしい素振りを見せて、シャンディは言葉を弄んでいた。が、美琴は気づいていた。結局この思わせぶりなやりとりは、ダンスのフィガーのごとく始めに戻って繰り返されているだけ。

 シャンディは意地でも謝ろうとしない。


「……あのさ、ちょっと頑固すぎない?」

「あら、どうして?」

「一言謝れば済む話だよ?」


 指摘した途端、シャンディは言葉を濁した。どんな抵抗の言葉が飛び出すかと構えた美琴の耳元に囁かれたのは予想外の、そしてひどく申し訳なさそうな言葉だ。


「……謝っても許してくれないと思ってたから」


 彼女が会話をループさせていた理由は、謝りたくない訳ではなかった。彼女がリドル・スミスの姿を借りていたときに、告げたとおりの理由。


 恋人を信じられなくなるなんて、些細なものじゃない。


 美琴がシャンディを信じられなくなる。彼女はそれを、美琴自身が思っていた以上に恐れている。


「言ったでしょ、誠意をもって謝ればいいって」

「本当に、許してくれるんですか? ひどい悪ふざけだったんですよ……?」


 踊りながら尋ねるシャンディの瞳は涙で潤んでいた。口では殊勝な言葉を吐き続けていたシャンディがどれほど不安だったのかは美琴にもよく分かる。まったく同じ想いを、美琴もシャンディに対して抱いたのだから。


「許してほしければどうすればいいと思う?」

「土下座とか……?」


 弱々しく曇ったシャンディの顔色を見れば一目瞭然だ。《花のワルツ》を舞い踊る中、どうやって土下座するつもりなのだろう。こんな状況では普通は出てこない発想だ。


「土下座って、ふふっ……」

「わっ、笑わないでください! あたしは本気で……謝れるものなら謝りたいんです……」

「ごめんなさいって言えばいいだけよ」

「……言わされるのはイヤです!」

「頑固がすぎるでしょ」


 思わず吹き出してしまった。普段とはまるで違う動揺は、以前美琴が告白した時に見せたあの態度そのものだ。人を子ども扱いするシャンディ自身も、実は幼いところがある。本当は大人びた年上のフリをしているだけで、美琴よりも若いのかもしれない。

 少しだけ、イジワルがしたくなった。自身が受けた強烈な傷を思えば、それくらいはしてもバチは当たらない。


「謝らないとなると、許せないかな~?」

「どうしてこんな時ばかり駆け引きが上手いんですか!?」

「立場が逆だと弱いね、シャンディさんって」

「ぶー」


 顔を真っ赤にして怒るシャンディが可愛らしかった。

 彼女はプライドと気位の高いワガママな嘘つきだ。中身の伴わない言葉ならいくらでもまくし立てられるが、中身が伴う「ごめんなさい」の一言はそうそう顔を出してはくれない。

 手間のかかる女王様には、こちらから歩み寄らねば。


「本当はもう許してるよ。だから、ごめんって言えたら許してあげる」

「怒ってないんですか……?」

「それ以上に、シャンディさんの愛を感じたから。遠回しでわかりにくいけど」


 《花のワルツ》。規定フィガーはもう三度目のループへ入っている。美琴はもう、シャンディをリードできるまでに成長した。《オーバーターンド・ナチュラル・スピン・ターン》で可憐にアレンジを決めるシャンディを抱き留めて次のステップへ向かわせる。

 どこまでも守り、育てる。シャンディの遠回しな愛情が自身を成長させてくれた。


「だって、恥ずかしいです。裏切られたら怖いです。信じてもらえなくなったら、あたしは……」

「信じるよ、何があっても。もう決めたから」

「本当ですか?」

「本当」

「信じても、いいんですか……?」

「信じて」

「……どこにも行かない? あたしを捨てない? ずっとそばに……居てくれる?」


 美琴の知る過去は、シャンディ作のアリスの物語だけ。チェシャ猫ばかりか多くの人々に捨てられてきた悲しいアリスを手放す気などない。

 むしろ側に居たいのは美琴自身だ。

 シャンディは回りくどくも優しい最愛の人。戸惑うばかりだった女性への恋愛に望む覚悟を、辛く苦しいだろうと待ってくれた。凛子との関係を破談に持ち込ませることができたのに、受け入れようとしてくれた。

 そんな優しい彼女だからこそ支えたい。そして、支えられたい。

 《花のワルツ》のように。可憐に咲く花々に祝福され、愛を囁きあいながら共に踊りたい。この先の人生すらも歩きたい。


「行かないし捨てないし側にいる。健やかなる時も病める時も」

「そ、その常套句クリシェは……!」

「イヤ?」

「……ごめん、なさい」

「え……」


 一世一代のプロポーズに失敗した。

 美琴のステップは瞬時に止まりかけるが、シャンディはすぐに気づいたようでわたわたと頭を左右に振った。


「ち、違います。今のは謝りたかったから、で……! プロポーズを断った訳ではなく、て……」

「前にもこんなことなかったっけ?」

「……あった気もしますけど、忘れました」

「さっきのプロポーズも忘れる?」


 琥珀色の瞳から、涙があふれ落ちていた。


「……忘れるはずがありませんよ」

「よかった」


 プロポーズの返事はない。ただ一言のごめんなさいにすら意固地になっていたシャンディの返事を引き出すのは、まだまだ時間がかかるだろう。

 だから美琴は、特に返事を急く気はなかった。シャンディが覚悟を待ってくれたのだ。だったらこちらもシャンディを待つ。教えてもらってばかりのシャンディと対等な関係になれるように。

 流れるクラシックは終盤。最後の盛り上がりをみせる。


「プロポーズの返事は……聞かないんですか?」


 心細く、か細い。少女のような声でシャンディが尋ねてくる。か弱く脆いシャンディも魅力的だが、きっと今の姿は彼女自身が望んでいる姿ではない。

 だから美琴は息を吸い込んで、いつもの背伸びをしてみせた。


「尋ねたら答えていただけるのですか?」


 背伸びは、美琴がシャンディに見せたい姿だ。アンティッカでの遊戯で培われたもうひとりの美琴に向き合うのは、当然――


「……ふふ。どうお返事したら悦んでいただけます?」


 ――いつもの言葉を弄ぶ意味深なバーテンダー・シャンディ。涙ながらに微笑む表情もまた、シャンディが美琴に見せたい、美しく飾った顔だ。

 互いに想い合っていることはもう充分に理解した。想い合っているからこそ、意味深で思わせぶりな言葉や仕草のやりとりが、なんの齟齬なく展開するのだ。だから、シャンディも理解してくれていればよいと美琴は思う。

 他人を信じられない彼女に信じさせるのは、並大抵の努力では足りないだろう。今後も何度となく遊戯を仕掛け、愛を試そうとしてくるだろう。

 それでも美琴は、一生をかけて彼女を愛し続けたいと誓う。


「そうですね。では、私のドレス姿を見たくはありませんか?」

「ええ、見たいですね。貴女にはどんな色が似合うかしら?」

「選んでください。私に着せたい色を」


 美琴が挙げてほしいのはただ一色だ。シャンディはもちろん、その意図に気づいているだろう。この絡め手の言葉遊び自体、シャンディから学んだものなのだから。

 シャンディは不意の事故を装って、唇を一瞬触れ合わせてきた。


「……貴女には純白がお似合いです」


 今はこの、意味深でいて意味の通じる誓いだけでいい。

 美琴は彼女の体を強く抱き寄せた。


「そちらも。まあもうすでに、シャンディさんは純白ですが」

「美琴さんがタキシードなんですもの。たまにはいいでしょう?」

「なら次は、シャンディさんがタキシードにしますか?」

「貴女がそれを望むなら」

「では、ドレスを希望で」

「ええ、お揃いで」


 《花のワルツ》は終わった。

 美琴とシャンディはステップを終え、手を繋いだまま四方の観客に礼をする。

 会場に満ちるのは、割れんばかりの拍手と喝采。観客達の笑顔。当初の目的である秘書課と赤澤のことなど美琴はとうに忘れていた。シャンディと共に祝福されることの喜びで、胸の内は張り裂けんばかりだった。

 ほろりと、止まっていた涙がこぼれ落ちた。


「……泣いてます?」


 観客には決して聞こえない程度の声で、シャンディが囁いてくる。彼女もまた泣いていた。


「……泣いてない。泣いたとしても」

「嬉しくて?」

「言わなくても分かってよ」

「言ってくれなきゃ分かりませんから」


 四方の観客に礼を終えて、美琴は再びシャンディに向き直った。


「愛してます、シャンディさん」

「分かってます。あたしも愛してますよ、美琴」


 あれだけ憂鬱だったダンスが、今では名残惜しい。もうひとつ趣味を増やそうかと、美琴はフロアを立ち去りながら思ったのだった。

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