#53 : Masquerade / ep.5
お芝居を続けるのが苦痛でした。
彼女の言葉に、何度嗚咽を堪えようとしたか知りません。所詮は付け焼き刃の
それでもあの人は、あたしの――リドル・スミスの正体には気づいていない。本当は、彼女が正体に気づくかどうかを
――私は
あたしは他人を信用できない。
そんなあたしでも、この言葉だけは信じてみたくなる。信じざるを得なくなる。
あの人にとって赤の他人のリドル・スミスに語ったあの言葉は、あたしに向けられている背伸びでも気遣いでもない。あの人の背伸び癖は普段からのものでしょうけれど、それでも背伸びを続けるのはあの人自身がそうありたいと願っているから。
あの人は、盲目的なまでにあたしを――シャルロット・ガブリエルを愛そうとしている。
過去を語りたくないあたしを、現在だけを見てほしいなんてワガママを通そうとするあたしを、そのまま受け入れようとしてくれている。
そう考えるより他はない。
どれだけあたしが他人を信じられなかったとしても、あの人はあたしを信じている。厳しい仕打ちを与えたところで、あたしの想いを――裏切られるのが怖くて直接は伝えられない本心を汲み取ろうとしてくれている。
「あたしなんかより、貴女の方が断然、優しすぎるんですよ……」
想いを寄せるあの人に信用されていることが嬉しくて、愛しくて。
そして人を簡単に信用できることが妬ましくて、うらやましくて。
「はあ…………」
複雑な感情を吐き出す場所は、ホテル・マーベリックの化粧室。
大きな一枚鏡に映ったあたしは、どうしようもなくブスでした。血色悪く見える肌、陰影を際立たせて別人になりすますためのメイク。何度なく涙を拭ったことで化粧はもうめちゃくちゃで。マスカレードマスクの内側には、べったりとアイメイクがこびりついています。
あふれて留まることを知らない涙で、カラーコンタクトはまるで使い物になりませんでした。使い捨ての深紅の瞳をゴミ箱に捨てて、再び鏡の中の自身を見つめます。
「……同じブスなら、性格だけブスな方がいいでしょう?」
顔面ぐちゃぐちゃ女、リドル・スミスは鏡に語りかけます。鏡の中の彼女は、琥珀色の瞳を無理して歪めていました。
鏡に映ったあたしは、長く付き添ってきた女。強くて美しくてイタズラで妖艶な女、あたしが一番美しいと思っている理想の女性像。
アンティッカのバーテンダー、シャンディ。
彼女の知恵と力を借りて、この局面を乗り越える方法は――。
「ふふ、いいことを思いつきましたよ。シャルロット」
――ここはマーベリック。あたしのホテルマン時代、そして女優時代の古巣。
ここの併設劇場、その倉庫にならば、答えがある。
大好きなあの人を――黒須美琴を助けたいのなら。本当にあたしを信じてくれているか試すなら、それしかない。
「……貴女を信じさせてください。美琴」
*
ダンスフロアには、煌びやかな男女がある程度の間隔を開けて並んでいた。秘書課の面々と赤澤も、社交の仕事をすべく来賓の男性とそれぞれに談笑をしている。その中で一組だけ、女性同士のペアが顔を向き合わせていた。
美琴と、凛子だ。
「……白井さんだよね?」
「瀬田麻里亜です!」
凛子こと自称・瀬田麻里亜は、頬を真っ赤に染めて半ギレ気味に語った。それ以上ツッコんで聞くのは失礼かもしれないと思い、美琴はとりあえず湧き上がる疑問を飲み下そうとする。だが、なぜ凛子がここにいるのだろうという疑問だけはどうにもぬぐい去れない。
周囲の談笑が自然と消えていく。ざわめきが沈黙に変わった瞬間、ゆったりとしたイントロが流れ出した。
ワルツ、《Moon Liver》。
「踊ってくれないの?」
「ああ、いえ。では」
凛子の体を抱き留めて、《クローズド・ポジション》を取る。彼女が付けた普段とは異なるよそ行きの香水が、美琴の鼻腔を甘く刺激する。
流れる緩やかな三拍子に少しずつ体を慣らして、美琴は教わった通りの《ナチュラル・スピン・ターン》を進めようとし――
「《ダブル・リバース・スピン》」
「え!?」
――凛子に体を引きずり回された。
美琴と凛子、ふたりはいきなり反時計回りに回る。ゆっくりとしたワルツの一小節、計三拍を使って合計二回くるくると回転させられる。どうにかアドリブで足を動かしたは良いが、見るも無惨なステップだ。
「ちょっ、白井さ――」
「もう一回、《ダブル・リバース・スピン》! 今度はリードして!」
「リード!?」
狼狽えたところで、曲は止まってくれない。美琴は先ほどの反時計回りを必死で思い出し、シャンディ相手でレッスンしたように凛子の体を抱き留めて回転方向に意識を向けさせる。
ステップがこれで正しいのかも分からない、ぶっつけ本番のリードだ。それでも凛子はどうにか美琴に寄り添おうとしてくれている。
「次は《ウイング》! 歩くだけ! 簡単だから!」
言葉のままに、凛子に誘われて美琴はフロアを進んだ。周囲の踊り手達は、セオリー通りに踊らない美琴達を器用に避け、フロアを中心に反時計回りの渦を描きながら踊っている。
女性同士のペアで、しかもまともに踊れていない。悪目立ちだ。経験がないのだから仕方ないとしても、このままでは秘書課の思い通りになってしまう。
「白井さん、何を――」
「任せて」
凛子に力強く体を引かれた。ゆったりと回転する踊り手達の渦の中に戻るように、彼らと同じ向きへ歩いたところで、「止まって」と凛子の指示が飛ぶ。
体を止めると、凛子が半身をひねって、九十度。美しい背を観客に見せるように。天使が羽を休めるかのように留まって、三拍をやり過ごす。
「次は《ナチュラル・スピン・ターン》。その後、《リバース・ターン》で《オーバーターンド・ナチュラル・スピン・ターン》」
「白井さんダンスやってたの?」
「さっき練習した!」
「さっき、って!?」
「いいから!」
《ナチュラル・スピン・ターン》はシャンディ相手に練習した動作だ。前半三拍でゆるやかにターンしつつ、後半三拍でぐるりと
右半身に、凛子の平均より大きな胸元が押し当てられていた。背丈で言えばシャンディと同じ程度でも、彼女の体はより豊かで女性的な美に溢れている。女性が好きという指向でさえなければ、美琴以上に言い寄られていたであろうことは想像に難くない。需要と供給は一致しないものだ。
「白井さんはどうして――」
「《オーバーターンド》、いくよ!」
凛子の両手が硬く握られる。ひどく震えて緊張していた。
美琴は女性側である凛子の強引なリードになんとか食らいつく。《オーバーターンド》という言うとおり、《ナチュラル・スピン・ターン》よりは後半部の回転が多い。半回転でいいところを360度ぐるりと回転するため、遠心力で足下がふらつく。
それでも美琴はどうにか回転を終えて、その場で緩やかに体だけを揺らした。予備歩、左右にステップを踏むだけのアイドリング動作を繰り返す。
「あとは黒須さんの好きに踊って」
「それは、いいけど……」
美琴はとりあえず、シャンディ仕込みのルーティーンを始めた。教わった四つのステップを繰り返す、社交ダンスに興味のない観客を騙すためのステップだ。
何度もシャンディを相手に繰り返した、彼女からの贈り物のステップを続けているとどうにか心も落ち着いてくる。身を寄せる凛子に尋ねずにはいられなかった。
「どうして白井さんがここに居るの?」
「……私は瀬田麻里亜です」
「それはもういいから」
少し強引に《リバース・ターン》を挟む。右半身と密着していた凛子の瞳を美琴は見つめた。困惑を浮かべた表情のままに、凛子は答える。
「……あの女に頼まれたの」
「シャンディさんのこと……?」
「そうだよ。あのムカつく女」
一連のルーティーンは終わる。が、ワルツはまだ終わる気配もない。
《Moon Liver》。
それは月の川。川幅が一マイルより広いという、渡るには困難な大きな障害を前にしても諦めず、立派に渡ってみせると宣言してのける歌詞。背伸びもいいところだろう。
それでも美琴は、この曲が頼もしい。
秘書課を、赤澤を乗り越えろと背中を押してくれている。
「……誘われたの。パーティーに潜入しようって」
「じゃあシャンディさんはここに?」
「今は私のことだけ見て。私と踊って」
今すぐにでもダンスを辞めて、シャンディを探したい。だが、ダンスを投げ出してしまえば秘書課の思惑通りに運んでしまう。赤澤のせせら笑いにも屈したことになる。早苗の悲しげな背中も脳裏をよぎる。
負けたくない。ダンスを続ける他ない。
「理由は分からないけど、黒須さんにステップを教えてあげてって頼まれた。だから必死で覚えたの」
「…………」
美琴の思った通りだ。凛子を利用してまでダンスを教えようとするシャンディは、やはり美琴を想ってくれている。
そんな彼女だからこそ――凛子には悪いが、信じられる。
「逆に聞きたいくらいだよ。黒須さん、あの女は何を考えてるの……」
「分かるよ、シャンディさんの考えてることは」
「もったいつけずに話してよ……」
ターンに合わせて、凛子を抱きしめた。疑り深い凛子の瞳を見つめる。
「私を守って、育ててくれてるんだよ。あの人は」
「……守って、育てる……?」
「言ってはくれなかったけどね」
リドル・スミスが話を聞いてくれて、美琴の思考はようやく整理された。
複雑な――アリスだった頃の過去が原因で他人を信じられなくなってしまったシャンディを愛そう。
自身の窮地を守って育ててくれるシャンディの回りくどい愛を信じよう。
「あいつがそんな殊勝な女だと思う?」
「私はシャンディさんを信じるよ」
「目を覚まさないんだね、黒須さんは」
「あとで夢だと分かったって構わない」
「……そっか」
曲は後半にさしかかる。ヴァイオリンのビブラートが心を揺さぶる。名も知らぬ男性ボーカリストの歌声は心地よい低音。ようやく一連のルーティーンに慣れてきた体と、周囲の踊り手に溶け込める程度には上手く踊れている高揚感が美琴を包んでいる。
「……黒須さんはもう、私の手の届かないところに行っちゃったね」
「出世したって私は文房具屋だよ」
「違うよ、聞いた。小杉とかいう悪い人と戦ってる。日比谷の秘書課や赤澤とも」
「そうだね」
「守りたいのに守ってあげられない私は、もう用済みだよね」
凛子の瞳が潤んでいた。それが悲しくて見ていられなくなる。
咄嗟に視線を背けて、《ホイスク》の動作に入る。踊り手達と同じ方向へ。水族館の巨大水槽を群れをなして泳ぐ魚のように。
「……黒須さん、好きだよ」
その好きに含まれた想いは、受け取ることができないものだ。
凛子がどんなに美琴のことを想っていたとしても、美琴はたったひとりしか愛せない。
「白井さんはズルいよ。私に、言わせようとしてる」
凛子に直接、あの言葉を突きつけることは避けたかった。
凛子の恋愛がどれだけ苦しいものだったか美琴は知っている。信頼を積み重ねてきた同性の友人同士という関係は、告白ひとつで壊れてしまう。凛子が過去に何度も、それで傷ついただろうことは想像に難くない。
だからせめて、自身との関係だけはそうあってほしくない。同じ会社、同じプロジェクトに参加している者だからというだけではない。美琴のためを想って行動してくれる大切な友人を失いたくはない。
「言ってくれないと、私はずっと苦しいんだよ」
「分かってるよ」
「分かってない! 私は……自分では止められないんだよ……!」
シャンディを交えての遊戯で、美琴はハーレムを築くフリをした。
それは何も、美女を侍らせたかったからでは断じてない。凛子から美琴を諦めてもらいたかったからだ。ただ一方でそれは、美琴があの言葉から逃げただけでもある。
「一言断ってくれたら、私は貴女を諦められるの……!」
「ごめんなさい、って?」
「そうだよ! どうして、私の気持ちにトドメを刺してくれないの……!」
凛子の言うとおり、ただ
それは世間的によく言われる、恋も関係も等しく断ち切って、悲しい片想いを終わらせてあげる《優しさ》だ。
だが、少なくとも。
すべてをリセットしてしまうことが凛子にとっての優しさなのだろうか。そもそも完全にリセットするなんてことができるのだろうか。
「私も白井さんは好きだよ。友人として」
「その好きじゃないの、私の好きは――」
「ひとつ、約束してほしいんだけど」
「やく、そく……?」
凛子のために。これまで何度も同じような恋で友人関係を壊してきた凛子のためにも、言わなければならない。
とても言いがたいことだ。恨まれることかもしれない。それこそ《Moon Liver》、一マイルの川幅のように乗り越えがたい難題かもしれない。
それでも、本当に凛子を想うなら乗り越えなければならない。
美琴は息を吸い込んだ。
「これからも友達で居てくれますか、白井さん」
「友達……?」
「いや、親友だね。今までは会社だけの関係だったけど、遊んだりしたい。街を歩いたり、一緒に旅行に行くのもいいかもしれないね」
「そんなの余計に苦しいよ……」
「でも親友になっておくと、琴音のオフショットが手に入るかも」
「こ、琴音で釣らないでよ!? 欲しいけど……すごく……」
美琴はステップを止めた。曲はアウトロにさしかかっている。あとはその場で左右にステップを踏むだけで充分にごまかしが利く。
「大事な親友を失いたくないんだよ、白井さんの今までの恋愛みたいに」
「それじゃ貴女を諦めきれない……」
「大丈夫だよ。凛子さんが大嫌いな女と、これから一生よろしくやるから」
「……今のでちょっと嫌いになった」
「それは困ったね」
顔を付き合わせる。ダンス開始からむすっとしたままだった凛子の顔が、ようやく苦笑とはいえど綻んだ。
「冗談だよ。あの女は大ッ嫌いだけど、だからって黒須さんのことまで嫌いになったりしない」
「ありがとね、ワガママに付き合ってくれて」
「……親友なら、ワガママくらい付き合うよ」
どちらからともなく、互いの体を抱きしめた。曲がフェードアウトするまで抱き合ったまま、ゆっくりと揺れ動く。
第一曲目のワルツは終わった。観客の拍手が空白を埋める中、美琴は凛子にだけ聞こえる声で尋ねる。
「約束してくれる? ずっと親友のままでいるって」
「……ツラいけど。私のことを想って言ってくれてるなら、約束する」
「じゃあ――」
「待って。私から言わせて」
凛子は深呼吸する。美琴と目を合わせて、再び告白した。
「……黒須さん。貴女のことが大好きでした」
言葉が、凛子の無理に笑った表情が痛かった。
それでもこの痛みは、関係を終わりにするよりはまだマシ。これからふたりで分かち合うことになっていく痛み。今後流れていく歳月がきっと、痛みを癒やしてくれると信じて。
「ごめんなさい、凛子さん。これからは親友として、付き合ってください」
「ありがとう、美琴さん……」
凛子はこみ上げるものを必死に堪えて、微笑んでみせた。そのままくるりと振り返り、ダンスフロアを後にする。凜とした姿勢、伸びすぎなほどに伸ばされた背筋で、片想いの女性は親友になって立ち去っていった。
*
ダンスフロアを抜けて観客の輪の中に戻って、凛子はやっと涙を流せた。
何度経験しても慣れない、失恋の痛み。ただこれまでと違うのは、友人としての関係が壊れた訳ではないこと。むしろ以前以上に関係が進んだこと。
美琴が慮ったがゆえの優しさは、砂糖菓子のように甘く、毒薬のように苦しい。
「う、ううぅっ……」
嗚咽を押し留めることができなかった。人の輪の中で小さくうずくまり、膝を抱える。足下の大理石調のフロアに、降り始めた雨が跡を残していく。
「凛子さん?」
誰何せずとも分かる。黒須琴音の声だ。
今は話しかけて欲しくない。推しに認知されたくない上に、いちばん無様な姿を見られて失望されたくない。
「……あーね、凛子ちゃん。そこでうずくまってたら蹴っ飛ばされるよ。座ろーぜ」
琴音は女優モードを解除して、素に戻る。そのまま腕を引かれ、ダンスフロアから一番離れた席で、琴音と隣り合って腰を落ち着けた。
「……優しくされたって好きになんてなんないから」
「こんな時に口説くかよ、バーカ」
「バカって言わないで!」
「思ったより元気じゃん?」
「元気じゃないよ……」
せっかく買ったドレスに涙のシミがついている。どうにか止めようとしても、痛くて涙はあふれるばかり。琴音が差し出したハンカチを無意識に掴んで涙を拭いたところで、凛子はやってしまったことに気づいた。
「……推しのハンカチで涙拭くとか、最悪…………」
「あっはは、ホント面白い感情だなあ。姉ちゃんにフラれて悲しいだろうに」
「見てたなら笑わないでよ! それが優しさってもんじゃないの!?」
「そう? 笑って流してあげんのも優しさだと思うけどね」
「ホント貴女達姉妹、どうかしてるよ……」
「わかるー。姉ちゃんちょっとおかしいもんね」
「貴女も含めて言ってるの! あと美琴さんの悪口言わないで!」
琴音はケタケタ笑っていた。人の気も知らないでのんきなものだと凛子は項垂れる。
「ま、じゃあ……アレかな。今の凛子ちゃんが一番欲しい言葉」
「……なに」
凛子の背に、琴音の手が伸びた。そのまま凛子の体をもたれかけさせる。
露出した琴音の肩に、凛子の頬が当たった。
「……頑張ったね、凛子」
「……ほん、と……ズルい…………!」
凛子はしばらく、琴音の肩を借りて泣いた。美琴に似ているのに、まったく似ても似つかない琴音の存在が、そのときばかりはとても頼もしく感じられた。
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