#54 : Masquerade / ep.6

 一刻も早く、シャンディを探したかった。

 招待されていない凛子がパーティーに潜入できたのは、シャンディの介添えがあったからだ。会場前の秘書課との打ち合わせで告げられた、急遽招待した二名の内訳は、間違いなく凛子とシャンディ。

 ただ、ダンスパーティーは終わらない。

 凛子との痛いダンスを終えた後も、美琴はフロアを後にすることができなかった。来賓の女性客達が美琴を放っておかなかったのだ。日比谷側の人間で、男性側リーダーを務める人間はいない。日比谷と繋がりを持ちたい女性客が美琴をパートナーに誘うのは必然であり、中には物珍しさから手を取ってくる者達もいる。

 興味のない相手とダンスをする。ダンスはあくまでもコミュニケーションの手段だというのに、彼女以外の女性を抱きしめることは美琴にとってあまりに苦痛だった。

 本当に抱きしめたい相手は、シャンディだけなのに。


 数名の来客と踊り終えた。それでも自身の周りに緩やかな輪を描いて女性達が待っていることに気づいて、美琴は気疲れする。「好きな人以外にモテたところで仕方がない」と語っていたシャンディの言葉が脳裏をよぎった。

 その時。声を掛けようか掛けまいか迷っている来客の前に、赤と黒のツートンドレスが割り込む。美琴と容姿も背丈もよく似た女。


「次はわたしといかがでしょうか。お姉様?」


 誘うか誘うまいか。出方を窺っていた来客達も、女優・黒須琴音が現れては引き下がるより他はない。「姉と一曲、踊ってもよいでしょうか?」と女優の顔で優しく威圧された途端、彼女らは慌てふためいて三々五々に散っていく。


「……ごめんね、気遣わせちゃって」


 琴音は清楚な顔を捨てて、にへらと相好を崩した。女優から妹へ戻った証拠だ。


「他人にいい顔しすぎなんだって。私とかシャン姉みたいに好き嫌いハッキリ分けた方が人生ラクだよ?」

「あんたらがハッキリし過ぎてるから私が気遣わなきゃいけないんでしょうが」

「そうなん? そりゃーあんがと」


 琴音がとりあえずとばかりに抱きついてくる。姉妹で背丈は同じでも、ヒールのぶんだけ今は琴音の方が高い。一番最後に妹と抱き合ったのは十年以上前のことだった。自分よりも背の高い妹を――さらには女優として大成しつつある琴音を抱くのが少し嬉しい。

 琴音はもう立派なオトナだ。いつまでも美琴に甘えてくる妹ではない。


「あんたもダンス習ったの?」

「や。まったく踊れない。曲に合わせて盆踊りでもする?」

「何しにきたの……」


 曲は美琴がほとんど練習できなかったクイックステップ。スタンダードジャズの名盤、《Sing,Sing,Sing》。ワルツと違い四拍子でテンポも早い。


「へーきへーき。話題の美人姉妹が並んでたら踊らなくたって充分絵が保つから」


 琴音の言うとおりだ。フロアを駆け足で回る踊り手達よりも、観客は姉妹の共演に視線を奪われている。適当に抱き合ってリズムに合わせて左右に揺れ動いていればクイックステップなど簡単に受け流せそうだった。


「自分で言うかそれ」

「あそこ見てみ。凛子ちゃんめっちゃスマホで撮っててウケるから」


 視線を向けると、ダンスフロアの観客達の最前列で凛子がスマホを向けていた。琴音がこれ見よがしに手を振ると、凛子がぶるんぶるんと顔を左右に振っている。何かを必死で否定している、イヤイヤ期の子どものように美琴の目には映った。


「認知拒否のオタクみたいだからさ。面白いよね、凛子ちゃん」

「まあ、ね」


 バカのひとつ覚えの《クローズド・ポジション》だけ取って、琴音と左右に揺れる。時折前後にステップをしたりして変化を付けてみる。

 ダンスに集中しようとした。集中していないと凛子が最後に見せた悲しい笑顔を思い出してしまいそうで嫌だった。

 それでも、琴音は美琴の心境などお構いなしに語る。


「可愛いよね、あの子。柔らかくて体温高くて。おっぱいもデカくて適度に肉付きもよくて。ひとつの理想像だと思わない?」


 ひどく下世話な話で耳を覆いたくなる。美琴は凛子から聞いて知っている。琴音は、夜の仕事をしていた時代の凛子を抱いたのだ。フロアではなくベッドの上で。

 複雑だ。凛子は同僚で、琴音は実妹。どちらの姿も想像したくないし、琴音が凛子に対してを向けていると分かるのも気持ちがいいものではない。


「その話やめない? かなり複雑」

「わかるー。知り合いとか身内の下ネタってヤだよねー。たとえばさ、姉ちゃんの誕生日三月でしょ? 十月十日戻った五月って母さんの誕生日じゃん。つーことは父さん、母さんの誕生日に――」

「わざとやってんでしょ!? そんなこと言ったら十月生まれのアンタはどうなるの!?」

「ホワイト・クリスマス。サンタさんからのプレゼント」


 「ケケケ」と琴音は笑う。


「なんのつもりよ、まったく……」

「凛子ちゃんのことだよ。バカ姉」


 急に真剣な表情を作り、琴音が告げてくる。


「泣かせたでしょ」


 美琴は押し黙るより他なかった。あの別れの後、凛子が堪えきれなかったことくらいはすぐに想像がつく。


「何がダメなん? 凛子ちゃんいい子じゃん。ちょい怒りっぽいけど一途だし。シャン姉なんかよりよっぽどいい女だと思うけど」


 琴音だからと言えど捨て置けない発言だった。

 比べるまでもない。比べることすらできない。


「私が好きになったのはあの人だけ。凛子さんに特別な感情は持てない」

「試してみりゃいいじゃん。つまみ食いしたら好きになれるかもしれないでしょ」

「それ絶対人前で言うな。炎上しても知らないから」

「分かってるって。隠れてやるからいいんでしょ」

「アンタね……」


 琴音にはまるでデリカシーがない。良識や配慮といったものを母親の胎内に置き忘れたか、あるいは役者――あらゆる人間を演じるという仕事がそうさせているのかもしれない。ちゃんとしている役者には悪いが、美琴はそう思わざるを得なかった。

 琴音の誘いには乗らない。美琴は自身の想いを吐露して意思表示する。


「私はひとりしか愛せないし、愛さない」

「なら、さ。貰っていい?」

「は?」


 琴音は視線を交わさなかった。逸らした視線の先に佇むのは、スマホを構えて撮影を続ける凛子だ。


「凛子ちゃん、私が貰う。いちおう話しとくのがスジだと思って」

「あのね。凛子さんはモノじゃないの」

「あー、言い方が悪かった? じゃあ奪う。一途に姉ちゃん想ってる凛子ちゃんの心、全部たい」


 女優で人間観察が趣味である琴音だ。宣言の意味するところは二つある。額面通りに受け取るべきではない。


「そのはどういう意味?」

「ふふ、どういう意味でしょう?」


 モノマネだ。真意を探らせようとしない、シャンディが遣うものと同じ匂わせの言葉。


「言いなさい。事と次第によれば見過ごす訳にはいかない」

「今さら姉貴ヅラすんのウケる」

「琴音」

「だって知りたいでしょ? 私が凛子ちゃん堕としたら、姉ちゃんを諦めた女が、妹の私で妥協したことになんだよ? 凛子ちゃん、どんな感情になると思う? 私を抱くとき何考えると思う? 観察したいじゃん」


 美琴は琴音を突き放した。さすがに看過できなかったのだ。

 琴音は何か問題でもあるのかとばかりにニヤニヤと笑っている。悪意に満ちた笑みが張り付いていた。


「……それは人として最低だよ」

「ん。最低だね。最低だけど、姉ちゃんには言われたくないな」

「何がよ」

「ハンパな優しさで凛子ちゃん傷つけたじゃん。そんな人が「傷つけることしたら許さない」なんて言えないよね?」


 素知らぬ顔で言ってのけて、琴音は再び抱きついてくる。偽装のための左右のステップも、そろそろ曲は終わりにさしかかろうというところだ。姉妹のやりとりが周囲に聞かれることはない。すべてを《Sing,Sing,Sing》が塗り潰す。


「ま、今のは冗談。私だってそこまで堕ちてないよ」

「冗談で流せる発言じゃないでしょ」

「なら、これから姉ちゃんへの恋心を殺し続けなきゃいけない凛子ちゃんの怒りを勝手に代弁しただけ」


 フラれても、親友のままでいる。あれは美琴が凛子のためを思った優しさだ。ただしそれはあくまで、美琴が慮ったというだけのもの。凛子にとっては身勝手で残酷な優しさかもしれない。


「……しょうがないでしょ。ああすることしかできなかった」

「ま、相手が女だろうが男だろうが破局なんてそんなモンだよ。仲良しこよしの友達になんてフツーは戻れない」

「分かってる」

「それはどっちの痛みを?」

「両方。凛子さんも私も」

「痛み分けか。背負わなくていいモン背負いたがるんだから、ホント困った姉ちゃんだよ」


 「だから好きなんだけど」と琴音は告げて照れくさそうに微笑む。ようやく見せた妹らしい顔だった。


「……よし、凛子ちゃんの仇は討った。大好きだよ、美琴お姉ちゃん」

「はいはい……」


 なんだかんだ言えど、美琴にとって琴音は甘えたがりの妹であることに変わりない。親を除けば、一番に連れ添った人間だ。そうそう易々と縁を切ることはできないし、切るつもりも美琴にはなかった。


「……あんた、凛子さんのこと好きなの?」

「そうだね……」


 揺れ動きながら、琴音は言いにくそうに唸る。

 そうこうしているうちに曲はアウトロを終え、ゆっくりとフェードアウトして消えていく。

 他のペア達がステップを緩めていく中、琴音は密やかに頬を赤らめた。


「……たぶん、好きっぽいな。恋愛感情として」

「そう……」


 意外な琴音の表情に、美琴はそんな返事しかできなかった。とはいえ、考えたところでそれ以外の返答は何も思い当たらないだろうとは思う。


「脈ナシだけど、凛子ちゃんの心は姉ちゃんから盗み出す。芝居に使えそうな複雑な感情も、一途に気持ちぶつけてくれる可愛いとこもおっぱいも、全部」

「私に言ってどうするの、それ……」

「スジ通すって言ったっしょ。あと、それとさ」


 ステップをやめて、体を離す。直後、琴音は美琴の髪の毛をくしゃくしゃに撫で回しながら笑った。


「凛子ちゃんは姉ちゃんの保険キープじゃないから。もしシャン姉と別れても構ってくれるなんて思うな。あの子の優しさは全部私がモノにする」

「……遠回しな応援、ありがと」

「へへ、楽しかったよ。今度はステップのひとつくらい覚えてくるわ。美人姉妹が綺麗に踊った方がみんな喜ぶっしょ」

「そうして」


 途端に女優の顔を取り戻し、ドレスの裾をつまみ上げて一礼してから琴音は去っていった。場内を満たす拍手は、間違いなくこのフロアの主役であろう黒須琴音ただ一人に向けられていた。


『ご観覧中の皆様、いよいよ残すところ最後の曲となりました。年に一度の恒例行事でございます。どなた様も振るってご参加ください』


 久瀬文香のものではない、別のホテルマンの案内だ。エキシビション、すなわち赤澤との決戦前の最後の曲。泣いても笑ってもこの後には赤澤が控えている。

 美琴はフロアに立つ女性達を眺める。秘書課と赤澤以外で、練習に付き合ってくれる女性を探さなければならない。赤澤と互角に踊るためには、付け焼き刃でもないよりはマシだ。

 場内をぐるりと見渡す。金髪と琥珀色の瞳は見つからない。

 彼女なら。

 彼女に謝ればきっと教えてくれるはずなのに。


「失礼いたします。最後のお相手は私ではいかがでしょうか、黒須様」


 美琴に手を差し伸べたのは、ドレスを着た来賓客ではなかった。

 マーベリック・ホテルマン。久瀬文香。チェシャ猫とされる女性だった。


 *


 同時刻。ホテル・マーベリック客室廊下。

 赤澤来瞳の名で宿泊予約が取られた個室を調べ上げた早苗は、「本人から頼まれた」としれっと嘘をついてスペアのカードキーを手に入れていた。

 1508号室。早苗はドアノブ上の差し込み口にカードを差し込んで、電話口の飯田に指示を飛ばす。


「飯田くん、シャルロットの姿は?」

『すみません、見失ったままです!』

「この期に及んでどこへ行ったんですか、あの女は……!」


 腹立たしい。あれだけ言っても聞かないばかりか、変装した状態で美琴とコンタクトを取ってまでいったい何をしているのか。早苗でも分かるくらい美琴はシャルロットを一途に信じているというのに。


「ともかく、シャルロットが現れたら連絡を。こちらは小杉を確保します」


 飯田との電話を切って、1508号室のドアノブを回した。

 そっと隙間を空けて、中を董子と共に覗き込む。手には護身用のバタフライナイフが握られていた。


「やっぱ居ないんじゃない?」

「いえ、赤澤の目的が私の予想通りならここに居る……いえ、監禁されているはずです」

「わー。かんきんってこわーい」

「私達が言えたことではありませんがね」


 棒読みした董子を「シッ」と黙らせて、ゆっくりと扉を押す。赤澤が予約した部屋はセミ・スイート。ドアから続く短い廊下の向こうに、左側はリビング、右側は寝室と二部屋続きになっている。公式サイトで調べたところ一泊十万円を下らない部屋だ。会社経費の浪費も甚だしい。


「せーのでいきます」

「せーのっ!」


 メイク用コンパクトの鏡では、部屋の死角までは覗けない。

 廊下の角から董子とは逆方向――右側の寝室を確認すべく、早苗は顔を突き出した。


「居ないね。そっちは?」

「……居ました」


 早苗は護身用に持っていたバタフライナイフを折りたたんだ。

 もう必要なかったのだ。


「あーらら。かわいそうに。赤澤さんにやられちゃった?」

「でしょうね。彼女を少し見直しました。自らの手を汚す覚悟のある女は嫌いではありません」

「あはは。早苗、とっても悪い顔してるー。そんな顔もかわいー!」

「小杉は私や黒須さんを侮辱した報いを受けたのですから当然です」

「いい気味?」

「ええ、そうですね。とても」


 早苗の読み通り、小杉は変わり果てた姿で床に転がっていた。


「むむむむむーッ!!!」

「あ、まだ生きてた。あんがいしぶとい!」

「赤澤の目的は社会的抹殺でしょう。わざわざ殺害する必要はありません」


 小杉は死んでいなかった。

 猿轡をかまされ、全裸。椅子に縛られている。どうにか振りほどこうとしたが転んでしまったのだろう、椅子ごと床に転がって、目玉をひんむいて泣き叫んでいた。これでかつての花形、企画部本部長だ。無様なことこの上ない。


「どうする、早苗? しちゃう?」

「まずは記念に一枚撮っておきましょう。のはその後でもいいので」


 スマホを取り出し、早苗はシャッターを切った。

 間違えてインカメラにしていた早苗のスマホには、おぞましい自身の笑顔が映っていた。


 *


 名も知らぬワルツ曲が会場を包んだ。

 美琴は久瀬文香の誘いを受け、慣れた《クローズド・ポジション》を取る。しばらく左右に揺れ動きながら、美琴は文香の出方を窺った。


「お引き受けいただきありがとうございます。断られるかと内心不安でした」

「いえ」


 短く、素っ気ない対応になるのも仕方がない。

 文香はかつてシャンディがパートナーを組んでいた女性だ。そのパートナーの意味がどちらか分からない。ダンスの相手か、チェシャ猫か。

 美琴は意を決した。


「久瀬さん、貴女がチェシャ猫ですか?」


 文香は目を見開いた。そして勘弁してくれとばかりに困惑のため息をついて、ゆっくりと口を開く。


「やはり先輩が嘘を吹き込んでいましたか……」

「嘘?」

「私はチェシャ猫ではありませんよ。先輩はただの同僚です」

「そう、なんですか……?」


 拍子抜けしてしまう。文香がチェシャ猫だと思い込んでいた美琴は、彼女を見るたびに気を揉んでいたのだ。もしシャンディが自身を離れ、チェシャ猫の腕の中に戻ったとしたら。シャンディに試された、あの日のひどい遊戯の記憶が蘇る。


「チェシャ猫は別にいます」

「それは……」

「すみません、喩え黒須様の頼みでも、私の口からは申し上げられません。あの先輩が真剣に、喋るなと伝えてきたものですから」


 ひとまず、チェシャ猫が文香ではなかったことに安堵する。ただ、別に居るということが美琴の心に新たなわだかまりを作った。

 とはいえ、誰何したところで意味はない。すべては過去のことだ。


「構いません。私も知りたいとは思いませんから」

「先輩が惚れる訳です。本当にワガママな人で後輩として申し訳ない限りですよ」


 告げると、文香は優しく美琴の体を寄り添わせる。シャンディとパートナーを組んでいた頃は男性側リーダーだったのだろう。美琴と組んでいる現在は女性側パートナーに回っていても、うまくリードをしようとしてくれている。


「先輩の嘘を止められなかったお詫びに、私にダンスレッスンをさせてください」

「いいんですか!?」

「ええ。赤澤氏のダンスを観察して内容は掴めました。彼女が仕掛けようとしているのは、三年前の競技ダンス大会、ワルツの規定振り付けフィガーです」


 三年前。ちょうど赤澤が日比谷に就職した年だ。

 その年の大会で決められていた振り付け――つまり、一番赤澤が練習したものを美琴にぶつけてくる。


「時間は限られます、通しで四回できるかできないかといったところです。付け焼き刃も甚だしいですが、挑戦しますか?」


 美琴は迷わなかった。


「お願いします!」

「……分かりました。《オーバーターンド・ナチュラル・スピン・ターン》から。次の拍で出ます。3……2……1……」


 シャンディから基礎を、凛子から応用として学んだステップだ。美琴は文香のリードで優雅に舞う。感覚で覚えた足使いでは心許ないが、リードされるうちに自然と矯正されていく。

 そしてステップは《ターニング・ロック・トゥ・ライト》、《ウィーブ・フロム・PP》と切れ間なく続いていく。聞いたことのないステップを、文香の指示でどうにかこなしていく。

 体を使って指示を出しつつ、文香は語りかけてきた。


「先輩の過去については聞いていますか?」

「いえ。教えてくれたのはチェシャ猫に裏切られたということくらいです」

「聞くつもりは?」

「ありません。シャンディさんが話そうと思わない限りは」


 美琴の言葉を真意だと見定めると、文香は微笑む。


「ならば先輩を見守ってあげてください。私が言うまでもないとは思いますが」


 ダンスは複雑な構成だ。文香と話しながら、そしてぶっつけ本番の一回目では到底覚えられる内容ではない。それでも、まだチャンスは三回ある。その間にどうにか叩き込めば、赤澤と戦う武器になる。

 文香は《ダブル・リバース・スピン》の指示を出す。一度は凛子をリードできたステップを、文香の体を借りてどうにか体感に落としていく。


「今のはお上手でした。白井様が必死で身につけたおかげでしょうね」

「久瀬さんから教わったと聞きました。ありがとうございます」

「先輩の頼みでしたから。おそらく、私がこうして黒須様に最後のレッスンを行っているのも、先輩の思惑通りだと思います。直接指示を受けた訳ではありませんから」


 シャンディの思惑は、美琴を守り育てることだ。そのために凛子と文香に回りくどいながらも指示を出した。

 凛子がシャンディに従った理由は、美琴のためだとでも説かれたのだろう。凛子の健気さが痛く、利用できる者なら誰だろうと利用するシャンディの狡猾さは少し恐ろしい。

 ただ、文香がシャンディに付きそう理由は不明だ。


「久瀬さんとシャンディさんはどういう関係だったんですか」


 《アンダーターンド・アウトサイド・スピン》。そう告げて回った後で、文香はわずかに言葉を詰まらせる。歯に物が挟まったような言いにくさを秘めていた。


「ただの職場の同僚でダンス仲間。恋愛関係ではありません」

「……本当ですか?」


 文香はなおも言いにくそうに言葉を探す。シャンディと違って、文香は嘘がつけないのだろう。二人の間には何か、ホテルマン以外の接点があるのかもしれない。


「すみません、黙秘します。先輩に口止めされているので」

「シャンディさんの過去に関することですか?」

「お察しを」


 それだけ告げて、文香は振り付けのレクチャーに戻る。一連の規定フィガーの最後は《アウトサイド・チェンジ》。これで一回目の通し稽古は終わり。その後休む間もなく二回目へ突入する。


「ではなぜ二人はペアを?」

「先輩のイタズラですよ。私が相手じゃないと嫌だと駄々をこねたんです。私は女性側で踊りたかったのに……」


 少し拗ねたような文香の発言に嘘はないのだろう。そして在りし日の二人の関係を想像できて美琴は笑ってしまった。


「シャンディさんらしいですね」

「先輩はそういう人です。ワガママな秘密主義者」


 二回目の《ターニング・ロック・トゥ・ライト》はまだ決まらない。それでも先ほどよりは何をやればいいか分かっているぶん、修正がしやすい。掴めてきている。文香の指導の賜物だ。


「ですが、黒須様になら先輩も、閉ざしている心を開くかもしれない」

「開いてくれなくても構いませんよ」

「それは?」

「彼女が私を求めてくれる限りはそばに居ようと思ったんです」

「はあ……」


 文香は大きくため息をつく。《ナチュラル・スピン・ターン》。シャンディ仕込みの慣れたステップの直後のことだ。


「すみません、下手クソなステップでしたか?」

「いえ……。貴女のような方の好意すら疑ってかかる先輩に呆れているんですよ……。人間不信もここに極まれりですね……」

「そういう人ですから」


 人間不信、という単語が美琴の脳裏に引っかかった。

 ダンスパーティーが始まる直前、そんなことを話した相手が居た。吃音癖があり、恋人とケンカして寂しいからと語らった女性――リドル・スミス。


「……決めましたよ、黒須様。先輩がどんな姿でマーベリックに潜入しているかお教えします」

「いえ、久瀬さんそれは――」

「いいえ。あの分からず屋が敷いた箝口令を破ることになりますが構いはしません。このままでは黒須様があまりに振り回されることになる。そんなことがあってはいけませんから」


 《コントラチェック》。女性側が体をしなやかに振って、優雅なポーズを決める仕草。文香の指導は見事なものだ。イタズラな教師とは違って、しっかりと教えてくれる。


「黒須様。先輩が潜入の際に遣った偽名は――」

「大丈夫です。教えていただかなくても」

「ですが……」


 美琴にはもう見当がついていた。

 確信にも近い答えを抱いていた。


「これはシャンディさんが仕掛けた遊戯ゲーム。偽名と変装で会場に忍び込んでいるのなら、私自身が見つけないと彼女との勝負になりませんから」


 あの遊戯好きのシャンディなら、きっとこうするだろう。

 窮地にあろうと。そして二人の間が不仲になっていようと、美琴を遊戯で試そうとしてくるはずだ。シャンディは人間不信で、他人からの好意を信じられない。

 だから愛を試す。愛が自分に向いていないと不安になってしまう。

 そんな可哀想な女を救ってあげる方法は、遊戯に乗ってしかない。


「……先輩が貴女と出逢えてよかったです」

「私もシャンディさんと出逢えてよかったですよ」

「それは直接、本人に伝えてあげてください。私から伝えたところで、先輩は信じないでしょうから」

「人間不信ですからね」

「本当に」


 くすくすと、文香と笑い合って踊る。ダンスは二回目を終えて三回目へ。ようやく美琴のリードも板に付いてきた。超短期間の実践練習。身についているとはお世辞にも言いがたいステップでも、その後の動きが理解できればなんとかなる。なんとかできそうな気がしてくる。


「……久瀬さん。またいろいろと教えてください。シャンディさんのホテルマン時代の逸話とか。お話できる限りで」

「ええ。いくらでも」


 そしてちょうど四回目のフィガーを終えた時、曲は終わった。

 文香に礼を告げて、美琴は事前の指示通りにフロアの中央へ向かう。

 瞬間、場内を照らしていた照明が落ちて、スポットライトが美琴に降り注いだ。


『それではこれより、エキシビション・ダンスを執り行います。まずは弊社を代表するペアから。黒須美琴』


 男性ホテルマンの荘厳な案内が場内に響く。四方を取り囲む人の壁が、まばゆいばかりのフラッシュを幾重にも放つ。この無数の閃光のうちどれかひとつに、シャンディが居る。そう思った途端、美琴の緊張と不安は晴れる。彼女が見守って、育ててくれていると思うだけで、こんなにも奮い立てる。


 ――たとえ何があっても、私はシャンディさんを信じよう。


 体が静かに震えた。武者震いだ。高揚感が美琴を包んでいた。


『続いて、赤澤来瞳』


 美琴の眼前にスポットライトが落ちた。

 真白い光の柱の中に、深紅のドレスに身を包んだ赤澤来瞳が立っている。

 赤澤がゆっくりと歩み寄る。スポットライトが赤澤を追って近づく。窺った彼女の表情はやはり妖艶に整っている。控室で見せた狂気は完全になりを潜めていた。

 近づき、赤澤が手を差し伸べる。手はず通り、美琴は腰を落として手を取る。


「巻き込んじゃってゴメンね、みーちゃん」

「……謝るなら最初から巻き込まないで」

「こうしないとあたしは、小杉くんに復讐できないから」

「復讐?」

「そう。この場でみーちゃんに恥をかかせる」


 赤澤に手を握りしめられる。手が締め付けられる。痛い。


「……恥をかかせても小杉が納得しなかったら、あいつは殺す」

「赤澤さん!?」


 曲が流れ始める。三拍子、ワルツ。

 ただ――


「テンポが早い……!?」


 ――ハチャトゥリアン作曲、ワルツ。仮面舞踏会Masquerade

 そのテンポ、従来のワルツの倍速。

 これこそが、赤澤の仕掛けた罠だった。


「ふっふふ……。頑張ってフィガーを教えてもらったのにざぁんねん。プロでも上手く踊るのが難しいこの曲で、みーちゃんは転ばずにダンスを終えられるかしら?」


 《クローズド・ポジション》。予備歩。

 赤澤の足が素早く動いた。

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