#41 : Kamikaze / ep.2

「無理!」


 横浜。高橋美琴――否、黒須琴音の自宅マンション。

 美琴を思わせる声色と態度で距離を詰めてきた琴音を、凛子は突き飛ばした。ソファの肘掛けに後頭部を打ち付け、琴音が「ぎええ」と叫んでいる。


「あ、ごめん! 痛くない!?」

「痛いってーの! いきなり突き飛ばすことないじゃん!?」


 後頭部をさすりながら悪態をつく琴音の姿に、凛子は謝るより先に無性に腹が立った。


「だって美琴さんのフリして抱こうとした! そういうの最低!」

「最低って……」


 琴音はばつの悪そうな顔をする。美琴一筋の凛子にとっては、たとえ最愛の推しだろうと琴音に抱かれるのは浮気だ。どれだけ姿や声が似ていても、遺伝子レベルで似ていたとしても、キャストと客の関係でなければ無理なのである。


「無理なものは無理なの!」

「私を抱いたら浮気になるとか思ってる? 姉ちゃんは他人のモンなのに」

「当然だよ! 浮気はよくない!」

「じゃあ姉ちゃんとシャン姉を祝福してやったら?」

「……そんなことできない。したくない! 美琴さんが好きなの……!」


 諦めきれなかった。美琴がシャンディと同棲していると言ったって、まだ結婚したワケじゃない。それにシャンディは謎が多いのだ、何か重大な秘密を美琴に隠している。その秘密が明らかになったら、美琴は愛想を尽かして離れるかもしれない。

 だったらそのときまで待っていたい。一途に、美琴を愛して、守りたい。


「健気だね。自慢の姉ちゃんではあるけどさ、女としてそんなに魅力的なん?」

「魅力的だよ。優しくて格好良くて……あと顔がいい……これ大事……」

「恋してて幸せそー。ま、だからこそ浮気させたくなっちゃうんだけど」


 凛子にとっては耳を疑うような発言が、よりにもよって神格化さえしている琴音の口から出て、凛子は目を見開いた。


「こっ、琴音はそんなこと言わない!」


 凛子の叫びからややあって、琴音は笑う。新しい獲物を見つけたとほくそ笑む時のシャンディから盗んだ表情で、琴音はケタケタと笑った。


「言っちゃうんだなー、これが!」

「言わない!」

「浮気、不倫、ダブル不倫。すべてのセクシーの生みの親!」

「やめっ、やめて!」

「おっぱい! 乳首! 乳輪! おま――」

「イメージが壊れるからぁっ!」

「そうそう! 壊しちゃえよ、そんなモン!」

「え……?」


 これまで――どんな出演媒体も欠かさずチェックしている凛子ですら見たことのないへらへらした表情で、琴音は笑っていた。

 清純派でいて役柄を選ばないとは言えど、こんな下世話な発言を連呼するような姿の琴音は知らない。イメージに合わない。凛子が頭の中で作り上げてきた、事務所がブランディングしてきた黒須琴音の姿とはあまりにかけ離れている。

 目の前の琴音は、清純派で清楚などではない。どこまでもがっつく肉食系だ。


「白井さんがすっごいファンだってことはよーく分かったよ。私に夢を見てるってことっしょ?」

「そう、だよ! ずっと応援してる! デビュー作の『カンフー少女VS7人の陰陽師』の頃から好きなの! 世間は黒歴史扱いしてるけど!」

「ね。私も姉ちゃんもあれ気に入ってんだけど、事務所から言うなって止められててさー」


 美琴も気に入っている。同じ作品を気に入っているということが嬉しくて凛子の胸は踊ったが、琴音はそんなことお構いなしに再び凛子を突き落とす。


「白井さんはさ、私のことどんな女だと思ってる?」

「どんな、って……!」


 推しの前で、推しを褒めるということ。接触拒否・認知拒否の凛子にとってはあまりに難しすぎて、言葉が出てこない。

 琴音に自身を認識されたくないのだ。自分のような汚れた存在が、琴音のような清らかで美しい存在に触れてしまったら、琴音に意識させてしまったら、琴音まで穢れてしまう。


「それは…………!」

「ケケケ、緊張してんなー? りんちゃんは可愛いなあ」

「りんちゃんはやめて!」

「しらりんならどう?」

「言われたことない!」

「じゃ、凛子」


 思わずドキリとしてしまう。同時に冷や汗が伝った。推しの琴音に、完全に自分の存在を認識させてしまったのだ。このままでは琴音が穢れてしまう。


「ああ無理、無理だよ……記憶消してよぉ……! 私と琴音は会わなかったことにしてよぉ……!」

「面白いこと言うね」

「全部、店長のせい! 100万円返すからなかったことにして!」

「ならないならない。残念だけど私達、もう顔見知り」

「顔見知り……?」


 認知拒否でいるのは、もう手遅れなのかもしれない。どう頑張っても知り合ってしまった以上、都合よく琴音と凛子の記憶を消すことなどできないのだ。

 そんな凛子の葛藤など知るよしもなく、琴音は笑ってみせた。


「顔見知りっつーか、体見知り? 友達というよりセフレみたいな?」

「それやめてイメージ壊れる!」

「いーじゃんいーじゃん。他のファンが知らない琴音の秘密知れたんだよ? ちょい優越感あんじゃない?」

「ない!」

「ホント凛子って変わってんね? ……その感情、盗みたいな」


 不意に真面目に、まなじりを結んで琴音に見つめられる。まるで何を考えているか分からない美琴によく似た切れ長の瞳が凛子を射貫く。


「じゃあさ、提案」

「聞かない!」

「聞けよ推しの話だぞ」

「琴音はそんな態度とらない!」

「そうそう、それそれ」


 ケケケと不気味に笑って琴音は告げた。


「これから私、凛子に告白しまくるわ。好き好き大好きって」

「意味わかんない。そんなの断固拒否だから!」

「そうして。あと、ファンの知らない琴音の秘密も言いまくる。初体験は高2の夏にクラスの男子と――」

「いーやー!」

「姉ちゃんが親を連れ出してくれたスキに――」

「やーめーてーよー!」

「あーでも、ファーストキスの相手は姉ちゃんだったな」

「それは……詳しく!」


 完全にペースに飲まれてしまっている。何せ推しの琴音が、知りたくないことを次々べらべらとまくし立てるのだ。

 琴音のイメージを守り抜かなければならない。美しく清らかで清純派。シャンプーのCMではサラサラの髪の毛を翻し、保険会社のCMではどんな人が相手でも親身に相談に乗っているのだ。

 こんな下世話で下品な琴音は、凛子の思い描く黒須琴音ではない。


「とにかく決めたから。連絡先交換しよ。ていうかどこ住み? LINEやってる?」

「いや! 連絡してきたらファン辞める!」

「あはは。そりゃ無理でしょ」


 琴音は笑った。

 一瞬、内面を見透かされたような気になってしまう。


「辞められるモンなら辞めてみなよ」

「うぐ……」


 凛子が好きな、映像作品の中の琴音の顔だ。スターダムにのし上がろうとする女優が使う、仕事用の本気のキメ顔は、怒り心頭の凛子を黙らせるには充分すぎるほどだった。


「つーわけで、私は凛子を魅了し続ける。好きって言うしキスするしプロポーズもセックスだってしてあげる。でもそっちは抵抗し続けて」

「ふざけないでよ!」

「ふざけてないって。私の大ファンだから頼んでんの。私に夢を見てんでしょ? 黒須琴音っつー夢を見続けたいんでしょ?」

「そうだよ!」

「なら私が何言っても何しても私に恋するな。一生推してろ」

「だからそれ――」


 言いかけた凛子の唇は、琴音の唇で塞がれた。無論、初めてではない。キャストと客の関係だった時は、体のあらゆるところにキスの雨を降らせたが、今は違う。

 キャストと客などという言い訳は存在しない。凛子と琴音はあくまでも、ファンと推しの関係だ、そのはずなのだ。

 だが、ファンと推しは、キスなどするものだろうか。


「……私のこと好き?」

「嫌い!」

「琴音のことは?」

「……好きだよ! もう! ファン辞められるワケないよ!? インスタもコメントしてるし、次のファンミなんて最前から3列目だよ!? スタジオ観覧も当たったし!」

「マ? そこまでか……」


 琴音は複雑そうに頭をかいていた。推しをドン引きさせてしまったかもしれない。愛が強すぎるゆえに暴走してしまった。


「ごめん、ヒかないで! ウソ、全部ウソだから! 忘れて!」

「や。嬉しかっただけだよ。私も、琴音もさ」


 目の前の琴音と、想像上の黒須琴音の姿が危うく重なりかける。凛子は髪の毛をくしゃくしゃして、恐ろしい妄想を取り払った。

 推しの琴音とはあくまでも認知拒否、接触拒否。目の前に居るのは琴音と同姓同名で、琴音と容姿も声も似ている偽物。そっくりさん。クローンだ。


「違う違う違う! 貴女は琴音じゃない! 琴音じゃないから!」

「その調子その調子。ずーっと複雑な感情のままでいてよ? 盗みがいがあって嬉しいからさ」

「さっきから何なの、盗むって!」

「心を盗むのさ。なんつって」

「もういや! そういう駆け引きみたいなの私嫌い! 帰る!」

「駆け引き……」


 ドカドカ足を踏み鳴らし玄関のロックを開けたところで、琴音が背後から飛びかかってきた。ちょうどドアを背に、壁ドンのような体勢になる。


「な、なんなの!?」

「駆け引きで思い出したんだけどさ。私と凛子の関係って、遊戯ゲームって感じしない? シャン姉が姉ちゃんにやってるみたいなさ」

「その名前は一番聞きたくない!」

「シャンディシャンディシャンディシャンディシャンディシャンディ」

「事務所にクレームいれるよ!?」

「それは困る。だけど黒須琴音が困ることは、ファンの凛子にはできない。でしょ?」


 にかっと琴音は歯を見せて笑った。事実その通りなのだ。琴音にクレームを入れて、それが週刊誌の目にでも留まってスキャンダルになれば琴音の仕事が減る。仕事が減れば琴音の活躍を見られなくなる。


「……そうそう。次の私の映画、今みたいな逆壁ドンシーンあんのよ。お楽しみにね」

「ファンサのつもりなの!? 嬉しい! けど今は違う!」

「フクザツでいいね。これからも応援してね、凛子のことだーい好きだから!」

「琴音のことは応援するけど、貴女のことは大嫌い!」

「ん。ハッキリ言うとこ好き。そうと決まれば行こっか。ちょい待ち、支度してくる」


 さっと離れ、琴音は洗面台に直行した。このスキに帰ってしまおうと思った凛子だったが、このまま消えてしまうのも遺恨を残してしまうかもしれない。


「ヤバい、すっごい楽しい! シャン姉の気持ち分かる! 凛子はどう? ていうかまだ居る? 帰ってないよね?」

「私は楽しくない!」

「そう? じゃあ愉しませてあげなきゃね。シャン姉みたいに!」


 玄関にいる凛子から琴音の姿は見えない。帰ろうにも琴音が話しかけてくるため結局、支度を待ってしまった凛子は、現れた琴音の姿を見て思わず息を呑んだ。


「こんばんは。黒須琴音です」


 ほんの数分足らずだ。数分足らずで琴音は変身した。すっぴんでスウェットの上下というあまりにもだらしなさが過ぎる琴音はもう居ない。

 現れた琴音は、シャツとシルエットの美しいフレアスカートで清楚めに決めていた。元の素材がいいからか、粗雑なのにナチュラルメイクとして映えてしまう。化粧にそこそこ時間をかける凛子とはまるで違う。

 目の前の琴音――のそっくりさんに憧れてしまう。


「ちゃんと服着て化粧したら琴音になるなんてズルい!」

「琴音なんだからしょうがないし。ほら、タクシー呼んだから行くよ」

「行くってどこに!?」

「決まってんじゃん、六本木!」


 琴音はガッツポーズを決めて叫んだ。


遊戯ゲームには観客が必要じゃろがーい!」

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