#42 : Kamikaze / ep.3
六本木はずれ、アンティッカ。
柳瀬
「あたしもそちらに行きますね」
告げるなりシャンディはバーテンダーの聖域を後にして、カウンター席の壁際、美琴の背後に立った。美琴の隣に座れるよう席をズレてほしいのかと思った美琴の背を、包み込むようにシャンディが抱きしめる。
「出た! あすなろ抱き!」
「なんですかそれは……」
あすなろ抱きは、琴音が勉強のために見ていた名作ドラマに登場する仕草――美琴が生まれた歳に放送され社会現象にまでなった、主人公が背後からヒロインの背中を抱きしめるバックハグ。恋愛脳の董子は即座に反応したが、一方の早苗は心底どうでもよさそうな反応だ。
それよりも、シャンディが首筋にかけてくる吐息が熱い。鎖骨あたりに回された彼女の両手の柔らかな重みが、美琴の心臓を跳ねさせる。その昂ぶりが、今となっては心地よい。
「では、美琴さんに直してほしいところをお話しますね?」
背後から聞こえる、空気の漏れる攻撃的な声色が美琴の耳をくすぐった。
身構える。が、シャンディが話し出したのは予想外の内容だった。
「美琴さんって、ちょっと完璧すぎて付け入るスキがなさ過ぎるんですよね。そんな感じしません?」
どの辺が完璧なのか尋ねたくなるような大嘘をシャンディは告げた。背後に回ったシャンディの顔色を窺うことは――窺ったところで発言の真意など分からないだろうが――できない。
「完璧というと疑問はありますが、平均以上に仕事はできるようです。貴女のように性格がひねくれている訳でもありません」
「好きだと欠点とか見えないよね。わかるー。それに黒須さん顔もいいし!」
シャンディのウソを引き金に、早苗と董子が美琴を褒めにかかる。どういう目論見なのか分からず狼狽えていると、美琴の左耳――早苗達の死角――にささやき声が聞こえてくる。
「……美琴はあたしの言うとおり、背伸びしてくださいな?」
「え、っと……?」
イタズラな吐息混じりの声が鼓膜を揺らす。
この遊戯は、相手をなかせた方が勝ちのサディスティックなものだったはず。なのにシャンディは美琴をただ褒めている。意図が掴めない。
「ふふ、惚れた欲目かもしれませんね。冷静さを欠いてしまうくらい、美琴さんに魅了されてしまったんですもの。だってこうして抱擁しているだけで、あたしは幸せを感じられるんです。ステキだと思いません?」
よくもまあ、歯の浮くような台詞を照れひとつ見せることなく言えるものだと美琴は思う。告げられたこちらの方が恥ずかしくなるような台詞に、美琴は身悶えそうになる。
「……早苗さん達に子どもっぽいところを見られたくないなら、背伸びですよ?」
だが、シャンディが耳打ちしてきた通りだ。アンティッカでは恥をかかされっぱなしだ。身内の琴音に見られたのは仕方がないこととは言え、出向先でようやく打ち解けてきた気がする早苗や董子に、本心を晒すワケにはいかない。
「結論から言います。貴女の発言は信じるに値しません。聞けば、黒須さんにすら本名を教えていないそうではありませんか。ずっと欺かれ続けている黒須さんが可哀想だとは思わないのですか?」
「ええ、教えていません。ですが美琴さんは聞き出そうとしないんです。あたしのついたウソを……いいえ、ウソまで含めてあたしを愛してくださっている。とても器が広くて、包容力のある方」
「そうだよ早苗! ウソを指摘しない黒須さんはすごく優しいってこと! つまりシャみこに見せかけたみこシャなんだよ!」
美琴本人を前に、シャンディはおろか柳瀬
むず痒く、居心地が悪い。訂正しようと下手に口を出せば、二人を相手に大恥をかくハメになってしまう。だから耐えねばならない。
そこで美琴はようやく気づいた。
この遊戯におけるシャンディの目的。それは美琴をなかせることなどではない。
――褒め殺しだ。
「ええ、董子さんの仰るとおり。あたしは毎晩攻められてばかりなんです。美琴さんって、とってもお上手で」
シャンディは大嘘をついた。美琴はどうにか背伸びを保つべく、マグロのごとく泳ぎまくっている両目を静かに閉じた。
「うん! その辺の話すごく聞きたい!」
「他所の事情に深入りするのは失礼ですよ、董子」
「ふふ、ご遠慮なさらず。こういったお話ができるお相手は貴重ですので」
「あの、シャンディさん……ちょっと……?」
「今はあたしのターン。あたしが話し終わるまでは黙って聞くのがルールですよ、美琴さん?」
おおまかに決まっていた遊戯のルール、発言者の意図しない割り込みは禁止。シャンディはこれまでの流れで遊戯の不文律を察知して、ルールとして付け加えてきた。
完璧すぎてスキがないのはどちらなのか。美琴は瞑目したまま、顔いっぱいに集まりそうな血液を首から下に戻すべく、落ち着けと必死に念じる。
だが、シャンディの揺さぶりは終わらない。耳たぶに熱い吐息がかけられ、飛び出しかけた声を呑む。
「……声が出そうでしたが、よく耐えましたね。ふふ」
サディスティックな微笑みに含まれた吐息は、いつもより遙かに多い。ウィスパーボイスだからなおさらだ。初めから耳に息を吹きかけることが目的なのかと錯覚するほど、美琴の左耳が過敏になっていく。
「では、少し恥ずかしいですが……夜のことをお話しましょうか。構いませんか、美琴さん?」
「ふ、二人の秘密にしておきたい気持ちはありますね?」
「あら、もしかして照れくさいのかしら? ベッドの上ではあんなにあたしを攻め立てるのに?」
美琴は言葉に窮する。シャンディの語る内容は、徹頭徹尾大嘘なのだ。
シャンディは美琴を完璧だとは絶対に思っていないし、むしろつけいるスキを見つけてはさんざん弄んでくるのだ、今のように。それはベッドの上だろうと何も変わらない。何せシャンディが執拗に吐息をかけてくる美琴の左耳は、美琴をその気にさせてしまうスイッチのようなもので。
つまりもう今の美琴は――
「……えっちですね、美琴?」
――完全に仕上がってしまっている。欲望は膨らんだ風船のようにはち切れんばかりで、軽くシャンディに触れられようものなら一瞬で化けの皮が剥がれてしまう自信が美琴にはあった。確信にも近いものだ。
「それでそれで、みこシャはどんなプレイをするんですか!?」
「すみません、うちの董子はこういう話に目がないので……」
「構いませんよ」と前置きして、シャンディは告げた。
「あたしがキスをせがむと、美琴さんは試すんです。『好きって言ってごらん?』って。でも、一度好きって言ったくらいじゃしてくれなくて。だからあたし、恥ずかしくなるくらい好きって連呼するんですけど、それでもキスしてくれないんですよ」
「黒須さん、Sっ気強い……! でもイメージ通りかも!」
「意外ですね、もっとヘタレかと思っていました」
早苗の人物評通りで、美琴は恥ずかしさで死にそうになった。
しかもシャンディが語った内容はウソではない。立場が逆転しているのだ。キスをせがんだのは美琴で、焦らしたのはシャンディ。
「ええ、美琴さんはヘタレなんかじゃありません。焦らして、やっとキスしたと思ったらそれがとっても激しくて……。もう、キスだけで蕩けちゃいそうな程なんです」
「ふふ」と笑った後で、今度は耳元で囁く。
「……あたしに慣らされちゃいましたね?」
「くう……!」
どうにか留めようと歯を食いしばるも、声が出る。それでも二人が居る手前、そう易々と声を上げられない。恥ずかしくて死にそうなのに、体はシャンディを求めている。否、求めたくなるように仕向けられてしまっている。
シャンディはどこまでも、美琴を成長させるつもりだ。
「蕩けちゃいそうな程なのに、美琴さんはあたしの弱いところを攻めてくるんです。こんな風に」
「ひあっ!?」
耐えられなくて声が出てしまった。左耳の上部、
「ふふ。あたしの勝ちです」
勝ちとは何のことだったのだろう。羞恥心と欲望に燃える思考の糸をたぐり寄せてようやく思い出せたのは、これが遊戯で、パートナーをなかせたら勝ちというもの。
「待ってください。黒須さんが悲鳴を上げることのどこが勝ちだと? 彼女を泣かせるために辛辣な言葉を浴びせるのが貴女の言う遊戯だったのでは?」
「あたしはなかせた方の勝ちとしか言っていません。甘い言葉で囁いて、弱いところを攻めるのだって、立派ななきごえです」
「もしかして涙を流すんじゃなくて、そっちの……?」
「ふふ」
シャンディは初めからそのつもりだったのだ。「直してほしいところ」というテーマで大嘘をついて褒め殺し、耳元で幾度となく囁いて美琴をその気にさせ、最後には愛撫で美琴を鳴かせた。
二人の前で、夜を再現してみせたのだ。我慢できず美琴はカウンターに突っ伏した。
「ですが、お話した内容は本当ですよ? 普段から美琴さんには攻められてばかりですので、たまには攻めてみたいと思ったまでです」
シャンディは最後まで、柳瀬妻妻にはウソを突き通すつもりなのだろう。見事なまでの口から出任せで、二人に疑問を差し挟む余地すら与えないよう語っている。
「えー? じゃあ私達の負けなの? みこシャだって分かったからいいけど」
「……本当にそうでしょうか?」
納得しかけた董子の側で、早苗が疑問を口にした。無感情に凪いでいる早苗の言葉尻は、どこか刺々しいものに変わっている。かつて小杉を追い詰めた時、《総務の猟犬》だった時のような。
「あら? 判定に物言いですか?」
「いいえ。前提は無視していますが、勝利条件は満たしています。決着に文句はありません。我々の負けでよいです、どうせ私は飲めないので」
「私は飲みたいのに!」と叫ぶ董子を尻目に、早苗は続けた。
「引っかかりがあります。貴女ほどの秘密主義者が、夜の内容を語るでしょうか。プライベートそのものである愛の手引きをつらつらと臆面なく話すというのは非常に不可解です」
「ふふ、それで? 推理をお聞かせ願えるかしら。名探偵さん?」
せめてウソを暴くようなことはやめてくれとは到底言い出せず、美琴は隣に座る早苗の推理を聞くより他はなかった。
「理由として考えられるのは、どうしても我々に勝利したかったから。貴女は私を、私も貴女を嫌っていますので、いわば相嫌相悪の間柄とでも言えましょう」
「ええ、可愛げのない子は嫌いですね。可愛げない推理はおしまいです?」
感情を抑制している早苗の瞳に光が宿った。一方でシャンディの琥珀色の瞳は上弦だ。口では嫌いと言いつつも、早苗との言い合いを愉しんでいるようにすら見える。
「そこです。私を嫌っているのなら、もっと痛めつけて辱めようとするはず。貴女のような性根が捻くれたサディストならなおさらです」
「いや、董子さんにプロポーズの話をされたとき、結構恥ずかしそうにして――」
「恥ずかしくなんてありません」
食い気味に迫られ、美琴は黙った。早苗がそう言うならそうなんだろうと、とりあえず思い込むことにする。
「強情ですね?」
「お互い様です」
目には見えない火花がシャンディと早苗の間を飛び交っている。そろそろ止めた方がいいのかもしれないと思った矢先、早苗は続けた。
「二点目。貴女は露骨に前提を逸脱しました。『直してほしいところ』を言い合うのに貴女は褒め殺しにも近い言葉を黒須さんに浴びせかけた。何故ですか?」
「あらあら。惚れた欲目と言いましたよ?」
「私はそうは思いません。何故なら貴女はサディスト。恋人をいたぶって愉しむ人間が、そう易々と人を褒め殺しにするはずがない」
「そんなこと言っちゃうんですね。乙女心が分からないのによく結婚できましたね?」
カウンターに戻り、シャンディは早苗の前で肘をつく。至近距離で二人が向かい合う。
おそらくは、アンティッカ史上稀に見る本気の、純粋なる遊戯。ウソをつく側と暴く側。互いに嫌っている関係なので、双方ともに言葉にも遠慮がない。
「貴女と董子は違いますので、当然乙女心も違います。何故、黒須さんを否定せず褒め殺したのですか?」
「それは……」
シャンディは一瞬、申し訳なさそうにしゅんとする。あまり見ることのない、決まりの悪そうな顔だ。こんな顔は見たことがないし、普段からほぼ悪びれる様子を見せない。まず間違いなく演技だろう。
「……美琴さんに嫌われたくないからです。あたしだって引き際くらい弁えてますもの」
演技だと分かっていても、シャンディのいじらしさに胸を掴まれる。こんな可愛らしい顔を見せてくれるなら、美琴もシャンディがした夜の話の通りに立ち回れるかもしれないのに、現実は違う。
「貴女の引き際はもっと先にあると思っていましたが。元より、嫌われたくないと思っているなら、普通は夜の話を聞かせようなどとは思わない」
「ホント可愛げがないですねー? ちょっとびっくりしちゃいました。董子さん、こんな奥さんのどこがいいんです?」
「え、全部だけど」
「話題を逸らしましたね? 今のはどういう意図ですか?」
「さあ? どういう意図だと思います?」
このままでは平行線だ。アンティッカに流れるクラシックが、やや熱のこもった言い合いに変わっている。止める様子のない董子は頼りにならない。
「ま、まあまあ……。とりあえず何か飲みましょう。勝った私は無料だそうですから、早苗さんと董子さんには私がご馳走しますので……」
猟犬ここにあり。一瞬、邪魔をするなとばかりに早苗の眼光が向けられたが、気を遣われたことを理解してか、早苗に小さく礼をされた。溜飲を下げたのだろう。
一方で董子は楽しそうにはしゃいでいる。
「すみません、シャンディさん。頼めますか?」
「ええ、少々お待ちを――」
告げたところで、アンティッカの重たい扉が音を立てた。来客を知らせる、木のこすれるような、ひずむような入店の合図。シャンディがバーテンダーの聖域を抜けてエントランス付近の暗闇に消えると、それと入れ違いに見覚えのある背格好の女性が現れた。
「おっす。姉ちゃん元気?」
「……黒須琴音ですか」
美琴は思い出す。早苗は、琴音の一件を探るためにアンティッカを訪れていたのだ。琴音がしでかした一連の事件の背後関係は納得してもらえたが、ただ琴音の人間性に関してはまだ話をしていない。
どうにか琴音に女優モードのスイッチを入れてもらわないとマズい。スポンサーが見ているのだ。
「こちら、仕事でお世話になってる日比谷商事の方」
「ああ! 姉がご迷惑をかけています。妹の黒須琴音です。日比谷さんと言えば以前、CM撮影でお世話になりまして。放送が今から楽しみなんです、姉ともども」
「ええ、弊社としてもご出演いただきありがたく思っております」
琴音の化けの皮が剥がれる寸前で早苗達のことを紹介できたので、琴音と早苗のファーストコンタクトはどうにか無事に着陸した。上っ面だけの会話が白々しくて背筋が冷たい。
が、早苗と世間話などする様子もなく、琴音は店の外――アンティッカとエントランスを仕切るカーテンの向こうを気にしている。連れが居るのだろうか。
「座席、空いていましたよ。せっかく来たんですから、飲んでいきましょう?」
カーテンの奥から先に現れたのは、シャンディだ。薄明かりの中でも分かる程、珍しくシャンディは焦っていた。カウンター席が満員になったことで忙しなくなったのだろう、ややもすれば小走りで美琴の座す壁際の特等席まで駆け寄って耳打ちしてくる。
「……お二人はどういうご関係なのですか、美琴さん?」
「お二人って、琴音と誰ですか?」
「ああ、いえ、すみません! あまりに驚きの組み合わせだったもので」
シャンディに琴音の連れの正体を耳打ちされ、美琴が目を見開く。
その時カーテンの向こうから、怖ず怖ずといった調子で五人目の客が現れた。
「く、黒須さん……こんばんは……」
琴音の連れ、それは白井凛子だった。
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