quiet talk #6 : Peach Blossom

 アンティッカでの遊戯と同じ頃。月曜夜。

 退社し、家路についていた白井凛子は、最寄り駅のロータリーに停まっていた軽自動車のクラクションに肩を震わせた。

 凛子は昔から度胸が据わっている割に、突然の物音に弱い。弱いというよりは過敏なのだ。聴覚だけでなく、味覚や嗅覚、視覚、触覚。特別な環境で育った訳ではないのに、いやに鋭い。自他共に認める、凛子の特徴だ。


「久しぶりだね、


 源氏名を呼ばれた。凛子は軽自動車の運転席から顔を覗かせる女性を一瞥して、金輪際関わる気はないとばかりに無視して歩き出す。


「ああ待って待って! どうしても相談したいことがあって!」


 再び、間抜けなクラクションが駅前に響く。今度はネコ踏んじゃったのラストのようなリズムがつく。

 近くの交番から警官が顔を出していた。このまま軽自動車の主を無視していては、結局のところ関係者として話をするハメになってしまう。

 仕方がない。踵を返し、凛子を追いかけるようにのろのろと走っている軽自動車の脇に立った。


「お店辞めるって言いましたよね。話すことなんてありませんよ」

「わかってる! でもうちのお店りんちゃんで回ってたとこあるから正直今月のノルマ厳しくて!」

「それはあゆる店長の都合ですよね。私にはもう関係ないです」

「待って、お願いりんちゃん! さもなくばまたクラクション鳴らしちゃうよ!?」


 プッ、と短い音が聞こえて、凛子はため息をついた。そして慣れた調子で軽自動車の助手席に乗り込む。車用消臭剤のミントの臭いは、凛子がだった頃から何ひとつ変わっていなかった。


 凛子がかつて働いていた女性専用デリバリー風俗店、《アロマティック》。

 その店長であり凛子を迎えに来た女性・広尾あゆるは、22歳の若さにしていくつもの企業を率いる起業家であった。ただ軌道に乗っているとはお世辞にも言えない。収益の大部分を占めるのは《アロマティック》で、次点はおさわり厳禁の健全な《オトナ保育園》。その他カフェや個室マッサージ(健全)を経営しているが、そのニッチな業態のせいか懐事情は火の車である。


 一般道を飛ばしながら、あゆるはいかにも「困った」顔をして不満たらたらな凛子に謝罪した。


「ごめんね、りんちゃん。今月ホント厳しいの。りんちゃんが抜けたのもあるんだけど、このご時世でしょ? 《アロマティック》のお客様も減っちゃって。《オトナ保育園》のほうもホント大変で、先生やってくれてる絢ちゃんに支払うお給料も――」

「いいですから。世間話がしたいだけなら降ろしてください」

「ごめんねごめんね! りんちゃん怒ってるよね!?」


 あゆるはいつもこうだ。謝るときはとことん、土下座で井戸が掘れるくらい頭も腰も下げてくる。すると、不当な扱いを受けているはずの凛子の方が悪いことをしているような気になってきて、結果あゆるの思い通りに動くことになる。ゴリ押しがあゆるの必殺技であった。

 この日も当然、いつもの流れになる。助手席に座った段階、もしくはクラクションに呼び止められた段階で凛子はそうなることを覚悟していた。


「……話くらいは聞いてもいいよ」

「ホント!? ありがとう! やっぱ、りんちゃんは私が見てきた中じゃ最高のキャストだよぉ!」


 あれだけハの字になっていた眉が、ウソのようににこやかになる。どこまでも食えない女性だ。


「りんちゃんは最後にお相手したお客様のこと覚えてる? 高橋美琴様って仰ってたんだけど」


 高橋美琴のことは、顔はおろか声や姿すらも鮮明に思い出せる。何故なら彼女は、姉の名と姿を演じていた人物。凛子の推しである女優、黒須琴音。


「……覚えてるよ。高橋様がどうしたの?」

「電話がかかってきたの、『りんちゃんくださいな』って。もう辞めたから派遣できません、他の子はどうですかって言ったんだけど、そしたら『連絡先教えて』って譲らなくてね……」

「教えてないよね?」

「もちろん! いくら私がダメ経営者でも個人情報は守るよ! でも高橋様も引いてくれなくて。でね、私……ちょっと魔が差しちゃって」

「魔が差した……?」


 てへりと舌を出してあゆるは笑い、軽自動車のハンドルを切った。ナビゲーションの指示は、首都高湾岸線、横浜方面。


「高橋様に言ったの。ウチで一番高いお泊まりデートコースの10倍払ってくれたら派遣しますよ、って。100万円払えって言えば普通は諦めてくれると思うよね?」

「……払うって言ったの?」

「そうなの! やったーチョロい100万あれば今月の支払いはなんとかなる! ……とは思ってないよ? 思ってないですからね?」


 凛子がにらみを利かせたことを察知してか、あゆるは露骨に焦ってみせた。

 ただ、凛子にしてみれば複雑だ。いい客も悪い客も知っている凛子にとって高橋美琴――黒須琴音は、どちらかと言えば悪い客の部類に入る。もちろん容姿や性格が嫌いな訳ではない。むしろ大好きだ。

 大好きだから問題なのだ。

 凛子は、黒須琴音のファンだ。琴音の出演作やレギュラーのラジオ番組、ファンミーティングなどのイベントのチェックも欠かさないし、インスタの投稿にコメントを送るくらい熱狂的に愛している。とはいえその愛は、恋愛でも友愛でもないもの。推しの感情だ。


「……ガチ恋じゃないのに」


 ただ琴音に生きていてほしい。琴音が幸せであっていてほしい。

 女優として生計を立てる琴音に、ある種でもするような感覚でお金を支払って応援しているのが凛子の素直な気持ちだった。


「断ってくれたんだよね、高橋様の話」

「うん、努力はしたよ! でもダメだった!」

「店長……」

「ごめん! でもさ、放っておけないよ。私達の仕事って、ただお金貰ってセックスするだけじゃないよね?」


 凛子が風俗嬢を続けていたのは、明治文具の手取りが少ないからというだけではなかった。

 《アロマティック》に電話をかけてくる客達はみな、多かれ少なかれ悩みを抱えている。


 ――初めてできた彼女をリードしたいから、技を教えてほしい客。

 女性が好きな女性なのかもしれないから、愛せるか試してほしい客。

 行為はなくていいから、ただ慰めてほしい客。

 友達の代わりとして、買い物に付き合ってほしい客――


 凛子は、彼女らの悩みを聞くのが好きだった。もちろん、解決できない悩みばかりだ。それでも、どうにか受け容れようと悩みを聞いてあげた時の、客のすっきりした顔を見るのか好きだった。


「私ね、この世の悩んでる女の子を癒やしてあげたいんだ。悩んでヘコんで塞ぎ込んでる子達が、少しでも前を向けたらいいなって思ってこの仕事始めて」

「前にも聞いたよ、店長のそれ。そういうこと言うのズルいから」

「ごめん! ホントごめん! だから――」

「もうわかったってば! 高橋様とヤって100万受け取る! 全額店長にあげる!」

「りんちゃんお金いらないの!?」

「いらないよ! 私はもうじゃないの! お世話になった店長が困ってるから、特別に、特別に働いてあげるだけ!」

「ありがとう凜ちゃんチョロ……じゃなくて、ステキ!」

「そのすぐチョロいって言う癖、いい加減直して」

「かっしこまりましたー!」


 軽自動車は一路、横浜へ向けて夜の湾岸道をひた走る。車窓に広がる港湾地帯の明かりを見ながら、凛子は高橋美琴にどんな顔をして会えばいいのか、考えるだけで憂鬱だった。


 *


「……お電話いただきました者です」

『入って』


 勝手知ったる横浜の高級マンションのエントランスを抜け、高橋美琴の待つ部屋へ。表札は出ていない。出すとすれば黒須なのだろうが、出す気もないのだろう。

 そんなことを考えて部屋の呼び鈴を押そうとした途端、ドアが開かれた。


「ごめんね、来てもらっちゃって。りんちゃん」

「……白井凛子です」

「あっそ。じゃあ、白井さん。これ、お店の人に渡してきて?」


 そう告げて高橋美琴――黒須琴音は、束で止められている万札を裸でよこしてきた。現ナマ、100万円の札束だ。以前は5万から10万円で買われていた凛子が初めて見る価格。


「……終わってから渡したんじゃダメですか?」

「ダメ。白井さんの水揚げ金みたいなものだから」

「もう辞めてるんですけど」

「いーじゃんカタいこと抜き。私、水揚げって一度やってみたかったんだよね。ホスト水揚げしてもつまらんし」


 少なくとも琴音は、凛子に100万円の価値があると考えている。そう考えた途端、現実味のない札束がひどく生々しいものに思えてくる。


「私、こんなに安い女じゃありませんけど」

「あはは、そういうの好き。実際これじゃ足んないと思ってたし。でも店長さんが100万でいいって言うからさ」


 ボレる相手だと教えていればもっと高額だったのかもしれない。とは言え、推しの財布が自分ごときのために傷むのはどうにもイヤだった。


「……渡してきます。けど、お金だけ受け取って帰るかもしれません」

「ま、そん時はそん時かな。私が無理言って、もう辞めちゃってる白井さん呼んだワケだし。私が白井さん選んだように、白井さんにも選ぶ権利はあるでしょ」

「…………」


 札束を抱えて、近くのコンビニに車を止めていたあゆるの元へ向かう。助手席に乗り込んだ凛子を怪訝な目で見るあゆるに、札束を渡した。


「もう終わったの!? チョロいね高橋様!」

「チョロいって言うのやめて。特に高橋様をそんな風に言わないで」

「あー、うん! ごめん! でも100万円……これで今月なんとかなるよ……! 全部貰っちゃっていいんだよね? あとでやっぱ払ってって言わないよね!?」

「言いません」

「やったー! りんちゃん大好き! じゃ、家まで送るね! あゆるちゃん号はっしーん!」

「……待って」


 車中を満たすアイドリングの中、凛子はハンドルを掴んだあゆるの手を止めた。


「どうしたの?」

「……店長の運転荒くて酔っちゃったから、ホテルにでも泊まるよ」

「あ、ごめん! じゃあやっぱりお金払うよ! お泊まりコースの10万円分……はしんどいから……3万円でいい?」

「大丈夫。店長には稼がせてもらったから」

「ホントにいいの!? お店の売り上げじゃなくてポケットマネーだから遠慮しなくても――」


 軽自動車あゆるちゃん号から降りて、凛子は運転席のあゆるに向けて精いっぱい微笑んだ。


「これで本当にお別れ。がんばってね、あゆる店長」

「……今までありがとね、凛子さん」


 凛子はコンビニを後にして、再び高級マンションを目指して歩き出す。

 その様子を車中から見送る広尾あゆるは、ハンドルから手を離して運転席のシートにもたれた。鞄から取り出した入店当時の凛子の履歴書を見ながら、あゆるは煙草に火をつける。煙が目に染みた。


「りんちゃんの心は、私には癒やせなかったなあ……」


 *


「おかえりー」


 マンションの一階、エントランスの前に着の身着のままのスウェット姿で琴音が立っていた。感情の読めないにやけた笑顔は、映画やドラマの画面を通して見るよりも、より深い謎を宿している。


「いいんですか、芸能人がこんなところに立ってて」

「へーきへーき。ここの住民だいたい同業者だから。口は堅いよ」

「パパラッチが狙ってるかもしれないのに?」

「ないない。友達を待ってたって言えばいいだけじゃん? 最悪また姉ちゃんのフリすればいいから」


 琴音のインスタのおかげで、黒須美琴の名は一夜にして日本中に広まった。思わず何枚もスクリーンショットを撮ってしまったくらい、美琴のバニーガール姿は凛子の胸を鷲づかみにして離さないものだ。スマホの待ち受けにしてしまったくらい、凛子は美琴のことを――恋愛対象として――愛している。

 だからこそ彼女を守りたい。シャンディのような、悪辣な女から。


「あ、そうだ。インスタ見てくれた? 似すぎててびっくりしたんじゃない?」


 部屋に移動し、広々としたリビングの中央に置かれたソファに腰を落ち着ける。コーヒーを入れてくれている琴音の声に、凛子はスマホをとっさに仕舞った。


「目元は似てるけど、雰囲気はそんなに似てないね」

「ね。それに姉ちゃんって、私より全然可愛げあるし。クールビューティーぶってるくせにすぐ照れんの。ギャップ萌えってやつ。天然でやってんだからムカつくよ」

「……仲いいの?」


 コーヒーをテーブルに置いて、琴音は凛子の隣に腰を落ち着けて笑った。


「大好きだよ。私の理解者で、ファン第一号。事務所にスカウトされて悩んでた時、背中押してくれたの姉ちゃんでさ。ドラマとか映画とか毎回感想送ってきてくれるし」

「そうなんだ。いい人なんだね」

「ん。自慢の姉ちゃん。正直、姉ちゃんもこっちの世界来てくんないかなって思ってるくらい」


 あのインスタで、黒須姉妹の美しさは日本中に拡散した。琴音の姉とあれば、芸能事務所も黙ってはいないだろう。もし本気でスカウトに乗り出して美琴が了承すれば、凛子には手の届かない遠い存在になってしまう。

 凛子の口は自然と動いていた。


「それはダメ!」

「え、なんで?」

「……あ、ううん。なんでもない」

「気になるな? どうして姉ちゃん芸能界に誘っちゃダメなん?」


 静かににらみつけるような、真意を図るかのような琴音の視線に射貫かれる。凛子にしてみれば、推しから向けられたもの。琴音を陰から応援している大多数のひとりに過ぎない凛子にとっては、向けられてほしくないもの。


 ――琴音に認知されたくない。

 こんな汚れた私を、貴女の人生の1ページに加えないでほしい――


「……ごめん。琴音が私のこと見てると思ったら、気が動転しちゃって」

「ああ、ファンだって言ってたね? そんなに好きなん? 私のこと」


 凛子は思わずのけぞった。唇が震えて、舌が回らない。やっとのことで切り出せたのは、たった一言だけだった。


「うん……」

「緊張してる?」

「するに決まってるよ! だって大好きなんだよ!?」


 凛子の独白に、琴音は思いきり噴き出した。


「今さらじゃん。私のこと抱いといて緊張はないでしょーよ」

「だって前はキャストだったから! 今はもうお店辞めてるし!」

「じゃあ、私と白井さんの関係は?」

「そんなの……。推しと、ただのファンだよ」

「ファンかー」


 琴音はソファの背に背中を預けて力なく笑った。一挙手一投足を事細かに眺めれば眺めるほど、琴音の考えていることは分からない。

 何故なら凛子が見てきた琴音は、演じている琴音だ。ストーリーラインという補助輪があるから謎めいた芝居に込められた意図も理解できた。だが、演じていない素の琴音の行動にどんな意味が込められているのかは分からない。深読みしすぎてしまう。


「ま、それでいっか。じゃあ白井さん、今から黒須琴音ってくんない? 私、黒須美琴やるから」

「な、なんで……?」


 琴音はニヤリと微笑んで、凛子に冊子を渡した。台本だ。題名は短く《箱庭》と書かれている。


「まだ情報解禁前だからナイショね。今度舞台で実の姉に抱かれてる妹の役演んだけど、役作りに困っててさ。同性愛はりんちゃんで理解できたけど、近親相姦する気持ちってのはさすがの私でも難しくてね」

「……それを手伝ってほしくて、私だったの?」

「ん。私のこと好きなら口堅いでしょ? ホントは姉役を頼みたいけど、白井さんウチの姉ちゃん知らんじゃん? だから妹の琴音役。で、どんな気持ちになったか教えて?」


 琴音が凛子を呼びつけたのは、役作りのためだ。女優として、仕事に真摯に向き合っている。推しの大好きな一面が見られて、それを手伝えることが嬉しい反面、わずかに凛子の心は痛む。


 ――琴音は、別に私じゃなくてもいいんだ。


「私には琴音さんの役なんてできないから」

「大丈夫だって。私が完璧に姉ちゃん演れば、白井さんもそれに引きずられるから。プロの役者ナメんなよー?」


 へへと笑って、琴音は前髪をくしゃくしゃする。無造作にふわふわさせた前髪は美琴の特徴だ。そして何度となく発声練習を繰り返し、琴音の声色から少し低い声にする。目元を凜とさせ、背筋を伸ばす。

 凛子の目の前に現れたのは――


「こんばんは、白井さん。琴音の姉の、黒須美琴です」

「あ……」


 美琴と琴音、面影がぴたりと重なる。似ていないと思われたのに、琴音は見事に美琴の表情や仕草、声色を再現してみせる。


「さあ、次は白井さん……いえ。琴音の番ですよ。貴女が一番好きな黒須琴音を演じてみてください。私がカバーしますから」


 そんなもの、できる訳がない。推しを前にしたことでただでさえ緊張しているのに、推しが大好きな人をモノマネしているなんて。

 きっとこれは、本来なら、ファン冥利に尽きる幸せな巡り合わせなのかもしれない。それでも素直には喜べなくて、凛子は首を横に振る。


「やっぱり無理だよ。役作りはお姉さんに手伝ってもらって?」

「や、姉ちゃんには頼めないんだってば。さすがに抱かれんのは抵抗あるし、姉ちゃんだって妹は抱けないでしょ。それに――」


 琴音が続けた言葉に、ある意味で夢心地にあった凛子は一瞬で最悪の現実に叩きつけられた。何もかもを理解できなくなった。


「――姉ちゃん、もう他人のモノだし」


 息をするのも忘れていた。自身がどこで何をしているのかも分からなくなって、凛子の口から出たのは声にもならない声未満の、吐息にも似た音だった。


「実はね? 最近うちの姉ちゃん同棲始めたんだよ。なんと行きつけのバーの女性店員さんと」

「…………」

「これが食えない女でさ? 悪い人ではないんだろうけど、なんかいろいろ隠しててねー」

「……やめて」

「でも、あそこで飲むお酒は美味しいんだよねー。私あんまお酒強くないんだけど、ついつい飲んじゃって」

「それ以上言わないで!」


 隠していたスマホが手のひらから滑り落ちて、鈍い音を立てて床に転がった。ジャイロが作動して、スマホの壁紙――バニーガール姿の美琴――が露わになる。


「あは、壁紙にしてんだ? 白井さーん、私のファンなのに姉ちゃんの方が好きとか、これって浮気ってヤツじゃない?」

「浮気じゃ……ない……!」

「……白井さん、なんで泣いてんの?」


 言われて凛子は気づいた。涙が出ていた。そう意識した途端、とめどなく涙があふれてくる。

 ほとんど一目惚れに近い美琴を二年間ずっと近くで見てきた。それでも美琴は、女性を愛さない女性だからと、踏み込まずに愛してきた。だけど邪魔が入って、見守るだけではいけないと踏み込んで玉砕した。

 それでも諦めきれずにずっと機会が回ってくるのを――邪魔者が消えて美琴が一人になる機会を窺っていたのに。


「やだよ……。どうして私じゃダメなの……! 美琴さん……!」

「美琴さん……?」


 琴音は、バニーガール姿が映し出されたスマホを拾い上げる。その時、手帳タイプのスマホカバーのポケットから、凛子の名刺がこぼれ落ちた。


 ――白井凛子。明治文具。


「……ああ、なるほど。マジでそんなことあんだね」

「私は……私は…………っ!」


 琴音は再び、髪の毛をくしゃくしゃにした。そして低い声色で、凛子の肩を掴む。


「私のこと、姉ちゃんだと思ってくれていいよ」

「……そんなのできないよ! 私が好きなのは美琴さんで!」

「なら、試してみなよ」

「試すって……」


 琴音は美琴を演じた。人々を愉しませ、魅了し、時には涙さえ流させる演技で、演劇賞を奪い取ってきたからだけではない。23年間一番近くで見てきて背中を追い続けたからこそできた、琴音の女優人生において最高レベルの芝居をしてみせる。


「……おいで、凛子」

「下手なモノマネはやめて! 似てないから!」

「なら教えて、美琴にどう愛されたいか。貴女がいま抱いている感情のすべてを伝えて」

「そんな、そんなの……っ!」


 凛子は琴音に抱きしめられた。以前、美琴に抱きしめられた時の感触によく似た柔らかさと温かさ、そして匂い。


 ――ああ、この匂いは。美琴と同じものだ。


「貴女を受け止めさせて、凛子」

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