#36 : Glad Eye
午後四時、経堂。賃貸マンションの一室。
昼夜逆転した目覚ましアラームを止めて、ベッドから這い出した。
普段のしゃんとした身なりは、今はなりを潜めている。天然モノの淡い金髪はボサボサで、ぱっちりとした琥珀色の瞳も三日月もかくやという細さを露呈するばかり。
「さむ」
春先と言えども、リビングは寒かった。
愛し合ったまま眠ってしまうと、また風邪を引いてしまうかもしれない。せめて暖かくなるまではパジャマを着るべき?
寝ぼけた思考で導き出すも、素肌でないとベッドで眠れない。それに最近は、素肌を晒した時の反応を伺うのが愉しすぎて、意地でも脱いであげたくなる。
だから冷えた体を温めるため、起きてまず向かうのは飼い猫の居場所ではなくバスルーム。唯一つけていた下着を洗濯機の中に放り込んだところで、「待っていました」とばかりに自動給湯器のアナウンスがお決まりのメロディとともに聞こえてくる。
《お風呂が沸きました》
「はい、どうも」
シャワーで汚れを落とし、湯船で冷えた身体を温めながら、スマホで仕事をすること。
それが彼女の、遅すぎる朝の日課だった。
まずは今月の売上の概算。現状は先月と変わらず横ばいで、決して多くはないにせよ、暮らせる程度には黒字といったところ。
次は、常連客からのLINEメッセージの確認。普段は言葉を弄しているのに、彼女はチャットだと素っ気なかった。文字だとお得意の声色や瞳が伝わらないから、来店予約の確認くらいにしか使っていない。
そこで彼女は、はたと気づく。
「そういえば、美琴の連絡先を聞いてませんでしたね」
黒須美琴。
凜々しく整った顔つき、切れ長の瞳で、夜ごとに口説いてくる元常連客で、今はそれ以上の関係の女性。
大抵の常連客が知っているにも関わらず、美琴が個人の連絡先を知らないのは、来店予約をする必要がないからだ。冗談で「毎日来て」と約束させたらその通り、定休日の日曜・祝日以外は来店してくれる。さすがに毎日オールとはいかないが、休日前などで時間が許すときはほぼオール。
黒須美琴は、すっかり日常に溶け込んでしまっている。
「そういうことするから、勘違いしちゃったんですよ」
湯の中に口元まで浸かり、自身のものではないボディーソープとシャンプー・コンディショナーのボトルを見ながらぶくぶくと泡を立てる。美琴への本音をあぶくの中にかき消して、彼女は浴槽に潜った。眠気と冷えと、前日飲んだアルコールを飛ばすルーティーンを決めると、ようやく頭が冴えてくる。
――なら、今宵はこれをネタに
ざばあ、と湯船から飛び出して、彼女は「ふふ」と口元を緩める。身体を拭いて髪を乾かし支度を整えると、自分の顔を鏡に映してお決まりの口上を述べた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、アンティッカへ」
ただの女からバーテンダーへ、顔を、姿勢を、心すらも切り替える。鏡に映った彼女――シャンディは、琥珀色の瞳を湛えて笑っていた。
*
「さて、美琴さん。今宵の
ここは六本木はずれ、同棲していても普段通りの関係が続くガールズバー《antiqua》。客席に座った美琴を見下ろして、シャンディは二枚の紙製コースターをカウンターの上に置いた。
「アンティッカでは美琴さんなんだ?」
「ええ、ここでは背伸びした美琴さんを。ウチでは等身大の美琴を味わおうと思いまして」
「……これはこれは。シャンディさんは欲張りですね」
「想い人の秘密はすべて知りたいだけですよ」
「なら私も貴女を知りたいものですね。ミステリアスという茨の奥深くで眠る、少女の真相に触れても構いませんか」
「相変わらず、どこから出てきたのか分からないクサい台詞ですこと」
「臭うくらいのほうが、シャンディさんのお気に召すようですから」
「そういうことにしておきましょう。では、あたしというパズルを解き明かしてくださいな」
「解き明かしてみせますよ。さっそく遊戯を始めていただけますか?」
シャンディの態度を見て、美琴は背伸びして紳士じみた神妙な顔を浮かべた。本当は動揺しているはずなのに、落ち着き払った態度を取ってしまう彼女がなんとも滑稽で、愛おしい。
シャンディは「ふふ」と笑って、コースターを裏返してみせた。
「今宵は簡単な心理戦です。コースターをご覧くださいな」
二枚のコースターはまったく同じものだ。白く丸い、なんの変哲もない市販品。ただし片方にはアンティッカの電話番号ではなく、シャンディ個人の連絡先を書いている。
「ご覧の通り、片方は何もなし。もう片方にはあたしの連絡先が書かれています。このどちらか好きな方を、美琴さんに選んでいただく。それが今宵の遊戯です」
「裏返して、シャンディさんの連絡先が書かれたコースターを当てれば私の勝ちということですね」
「いいえ。コースターは裏返さずこのままです」
「え?」
案の定、美琴は疑問符を浮かべていた。普通ならコースターを伏せて、どちらが正解のコースターか当てるのがセオリーだろう。正解が分かっている二択問題なんて幼稚園児でも解けるほどに容易い。
「それだけ……?」
「それだけです。選んでくださいな」
「なるほどなるほど、とうとう勝負のネタが尽きたということですね。シャンディさんともあろうお方が!」
「ええ、残念ながらそうなんです」
美琴は勝利を確信したとばかりに不敵に笑う。
一方でシャンディは、嘲って笑いたい気持ちをいつもの微笑みの中に閉じ込める。
シャンディは彼女の自信満々な凜々しい表情が、砕ける瞬間が好きなのだ。
美琴を徹底的に持ち上げて油断させて、徹底的に辱めたい。
性格が悪いのは理解しているが、これも彼女なりの愛し方だ。
「心理戦なんて前置きをしても無駄です。正解はこちらですね」
美琴は正解のコースターを指差す。
しめしめ、とシャンディは静かに微笑んでから告げた。
「そんなにあたしの連絡先が知りたかったんですか?」
「ええ。シャンディさんも私の連絡先を知っていれば、ひとり寂しく病魔にうなされる心配もありませんからね」
「本当にそれだけなのかしら?」
「これから帰るよ、と連絡することもできますね? 私の帰りを首を長くして心待ちにしている、恋する乙女のために」
「ふふ、嬉しい」
美琴はまだ余裕がありそうだ。そうでなくては困るというもの。
一日一度のせっかくの愉しみが簡単に終わってしまってはつまらないから。
「では早速、登録なさってください」
「いいんですか? 今宵の遊戯の勝利はいただいてしまいますよ?」
「ええ、勝利の美酒に酔いましょう」
美琴が連絡先を登録した直後、手元のスマホに通知がやってくる。友達申請を許可してトーク画面を開くと、シャンディは即座に写真を送りつけた――
「ひぇ!?」
――途端、カウンター越しの美琴が可愛らしい声を上げた。
「あら、どうかなさいましたか。美琴さん?」
「い、いきなり盗撮写真が送りつけられてきたもので……」
美琴に送ったのは、オールの際にカウンターで寝ている美琴の寝顔だ。無防備で少女のような寝顔が気に入って、こっそり撮影していたもの。
「他にもありますよ? 美琴さんの寝顔。これとか、これとか」
クラシックが流れる店内に、スマホの通知音が連続する。撮りためた寝顔の写真がこれでもかと美琴のスマホに送られていく。
ただ、美琴も鍛えられている。さすがに一瞬動揺を見せるも、すぐに表情を凛としたものに切り替えて、微笑みかけてくる。
「まったく。シャンディさんは私のことが好きですね?」
「ええ、愛していますよ。今の貴女も、寝ている貴女も」
「困りましたね。ここまで求愛されるなんて思ってもみませんでしたから」
「ふふ」
余裕ぶっているが、美琴の表情はにやけている。恥ずかしいことを言っている自覚があるのか、口元もどこか揺らいでいた。
もうふた押しくらいで潰れるだろうと計算し、シャンディは別の写真を送る。
「こういうお写真もありますね」
「ちょ、ちょっと……! 何撮ってんの!?」
シャンディが送った写真は、今度は経堂での夜を過ごす美琴のものだ。もっと言うと、夜の遊戯の直後のもの。
「ごめんなさいね? 寝顔があまりに愛おしかったもので、シャッターに伸びた指を止められなかったんです」
「け、消してよ!? ていうかどこかにアップなんてしないでよ!?」
「美琴さん? 背伸び背伸び」
素に戻ってしまった美琴に背伸びを促す。アンティッカでは、オトナびた美琴で居ることが暗黙のルールになるよう、しっかり美琴に教え込んでいる。すると美琴は閉口しつつも、少女のような焦り顔を抑え込んで、紳士のように語りかけてくる。
「ま、まったく。私を好きすぎるのにも困ったものですね? そんな写真など大事にしなくとも、今後は見ようと思えばいつだって見られますのに」
「あら、じゃあ今すぐ見せてくださいますか?」
「は!? こ、ここはお店ですよ!?」
「脱げないというのなら、この写真は消せませんね? あたしにとっては、お守り代わりの一枚なんですもの」
「なら、まあ……いいです…………」
美琴は顔を真っ赤にして俯いた。徐々に語尾が弱々しくなる彼女を見ると、本当に胸がすくような気持ちになる。背伸びした人間を叩き潰すことが好きなどうしようもなく悪い性格が、このときばかりは大いに満たされる。
とはいえ、良心が痛まない訳でもない。
「ですが、どうしても美琴さんがイヤだと仰るなら、裸の写真は撮らないと誓いますよ」
「誓ったところで、シャンディさんは撮るでしょう?」
「撮りませんよ。あたし、ウソはつかないので」
「よくもまあ、ウソつかないなんて言い切れますよね……。なら、どうやって誓いますか?」
「そうですねえ……」
間を取るように話して、美琴の視線を釘付けにする。その隙に、シャンディは死角に用意しておいた小箱を開けて、中のものを手の中に忍ばせた。
「キスをしましょう。唇ではなく、貴女の手の甲に」
「……分かりました」
おずおずと美琴が差し出してきたのは、都合がいいことに左手だった。すべてが計画通りに進んでいることに内心ほくそ笑んで、シャンディは美琴の手を取る。
「貴女への愛を誓いますね。美琴さん」
そして恭しく手を取って口づけをしつつ、忍ばせていた小箱の中身を美琴の左手――それも薬指にゆっくりと通した。最後のひと押しだ。これで美琴の顔面は、きっと愛おしいマラスキーノチェリーになる。
「はい、誓いました」
「……あれ?」
美琴はきょとんとした少女のような表情で、自身の左手薬指に嵌められた細身の指輪をしげしげと眺めていた。
「シャンディさん、この指輪は……?」
「なんだと思います?」
「何って、それは……」
左手の薬指。その暗に意味するところを瞬時に悟ったのだろう、美琴の顔面は今度こそ爆発して真っ赤に染まった。仄明かり、アンティッカの夜空に花開いた花火のように、とても鮮やかで美しい色合いだった。
「もう……ズルい……!」
「ふふ。ズルはあたしの専売特許ですから。その指輪の解釈は、美琴さんにお任せしますね?」
「指輪の解釈なんてひとつしかないじゃない!?」
「あら? あたしは愛を誓うとしか言っていませんよ? 美琴さんは、どんな意味を想像したのかしら」
「くうっ……!」
駆け引き。ころころと手のひらの上で転がる美琴の様子を、まだまだ見ていたい。背伸びしたがりの美琴には悪いけれど、それがシャンディの愛し方だから。
「困った女に惚れちゃいましたね? 美琴さん」
「……ええ、本当に。無駄になってしまいましたよ」
「無駄?」
恥ずかしさからカウンターに突っ伏していた美琴が顔を上げる。隣の座席に置いていた鞄の中をまさぐって四角い小箱を取り出す。二枚貝のような片開きの箱の中には、シャンディが送ったものと同じものが煌めいていた。
指輪だ。
「……貴女が他の人に目をつけられないよう、買ってきたんです。安物ですけど」
「え……」
まさか、意趣返しをされるとは。まったく想像していなかった美琴のサプライズに開いた口が塞がらなくなる。
「シャンディさん、手を出してください」
「……どちらの手を出せばよろしいかしら?」
「どちらの薬指に誓って欲しいですか?」
思わず、シャンディは言い淀む。右手か左手か。どちらの薬指もパートナーが居ることを暗に示すものだ。右だと恋人、左だと配偶者。美琴はその判断をシャンディに迫っている。
これもまた駆け引き。
「美琴さんはどちらに誓いたいですか?」
「もうつべこべ言わず! 私の愛を受けいれて!」
美琴の手は瞬時に、左手へ伸びてきた。安物と宣う通り、路上販売のアクセサリー店でも買えるようなちょっとしたシルバーの指輪だ。リングピローに寝かされていたそれは、今はシャンディの左手薬指で鈍い輝きを放っている。
してやられた。半ばやけくそじみた美琴の行動が、シャンディの冷静な精神を大いにかき乱す。
「美琴……?」
「今のところはこれだけ! でもいつか、ちゃんとした指輪を用意するから!」
「それ、実質プロ――」
「あーあー! 聞こえない、聞こえないから! そんなんじゃない、かもしれないしそうかもしれないけど、今はまだ違うかもしれないから!」
ただ、大いにかき乱されているのは美琴も同じだ。そんな彼女を見ていると、幾分か落ち着いてくる。
その様子がおかしくて、シャンディは笑っていた。
「ふふ。どっちなんですか?」
「言わない!」
「ホント、子どもじみた駆け引きしかできないんですから」
今はそんな美琴でも構わない。むしろそうだからこそ愛おしい。
シャンディは嵌められた指輪を軽く撫でて、美琴に顔を近づける。
「やっぱり、誓いのキスもしておきます? お互いに、貴女しか見えてないって――」
答えを待つまでもなく、唇は塞がれた。
無人のアンティッカ店内。クラシックの調べの中にキスの熱は溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます