#37 : Earthquake / ep.1

 金曜日。新橋は日比谷商事本社のエントランスゲートにIDカードをかざし、美琴は側面がガラス張りになっているエレベーターの隅っこに身を寄せた。

 毎週通ってはいても所詮は外様。総務部のある10階に停まることだけを確認して、徐々に小さくなる眼下の光景を眺める。


「おはようございます、黒須さん」

「うわっ……! 早苗さん……?」


 外を注視していたから、話しかけられるまで気がつかなかった。隣に立っていた総務課・柳瀬早苗の背の低い顔が美琴を見上げていた。普段通りの仏頂面だ、目の下には化粧で消しきれなかったか消すのを諦めたクマが走っている。朝一番では見たくない顔だ。


「顔色悪いですね、大丈夫ですか?」

「調べ物をしていたので。出社早々ですがお時間ありますか」

「ええ、まあ」


 早苗は最上階のボタンを押し、目的の10階を通り過ぎる。出社前に、それも総務部オフィスではできない話だ。おそらく小杉と赤澤に絡んだ話だろうと予測した通り、早苗が切り出したのはこんな話だった。


「結論から言います。我々は赤澤……いえ、秘書課と一戦交える必要が出てきました」


 本社ビル屋上。おそらく以前早苗が普段愛妻弁当を食べているであろうベンチに腰掛けて、美琴は事のあらましを聞かされた。


「どういうことです?」

「秘書課と総務課は、同じ総務部に属している組織です。職務範囲はまったく違いますが、大元は変わりません。ただしそれも来年度末まで」


 早苗が首から提げたIDカードには、先ほどの説明通り総務部総務課とある。美琴は、総務部の直下に二つの課がぶら下がっている組織図を脳裏に思い描いた。


「総務課と秘書課を統合することになったのです。正しくは、秘書課を解体して総務課に統合するものですが」

「その調整を早苗さんが任されたということですか」

「まだ本決まりではありません、秘書課が猛反発しているんです。彼女らはその性質上、組織の中にあって組織とは等しく距離を置いている集団ですから」

「え、ええと? どういう意味でしょうか」


 早苗の思考が早すぎてついていけない。聞き返すと、早苗は「こんなものも分からないのか」とばかりに目を見開いて頭をかきつつ、噛み砕いて説明する。


「秘書課は赤澤みたいな一癖も二癖もある女ばかりなんです。ほぼ全員が容姿端麗で頭脳明晰。才色兼備の女の園。まさしく日比谷の大奥とでも言うべきでしょう」

「大奥って……」


 早苗の口角がわずかに上がった。相変わらず笑顔が下手クソなので真意は読みにくいが、彼女なりの冗談なのだろう。


「完璧超人揃いの秘書課の連中が、総務の凡人共と肩を並べて仕事などしたくないと思うのは当然のことでしょう。以上が社内の話。ここからが黒須さんに関係する話です」

「私に?」


 早苗は首から提げているIDカードを差し替えた。総務部総務課だった肩書きが、総務部秘書課に変わっている。


「連中は、総務課と秘書課の人事交流を要求してきました。持ち場を交換したら仕事にならないことを証明し、解体を阻止することが目的だと考えられます。私の代わりに総務課へ移ってくる者が――」

「赤澤ですか」

「お察しの通りです」


 濃いメイクと涙袋、そして腫れぼったい唇の秘書課三年目、赤澤来瞳。

 ファーストコンタクトから大事件を起こしてきた悪魔だ。


「私が受けた命令は、秘書課を解体すること。ですので、転属先の秘書課でも完璧に仕事をこなすつもりです。しかし赤澤は私とは真逆の目的で動くことになります」


 早苗が目の下にクマを作っていた理由が、美琴には分かった。

 秘書課の面々に目に物見せるため、寝る間も惜しんで下準備をしているということなのだろう。


「秘書課の人間が総務課で使い物にならないと分かれば、解体話をなかったことにできるからですか……」

「ええ。赤澤は間違いなく、総務で問題行動を起こすでしょう。それも黒須さんの隣のデスクで。つまり貴女は、単身赤澤に対処せねばならない」


 早苗を失う心細さと、来瞳への怒りが美琴の中で渦を巻いた。頼りになる総務の猟犬と離れ、恐るべき獣と肩を並べることになる。その脅威は計り知れない。


「早苗さんは大丈夫ですか?」

「まずはご自身の心配を。私には董子が居ますから」


 早苗のスマホの壁紙は、董子の何気ない日常を切り取ったものだった。自身とシャンディよりも遙かに先に進んでいる柳瀬妻妻ふさいのことが、なぜだかほんのりうらやましくなる。


「本当に好きですよね、奥さんのこと」

「手を出さないでくださいよ。貴女にはあのバーテンダーが居るんですから」


 どこか嫉妬じみた、軽く釘を刺してくるような早苗の視線がいじらしい。ムスっとした表情が基本の早苗にもこんな顔があるのかと思うと、美琴の頬は思わず緩んだ。


「出しませんって。節操なしじゃありませんよ」

「でしょうね。ジゴロを気取るなら、薬指に指輪などしません」


 美琴の右手薬指には、それまではなかった誓いの指輪が煌めいていた。シャンディから贈られた細身のプラチナだ。美琴が買ったシルバーのペアリングとは雲泥の差である。


「指輪を贈り合う間柄になった、と董子に知らせておきます。お二人のことをいたく気にいっていたので」

「素直に喜べないですね……」


 「ともかく」と告げて立ち上がり、早苗は小さな肩を揺らして意気込んだ。

 制服を着せれば高校生でも通用しそうな、よく言えば若々しく悪く言えばちんちくりんだ。彼女が秘書課の――才色兼備のを担えるかは疑問だが、別に色がなくとも早苗の才があれば秘書は可能だとも思う。


「赤澤との戦いは、私達の戦いとなりました。外部の黒須さんを巻き込んでしまうのは申し訳ないですが、私は貴女の能力を見込んでいるので」


 いちおう早苗は年下なのだが、優秀な人物から評価されると悪い気はしない。美琴は同じく立ち上がり、小さな巨人たる早苗と視線を合わせる。


「ご健闘を、早苗さん」

「そちらも、黒須さん」


 秘書課オフィスへ向かう早苗と別れて、美琴は総務課に配されたデスクへと向かった。


 *


「やっほ~。これからしばらく、総務やることになったのぉ。よろしくねぇ。あ。あたしのことはくーちゃんって呼んでいいわよぉ?」

「こちらこそよろしくお願いしますね、赤澤さん」

「みーちゃん、ノリわるぅ~い」


 早苗からの情報通り、美琴の隣――早苗のものだったデスクには赤澤来瞳の姿があった。化粧の濃さも耳障りな鼻に掛かる言葉遣いも変わらない。ともすれば以前より攻撃的にさえ思えてくる。

 美琴は平常心を心がけた。赤澤の目的は早苗とは違って、転属先で問題を起こすことだ。となると一番に被害を被るのは、出向社員の美琴になる。


「すみません。私は企画部の面々とミーティングがあるので」

「あー、みーちゃん? ちょっといいかしらぁ?」


 会議に出席すべく資料をまとめ終えた美琴の手を、赤澤が掴んだ。右手、ちょうどシャンディから渡された指輪が煌めいている。


「あぁ~ら、綺麗な指輪ねぇ。誰に貰ったのかしらぁ?」

「ちょっといろいろありましてね。失礼します――」

「あぁ! あの金髪の外人さんだったわねぇ?」


 ぴくり、と美琴は動きを止めた。図星を突かれて止めざるを得なかった。

 なぜなら彼女はシャンディのことを知らないはずなのだ。美琴は悟られまいと誤魔化しのカードを切る。


「ふふっ。図星かしらぁ?」

「いやはや、金髪の外国人だなんて言われたら反応してしまいますよ。中学英語すら危うい私が、国際交流などできるはずもありません」

「それがそうでもないのよねぇ? これ、見てくれるぅ?」


 来瞳の取り出したスマホには、美琴とシャンディの姿が映っていた。ちょうど数日前、アンティッカ近くの商業ビルにある屋上庭園で告白した時のもののように見える。


「あたしのお友達から送られてきたのぉ。この写真の女の人、みーちゃんに似てると思わない?」


 美琴は息を呑んだ。あの瞬間を盗撮されていたということは、来瞳はシャンディのことを――もっと言えばアンティッカのことも知っている可能性がある。

 それはすなわち、美琴ばかりかシャンディにも危険が及ぶということだ。それだけは絶対に避けたい。


「似ているだなんて光栄ですよ。私はここまで美しくないものですから」

「そっかぁ。じゃあこの女の子、みーちゃんによぉ~く似た人なのねぇ~」

「ええ、他人のそら似でしょう」

「そういえばみーちゃんって、妹さん居るわよねぇ? 名前はぁ、黒須琴音で合ってたっけぇ?」


 下卑た笑みを浮かべて猫なで声を上げる来瞳の言葉で、美琴は悟った。

 来瞳の狙いは美琴ではない――。


「違いますね。誰ですか、その……琴音という女性は」

「知らなぁい? 黒須琴音ちゃんと言えばぁ、最近話題の売り出し中の女優さんなのよぉ? 役柄を選ばず演じる、23歳のカメレオン俳優でぇ。4歳離れたお姉ちゃんが居るらしいのぉ」

「おや、奇しくも私と同じですね、年齢も苗字も。ですがそれだけ、偶然の一致だと思いますよ」

「そうよねぇ~。じゃあこの写真、みーちゃんじゃないとしたらぁ……琴音ちゃんってことになるのかしらぁ?」


 美琴は黙すしかなかった。言葉が出てこなかったのだ。一方で、来瞳は勝利宣言とばかりにほくそ笑んでいた。


「この写真、SNSで拡散しちゃおっかなぁ~? 今をときめく女優さんが白昼堂々キスして、しかもお相手が女の子だなんて大スキャンダルよねぇ? こんなことが明るみになったら、女優続けられるのかしらぁ?」


 させるわけにはいかない。女優として働くために必死な琴音の努力を、こんなことで水泡に帰する訳にはいかなかった。美琴は即座に、琴音に被害が出ないように訂正する。


「いやぁ、参りましたよ赤澤さん。その写真は私なんです。この右手の指輪は、お相手の金髪女性から戴いたもの。恥ずかしくてつい、ごまかそうとしてしまいました」

「ふぅ~ん、そーなんだぁ? でもさぁ、みーちゃん? あたし思うんだよねぇ」

「何、を?」


 どうにか尋ね返した美琴に、来瞳は薄気味悪い笑みを見せて告げた。


「世間のみんなは、みーちゃんが言ったこと信じてくれるかしらぁ? この写真が、琴音ちゃんそっくりな美琴お姉さんの写真だってぇ」


 やはりだ。来瞳の狙いは美琴ではなく――琴音だ。それどころか琴音をダシに使い、美琴に脅しを掛けにきている。


「信じるも何も、事実ですよ。写真の女性は私です。琴音は関係ありません!」

「関係ないことにしたいのなら、あたしの命令に従った方がいいって思わないかしらぁ? ねえ、みーちゃん?」


 嗜虐的な来瞳を前に、美琴は何も言い出せなかった。どんなに卑怯な手を使ってこようと、それを指摘して問題を表面化させる訳にはいかない。

 来瞳は、総務課内で問題を起こせば勝ちなのだ。つまりどれだけ不当でも。盗撮の事実を訴えたくても、琴音への追求を辞めさせたくても。来瞳の指示に従わなければならない。


「お遊びに付き合う気はないのですが、どうしてもと言うのでしたらお引き受けいたしますよ」

「そのスカした態度がいつまで続くか見物ねぇ?」


 宣戦布告にも等しい来瞳の捨て台詞を聞き流して、美琴は企画部員との会議へ臨んだ。

 ただ、当然ながらまともに思考は回らない。せっかく《デジタルメモ》について便宜を図ってくれている彼らには悪いと思うのに、どうしても来瞳と、そして来瞳の脅威に晒されることとなった琴音とシャンディが気がかりだった、


 会議後。寄り道した屋上で、美琴は琴音に連絡を取ろうとしてトーク画面を開いた。ただ何をどう話せばいいのかまるで分からず、美琴の指先は何か書いては消しを繰り返す。

 自身はまだ、子どもだと自嘲してしまう。


「一人で解決しなきゃいけないことなのに」


 この事態を彼女に相談するのは、悩ましかった。ただ、あまりに心細くて、そしてわずかでも声が聞けたら勇気が出るかとも思って、美琴はトーク画面を琴音のものから、彼女のものへ切り替える。

 そして指先を迷わせながらも、通話ボタンを押した。時刻は昼過ぎだ。普段と同じなら、夜の女である彼女は寝ているはずの時間帯。数コールしても応答がなく諦めようとしたところで、ぷつりとコール音が途絶えた。


『ふあぁ……。どうかしました、美琴? まだ眠いんですけど……』


 電話の主。美琴の同棲相手であるシャンディは間延びした口調で告げていた。寝ぼけ眼を擦りながら話しているであろうことはすぐに想像がつく。その声を姿を想うと、大荒れの精神状態も落ち着いてくる。愛ゆえのことだ、そんなシャンディを愛せていることが誇らしい。


「ごめん、なさい。仕事のことだから、シャンディさんに相談する前に自分で解決しなきゃいけないとは思ってたんだけど、どうしても気がかりだったから」

『あら? 気がかり……?』


 美琴は、来瞳から告げられた事のあらましを説明することにした。

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