#35 : Between the Sheets

 中目黒のジムで週イチのピラティスを終えた赤澤来瞳は、LINEを確認してほくそ笑んだ。


「ふふっ。さっすが、ゴシップ記者は仕事が早いわねえ~」


 トーク画面には、屋外で仲睦まじくじゃれあうと金髪の女性の写真が送付されている。お姫様抱っこをしているものだったり、屋上庭園のベンチで口づけをかわす姿だったり。スキャンダラスな盗撮写真の数々だ。

 来瞳が適当な返信をすると、すぐに既読がつく。その後間髪を入れず、記者の返信が飛んできた。


『情報提供いただきましたが、写真の女性は黒須琴音ではなさそうです』


 来瞳はさも当然だと笑ったあとで、「そうなんですかぁ? ざんねーん」と勘違いだったとばかりにLINEで謝罪してみせた。


 実は来瞳は、知人の伝手を頼ってゴシップ記者と連絡先を交換していた。

 目的はひとつ。琴音のスキャンダルを掴んで、その姉である美琴を強請るため。

 SNSの目撃情報から、毎晩が六本木近辺に出没していることを突き止めた来瞳は、情報を記者にリークし、スキャンダルを探させた。

 自分が調査するよりお手軽に。かつ探偵を雇うより安上がりに。

 赤澤来瞳は学業成績も人事考課も芳しくないが、こういった悪知恵だけは人一倍働く人物だった。


「ホント、みーちゃんと琴音ってよく似てるぅ」


 来瞳はこみ上げる笑みを抑えきれなかった。

 ゴシップ記者の言うとおり、写真は琴音ではなくその姉・美琴のものだ。ぱっと見なら二人はよく似ている。盗撮の微妙な写真写りでは判断が難しいほどだ。


「これだけ似てるんだもの。あたしは区別がつくけれど、世間の皆様は区別がつくのかしらぁ。ふふふっ……」


 来瞳は元々、琴音自身のスキャンダルを掴む気などなかった。警戒心が強い琴音がボロを出すのを待つより、ボロをでっち上げてスキャンダルにしてしまう方が遙かに簡単なのだ。

 そこで手に入れようとしたのが、琴音とよく似た姉・美琴のスキャンダルの証拠。ばっちり写真が手に入った今、来瞳のやることはひとつ。


 ――この写真をゴシップ誌に渡されたくなければ、分かってる?


 美琴の出社日は、毎週金曜日。

 仕事を思うと憂鬱な休日の昼下がりでも、来瞳の足取りは軽やかだった。


 *


 オレンジの残り香の中で、美琴は目を覚ました。

 経堂の2LDK、シャンディの寝室。看病中は空き部屋に敷いた寝袋で眠っていた美琴が、彼女のベッドで眠っていたのには理由がある。やけに喉が渇くのも、全身の筋肉が痙攣でもしているようにひくついているのも。そして裸でシーツにくるまっているのにも、どうしようもなく恥ずかしい理由がある。


「おはようございます、美琴」


 枕元に立つシャンディの姿を見た途端、眠気が吹き飛んだ。昨晩の出来事をありありと思い出して、美琴はシーツの中に顔を沈めた。

 昨晩。

 屋上庭園での全力の告白のあと、美琴とシャンディは経堂のマンションに戻った。戻って玄関の扉を閉めた途端、美琴の唇は瞬時に奪われ、あれよあれよという間にベッドの上でに愛された。どこまでも一方的で、そしてどこまでも――


「気持ちよかったですか?」

「い、言わない!」

「ふふ、悦んでいただけたようで何よりです」


 ――何度、意識が飛びそうになったか分からないほどの遊戯ゲーム。結果は敢えて語るべくもない、美琴史上最大の完敗、大敗北だった。

 「教えることはたくさんある」というシャンディの発言の真相をまざまざと身体に刻み込まれ、美琴はなるべく小さくうずくまることしかできない。体中のあちこちに走る、幸せな筋肉痛を噛みしめながら。


「さあ、晴れて恋人同士になれたんですもの。さっそくお買い物に行きましょう?」

「お買い物……?」

「ルームシェアはおしまい。同棲生活の始まりです。必要な日用品を買い揃えませんと」

「迷惑じゃない……? ていうか賃貸契約とか、勝手に住んでいいの……?」

「あら。美琴はあたしと暮らすのイヤですか?」


 答えにくい質問を、瞳を輝かせながら尋ねてくる。

 美琴の住む町田から引っ越すとなれば、いろいろと手続きが必要だ。住民票を移して郵便の変更、引っ越し業者や不動産屋、電気水道ガス業者諸々の解約手続きなどなど。簡単に済むことではあるが量が多くて腰が重い。

 おまけに、恋人の女性のところに引っ越すなんて、両親にどう説明すればいいのか。


「イヤ、というよりは……」

「手続きならあたしも手伝いますよ。美琴がお仕事してる間、あたしは暇してるワケですし」

「そっちじゃなくて。親にどう説明すればいいのか、って」

「ご両親の許しを得ないと同棲もできないんです? 立派なオトナなのに」


 確かに、子どもじみた理屈かもしれない。別段「友達と暮らすことにした」と適当にウソをつけばいい話ではある。が、問題は琴音の真相を知ったからだ。

 別れ際に凛子は、とんでもないことを言い残した。


 ――私の最後のお客さん、琴音さんだったの。


 もし黒須家の次女たる琴音までだったとすると、黒須家の歴史はそこで途絶える。

 別に黒須家は「婿を取ってでもお家を存続させろ」などと言うほどの名家ではないが、時折当てつけにも似た「従姉妹に孫が生まれた話」や「ご近所さんの孫が可愛い話」を、うるさく言うことはないにしても、それとなく振られてきたのだ。そのたびに「琴音に任せる」とふわっと躱してきたが、琴音に任せられないとなると話は変わってくる。


「世話になった両親だから、話くらいは通しておきたいでしょ」

「あらあら。まだ結婚するだなんて決まったワケでもないのに」

「いやでも私はシャンディさんと……!」

「あたしと? なんです? 続きを聞かせてくださいな」


 美琴の言葉尻を的確に弄び、シャンディはくすくす笑っていた。美琴はシーツにくるまり、顔を大いに赤らめてそっぽを向く。あまりにも子どもっぽすぎて自分でも痛々しい。


「分かってますよ。美琴がちゃんと考えてくれていることは。そんな優しい貴女だから、好きになったんですよ?」

「……言い訳がましく聞こえて何かイヤです」

「スネちゃいました?」

「どうせ私は子どもですし」

「ふふ。背伸びしない美琴も好きですよ」


 首筋にキスをされた。途端、昨晩の出来事を思い出して全身が再び熱を持つ。


「まあ、ご家庭の事情にまではあたしも口を出しません。美琴がしたいようにしてくださいな、あたしは従いますよ」

「なら、その……一度両親に会ってもらえる?」

「娘さんをくださいな、って言えばよいかしら?」


 ニヤニヤと余裕を讃えた琥珀色の瞳は、美琴の心をどこまでも見透かしているようだった。


「あんまり刺激したくないから、まずは友達として紹介する。恋人だ、って言い張れないのは申し訳ないけど、でも……」

「構いませんよ。ままあることですから」


 すでに着替えとメイクを終えていたシャンディが、ベッドの中に潜り込んだ。背中を丸めた美琴を背後から抱き寄せて、身体を密着させてくる。

 華奢でいて柔らかいシャンディに抱かれる。男性に抱かれた時の、守られているという安心感。それにも似た――それ以上の安堵を美琴は感じる。こんな気持ちを味わえるなら、覚悟に悩む必要もなかったと今となっては思える。

 だが、これからは交際とはまた別の覚悟を決めなければならない。

 そのうちのひとつがまず、家族に告白するという覚悟だった。


「……ですが、ちょっとだけ悔しいので、おしおき」


 告げて、シャンディに耳たぶを甘噛みされた。耳に掛かる熱い吐息が、痛みさえも愛おしさへ変えていく。

 時折シャンディが覗かせる、言葉とは異なる遠回しな愛情表現。歯形を残そうとしてくる可愛らしい構ってアピールに、あれだけスネていた美琴の心は、一瞬でぐらりと傾いた。


「シャンディさん、好き……」

「あらあら。幸せボケしちゃって。董子さんみたいですよ?」


 呆れたように笑って、シャンディは美琴を抱き起こした。


「さ、出掛ける準備をしてくださいな。熱いシャワーを浴びないと、あたしのモノだって世間にアピールすることになりますよ」

「え……?」


 起き上がって、美琴は自身に残された惨状を理解した。

 徹底的にキスを絨毯爆撃された身体には、至る所に唇の形の鬱血跡が残っている。ぱっと見て分かるだけでも、腕に肩、お腹、そして太ももの内側。目に見えない場所には、どれだけ愛の烙印を押されたか分からない。


「消えるの、これ……」

「三日くらい経てば消えますけど、消えたら消えたで上書きしますね」

「私の身体はキャンバスですか……」

「ええ。愛を描き出す、あたし専用のキャンバス。イヤですか?」


 再び答えにくい質問を投げかけられた。

 謎にまみれたシャンディから与えられる、愛されているという確固たる証がイヤなはずがない。ただし、素直にそんなことを口走ってしまえば、ここぞとばかりにシャンディは甘い言葉で襲いかかってくる。

 美琴はぐっと姿勢を伸ばして、寝起きの表情を凜と澄ませた。


「いえ。消すのがもったいないくらいの芸術作品になると思ったまでです。作品名は、《シャンディの愛》ですか?」

「あたしならこう名付けますね。《黒須美琴の性感帯図》って」

「は、あ……!? そ、そんな訳ないじゃないですか!」

「言いましたよね、たくさん可愛がってあげますって」


 妖艶なオトナのように笑ったシャンディに、キスマークがつけられた脇腹をくすぐられる。とっさの出来事に、美琴の身体は思わず跳ねた。


「あら? どうして反応したのかしら?」

「い、今のは突然だったからびっくりしただけ! シャンディさんだって同じはず!」

「なら試してみます?」

「そうやって誘うつもりでしょうけど、遠慮しておきます。今試したら、休日が終わるくらい耽ってしまいそうだし」


 実際、シャンディはとてつもなく上手かった。

 思い出せば思い出すほど、ベッドの上で跳ねていた記憶しかなくて、美琴は枕に顔を押しつけた。枕に染みついたオレンジの残り香で、記憶が余計に鮮明に蘇り、全身が一気に熱くなる。


「ふふ。仕事も何もかも忘れて、堕落しちゃってもいいですよ? あたしにとっては、飼いネコが1匹増えるだけですから」

「堕落しないから! むしろ貴女を堕落させてみせる!」

「ええ、愉しみにしておきますね」


 背中をシャンディの細い指先に撫でられ、否応なく身体が反応してしまう。たった一晩で完全にシャンディを刻み込まれてしまったのだ。

 これからの日々を無事で過ごせるかという不安と、どこか逸脱を望んでいるほのかな欲望がない交ぜになって、美琴は後悔半分期待半分の熱っぽいため息をついた。


 *


「……ということで、これからシャルロットさんとルームシェアすることにしたから」


 横浜市内、美琴の実家。

 善は急げとばかりに急かされ、日用品の買い出しついでに美琴はシャンディを連れて実家の敷居をまたぐことになった。両親合わせ四人、リビングのテーブルで顔を付き合わせる。琴音は居ないが、家族会議だ。

 わずかに心配していた反対も特になく――成人しているのだから当たり前だが――両親は「あっ、そう」とばかりに素っ気ない。むしろ両親の気を惹いたのは、シャンディのあまりの品行方正ネコかぶりっぷりであった。


「美琴さんには大変お世話になっております。シャルロット・ガブリエルと申します」

「え、日本語うま!?」


 容姿にまるで似合わない流暢な日本語と丁寧な言葉遣いを披露して、シャンディはまず父親の度肝を抜かせた。おまけに菓子折まで携えるという念の入れようだ。あれだけアンティッカと自宅で奔放な態度を見せていたシャンディとは思えない。


「美琴さん琴音さんのご両親にはいつかお目にかかりたいと兼ねてより思っておりまして。この度は美琴さんに機会をいただけたので、僭越ながらご挨拶に伺った次第でございます」

「いえいえ、そんな。ウチの娘なんて大したことないですから」

「ご謙遜なさらないでください。すべてはご両親の教えの賜物かと。愛情深く育てられたからこそ、美琴さんはとてもお優しい方なのだと確信いたしました。私は幼い頃に両親を亡くしているので……」


 そして母親の同情を、シャンディが唯一教えてくれた不幸な身の上話でガッチリ掴んだ。

 余談だが、美琴の性格は母親譲りだ。優柔不断が過ぎて、レストランに行ってもなかなか注文が決まらない。たいていの物事を直感数秒で即答してしまう父親や琴音とは真逆である。


「まあ、ご両親を。それはご苦労されましたね……」

「ええ。ですが、私にとっては居ないのが当たり前でしたので。今こうして、皆さんの輪の中にいると、家族の温かさを知れた気がします。皆さん本当に優しいので。ただ、琴音さんは普通ですけれど」


 ついでに琴音をイジって、父親と母親の笑いのツボをしっかり抑える。一部のつけいる隙も与えず、シャンディは育ちのよい異国のお嬢様を演じてみせた。

 そも、シャンディは少女のようにか弱く、人形のように愛らしい。黙っているだけで絵になるというのに、完璧な立ち居振る舞いまでされてしまえば好感度は大抵、一瞬で青天井だ。

 結果、逆に両親の方が遠慮してしまい――


「ウチの美琴なんかでよければ、どうぞどうぞルームシェアしてあげてください。安月給ですけど料理くらいはそこそこできるはずですから」

「シャルロットさんに恥をかかせるんじゃないぞ、美琴」


 ――という見事なまでの陥落っぷりであった。血は争えない。もはや笑うしかなかった美琴は、隣に座るシャンディの朗らかな――人を騙す詐欺師の顔を、しっかり記憶しておくことにした。

 この顔に、ピンときたら110番。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る