#34 : Fuzzy Navel / ep.3

 美琴の眼前、カウンター越しの客席には二人の女性が居る。

 ひとりは、愉しそうに琥珀色の瞳を輝かせるガールズバー・アンティッカの主、シャンディ。

 もうひとりは、先ほどまでの緊張も慣れとお酒でほぐれてきた明治文具同僚の白井凛子。

 二人を唸らせるカクテルを作る遊戯ゲームの第三回戦は、美琴が作りたいものを作って提供すること。仲が悪い二人の仲を取りもって酔わせるためのカクテルは、美琴の脳裏ではすでに決まっていた。

 ベースになるお酒を探そう。酒瓶が並ぶ戸棚に目を向けたところで、シャンディが提案してくる。


「普通に作っても面白くありませんね。ひとつ、条件をつけてよろしいかしら?」

「なるべく手心をお願いしますよ。ビギナーですから」

「簡単ですよ。どこかにシェイクの工程を足してくださいな。シェイカーを振る可愛らしい姿を、凛子さんにも堪能していただきたいですもの」

「あのシャカシャカするやつだよね? 見たいな」


 当然ながら、シャンディにはすでに手の内を見抜かれていた。

 美琴は苦笑を浮かべつつ、これから作るカクテルにどうシェイクの工程を挟むか考えを巡らせる。


 《ファジーネーブル》。

 曖昧ファジーの名が示す通り、どっちつかずな風味が魅力のカクテルだ。材料は桃のリキュールと、オレンジジュース。製法はこれら二つをグラスの中で混ぜ合わせるビルドだ。美琴が読んだどのカクテル教本にも、シェイクで作るとは書かれていない。

 そもそもシェイクは、度数の高い酒の角を取ったり、混ざりにくい材料同士を混ぜ合わせるための製法だ。ビルドで充分なものにシェイクを持ち出すのは、格好つけているだけのようにも思えてくる。


「なら、レシピを変えましょう。シェイクしがいのあるカクテルにしたいですから」

「バーテンダーらしい考え方をするようになりましたね」


 美琴は気づいている。この遊戯は、これまで勉強してきたカクテルの知識を試されるものだ。認めさせてシャンディの鼻を明かしたいし、気を惹きたい。


「言っておきますけど、黒須さんはバーテンダーなんてしませんから!」

「お仕事やめたくなったらいつでも言ってくださいな。立派なバーテンダーに育て上げてあげますよ」

「どうでしょうね。酔わせるより、酔う方が好きなものですから」


 告げて、美琴は戸棚からラム瓶を手に取った。

 カクテルのベースとなることの多い四大スピリッツのうち、サトウキビの搾りかすや廃糖蜜から作られるラム酒は甘みがあることが特徴だ。シャンディもカクテルにほのかな甘みとコクを出すため、シュガーシロップの代わりにラム酒を加えることがある。


「では、本日はラムを使った特別レシピとしましょう」


 美琴は三杯目の作成に取りかかった。

 やや大きめのシェイカーにラムをメジャーカップで計量する。この時点で《ファジーネーブル》のレシピからは外れるが、桃かオレンジの風味が曖昧に漂えばいい。乱暴だが、最終的に曖昧になればいいのだ。

 次いで、軽量した桃のリキュールとオレンジキュラソーをシェイカーに注ぐ。後でオレンジジュースでフル・アップする時のことを考え、桃を多めに、キュラソーはスプーン1杯程度だ。


「ずいぶん器用なマネをなさるのですね」

「誰かさんが大変なオーダーをしてくださったものですから」

「お行儀の悪いお客様もいたものです」


 ころころと笑うシャンディを見ながら、背の低いロックグラスの内側で氷の輪を描く。グラスの予冷に続いて、氷で満たしたシェイカーを振った。普段の有線放送も掛かっていない静かなアンティッカが氷の音で満たされる。

 姿勢正しく、客へ向けてシェイカーが飛んでいってしまわないように、斜に構えて腕を振る。シェイカーは不思議だ。卵型のステンレス製容器に指を沿わせた瞬間、背筋がピンと伸びる気がする。


「格好いい……」

「ふふ。ホントに美琴さんがお好きなんですね」

「好きじゃなかったら、仕事だって辞めないから」

「未練があるのですね。一夜限りの夢を売るお仕事に」

「……お客さんの、悩みに寄り添うのが好きだったの」


 自らの仕事――女性向け風俗についてぽつぽつと語り始めた凛子の言葉を聞きながら、美琴はカクテル作りに集中する。


「お客さんの大半は、生き方に悩んでる人でね。世間とは違うことに悩んで、普通に恋をしようとしたけど失敗しちゃった人達」

「あるいは愛したいけど、愛し方の分からない人。女性を愛する覚悟のない女性ですね」


 凛子は黙って頷き、続きを話す。


「……そんな子達が考えて悩み抜いて、一番最後に相談してくるのが私なの。友達には相談できなくても、見ず知らずの風俗嬢には……ううん。同じ悩みを抱えてる人なら気持ちを分かってくれるって思ってくれてるみたい」

「悩める女性の駆け込み寺、というところかしら。とても素敵なお仕事だと思いますよ」

「……ありがとう。でも、愛はなくても行為はあるから。黒須さんを好きなのに、裏切るようなことはできなかった」

「不器用な恋愛観ですこと」

「分かってるよ、そんなの」


 聞き役に徹したシャンディのおかげで、凛子の真相が見えてきた。世間的に後ろ指を指されがちな風俗という仕事が、悩める客達の心のセーフティネットになっている。

 美琴も覚悟が決まらないままだったら、相談していたかもしれない。シャンディを愛することに今は一定の結論を出せてはいるが、悩む客達の気持ちはよく分かる。

 シェイクしたカクテルをグラスに注ぎつつ、美琴は口を開く。


「だから凛子さんは守ると仰ったんですね。私がシャンディさんに、女性を愛するようそそのかされていると感じたから」

「……そうだよ。悩んで、傷ついてほしくなかったの。普通に……男性を愛せる人が、自分のあり方にわざわざ悩むなんて無駄なことだから」

「優しいんですね」


 凛子は無言で俯いた。ロックグラスの中にオレンジジュースをフルアップして、バースプーンで軽くステアする。


「私も初めは悩みましたが、おかげで覚悟が決まりました。女性愛せるのだと気づいた今は、少し愉しいんです。世界中の人々が恋愛対象だと思うと、乾く暇もないなあって」

「ふふ。地球まるごと貴女のハーレムにでもするおつもりです?」

「私ならできるかもしれませんよ? 世間から好まれる容姿であることは、琴音が証明してくれましたからね」

「自分で仰るんですね。顔がいいって」

「シャンディさんも過去に仰いましたからおあいこです」


 ロックグラスに作ったカクテルを、バースプーンを舐めて味見をする。即興で作った《ファジーネーブル》のアレンジは、予想通り曖昧な味わいだ。


「美琴さん、仕上げにグレナデンシロップを頼めます? スプーン一杯程度で、もっと曖昧ファジーになるはずですよ」

「味見せずとも何を作っているか分かってしまうのですね」

「カクテルは駆け引きよりわかりやすいものですから」


 シャンディの指示通り、グレナデンシロップを加えて再度味見した。

 最初にやってくるオレンジの酸味に、グレナデンの風味が加わる。直後の甘味は、さらに複雑だ。桃ともオレンジともグレナデンとも、あるいはラム酒ともつかない甘さが渾然一体となって現れる。

 何を飲んでいるのかまるで分からないが、甘酸のバランスがよくてやみつきになりそうな出来映えだ。


「お待たせしました。桃とオレンジのカクテル《ファジーネーブル》。ラム酒仕立てです」


 コースターの上にロックグラスを饗して、美琴は最後の冗句を――今にも浮き出して飛んでいってしまいそうな歯を抑えつけて意を決した。恥ずかしくとも、決めるしかない。


「……私のハーレムに加わるのなら、このカクテルのように仲良く溶け合っていただけますか。シャンディさん、凛子さん」


 意味深な笑みを浮かべるシャンディの隣で、凛子が口をぱくぱくさせていた。


「あたしは構いませんよ? 元より、凛子さんを嫌ってはいませんから」


 シャンディは乾杯を催促するように、凛子の目の前でグラスをちらつかせた。


「どうなさいます? 凛子さん」

「……これを飲んだら、黒須さんの二股を受け入れることになるの?」

「どうかしら。二股では済まないかもしれませんよ? 三股、四股。あるいは地球上あらゆる人が恋のライバルになってしまうかも」

「そんなのイヤ。独り占めしたい……」

「あたしは、それが美琴さんの愛し方だというのなら拒まず受け容れますね」

「……ちょっとお手洗いに行きます」


 告げて、シャンディにお手洗いの場所を聞いて、凛子は離席した。《ファジーネーブル》のグラスをコースターの上に戻し、シャンディは琥珀色の瞳で見つめてくる。


「ずいぶんと思い切ったことをなさいますね、美琴さん?」

「ああでも言わないと、白井さんは諦めてくれないと思ったものですから」

「あたしは本心なのかと思いましたよ? 雑誌の最後の方に載ってる胡散臭い広告みたいに、札束の湯船で裸の美女を侍らせたいのかと」

「そ、そんな甲斐性があるように思えますか!?」

「あらあら、そうやってすぐ素に戻る。せっかく素敵だったのですから、最後まで騙し通してほしいものですね」


 これまでの応対を思い出して、かあっと顔が熱くなった。シャンディに顔向けなどできず、即座に振り向いて戸棚の酒瓶の埃を払う真似事をする。


「バーテンダーとしてはまだまだひよっこですが、恥ずかしがり屋さんにしては毅然とした態度で素敵でしたよ、美琴さん」

「ありがとう、ございます」

「お顔を見せてくださいな。ご褒美のキスをしたいので」

「……戸棚の掃除に忙しいので、また後で」

「思う存分お手入れしてあげてくださいな。美琴さんに磨いてもらえたら、アンティッカも喜びますよ」


 平然とした風を装ってみても、鼓動の高鳴りはまるで止まらなかった。持っていたクロスで磨こうにも、酒瓶を落としてしまいそうになって気が気ではない。

 心ここにあらず。もし凛子が戻って来ようものなら、先ほどまでと同じ対応は絶対にできない。

 そんな緊張と羞恥心でいっぱいになっている美琴の背中に、シャンディが語りかけてくる。


「あたしね。オトナになるって、いろいろなものを背負って生きていくってことだと思うんです」


 ビーフィーター、スミノフ、バカルディ、エル・ヒマドール。

 保管用の冷凍庫に入りきらない四大スピリッツの他には、ウイスキーならマッカランやフォアローゼス、ブランデーはヘネシー。角ばったコアントローの瓶や真っ赤なカンパリ、丸みを帯びた可愛らしいモーツァルト。しかも洋酒のみならず、二階堂や霧島のような焼酎まで。

 名前を知っているものだけでもこんなにある。すべては、オトナにならないと愉しめないお酒だ。

 ところ狭しと戸棚に並べられたオトナの象徴を黙って眺めながら、美琴はシャンディの語りに耳を傾ける。


「背負うものと言えば、家族や親しい人達、あるいは会社からの期待とか。あたしが貴女に向けているこの想いも、美琴さんにとっては重圧だったことでしょう。覚悟を決めるのは大変でしたよね」

「……ええ」


 シャンディの温かな言葉が心に染みこんでくる。


「そして今日。美琴さんはまたひとつ背負いました。『凛子さんに守られる必要もないくらい、独り立ちしたオトナの女になる』だなんて、本来ならば負う必要のないものを」


 凛子を傷つけまいと、凛子との関係を壊すまいと決意したことだ。

 守られる必要がないくらい強く成長して諦めてもらうなんて、無理筋もいいところかもしれない。具体的な方法はないし、仮に美琴が大出世したり巨万の富を得たりしたところで、凛子が恋心にケリをつけてくれる確証はない。


「そんなことできるのかしら?」

「……難しいことだとは思います。でも私は……白井さんの抱える悲しみを知ってしまいました。彼女の想いに応えることはできませんが、かといって突き放したくもありません」

「今から凛子さんに乗り換えます?」

「何度も言わせないでください。私はシャンディさん一筋です」

「なのに、凛子さんにも寄り添うんですね。想い人に浮気を宣言されたあたしが、どんな気持ちか分かりますか?」


 シャンディだって人の子だ。凛子に嫉妬のひとつくらいすることは美琴にも想像がつく。


「分かります。私だって心苦しいですよ。貴女だけを見ていたかったです、が……」

「……試すようなことを言ってごめんなさいね」


 シャンディは静かに美琴の名を呼んだ。全身の紅潮をなんとか落ち着けて振り向き、琥珀色の瞳と視線を合わせる。

 シャンディの双眸は見開かれていた。真剣そのものといった様相だ。


「なら、あたしは美琴さんを信じます。『凛子さんの心にこれ以上雨を降らせないためにも、もっと成長したい』、これでよろしくて?」

「そうありたいです。成長なんて言っても憂いてばかりで、弱い姿ばかり見せていますけれど」

「憂うことは、弱いことではありませんよ」


 手招きされ、美琴はカウンターに――いつもシャンディがやるように――頬杖をつく。シャンディの手が美琴の頭をゆっくりと撫でていた。


「『人』に『憂う』と書いて、『優しい』。人からの期待や重圧を背負いながらも、その人を憂いてこそ、優しいオトナなのだとあたしは思います」

「褒められている、と受け取っていいですか?」

「惚れられている、です。オトナにまた一歩近づきましたね。おー、よちよち。いい子いい子」

「子ども扱いですか……」

「悔しかったら早くオトナになってくださいな。ふふ」


 憂いを帯びたシャンディの微笑みが、少しだけ痛かった。

 シャンディを早く安心させてあげたい。そのためには自身が凛子のためにも、背伸びが背伸びでなくなるくらいに成長しなければならない。

 背負った期待はあまりに重い。

 重いが、どうにか期待に応えたいと美琴は思う。


「……シャンディさん。この後で、デートしませんか」

お妾凛子さんは放っておいていいのかしら?」

「適当な理由をつけて帰ってもらいます」

「まあ、ひどい人」

「貴女に伝えなければならないんです。以前、横浜で約束した通り、アリスを一人にはしないと」


 シャンディの手が止まった。琥珀色の瞳が泳いでいる。動揺している。

 白磁の肌はほんのりと色づいていた。それが気恥ずかしさか、酒のせいかは分からない。


「いま言っちゃうと台無しですよ?」

「いますぐにでも誓いたいんです。この先絶対、アリスを裏切らないと。貴女が向けてくれた想いと同じかそれ以上に、私も貴女のことを想っていると」

「浮気男みたいな言い分ですね?」

「そうではないことを誓わせてください。貴女が望むなら証を立てます」

「いったいどんな証を――」


 動揺するシャンディの唇を奪った。これ以上のキスは、今はできない。熱い舌同士を絡み合わせて、カウンター越しに想いを交換する。横目に通路を見る。凛子の姿はまだ見えない。


「凛子さんが気になりますか」

「それはそうですよ。見られたくはないです」

「……今はあたしだけ見て」

「はい……」


 横目で凛子を探ったことを悟られて、シャンディの両手に頭を捕らえられる。人並みに覗かせてくれた嫉妬の感情も愛らしくて、口づけは留まることを知らなかった。

 一時は落ち着いていた鼓動も紅潮も、もう天井知らずだ。早鐘を打ち鳴らすばかりの愛欲が、心身も満たしていく。

 ただ唯一、身体の満たされない部分が湿り気を帯びる感覚を、美琴はこの時ハッキリと自覚した。


 ――私はシャンディを愛せる。

 よき友人として。よき理解者として。よき師匠として。

 そして、よき交際相手として。


 店の奥から聞こえた水の音に、どちらからともなく唇を離す。シャンディの肌は今度は明確に、赤く色づいていた。


「恋する乙女のようですよ、シャンディさん」

「そちらもマラスキーノチェリーです。赤くて甘くて、ついつい手が伸びてしまいそう」

「手を伸ばして召し上がってください。私も貴女に手を出します」

「あー……。ごめんなさい」

「え、ちょっと……!?」


 思ってもみない拒絶に、美琴は思わず素に戻ってしまった。「どうして!?」と矢継ぎ早に尋ねると、シャンディは眉をハの字にして困惑を浮かべた。


「《ブラッディ・メアリー》なので」

「あ、ああなるほど……」

「せっかく決意していただいたのに残念ですね。まあ、決めようとして決まらないのは、美琴さんらしいですけれど。ふふ」


 ならばしょうがない。

 拒絶の真相に安堵した瞬間、シャンディは不敵な笑みで見つめてくる。


「ですから、あたしがたくさん可愛がってあげます。背伸びしたオトナが可愛らしい声をあげるところを見せてくださいな」

「う、あ……」


 一方的に攻められることを想像して、美琴はもう立っていられなくなった。先ほどのキスで膝が笑っている。そのままバーテンダーの聖域にうずくまる。恥ずかしすぎて。


「……あれ、黒須さんは?」

「バーテンダーごっこで緊張して、お腹が痛いそうですよ」

「え、大丈夫? 薬なら持ってるけど」

「……だ、大丈夫。もう治まったから、平気平気!」


 凛子を出迎えるシャンディのように、何食わぬケロッとした態度を示すことはできなかった。気恥ずかしさも凛子への憂いもどうにか追いやろうと、手の甲を全力でつねる。目を覚ませ美琴、オトナならしっかりしろ、と。


「さて、今回の遊戯ですが、当然ながらあたしの勝ち。だって、美琴さんがお出しするカクテルは、すべて当ててしまったんですもの」

「え、ええ。私の完敗です。というかカクテル勝負でプロに敵うはずもありません……」

「では乾杯しましょうか、凛子さん。あたし達の友情を取りもってくれた、美琴さんの優しさと健闘を讃えて」


 凛子は渋ったものの、仕方なくグラスを掲げてシャンディと向き合う。


「……貴女じゃなく、黒須さんに」

「ええ、仲良くしましょうね」


 乾杯。グラス同士が、軽やかな音を奏でた。

 二人の――というよりは、凛子が一方的に叩きつけた宣戦布告は、《ファジーネーブル》の乾杯で、いったんは曖昧ファジーな決着をみることとなった。


「ちなみにこのグラス、廃盤品なので10万円ほどします。壊すと弁償できませんよ。ふふ」

「ひえ……!?」


 美琴と凛子は同時にのけぞった。

 ――本日の恋愛遊戯、美琴の完敗。


 *


 「そろそろ休みたい」という凛子の言葉もあって、一同は六本木はずれのアンティッカを後にすることになった。後片付けと店じまいをシャンディに任せ、美琴は凛子を地下鉄、六本木駅まで送り届ける。


 時刻は日が傾き始めた午後五時過ぎ。

 かつては忌々しいと思いながら通り過ぎていた駅前の喫煙所からはみ出した煙草の煙やどこからともなくわき出てくるキャッチの群れも、今はさほど気にならなくなっていた。


「黒須さん、今日はホントごめん! 戸惑ったよね。でも私、黒須さんのことホントに好きだから」

「そっか」

「うん。今は『そっか』でいいよ。返事は別にいい」


 凛子は笑顔を作って告げた。


「私、痛いだけの恋には慣れてるから。好きって言ってくれなくても、振り向いてもらえなくてもいいの。あ、こんなこと言うと、面倒くさい女って思われちゃうかな!?」

「気にしないで。もっと面倒くさい女、いっぱい知ってるから」


 ジャケットを脱いで私服に着替えた途端、顔を出すのはいつもの美琴だ。背伸びはしていたいが、し続けるのも疲れるというもの。


「シャルロットさんとか?」

「そうね、あの人は一番かも」

「もしかして黒須さんって、面倒くさい女が好きなの?」

「みんな多かれ少なかれ面倒くさいものだと思うよ?」

「それはまあ、分かるけど……」


 これまで出会ってきた人間を反芻しているのだろう、凛子は眉を顰めてため息をついた。話を聞く限り、美琴よりは凛子の方が一癖二癖ある人間と付き合っていそうではある。

 見ず知らずの人の心に寄り添って一夜限りの夢を見せる凛子の副業は、究極のサービス業だ。頭が上がらない。


「他にも職場だと青海は面倒くさいし、日比谷の早苗さんは何話していいのか分からないし、赤澤なんてどう対処すればいいのか分からないよ。あとは、琴音とか」

「…………」


 琴音の名を出した途端、凛子はどこか言いづらそうに俯く。そういえば以前にも、凛子がこんな反応を見せたことを思い出す。


「どうしたの、白井さん。もしかして琴音のファンやめちゃった?」

「ううん、辞めてはないよ。琴音さんは変わらず推し。推しなんだけど……」

「何か言いにくいこと?」

「いや……その……すごく……。辞めたから話してもいいとは思うし、それに妹さんのことだから、秘密にはしてくれると思うんだけど……」

「うん?」


 やけに言いづらそうな凛子に尋ねると、周囲の人ごみをちらちらと観察してから美琴の耳元で囁いた。


「最後のお客さん、琴音さんだったの」


 琴音が凛子を抱いた、あるいは抱かれた。

 偶然を驚くべきなのか、世界の狭さを嘆くべきなのか、それとも凛子なりの冗談なのだと笑い飛ばすべきか。どんな反応をすればいいのかまるで分からない。

 美琴の口を突いて出てきたのは、どこまでも曖昧な言葉だった。


「まじでえ……!?」

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