#33 : Fuzzy Navel / ep.2
「二人まとめて、召し上がれ」
美琴の恥じらう姿を味わいたい、そう言わんばかりに瞳を上弦に細めてシャンディは告げた。
「召し上がる」の意味するところは美琴にも想像がつく。が、そう簡単に狼狽えてしまってはシャンディの思う壺だ。それに背伸びを――成長を見せることができない。
美琴はバーテンダーとして、意味深な言葉で腹を探る。
「申し訳ありません。あいにくそちらはビギナーでして。あまりお二人を幻滅させたくないものですね」
「いきなり上手すぎるのも幻滅しちゃいません? どれだけの女を鳴かせてきたか想像してしまいますもの」
「下手過ぎて泣かせてしまう夜もあったかもしれませんよ?」
「あら、上手くかわしたおつもりかしら?」
「お気に召しませんでしたか?」
「ふふ。貴女らしい、素敵な背伸びだと思います。では本題、バーテンダーとしての腕をお見せ願おうかしら」
美琴の趣味に加わった、カクテル作りを試す時がきた。
酒に弱い体質ゆえ自宅で作ることは稀だが、スタンダードカクテルのレシピやバーテンダーの所作は、アンティッカで学んで頭に入っている。
『門前の小僧』ならぬ、アンティッカの美琴、習わぬカクテルを諳んじる。知識だけなら、一般人よりは豊富だ。
「ただいま。まずは注文をよろしいですか、凛子さん?」
「私は……」
凛子の言葉は消えていく。自身の恋愛観をシャンディから――そして美琴からも遠巻きに――否定されたのだから無理もない。
美琴は凛子にかける言葉を探す。
彼女の相手を慮ろうとしない恋愛観に釘を刺したのは美琴自身。いわばケンカをふっかけて傷つけておきながら、謝ろうとしているようなもの。
すいぶん虫のいい話だ、と美琴の良心は痛む。
だがもう、覚悟は決まっている。オトナとして対応するというあり方を今さら変える気はないし、凛子を突き放す気もない。
「では、お好きな味を教えてください。貴女をもっと知りたいので」
「それって……」
「現実を知らず夢幻を見ているままでは、心に触れることはできないでしょう?」
「……っ!」
凛子には、自らの意思で諦めてもらう。それが告白の返答だ。
そのためには、凛子に自身の本当の姿を知ってもらうしかない。美琴自身が望んで演じている背伸びした姿を見せて、守る必要などないと感じてもらいたい。そうすればきっと、諦めもつく。
「エゴイストですね。優しさの押し売りとも取れますけれど」
美琴の内心を見抜いたシャンディが、やんわりと釘を刺す。
それもそのはずだ。美琴は、ただ告白を拒絶するより数段難しい選択を採ろうとしているから。
「決めたことです。恨むなら恨んでもらってもいいですから」
すべては凛子のため。凛子をなるべく傷つけることなく、恋心を葬り去るにはこうするしかない。
自身が数段オトナになって、愛情ではなく友情で、凛子との壊れた関係を修繕する。これなら愛せはしなくとも、友情を温め続けることはできる。
シャンディは優しい、慈母のような笑みを浮かべていた。
沈黙の後ややあって、凛子が口を開く。
「……なら、甘いお酒が好きです。桃とか林檎とか、フルーツの……」
「では、桃のカクテルにいたします。シャンディさんにはそのバリエーションの――」
「にゃあお」
シャンディはミモザの鳴き真似をしてみせた。
美琴が何を作ろうとしているのかなどお見通しということだろう。
「バレてしまったようですね」
苦笑しつつ、美琴はカクテル作りに取りかかった。
取り出したるは、細長いフルートグラス二脚。そのうちのひとつ、凛子に提供するグラスの縁に、シュガーシロップを軽く塗りつけ、砂糖粒をまとわせる。甘口を楽しんでもらう、スノースタイルだ。
次いでグラスに氷を入れ、バースプーンで手早く回す。これから作るカクテルがグラスの熱で温められてしまわないように予冷だ。
「生のフルーツは切らしているので、冷蔵庫のジュースを使ってください。メインは戸棚の……《モエ・エ・シャンドン》を」
シャンディの許しを得て、冷蔵庫の中からピーチネクターとオレンジジュースを取り出す。
カクテルのメインは《モエ・エ・シャンドン》。微炭酸のシャンパンだ。すなわち製法はシェイク・ステアではなくビルド。シェイカーやミキシンググラスの中ではなく、直接グラスの中に注いでカクテルにする。
「いかがですか、美琴さんのバーテンダー姿は」
「……貴女がそそのかしたにしては、悪くない、です」
「だそうですよ、美琴さん」
微笑むシャンディの隣で、興味深そうに凛子がこちらを見ている。自身もかつて、シャンディの姿を同じように眺めていたのかもしれないと思うと、少しおかしくなった。
「では、お二人まとめて酔わせてさしあげませんと」
美琴は仕上げに取りかかる。予冷した二脚のグラスから氷を取り除き、ネクターとオレンジジュースを注ぎ入れる。
淡い桃色と、はっきりしたオレンジ色。二色に分かたれたグラスへ、炭酸の泡を潰さぬようにシャンパンを注いだ。半分程度までグラスを満たした後、ゆっくりスプーンで攪拌し、グラスの規定量までフル・アップする。
軽く味見をして、上出来だと確信した。
完成だ。カウンターにコースターを並べ、グラスを持ち上げる。
「お待たせしました。凛子さんには桃とシャンパンのカクテル《ベリーニ》。シャンディさんにはそのバリエーション、オレンジを使った《ミモザ》です」
《ベリーニ》と《ミモザ》。
シャンパンやスパークリングワインをジュースで割るという共通点を持つ、二つのカクテル。奇しくも桃の香りを纏う凛子と、オレンジのシャンプーが好きなシャンディを象徴づける一杯となった。
「乾杯しましょうか?」
「……結構です」
拒絶されて苦笑するシャンディを尻目に、凛子はベリーニのグラスを持ち上げ、しげしげ眺めていた。普段とは異なる明るい店内照明の中で、淡い桃色のグラスに立ち上る泡と、縁取りの砂糖がきらきらと輝いている。
「綺麗……」
「そのグラス、壊したら罰金2万円です」
「ひえ……!?」
凛子はのけぞった。しばし悩んだ後、グラスの中の《ベリーニ》を傾かせ、味わってからため息をついた。
「いかがですか?」
「おいしい、です……! こんなの、飲んだことない……」
「ふふ。美琴さんをそそのかすのも悪いものではないでしょう?」
告げてシャンディも《ミモザ》を味わう。
どんな言葉が飛び出すか、美琴は身構えた。
「多少炭酸が飛んでいますが、よい《ミモザ》です」
「《モエ・エ・シャンドン》に助けられました。安ワインではこうはいかないでしょう」
カクテルは奥が深い。
ジュースとシャンパンを混ぜるだけなのに、混ぜ方以外にもグラスの予冷や基材の保存状態、温度・湿度や加水量で味がわずかに変わる。そればかりか気温差や寒暖差によって、カクテルを飲む者の味覚すら変わるのだ。
単純に思える工程には、繊細な気配りが満ちている。それができるのは、バーテンダーの酒への想いや情熱があってこそ。
「遊戯の勝者は決まりですか?」
勝者への賞品は「二人まとめて召し上がる」権利。その意図するところは考えないことにして、美琴は判定を仰ぐ。
シャンディは即座に《ミモザ》を干して、空のグラスをコースターに置いた。
「せっかく美味しいお酒が愉しめるんですもの。まだまだ飲み足りませんね」
「お強いですね、うらやましいものです。凛子さんはいかがですか?」
シャンディへの対抗意識からだろう、凛子も即座に《ベリーニ》を干してグラスを置いた。
二人とも、顔色ひとつ変わっていない。アルコール度数で言えば7パーセント程度の軽いカクテルだからか、けろりとしている。
「飲みます! 次は美琴さん好みのカクテルを。甘すぎず、辛すぎず、だったよね?」
「強めのお酒でも構いませんか?」
「うん、お酒には強いから」
「あたしはそのバリエーションで、より強いものを。何を作るか、当ててみせましょう」
「クイズですね。かしこまりました」
二脚のグラスを下げ、美琴はレシピを思い出す。
材料をわずかに変えれば、シャンディの注文であるバリエーションカクテルの条件は満たせる。ただ、それだけだと簡単に何を作ろうとしているか当てられてしまう。
バーテンダーは、客を楽しませることも仕事。クイズを出すのも仕事のうちだ。
瞑目し、妙案を閃く。
美琴は今度は二脚の逆三角形を描くカクテルグラスを取り出した。
「そのグラスは2脚で5万円」
ぴくり、と美琴の指が震えた。普段気にも留めずに唇をつけていたのが恐ろしくなる。同じことを凛子も思ったようで、シャンディに尋ねる。
「ねえ、なんでそんなに高いの?」
「さっきのグラスはスワロフスキー。今のはバカラです」
「……どうせ見栄張って、高いグラス使ってるんでしょ?」
「有り体に言えばその通りです。あたし達プロのバーテンダーの仕事は、美味しいカクテルを作るだけではなく、綺麗な内装やお高いグラス、洒落の効いた言葉で、カクテルのある時間を愉しんでいただくこと」
イタズラに微笑んでばかりのシャンディが時たま覗かせる、バーテンダーの顔。真摯に仕事に向き合っている琥珀色の双眸は、何度見ても引き込まれるほどに美しい。
この真面目な態度に、最初は心惹かれたのだ。昔を思い出して、美琴の心は温かくなる。
「騙して、夢を見せてるだけだよね。贅沢な思いに浸れるだけで、何も手に入らない」
「ええ、一夜限りのささやかな夢。お金と引き替えに堪能できる素敵なひとときです。凛子さんがやっていた副業と同じですよ」
「私は……」
凛子は言葉を濁し、それきり沈黙した。
凛子の副業――女性向けの風俗業――も、お金を対価に一夜限りの夢を見せることだ。
「……私のこと、不潔とか思ってるんでしょ? 誰にでも股を開くとか」
「ふふ。どう答えてあげればよいかしら。美琴さんはどうお考えです?」
カクテルグラスを予冷し、ミキシンググラスで酒をステアしていた美琴は特に考えることなく呟いた。
「別になんとも思いませんよ」
「……ホント?」
「凛子さんのような方と、一夜を共にできる女性は幸せ者でしょうね」
「じゃああの、私……」
「あら、お仕事は辞めてしまったのでは?」
「そう、だけど……!」
攻撃材料を見つけた、とばかりにシャンディが瞳を歪ませていた。直接的な凛子のアプローチは聞かなかったことにして、美琴はミキシンググラスのカクテルを仕上げていく。
美琴が作っている2杯目は、バーボンとベルモットを使うカクテルだ。夕焼けにも似た茶褐色の中に、真っ赤なマラスキーノチェリーを沈めるカクテル《マンハッタン》。
それと対になるバリエーションカクテルは、もう決まっている。
「美琴さん、あたしもう分かっちゃいました」
「まったく貴女には敵いませんね……。製法はどうします? シェイクかステアか」
「Stirred not Shaken,Please」
シャンディは流暢な英語で、まるでどこぞのスパイとは真逆の指示をしてみせた。答えは彼女の思惑通り。ジンとベルモットをステアした中に、浅黄色のスタッフドオリーブを沈めるカクテル《マティーニ》。
《マンハッタン》と《マティーニ》がバリエーション扱いされることは少ないが、材料の混合比や、完成形の姿――ピンに刺したチェリーとオリーブが対になる。
そして、美琴がこの二つを選んだ一番の理由は。
「お待たせしました。凛子さんには《女王》を。シャンディさんには《帝王》を」
――カクテルの異名。
カクテルの女王、《マンハッタン》。
カクテルの帝王、《マティーニ》。
「あら、洒落を効かせましたね。異名をバリエーションとしたワケですか」
「補足しますと、シャンディさんの《帝王》が度数で言えばやや強めです。凛子さんの《女帝》も中口から辛口。きっちりオーダー通りに仕上げました」
「いただきます……!」
二杯目もやはり、凛子は乾杯することはなかった。
唇をつけた凛子が感想を言うまでの間がもどかしい。甘口好きの凛子が気に入るか分からない中辛口の《マンハッタン》だ。忌々しいマラスキーノチェリーにたっぷり詰まった甘みが溶け出すことを祈る。
「黒須さん、すごい。これもおいしいよ」
「あたしも一口いただいても?」
「やだ! あげない!」
「ぶー」
唇をすぼませて不満を露わにすると、シャンディは自身の《マティーニ》に口づけした。
凛子の感想より、シャンディの感想を待つ時間が遙かに長く感じられた。彼女はプロだ。それに《マティーニ》の難しさは、以前ミモザに会いに行った時に聞かされている。
帝国ホテルと同じレシピ。51mlのジンと、9mlのドライ・ベルモット。メジャーカップで量るのも難しいたった1mlの差異を、再現できたのだろうか。
「……いかがですか、シャンディさん」
「批評は辛口と甘口、どちらがお好みですか?」
「甘すぎず、辛すぎずでお願いします」
シャンディは「ええ」と一言告げて、表情をほころばせた。
「お酒はよく混ざっています。グラスもちゃんと予冷されているので、短時間で愉しむショートドリンクとしては及第点です」
「なら、合格ですか?」
「いーえ。まだ貴女にアンティッカは預けられませんね」
告げるとシャンディは再び、真摯なバーテンダーの顔になる。
「加水量が多すぎます。ステアの時間が長すぎて、氷が必要以上に溶け出てジンの刺激がぼやけてしまっている。分量もおそらく、ベルモットが数ml多い。くわえて、オリーブから染みだした油分です。ちゃんとオリーブの油を切りました?」
「そこまでは気がつかず……」
「油分が多いと《ダーティー・マティーニ》という別のカクテルになってしまいます。次からはお気をつけて?」
「はい……」
分かってはいたことだが、見事に酷評された。普段はそれなりに優しいシャンディでも、ことカクテルのこととなると甘えを許さない。プライドを持って仕事をしている証だ。
「わ、私はおいしいよ? だから黒須さん、大丈夫!」
「フォローいただきありがとうございます……」
言ってはみたものの、美琴はがくりと項垂れた。
やはりシャンディを唸らせるのは、一筋縄ではいかない。
「まずいとは言っていませんよ。美琴さん初の《マティーニ》も、これはこれで」
「ねえ。私にもちょっと飲ませて?」
「あたしにキスしてくれたら飲ませてあげますよ? 口移しで」
「絶対やだ!」
「あら、残念」
それぞれのグラスを傾けるシャンディと凛子の間には、先ほどまでの険悪さは感じられなかった。もちろん、互いにどこか牽制し合っている風だが、今にも掴みかからんばかりの剣幕ではない。
「これもお酒の力なのかもしれませんね」
ふとそんなことを呟いてみる。凛子もシャンディも、美琴をきょとんとした目で見つめていた。美琴の想いなど――特に凛子は――気づきもしないだろう。
シャンディの言っていた言葉を思い出す。
――ひりついたムードで飲むお酒は美味しくありません。
仲直りしましょうか、凛子さん?――
実際、初めこそ緊張したし複雑な心境だったが、美琴のざわつきも今は落ち着いている。シャンディと凛子の、仲が悪いながらも歯に衣着せぬ会話も、どこか不思議と心地よい。
「あ……」
もしかして、と美琴は思う。
シャンディは最初から、三人の関係がこれ以上悪化しないように、アンティッカでのひとときを提案したのかもしれない。
「どうかなさいました?」
「……いえ、何でもありません。ふふっ」
きっと、シャンディを問い詰めても答えてはくれないだろう。あるいは彼女はシャイだから「ただ飲みたかっただけです」と微笑むかもしれない。
何から何まで気遣いが行き届いたバーテンダー。それがシャンディだ。
「そうです、シャンディさん。凛子さん。もう1杯、私から差し上げたいのですが、まだ飲めそうですか?」
「酔い潰してテイクアウトなさるおつもりかしら?」
「ええ、二人まとめて召し上がろうと思います。凛子さんは?」
「全然だいじょうぶだよ。黒須さんのお酒なら、何杯でも!」
二人の顔色を窺う。どちらもまるで赤みはないが、少し表情が柔らかくなっていた。
カクテルのある時間を愉しんでいることだけは、間違いない。
「では、桃とオレンジのお二人を酔わせる逸品をお作りします」
美琴の宣言に、シャンディだけが何か勘づいたように笑っていた。
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