#29 : Cinderella
『赤澤来瞳についてお伝えしたくご連絡しました。少々お時間よろしいですか』
明治文具、昼休み中。
デスクで昼食のランチパックを頬張っていた美琴は、日比谷の早苗から電話を受けた。
オフィスには美琴と凛子だけ。出払った先輩社員の代わりに、急な来客に備えて歴の浅い二人がオフィスに居残りをしている。これも明治文具の暗黙の了解だ。
「ええ。昼食中でした」
『私もです。大したお話ではないので、食べながら聞いてください。私も食べながら話します』
「はあ」
もぐもぐ、とかすかに咀嚼音が聞こえる。風の音がするところからして、おそらく本社ビルの屋上で昼食中なのだろう。お行儀が悪いが、忙しくて時間のない早苗にしてみれば仕方がないことだろう。
『赤澤来瞳は25歳、秘書課三年目社員で私の同期に当たります。新入社員研修で話した程度の間柄ですが、彼女に対しての印象は当時から変わりません』
「左フックからの右ストレートでしたね」
『そうです。今回改めて身辺を当たったところ、彼女の採用に関して、黒須さんもよく知る人物の関連を目にしました』
「……小杉本部長ですか」
消去法など使うまでもなく、美琴には察しがついた。早苗は「ええ」と返す。
『能力も学歴もフィルターで弾かれるはずの赤澤来瞳が採用されたのは、間違いなく小杉の口利きによるものです。それもほぼ間違いなく、個人的な縁故によるものでしょう』
「たとえば身内とか……愛人でしょうか?」
凛子の視線を感じる。聞き耳を立てていたのかもしれない。
『そこまでは。そもそも両者の関係性はさしたる問題ではありません。いま検討すべきは、赤澤来瞳とその背後に潜むであろう小杉の目論見をいかに阻止するか。彼らの目的は、貴女への復讐ですので』
「復讐って、そんな大げさな……」
とは言いつつも、事態の深刻さは美琴も理解していた。
先の《デジタルメモ》不正事件の責任をとる形で、小杉は処分を受けた。彼にとっては当然の報いだが、逆恨みされる理由としては充分だ。
『ともかく。分かったことがあれば連絡します。黒須さんも何か奇妙なことがあれば連絡を――あっ』
「早苗さん? どうしました?」
突然、電話口の早苗が声を上げる。呼びかけても返事はない。
――もしや、赤澤来瞳かその仲間に捕まった?
途端不安になってスピーカーに耳を押し当てる。
『……お弁当の玉子焼きを落としてしまっただけです』
「食べながら電話するからですよ……」
『董子にもよく言われます。残さず食べ切ると褒めてくれるんですが、今日は怒られるかも……』
「そうですか……」
心配して損した。
結局、ノロケだかなんだか分からない発言を残して早苗からの連絡は終わった。残された美琴が昼食を再開したところで、凛子が席を移って隣にやってくる。
「今のは日比谷の人?」
「白井さんは会ったよね。柳瀬董子さんの夫……だか妻なんだか分かんないけど、配偶者の早苗さん。赤澤の事件について調べてもらってる」
「……そっか」
赤澤の件は、凛子と椎菜には週明けには説明した。烈火のごとく怒り狂って日比谷に苦情を入れようとした椎菜を止めるのに苦労したのは記憶に新しい。結局、ヘタに動くと赤澤の計画通りになると説明するまで、凛子が何度止めても椎菜はプンプン怒り散らしていた。
しばらく沈黙した後、凛子は口を開く。
「黒須さんは、結婚ってどう思う? 普通の男女だけじゃなくて、柳瀬さん
話題は赤澤のことではなかった。凛子の意図が読めず、美琴はとりあえず一般論を持ち出す。
「どう思うって……。本人達が幸せならいいんじゃない?」
「自分のことに置き換えても、同じことが言える?」
「え?」
「……たとえば。いま私がプロポーズしたとして、黒須さんは『はい』って返事できる?」
ただのたとえ話なのに、凛子の視線には力がこもっていた。今日の香水は《ラベンダー》――華やかな花の香りを身にまとっている。近づかないと分からない程度の、ほのかなもの。
「そーね。白井さんは可愛いし、いいにおいするし。プロポーズされたらコロっといっちゃうかもね」
「それって冗談だよね?」
冗談めかして語った美琴に、同じく冗談めいた笑みを浮かべる凛子が尋ねる。
美琴は、自身が抱えている悩みを思い出す。
シャンディを待たせてしまっているのは、自身が覚悟ができていないからに他ならない。
女性を愛するという覚悟だ。
「正直、自分がどっちなのか分かんなくて。こんなこと言ったら白井さんヒイちゃうかもしれないけど」
「ううん、大丈夫。私は――」
何か言いかけて、凛子は口を噤んだ。
沈黙を埋めるように美琴は話を続けた。
「でもどっちだろうと、結婚相手に求めるものってそう変わらないでしょ」
「たとえば? 相手に何を求める?」
凛子の質問攻めだ。
以前のマーベリックでの出来事以来、美琴は凛子からことあるごとに話しかけられるようになっていた。距離が近づくからだろう、毎日わずかに違う香水の匂いが日に日に強くなっている。
「……考えたことないな。うちの親はうるさく言わないし。琴音は『姪っ子まだ?』って言うけど、あいつは無責任に可愛がれる子どもが欲しいだけだし」
「琴音……」
凛子の顔がわずかに曇った。が、その理由は美琴には分からない。
「ともかく。付き合って、お互いのこと知って、結婚したいと思ったらすればいいだけの話だと思う。ていうか、何言ってんだろうね私……」
「ううん、ありがとう。参考になったよ、黒須さん」
「何の参考よ……」
自分の結婚観を吐露してしまったのが恥ずかしくもあって、美琴は苦笑して頭をかいた。
自身と凛子は同い年だ。ガミガミ言わない黒須家の両親と違って、凛子にはそれなりに期待がかけられているのだろう。彼女は静岡出身だ。田舎は未婚の若者に対する風当たりが強いと、生まれも育ちも横浜である美琴でも小耳に挟んだことはある。
「私、ずっと悩んでてね。でも、黒須さんと話したら心が決まったよ。本気でアタックしてみる」
「そういえば好きな人が居るんだっけ。応援するよ、白井さん」
「本当? 嬉しいな」
凛子はどこか悲しげな笑顔を浮かべていた。
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれるかな。デート――の、作戦会議がしたいの。私に似合う服とかコスメとか選んでほしくて」
「私なんかでよければ」
二人して予定を合わせ、作戦会議は今週末――祝日の金曜日に決まった。
白井凛子の好きな人が誰なのか、美琴にはまるで見当がつかなかった。
*
ここは六本木はずれ。たまに臨時休業することもあるガールズバー《antiqua》。
雑居ビル三階の重厚感ある扉は、今日が平日――つまり営業日だというのに閉ざされていた。
「お休み……?」
時刻は開店直後の午後七時前。以前のように、店を閉めたばかりとも考えられない。ドアノブかかっていた《close》の札が、吹き込んだビル風に揺れている。
今日は臨時休業なのだろう。
アンティッカを後にしようとした美琴は、ふとシャンディからもらっていたビラ入りのポケットティッシュを思い出す。彼女と出会った1月の半ば、偶然ぶつかってしまった時に手渡されたそれに、開店スケジュールが載っていたはず。
「電話番号……」
鞄の奥底に眠っていたポケットティッシュには、アンティッカのロゴと所在地を示す地図。料金体系と営業日の他に、電話番号が載っていた。03から始まる固定回線番号は、店内のものだろう。
毎日通っていた記録を途絶えさせるのもなぜだか惜しくなって、ダメ元で電話をかけてみる。
数回のコール。その後、コール音が別のものに変わって、声が聞こえた。
『アンティッカです。本日は臨時休業です。またのお越しをお待ちしております』
「シャンディさん……?」
一度もアンティッカへ電話をかけたことのなかった美琴は、初めて電話口でシャンディの声を聞いた。普段の鈴の音を転がすような声ではない。ガラガラでかつ、鼻声だ。
『あら、この声は美琴さんかしら? せっかくご来店いただいたのにお相手できなくて申し訳ありません』
「ええ、貴女に逢えなくて寂しいですよ。風邪ですか?」
『気をつけてはいたんですけどね。美琴さんとの
そんな勝負をしていた覚えはないが、どうやら美琴は勝ちをもぎ取っていたらしい。
――本日の恋愛遊戯、美琴の勝利。
ではなく。
「……大丈夫ですか」
『ご心配には……』
ゴホゴホ、と大きめの咳が聞こえた。電話口では女王様ミモザが「なあお」と鳴いている。ごはん係である家臣を心配するような、なんとも言えない悲しげな声だ。
美琴は、合鍵の存在を思い出した。
「行きますよ。必要なものはありますか?」
『い、いいですよ、大丈夫です。美琴さんに
「大丈夫な声には聞こえませんから。ミモザも心配そうですし」
『いえ、そうではなく……』
「どうなんですか」
『……あたしの弱った姿を、お目にかけたくないという乙女心です』
背伸びがちな美琴には、シャンディが告げた言葉の理由がよく分かる。美琴とて、それなりに着飾ってアンティッカへ向かうのは、まったく同じ理由だったからだ。
好きな人には、自分がいちばん気に入っている自身の姿を見せたい。
そして、シャンディが自身にいちばん気に入っている姿を見せたがっている――つまり、自身に好意を向けていると改めて気づいて、美琴の心臓が跳ねる。
電話でよかった。
ほんのり赤面しているであろう額を抑えて、アンティッカのドアにもたれて思う。
「とは言え、放ってはおけません。何が必要ですか?」
『ふふ、強引ですね? 普段は紳士か女の子ですのに、こういう時だけ白馬の王子様じみた行動を――』
ゴホゴホと咳が聞こえた。普段のように言葉を弄している場合じゃない。
「強引にでも向かった方がよい気がしますけど?」
『……すみません、では風邪薬と簡単な食事を頼めますか……』
「お任せください、お姫様」
電話を切って、美琴はアンティッカを後にした。
目指すはシャンディの住まう街、経堂だ。
*
駅前のドラッグストアで指示されたものを買い込んで、美琴はシャンディのマンションにたどり着いた。渡された合鍵でエントランスのゲートを開け、302号室のドアノブを回す。
「シャンディさーん?」
呼びかけてみても、シャンディは現れなかった。代わりに廊下突き当たりのリビングから、ミモザがしなやかに歩いてくる。
「なあお」
「おーよちよち。お姫様は?」
軽く頭を撫でてやると、女王様はリビングにとって返した。その後を追った美琴は、ソファにうずくまっているシャンディを見つけた。
「会いたくない」と言うだけあって、普段のシャンディとはまったく姿が違っている。ジャケット姿でなければ、普段着のパーカーでもオシャレなよそ行きでもない。唯一身につけているのはロングTシャツで、裾からは下着が覗いている。
「駆けつけましたよ、お姫様」
「……ああ、ようこそ……」
普段から強気のシャンディも、今夜ばかりは憔悴しきった様子だった。琥珀色の瞳は開いているのか閉じているのか分からない細さで、白い素肌は上気して真っ赤になっている。
「熱は? 病院には行きました?」
「猫用の体温計しかないので……」
思わず苦笑してしまった。
懐かれてはないが、シャンディはミモザを大切に思っているのだろう。つるつる滑るフローリングはネコにはよろしくないし、成長に伴って最終的に瞳が翠玉色になるロシアンブルーに、瞳の色が黄色だったからと《ミモザ》なんて名前をつけるくらいネコに関する知識はないのだろうけれど、大事にしていることは間違いないからだ。
「計りますね」
「寝汗かいてますし、こんな格好ですから……」
「乙女心はいったん忘れてください」
ほんのり汗ばんだ額は、驚くほどに熱かった。かなりの熱が出ている。
「とりあえず、汗を拭きましょう。タオルお借りします」
「構いません、から。あたしは……このままで……」
「ダメです。長引かせると危険ですから」
洗面所でタオルを探し、シャンディの汗を拭いた。乙女心とやらでわずかに抵抗したシャンディだったが、美琴の前に諦めたのだろう。汗まみれの体をさらけ出して、美琴は軽く拭き取っていく。
あばらが浮くほどに細く華奢なシャンディの体が、この日ばかりは病弱な少女のように思えた。
「ふふ、こんな形で裸を見られてしまうだなんて……」
「冗談を言う余裕はあるみたいで安心しましたよ」
「ええ。美琴さんの顔を見たら、多少は気力が戻ってきました……」
「なあお」と鳴くミモザにネコ缶を開けてやり、「ふふ」と力なく笑うシャンディにゼリーとプリンを開ける。
「食べさせてくださいな? あーん」
「こんな時でも駆け引きですか……」
「だって、体が動かないんですもの。ミモザのご飯もあげられなかったくらいですし……」
薄く開かれた瞼からどうにか黒目が覗いている。琥珀色の瞳は、今宵はお預けだ。
「口を開けてください」
「んあ……」
口すらもほとんど開かない。ドラッグストア店員のつけてくれたおまけのスプーンでは、入ったとしても唇で塞がってしまうだろう。
美琴の読み通り、スプーンですくったゼリーはシャンディのTシャツの上に落ちた。仕方なく、シャンディの口を指でこじ開ける。咀嚼する力すら残っていないようだが、とにかく胃に何か入れた方がいい。
「……お手数をおかけしてすみません、美琴さん。お客様にこんなことを頼むなんてダメですね、あたし」
いつになくしおらしいシャンディの様子に、美琴は言葉を呑んだ。
アンティッカで勝ち誇っている女王の貫禄は、少なくとも302号室に住むシャンディにはない。華奢で、か弱くて、心細い、少女の姿。
以前シャンディが語ってくれたひとりぼっちのアリスは、こんな少女だったのかもしれない。
「ただの客は合鍵なんて持ってないでしょう?」
「どうかしら……。他にも渡している方がいらっしゃるかもしれませんよ……?」
「私がお役御免だということなら去りますが?」
「でも、去りたくないのでしょう……?」
「ふふ」と。弱り切った顔でも遊戯のように意味深な言葉を告げてくる。
「去れませんよ。こんなに弱った貴女を見て立ち去れるほど、私は薄情じゃありません」
「……あたしも、美琴さんに去ってほしくありません」
「だったら、思わせぶりな態度なんて取らないでほしいものですが」
「ふふ……。美琴さんが喜んでくれるあたしで居たいだけですよ……」
シャンディは、思わせぶりな態度を取ることで、謎という美しさのヴェールで自身を飾っている。それは熱にうなされて弱っていても変わらない。少なくとも美琴の前では、絶対に態度を変えたりしないだろう。
「そんなこと言ってる場合――」
言いかけて、美琴は言葉を呑み込む。
シャンディが見せたい姿を否定して、意味があるのだろうか。謎をまとっていたい彼女の謎を無理矢理剥がして本性を暴いたところで、彼女は喜ぶのだろうか。
本当にシャンディを愛するつもりなら、彼女の謎ごと愛せないと意味がない。
「何か、仰りましたか……? 熱で、耳が聞こえにくくて……」
「いえ。シャンディさんには敵わないなあ、と言っただけですよ」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう……」
微笑むシャンディに、美琴は苦笑を返した。
対等な立場で意味深な言葉を投げ合う他にも、愛し方はある。
ミモザに似て女王様のシャンディには、機嫌を損ねないよう下手に出て、彼女の行動を理解して褒めてあげること。
たとえば自信満々な我が子を褒める、母親のように。
可愛らしくイタズラに翻弄されながらも、敢えてシャンディに翻弄されてあげていると思えるように。
「シャンディさん、好きですよ」
「弱ってるときの告白は受け付けませんよ? 正々堂々が美琴さんですから……」
「ええ、分かっています。単なる練習ですから」
「いつ、練習の成果を披露してくださるのかしら……?」
「まあ、今ではないでしょうね」
「そうですね……。今週の営業は絶望的ですもの……」
美琴はテーブルの上に置いた合鍵を見つめて、浮きそうな歯を抑えつけながら告げた。
「シャンディさんが居てほしいと仰るなら、しばらく一緒に暮らしてあげても構いませんよ?」
弱っていても、美琴の背伸びには敏感に反応するらしい。シャンディは「ふふ」と笑って、熱ばって上気した顔で微笑んでみせた。
「初めからそう言っていたはずですけれど……?」
「私のウソは見抜かれてしまいますが、シャンディさんがウソをついている可能性は残っていますから」
「どうすれば、信用してくださいます?」
「……誓いのキスでもしておきますか? ウソはついていないと」
「
「今宵はまだ、貴女を戴いてないので」
「しようのないお客様ですね……」
しなだれかかってくるシャンディを抱き留めて、口づけした。唇も咥内もひどく熱かったが、普段より幾分素直なキスだった。
「……あたしの負け。しばらく、面倒を見てくださいますか? あたしと、ミモザの……」
「お姫様の仰せのままに」
「ふふ……。王子様ぶった美琴さん、正直ヒイちゃいます……キャラじゃなくて……」
「ここに来てそれですか……」
弱っていても相変わらず、シャンディは恥ずかしいところをついてくる。
そうそう一筋縄ではいかない女性に心を持って行かれたことに、美琴は虚しくも愛おしいため息をついた。
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