#30 : Final Approach / ep.1

 ほとんど使われた形跡のないコンロとフライパンで、美琴は卵とハムを炒めていた。傍らにはマヨネーズを塗った薄切りのトーストと、電気ケトルの沸騰待ちのカップスープがそれぞれふたり分。当然どちらも、野菜はいっさい入っていない。

 並んだ食器はどれもちぐはぐで、それが逆説的に彼女が独身であることを物語っている。


「なあお」

「もうちょっと待ってにゃー? キミのご主人のご飯を作ってるから」


 美琴のふくらはぎを、「ご飯はまだか」とばかりにミモザが頬ずりした。

 祝日の金曜日。経堂。302号室。午前八時。


 大風邪を引いたシャンディの提案で決まった、しばらくのルームシェア。それを一番喜んだのは美琴でもシャンディでもなく、愛猫で女王様のミモザだろう。

 美琴が自宅から持ってきたスウェットは、あっという間に女王様にマーキングされて毛だらけだ。主人と違ってミモザは幾分素直なのかもしれない。


「じゃあミモザ、ご主人を起こしてきてくださいにゃ?」

「にゃおう」


 そしてミモザは妙に聞き分けがいい。ダメ元で頼んでも、しなやかにキッチンを後にして、シャンディの眠る寝室へ向かう。

 焼き上がった具材をトーストで挟み、沸いた湯をカップスープの容器に注いだところで寝室から声がした。


「いったー!?」


 苦笑してしまう。女王様は、お気に入りではない家臣に対してはとにかく乱暴だ。《エックス・ワイ・ジー》の使い方を心得ているのだろう。

 ミモザへのご褒美のネコ缶を開けたところで、ロングTシャツ一枚のシャンディが寝ぼけ眼を擦りながら現れた。琥珀色の瞳は、まだ眠たそうにとろりとしている。


「おはようございます、シャンディさん」

「おあおうおあいあう……」


 「ふああ」とテーブルに着いたシャンディの前に、トーストサンドとカップスープを置く。昨晩「流動食は飽きました!」と子どもじみた宣言をしたシャンディのための朝食メニューだ。


「あえ? 朝ご飯ですか……?」

「そろそろしっかりしたご飯が食べたい頃だと思いまして」

「ここぞとばかりに良妻アピールですか、美琴さん……?」


 シャンディは寝ぼけながらも瞳を上弦に歪ませる。緩やかな金髪についた寝癖が、カーテン越しの朝日を受けてきらきらと輝いていた。


「要らないなら私が食べますよ」

「食べないとは言っていませんよ? ちゃんとあたしの苦手なお野菜も、避けて戴いているようですし」

「栄養バランスが偏る分は、こちらで」


 シャンディのテーブルに、紙パックの野菜ジュースを置いた。途端シャンディは唇を「ぶー」とすぼめて、ミモザが気に入らないものを退かすかのようにぷいっとはじき飛ばす。


「困ったご主人様ですにゃあ、ミモザ?」


 皿に移した高級ネコ缶をむしゃむしゃ食べながら、「ホントそれ」とばかりにミモザは鳴いた。


「熱は治まりました?」

「7度2分。昨日の8度台に比べれば、ずいぶん落ち着きました」


 着替え以外にも、美琴は自宅からいくつか日用品を持ってきていた。そのうちのひとつが体温計だ。37度2分。シャンディの申告通りの体温まで落ち着いたらしい。看病が功を奏したと分かって、美琴は安堵のため息をつく。


「顔色もよさそうですが、無理は禁物ですよ」

「ええ。せっかくですし、三連休をいただいてしまおうと思っています。後でお店の前に張り紙をして来ようかと」


 「いただきます」と手を合わせ、シャンディはカップスープに唇をつけた。「あち」と可愛らしく告げて、トーストサンドに手を伸ばす。


「私がやっておきますよ。今日は外出しますから」

「あら、病気のあたしを置いて誰かとデートかしら?」


 試すようににやりと微笑んで、シャンディが思わせぶりな当て推量を突きつける。風邪程度では、彼女の言葉を止めることはできないのだろう。

 本日の予定はデート――ではなく、凛子のデート対策だ。シャンディと仲がいいのか悪いのか分からない彼女のことを伝えるか否か逡巡していると、シャンディはころころと笑った。


「ふふ。お気になさらなくて結構ですよ。あたしのためにここまでのことをしてくれる美琴さんが、そうそう他の人間になびくとは思えませんから」

「そうですね。本当はもっと貴女のために手を尽くしたいのですが、あいにく先約を裏切ることもできません。美人ゆえに引っ張りだこですから」

「まあ、うらやましいことですね」


 ふたりして顔を見合わせて笑う。ようやく飲める温度になったのか、カップスープを一飲みしてシャンディが尋ねる。


「お相手は《ピーチ・レディ》ですね。たしか、白井凛子さん。当たっていました?」


 シャンディは肘を突いて、こちらを見透かすような視線を送ってくる。丸く見開かれた琥珀色の瞳の前では、一切のウソは見抜かれてしまう。


「……よくお分かりですね。さすがは・ホームズです」

「美琴さんのことはお見通しですからね」


 シャンディは鼻歌を鳴らしながら、トーストサンドにぱくついていた。仮にもマーベリックで激戦を演じていた凛子に会うにも関わらず、瞳を下弦にして怒るでもなく余裕を讃えている。


「小言のひとつでも貰うと思っていましたよ。相手が白井さんですから」

「あら? 別に凛子さんを嫌ったりしていませんよ。あたしの愛し方にケチをつけてきたから、恥ずかしい目に遭わせてあげただけですもの」

「お手柔らかにしてあげられませんか、同僚ですので……」

「いーえ。彼女、面白いんですもの。それにようやく、あたしと同じステージに登る覚悟ができたようですし」

「同じステージ……?」


 シャンディは不敵に笑っていた。シャンディと凛子の間には、美琴の預かり知らない出来事があったのかもしれない。


「ふふ、正妻の余裕とでも言っておきましょうか。あ、でもひとつだけ約束してくださいません? 美琴さん」

「なんでしょう?」

「遅くならないうちに帰ってきてくださいな。あたしとの遊戯ゲームに付き合っていただきたいですもの」

「家でも遊戯ゲームですか……」

「ええ」


 告げて、シャンディはテレビ横のゲーム機を指さした。


「マリカーです」

「ああ、そっちの」


 シャンディは無邪気な少女のように笑っていた。


 *


 同日午後。凛子と約束した原宿・竹下口。

 約束の時間の5分前に到着した美琴は、すでに待っていた凛子の姿を見留めて駆け寄った。


「早いね、白井さん。待った?」

「ううん、今来たトコだよ」


 凛子の服装は、出退勤の時の通勤着とは違っていた。季節は春先、淡い色味をふんだんに使った清楚系のブラウスにフレアスカート。気温が高いこともあって、防寒着はカーディガン一枚だ。ファッションの街原宿の人々と比べれば派手さはないが、それがあえて年相応の落ち着きを演出している。


「似合ってるね、白井さん。私は可愛いの着られないからうらやましいよ」

「ありがとう。でも、今日は……違う私を見つけてもらおうと思って」


 しっかり作った凛子の前髪が、代々木公園の方から吹き抜ける風に揺れる。それに乗って、彼女の纏う香りがかすかに鼻腔をくすぐった。


「じゃあまずは、白井さんの好きな人がどういうものを好むのか分析しようか。顧客のニーズを調べなきゃ、こっちも戦略を立てられないだろうし」

「あはは。仕事中みたい」


 明るく笑う凛子に手を引かれ、美琴はストリートに繰り出した。

 原宿。目抜き通りたる竹下通りを過ぎた先にある、特徴的な形のファッションビル。万華鏡の中を往くようなエスカレーターの先に広がる、洋の東西を問わぬ様々な衣服の森の中を歩きながら、美琴は尋ねる。


「白井さんの好きな人って、確かウチの社員よね」

「覚えてたんだね。ホテルのバーで告白したときのこと」


 勝敗は引き分けに終わった、互いに想い人の好きなところを言い合う遊戯。シャンディ相手に善戦していた凛子は、勝負の流れでいくつかヒントを挙げていた。


「たしか、初めて声をかけてくれた優しい人で、応援したくなるとかなんとか。あと、いつも忙しそうにしてるんだっけ」

「黒須さんには誰か分かる?」

「んー……分かんないな。製造部の若手かなって思ったんだけど」


 思いつくままに製造部の男性社員達の名前を挙げていくも、凛子は首を横に振るばかりだった。とうとう課長や部長クラス、専務の名前まで出したが、まるで正解にはたどり着かない。


「あー、ダメ。降参。教えてくれない?」

「今日はまだ内緒。まずは服を――あっ! これ可愛い!」


 告げると凛子は、やはり清楚め、甘めの衣服を手に取って姿見の前で合わせていた。現実離れしたウエストの細さを誇るマネキンでないと着こなせないような、絞りのえぐい衣服の数々。

 美琴はちらりと凛子のウエストを見た。出るとこ出て引っ込むところ引っ込んでいる、バランスのよい体型だ。連日のアンティッカ通いでほんのりお腹がポヨってきている美琴とは違う。

 それでも――。


「似合うかも」


 ――清楚で甘い、自分には着られない服を見て、美琴が思い浮かべたのはシャンディの姿だった。ただでさえ細いマネキンから胸をさらに削ったような人形じみた彼女なら、きっと着こなせてしまえるだろう。その姿で自身の隣に立っている彼女を想像して。

 そして、そんな想像をしてしまったことが恥ずかしくなる。


「ホント? 黒須さんはこういうのが好き?」


 手に取っていたオーガンジー素材のペプラムを体に当てて、凛子が上目遣いを送ってくる。暖色めいた凛子の肌の色に、淡い衣服の色味がマッチしていた。


「好き、というか憧れだよね。私はこういうの似合わないから」

「そうかな? 黒須さんも似合うと思うけど」


 姿見の前で、凛子と肩を寄せ合って衣服を合わせてみる。見慣れた切れ長の顔立ちには、甘すぎてまるで合っていないように思えた。待ち合わせの時よりも、竹下通りを歩いている時よりも、ハッキリと桃の香りを感じる。


「今日は桃?」

「そういう黒須さんは、今日もオレンジだね」


 凛子はどこか落ち着きのない笑顔を浮かべていた。

 美琴がオレンジの香りをまとっているのは、シャンディお気に入りのシャンプーを使っているからに他ならない。この数日は経堂から出社しているのだから当然だ。

 直後、凛子は鼻をひくつかせる。


「それに……ちょっとムズムズする……。もしかして、ネコ飼い始めた?」


 凛子は「くしゅん」とくしゃみをした。慌ててハンカチで鼻をぬぐい、美琴に飛沫が飛ばないように数度、くしゃみをかみ殺す。


「ちょっと、知り合いのネコを預かってて」

「ごめん。私、ネコアレルギーでね。可愛いとは思うんだけど、くしゃみが止まらなくなっちゃって……」


 とっさについたウソで、余計にルームシェアのことを言い出しにくくなる。言ってしまっても構わないことではあるだろうけれど、女性と――さらに言えばシャンディと一緒に住んでいるとは言いづらい。

 同僚である凛子に妙に思われたくなくて、美琴は言葉を探す。


「ごめんね、ネコアレルギーだと知ってればもう少し気をつけてきたんだけど。ていうか、そんなに匂う?」

「ううん。私、特に匂いに敏感なの。だから……これ買ったら、次はあそこ行こっか」

「あそこ?」


 凛子はテナントの外を指さした。通路を挟んで向かい側に、無数の小瓶やドライフラワーが並んだテナントがある。


「アロマショップ。あそこでいろいろ試してみよう? 黒須さんが好きな香りとか、私に似合う香りとか。ネコやオレンジの香りだって、着替えられるから」


 試着もせず会計を終えた凛子に連れられて、アロマショップへ向かう。

 馴染みの店員が居るのだろう、店内で一言二言交わす凛子を横目に、美琴は陳列された無数の小瓶に入ったテスターを眺める。

 《フランキンセンス》、《クレメンタイン》、《メリッサ》。

 聞いたことのない名前が並ぶ中には、聞き覚えのあるものもいくつかあった。

 その中の筆頭、《イランイラン》の小瓶を開けて鼻を近づける。むせ返るような濃密な花の香りに脳を揺らされた。


「黒須さんも好きなの? 《イランイラン》」

「んー。まあまあ?」

「そっか」


 素っ気ない返事をした凛子の隣で、陳列棚に飾られたラタンスティック入りの瓶を見て、美琴は仕事のことを思い出した。


「そういえば、新企画のことなんだけど。相談乗ってもらっていいかな、白井さん」

「もちろん。アロマと鉛筆……を組み合わせるって話だっけ?」


 テスターの香りを次々検分しながら、美琴は頭を仕事モードに切り換えた。

 《デジタルメモ》に次ぐ新商品企画、《アロマ鉛筆(仮)》。

 アロマオイルやエッセンシャルオイルの瓶に指す細い木の棒――ラタンスティック――にヒントを得たもので、要はラタンスティックの代わりに自社製の鉛筆を指してしまおうというとにかく乱暴な企画だ。

 しかしこれには、大きな問題がある。


「ラタンスティックの代わりにウチの鉛筆を指して実験してみたんだけど、全然匂わなくてね」

「そうなんだ、面白い実験だね」


 凛子はくすくす苦笑して続けた。


「ラタンは穴がいっぱい空いてるから、オイルを吸い上げて蒸発させやすいの。でもウチの鉛筆はヒノキだよね。植物だから吸い上げはするけど、ラタンと比べると蒸発させられる量は少ないんじゃないかな。それにヒノキにはヒノキの匂いもあるし」

「やっぱりそうかー……」


 そう簡単に会社を救うアイディアは生まれない。どうにか鉛筆の新しい活用法を模索しようにも、考えれば考えるほど行き詰まる。だいいち、新しい活用法があるならすでに誰かが発見しているだろう。自身の出る幕じゃないとも思う。

 落胆した美琴を勇気づけるように、凛子が声を弾ませた。


「やっぱり、がんばってるね黒須さん。すごく応援したくなるよ!」

「でも、結果が出ないと意味ないのよね……。日比谷のルール覚えるのも大変だし、赤澤の件もあるし……」

「分かるよ、黒須さんが忙しいことは。私が入社したばかりの時も、忙しくしてたのに、いちばんに声かけてくれたよね」


 美琴が明治文具でやった仕事で思い出せるのは、ほとんど見向きもされなかった広告キャンペーンだけだ。もちろんそれ以外にもいろいろと広告宣伝を打ったりしているはずなのに、まるで思い出せない。


「そうだっけ? もう忘れちゃったよ」

「……にぶいんだね」


 突然、口をついて飛び出した凛子のつぶやきにドキリとした。凛子は日常会話で悪口を使ったりするタイプではないから余計に。


「え?」

「せっかく来たんだし、好きな香り探してみよっか! 忙しい黒須さんを癒やせる香りがあれば、もっと仕事頑張れるかもだし」


 馴染みの店員となにやら話し込んだ後、凛子はテスターを使ってオリジナルブレンドの試作を始めていた。

 凛子が店員と交わす会話の内容は、美琴にはまるで分からなかった。トップノートがどうだとか、ミドルノートを強めにしたいだとか。彼女が瞳をきらきら輝かせて語る内容はまったく未知の領域だ。シャンディがカクテルについて語るときと同じ、好きなものに一生懸命のめり込む姿にも似ている。


「……黒須さん、これはどうかな! トップを《ベルガモット》にして、ミドルを《イランイラン》。ベースは《シダーウッド》と《ローズウッド》で迷って2つ作ってみたんだけど。嗅いでみて?」

「ふふっ……」


 一生懸命な姿が可愛らしくて、美琴は自然に笑っていた。

 今までに見たことのない凛子の姿に、わずかに心の距離が縮まった気もする。


「あ、夢中になっちゃってたよ。ちょっとヒイちゃった?」

「ううん。プロみたいで、カッコいいよ。そういうの」

「プロみたい……」


 おかしくて笑ってしまった美琴は、凛子が一瞬浮かべた困惑に気づけなかった。

 手渡された二種の小瓶――調合したオリジナルブレンドを両方試してみたところで、凛子が声を上げた。


「……黒須さん。やっぱり私、今日伝えたいことがあるの。もうちょっとだけ、付き合ってくれるかな?」


 *


「なおーん」

「あら、雨?」


 ミモザが顔を撫でると、晴れ渡っていた弥生の空が雲に覆われる。急いで洗濯物を取り込んだ途端に、ポツポツと曇天が泣き始めた。


「美琴さん、傘を持って行ったのかしら」


 サッシに手をやり。サアと降りしきる雨を眺めながら、シャンディはぼそりと呟く。脇に挟んでいた体温計は、ようやく平熱を示してくれた。

 平熱。それはつまり風邪が治ったという証。


「ミモザ? ご主人様はちょーっと出掛けてきます。いい子でお留守番できますか?」

「シャーッ!」

「威嚇しないでくださいな。あたしはミモザの大好きな人を、迎えに行かなきゃいけないんですから」


 シャンディが伸ばした手を、初めてミモザが舐めた。朝噛みつかれてできた傷跡を消すように、ざらついた舌が撫でる。


「聞き分けのいい子は好きですよ。ふふ」

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