#28 : Manhattan

 私用携帯のメロディでたたき起こされた赤澤来瞳は、発信者の名前を見て「うげえ」と不快感を露わにした。

 発信者名:キモオヤジ。


 無視してやろう。自宅のベッドで二度寝を決め込もうにも、メロディはいつまでも鳴り止まない。来瞳は仕方なく着信ボタンを押し、寝起きの声色を男好きのする妖艶な女性に切り替えた。


「はぁ~い、おはよぉう。どうしたの小杉くぅん?」

『ええ~、来瞳ちゃぁん。今起きたのぉ? もう昼過ぎだよぉ? お寝坊さぁん』


 電話口の相手、小杉・元本部長。口を突いて出そうになった「キモッ」という言葉を呑み込み、来瞳はとっとと済ませようと本題を先読みする。


「ごめぇん。のことでちょーっと調べ物しててねぇ? ちょうど小杉くんに連絡しようと思ってたのぉ」

『うんうん、それを聞きたくてかけたんだよぉ。計画の進捗はどうかなぁ?』


 来瞳曰くのみーちゃんとは黒須美琴のことだ。

 来瞳は昨日、美琴が初出社した折の結果について感じたままに伝えた。


「ちょっと手強そうねぇ。普通は大問題になるようなコトしたんだけど、さらっと受け流されちゃってぇ。あーいうの、結構慣れてるみたいなのぉ」


 唇を無理矢理奪ったというのに、美琴のとった対応はひどく紳士的なものだった。騒ぎを起こさせ、逆に「黒須美琴に唇を奪われた」と訴えて両社の関係にヒビを入れようとした来瞳の思惑は、結果として美琴を警戒させてしまっただけだ。

 敗因は、一刻も早く小杉と手を切りたかった来瞳の焦りにある。


『それじゃボク困っちゃうよぉ~。来瞳ちゃんだけが頼りなんだけどなぁ?』

「だぁいじょうぶ。なら別の方法を試すだけぇ」


 もう前回と同じキスの罠は使えないが、陥れる手段はたくさんある。

 来瞳はベッドサイドに置いていたファッション誌に目を通しながら、適当な返事をした。


『別の方法ってなぁに? ボクすごく気になるなぁ~?』

「そうねぇ~……」


 面倒くさい。とは思いつつ、一応は小杉との縁あって日比谷で働いているのは事実。中途半端に義理堅い来瞳は思いつくままに適当に喋る。その意識は八割方、ファッション誌の記事に向けられていた。


「たとえばぁ。みーちゃんじゃなく、周りを攻めるとか。ズっ友とかとかパパママきょうだい。誰でもいいから弱み握って、みーちゃんに言うの、『バラしてほしくなかったら分かってる?』って」

『うわぁ~、さっすが来瞳ちゅわんこわぁ~い! で、どんな弱みがあるのかなぁ? ていうか、そんな都合よく見つかるかなぁ?』

「知ーらない。てゆーかあたし、みーちゃんのことなーんにも――」


 言いかけて、雑誌をめくる指も止まった。紙面を飾る女性に、美琴の面影を色濃く感じたからだ。

 即座にドッグイヤーし、凜々しく微笑んでいる彼女の名前を確認する。

 女優:黒須琴音。


「――みぃつけた」

『本当かい!? それは――』

「ごめんねぇ小杉くぅん。生理痛ツラいから電話切りまーす、ばいばぁい」


 暗に「これ以上話しかけてくるな」という大嘘を見舞って、来瞳はスマホで黒須琴音を検索した。もちろん、ネット上には美琴との関係を示す情報はないが、四歳離れた姉が居ること、たまに双子だと間違えられることは過去のインタビュー記事から簡単に見つかった。

 黒須琴音は公称23歳。

 記事の内容が真実なら、姉の苗字は黒須で、年齢は27歳。双子に間違えられるほどよく似ている。


「むふ」


 すべてを理解して、来瞳はにんまり笑った。

 そして検索窓に入力した《黒須琴音》に、《スキャンダル》を追加して検索し直した。


 *


「私のクランクアップを祝して、カンパーイ!」

「はいはい、お疲れさま」


 ここは六本木はずれ。売り出し中の若手女優もたまにやってくるガールズバー《antiqua》。

 14日のコスプレデーということもあって、店内を包む薄闇はオレンジ色の照明で煌々と照らされていた。赤地に金文字で《福》と書かれた垂れ幕が、バートップに飾られている。おまけにカウンターには例の、黒須琴音サイン入りランバダパンダが置かれていた。


「ふふ。こうして二人並んでいると、本当に双子みたいですね。美琴さんと琴音さんは」


 シャンディ目当ての客は、早い時間に殺到した後だった。アンティッカ店内で杯を傾けているのは美琴と、アメリカでの撮影を終えた琴音だけ。黒須姉妹の正面に立っているバーテンダーのシャンディは、宣言通りの真っ赤なチャイナ服で決めていた。


「よく間違えられますよ。最近は琴音が売れてるせいもあって、サインや写真をねだられることも増えて困っています」

「琴音の姉です、って言えばいいじゃん。私も面倒くさいとき姉ちゃんのフリしてるよ。『妹がお世話になってます~応援してあげてね~』って」

「あのさあ。私のフリしてヘンなことしないでよ? 最近ただでさえロクなことなかったんだから……」

「そうなん、シャンねえ

「ええ」


 一杯目に提供した《シャーリー・テンプル》が干されたからだろう、二杯目を提供すべく酒瓶を手にシャンディは告げる。それはそうと、チャイナドレスで酒瓶を操る姿のミスマッチ感は相当なものだった。


「わるーい女に手を出されてコロリといきそうだったんですよ。あたしというものがありながら」

「マ? 姉ちゃんひどくない?」

「語弊がありますから!」


 シャンディの悪ふざけに頭を抱えつつ、美琴は来瞳にされたことを説明した。

 実の妹に何を言っているんだろう。複雑な心境だったが、純粋な被害者であることだけは強調しておきたい。


「そんな女いんだね。ブン殴ってやりたい」

「あちょー! ほあたー! って感じですか?」

「それそれ! 《死亡遊戯》の時のブルース・リーみたいに」


 以前、美少女カンフーファイターが陰陽師と戦うという超B級Vシネマに出演していたからだろう、琴音は渋い顔を作って鼻を親指でさすってみせた。さすがは役者バカだ、そんな映画を企画する方もバカだが。


「さて。観客もいらしたことですし、そろそろマッチアップ……いえ、遊戯ゲームを始めましょうか。美琴さん?」

「無観客試合にはできないんですか?」

「ええ。バーテンダーとして、今宵はお姉様の恥ずかしがる顔を琴音さんに提供したいので」


 シャンディの眼光がきらりと輝いた。「どうぞ続けて」とばかりに、琴音はニヤケ面を晒して席を移る。要らぬお節介だ、嫌がらせにも等しい。


 壁際の特等席に座った美琴と、バーテンダーの聖域に立つチャイナ姿のシャンディが向かい合う。

 美琴にとって不利なのは、実妹が居るからだけではない。今宵のアンティッカは明るいのだ。赤面を晒そうものなら、すぐにバレてしまう。

 大きく深呼吸して、呼吸を整える。遊戯に挑む覚悟を決めた美琴は、にやけてしまいそうな口元を抑えて、最大限背伸びした。


「では今宵の遊戯は、基本に忠実に。互いに愛を囁き合うものではいかがでしょう。シャンディさん」


 シャンディは琥珀色の瞳を上弦にして、言葉を返した。


「そう言っていただけるのを待っていましたよ、美琴さん。ルールは、恥じらって言葉を詰まらせたほうの負け。こちらでいかがですか?」

「構いません。できるものならやってみてください」

「では、あたしが勝ったら同棲で。美琴さんが勝ったらルームシェアで」

「いやそれは!?」


 いきなり言葉を詰まらせてしまった。離れて座る琴音が「へえ~?」と値踏みでもするような表情を浮かべている。


「あら、もう終わりですか?」


 先制攻撃を食らわせてきたシャンディに打ち勝つため、美琴は急いで言葉を継いだ。


「いや。ずいぶん愛されているものだと思うと、感動で胸がつかえてしまいましてね。どちらが勝っても一緒に暮らすことになってしまいますから」

「ええ。あたしもミモザも美琴さんを待ちわびていますもの」


 シャンディは言葉を弄しながらも、ミモザ動画を琴音に見せる余裕ぶりだ。あいにくイヌ派の琴音には刺さらなかったが、美琴に向けられる視線は変わらない。

 「ネコに釣られたんだ?」とばかりに、ニヤけている。


「ああ、でも。美琴さんが一緒に暮らすのはイヤだと仰るならば、条件を変えてさしあげても構いませんよ?」

「一緒に暮らせばいいじゃん。家賃浮くよ?」

「外野は黙ってて!」


 これ見よがしに「お口にチャック」のジェスチャーをして、琴音は観客に戻った。


「……たしかに一緒に暮らすとなれば、いろいろと決断が必要です」


 美琴はどうにかシャンディに勝つべく、敢えて深刻そうなトーンに切り替える。


「シャンディさんの片付いた家に、私の私物を並べるのはどうも興が乗らないのですよ。あの部屋を汚さぬよう、断捨離をせねばなりません」

「ふふ、お気遣いありがとうございます。でもウチは一部屋余っていますから、気兼ねなく使ってくださいな」

「それはありがたい、のですが……まだ心配事があってですね」

「あら、何かしら?」


 どうにか琴音を意識と視界から追いやって、目の前の対戦相手を赤面させる言葉を紡ぐ。


「……私はがそこそこ激しいもので。シャンディさんが受け止めきれるか心配です。あまりに貴女を求めすぎて、壊してしまうのではと」


 これまでの遊戯では使ってこなかった最後の手段――ド下ネタに打って出て、美琴はシャンディの顔色を窺った。もちろん、シャンディを愛せるという保証も覚悟もない。完全なる背伸びだ。

 シャンディの表情はまるで変わらない。それどころかにんまりと笑っている。

 ――まずい。


「あらあら。あたしとしたことが、そんな心配をさせてしまうなんて」


 カウンターに頬杖をついて、シャンディが微笑む。チャイナゆえに、髪型は左右片方ずつのシニヨンで結わえている。白磁の輪郭を邪魔するものは何一つなく、普段と違う赤のアイラインが引かれた瞳は、中華の美を讃えている。

 まるで別の顔だ。見とれてしまう。吸い込まれてしまう。


「そういえば、具体的な愛し方まではお伝えしていませんでしたね。美琴さんを安心させる意味でも、あたしの理想の夜についてお話した方がよろしいかしら?」


 完全に、こちらの切り札を逆手に取られてしまった。

 どうにか軌道修正を試みようとするが、言葉が出てこない。


「あ、いえ……」

「言葉を詰まらせたので、あたしのターン」


 「ふふ」とイタズラに妖艶に微笑んで、シャンディは続けた。


「まず、キスをします。こんな風に」


 軽く唇が触れ合わされた。

 防戦一方になる。これまでの遊戯から覚悟した美琴は、必死に表情を取り繕った。頭の中に思い浮かべたのは柳瀬早苗だ。まるで人でもあやめてきたかのような胡乱な瞳と仏頂面を意識する。


「次に、今のように愛を囁き合うんです。愛していますよ、美琴さん?」

「ええ。私も……好きですよ」

「いけませんね、美琴さん。今は、あたしがどんな風に夜を過ごしたいか告白しているんです。あたしが指示する通り、あたしの理想を演じて戴かないと」


 そして、完全に術中にハメられたことに気づく。

 この遊戯で美琴は、シャンディの理想の夜を――シャンディが思い描く理想の美琴を演じなければならない。


「仰ってくださいな。『愛してるよ、シャンディ』と?」

「あっ……!」

「詰まりました?」


 美琴はカウンターの下で手の甲を思い切りつねった。痛みでどうにか恥ずかしさを乗り切る。


「……愛してる、シャンディ」

「ええ。愛していますよ、美琴さん」


 美琴からすれば相当に恥ずかしいことを連呼しているのに、シャンディはなおも顔色ひとつ変えない。彼女は遊戯プレイの達人だ。


「じゃあお次は……そうですね。美琴さんの頭を撫でさせてくださいな。あたし、可愛い女の子を見ると、つい撫でたくなってしまうので」

「え、ええ……それが貴女の理想なら……」


 美琴のミドルヘアを、シャンディの細い指先が伝う。押しつけるのではなく、髪の毛の束を指先で弄ぶように上から下へ。指先は何度か偶然を装い、耳に触れる。


「……気持ちいいですか、シャンディさん?」

「それはあたしのセリフです。あたしが尋ねますので、美琴さんは『にゃあお』と鳴いてくださいな」

「は、はあ!? 私はミモザじゃありませんよ!?」

「美琴さんのセリフは『にゃあお』です。気持ちいいですか、美琴さん?」


 目の前で微笑むシャンディを見てはいけない。視線を逸らそうにも、今度は琴音が視界に入る。

 美琴は誰にも見られぬ心配のない壁を向いて、指示通り鳴いた。


「にゃ、にゃあお……」

「いーえ。あたしの方を向いてくださいな? かわいい子ネコちゃん?」

「……にゃあお」

「ふふ。聞こえませんねえ?」

「にゃ! あ! お!」

「あはは、姉ちゃん顔真っ赤!」

「うるさい!」

「さて、お次は……」

「す、ストップ! 今宵は私の負けでいいですから!」


 耐えられなかった。美琴は白旗を揚げた。

 アンティッカは明るく、さらには琴音も居る。しかも奇を衒おうとぶつけた下ネタを逆手に取られ、完全に手玉に取られている。


「だーめ。まだお顔の赤みが足りません。美琴さん、覚えていますか? 以前作った《ミコト》のレシピ」

「それは、はい……。たしかウォッカベースで、グレナデンとライム。あとは飾り付けのさくらんぼで……」


 《ミコト》は、見た目だけならカクテルの女王、《マンハッタン》にそっくりのカクテル。琥珀色のグラスの中に、真っ赤なシロップ漬けのさくらんぼ――マラスキーノ・チェリーを沈めるもの。

 アレンジ元の《ビューティフル・スター》では赤ではなく、緑に着色したミント・チェリーを使うものだ。


「ふふ。あたしが《ミコト》に真っ赤なチェリーを使ったのは、遊戯で真っ赤に染まった美琴さんの顔色をイメージしたからなんですよ? 気づいてました?」

「う、あ……」

「ですから、今のほんのりピンクでは《ミコト》らしくありません。マラスキーノ・チェリーくらい真っ赤にしてさしあげないと」


 どうしようもないくらい、今宵のシャンディは攻めに徹していた。完璧に美琴を羞恥で打ちのめそうとしてくる。死体蹴りにも等しい圧倒的な思わせぶりの暴力だ。


「か、勘弁してください……」

「どうしようかしら? だって、遊戯のテーマに夜を選んだのは美琴さんですよ? あたしはとうとう覚悟ができたものだとばかり」

「いえ、私はあくまで……」

「覚悟もできていないのに、えっちな話をしてはいけませんよ?」


 シャンディにちくりと釘を刺され、美琴は夜をテーマにしたことを密やかに反省した。


「すみません……」

「じゃあ、最後にひとつ。あたしの理想を叶えてくれたら許してさしあげます」

「なん、でしょう……」


 シャンディの表情など、日の目を見るより明らかだった。

 心から美琴を弄んで愉しんでいる、小悪魔めいた笑みだった。


「『子ネコの私を可愛がって?』って仰ってくださいな」


 美琴は思わず手のひらで顔を覆った。が、すぐさまシャンディの手がそれをはがしにかかる。カウンターで、同じ目線で。美琴とシャンディは見つめ合う。


「さあどうぞ。あたしの理想通り仰っていただければ、同棲の件は美琴さんにご判断を委ねますから」

「それは、本当ですか……?」

「ええ。暮らしたいのは山々ですけれど、美琴さんにもご都合があります。あたしはそこまで、他人の都合を顧みない人間じゃありませんもの」

「お気遣い恐れ入ります……」


 同棲とルームシェアの件は、ひとまず遊戯の賞品ではなくなった。それが喜ぶべきか悲しむべきか美琴には分からないが、ひとまず。

 言わなければ終わらない。賞品はなくなって、すでに勝敗も決しているが、遊戯は遊戯。


「こ……」

「ひと息で」

「こねこ、の……」

「もう一度」

「子ネコの私を……」

「だーめ」


 一気に空気を吸い込んで、美琴は何もかもをかなぐり捨てて叫んだ。


「子ネコの私を可愛がって!」

「はい。今宵もあたしの勝ちです」


 短い勝利宣言に文句を差し挟む余地もなく、美琴はカウンターに突っ伏した。言うまでもなく、美琴の顔はマラスキーノ・チェリーもかくやという程に染まっていた。


「やー、ごっつぁんです! そして姉ちゃんザッコ!」

「うるさい!」


 琴音が隣席に戻ってくる。美琴は絶対に顔色を窺わせないとばかりに両腕で伏せた頭とカウンターの隙間を覆った。


「さて。恥ずかしいお顔は、お酒でお化粧しましょうか。本日の二杯目は、アメリカ帰りの琴音さんに捧げる《マンハッタン》。真っ赤なマラスキーノ・チェリーと一緒に召し上がれ」


 饗された《マンハッタン》――すなわち《ミコト》そっくりの色合いと真っ赤なさくらんぼに、美琴はカウンターに額をバンバンと打ち付けた。


「もうしばらく……マラスキーノ・チェリーは見たくない……」

「ふふ」


 ――本日の恋愛遊戯、美琴の完敗。


 *


 六本木はずれのアンティッカを後にして、黒須琴音はタクシーで横浜の自宅へ帰宅した。

 注文したが届くからだ。

 こんな買い物をしてしまったのは、すべて姉とシャンディが悪い。琴音の存在など構わず愛を囁き合う二人を見せられてしまえば、うらやましくて嫉妬もする。


 それでも、自身の立場がそうさせない。

 琴音は衆人環視の中で生活を強いられる芸能人だ。愛欲や性欲が明るみに出れば、地道に積み上げてきた人気は地に落ちる。であればこの煩悶は、どうやって鎮めればいいのか。


「……最悪だけど、仕方ないじゃん」


 23歳の女性ひとり暮らしにしては広すぎる部屋。ソファに深く座って遙か彼方へ意識を飛ばしていた琴音を、ドアベルの電子音が現実に引き戻す。


『《アロマティック》のりんです。高橋様のご自宅ですか?』

「はい。開けます」


 ドアホンに映った商品を一瞥し、解錠ボタンを押した。セキュリティの行き届いた高級マンションの自動ドアを、長く柔らかな黒髪の女性がくぐる。

 ややあって、自宅のベルが鳴った。身バレを避けてマスクやメガネで変装する気にもなれず、琴音は着の身着のままやってきた商品を迎え入れた。


「こんばんは。アロマティ――」


 商品――派遣型の風俗嬢・りんは、琴音と視線を合わせた途端固まった。

 名前が売れ始めて増えてきたことだ。琴音の顔は、広く知れ渡りつつある。ドラマや映画、CMで姿をさらせばさらすほど、プライベートが消失していく。


「お電話した高橋です。入って」

「お、お邪魔します。あ、お店に連絡しますね」


 りんは短く電話を入れ、キッチンタイマーを120分にセットした。事務的な確認と金銭の受け渡しを終えて、琴音はりんに告げる。


「……ごめん、美琴って姉の名前なんだよね。誰か呼ぶとき勝手に使ってる。バレちゃった時、『私じゃなくて姉ちゃんです』って言えるからさ。へへ」


 りんの反応を見れば、偽名を使い続けるのはバカらしかった。彼女には正体がバレているのだ。そう思うと、隠し通しておくことが照れくさくなってくる。


「ということは、本物ですか? 私、ファンなんです!」

「そ、黒須琴音です。ごめんね、ユメ壊しちゃって。推しは抱けないとかだったら帰ってもらっていいから。お金も返さなくていいし」

「いえ、その……大丈夫です。琴音さんではなく、ご連絡いただいたさんとして、お相手させてもらいますね」

「プロ意識だね、カッコいいよ。そういうの。あと敬語やめて?」

「あ、ありがとう。でも……」


 りんは言い淀み、言葉を継いだ。


「……お店、今日で辞めるの。だから貴女が最後のお客さん」

「あー、クソ客にストーカーされてる? りんちゃんみたいな可愛いタチって珍しそうだし」


 琴音が読んだプロフィールには、しっかりと書かれていた。

 りん(27歳):タチ(リバ)。

 すなわち、やろうと思えばどちらでもやれるということ。


「ううん、その。……本気で、好きな人ができたの。なのにこんな仕事してたら、騙して裏切ってるみたいで良くないから」


 冷や水を浴びせられたような気分だ。これから抱くか抱かれる相手に、想い人の話をされるとは思わなかった琴音は聞くんじゃなかったと後悔する。

 琴音の心境を悟ってか、りんがフォローを入れた。


「ごめんなさい! これからなのに、冷めちゃったよね」

「いいよ、ワリキリだし。じゃあさ。私を好きな人だと思って、頼める?」

「え……?」

「リバだから、私。好きな人はタチ? ネコ? そっちに合わせるよ」

「じゃあ――琴音、じゃなくて……美琴。動かないで」

「うん」


 告げて、琴音はりんに抱きしめられた。

 琴音よりやや背の低いりんの柔らかな体から、ほのかな香水の匂いがする。独特な香りの正体は琴音にも覚えがある。マッサージの際によく使用されるアロマオイルの香り。


「……《イランイラン》?」

「最後のお仕事だし、落ち着きたい気分だったから」

「落ち着けないでしょ、そのアロマ。ムード高める時使うヤツだし」

「嫌い?」

「んー。まあまあ?」


 告げて、唇を触れ合わせる。割り切った関係だと分かっているから、大した会話は必要なかった。

 琴音にとっては、どうしようもない欲求を一時でも発散させることができればそれでいい。

 相手に想い人が居ようと構わない。

 今だけは自分を愛してくれればそれでいい。


「重ねてくれていいよ、りんちゃんの好きな人の面影」

「じゃあ、凛子って呼んで。本名だから」

「凛子の好きな人の名前は?」

「……内緒」


 琴音とりん――否、美琴と凛子は唇を交わした。

 割り切った夜は、静かな熱を持って更けていった。

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