quiet talk #4 : Mimosa

「んー! 今日は一日よく働きました。褒めてくださいます、美琴さん?」

「ええ、よく頑張りました。こんな夜もあるんですね」


 ここは六本木はずれ、時には客が押し寄せるガールズバー《antiqua》。

 休日前だからとオールした美琴は、珍しく盛況なアンティッカの様子に舌を巻いていた。昨夜の駆け引きの直後から客足は途絶えることなく、最後まで残っていたカップルの精算が終わったのが閉店五分前である。

 3月14日、土曜日。時刻は朝6時の閉店時間を過ぎていた。


「月に二度くらいあるんですよ、常連さんとご新規さんがたまたま重なっちゃうこと。特に今日なんて週末ですから」

「ありがたい限りじゃないですか」

「でも、美琴さんは寂しかったりしません? あたしを口説けなくて」

「好きなお店が繁盛するのは嬉しいことですよ」


 美琴はさらりと告げたが、もちろん、嬉しい以外の感情がない訳ではない。なんだかんだ独り占めしているシャンディが、他の客と談笑していると――それが仕事だから当然だとは言えども――思うところはある。それに今宵は遊戯ゲームがなかった。


「素直に寂しいって言えばいいのに」


 そんな本心を読み取って「ふふ」と息を漏らし、シャンディは洗い物を終えた。

 ひっつめた髪を下ろし、普段着に着替えた彼女はオフの装いだ。満月のような瞳の輪郭たる瞼もとろりと垂れて、寝待月くらいに欠けている。


「さて、と。今日も忙しくなりそうです」

「14日はコスプレデーでしたね。以前買ったチャイナですか」

「ええ。ただ、今宵の営業でいろいろと切らしてしまいましてね。買い出しにも行かなくちゃなりません。ミモザのご飯もそろそろ足りない頃ですし」

「ミモザ……!」


 《ミモザ》。

 シャンパンとオレンジジュースを一対一で合わせたカクテル――の名を冠したシャンディ唯一の家族。二歳ちょっとのロシアンブルーで、アッシュグレーの毛並みとシャンディに似た琥珀色の瞳が美しくきらめいている。

 シャンディが撮影した写真を見せてもらった美琴は、あっという間にミモザへの恋に堕ちた。それこそシャンディとの恋愛遊戯など比較にならないほどの圧倒的完敗である。


「ふふ。最新のミモザ情報、見たいですか? それも動画で」

「お願いします!」

「なら、猫語でお願いしましょうか? 『見たいですにゃ』と仰って――」

「見たいですにゃ!」

「プライドゼロですねー」


 呆れたとばかりに苦笑して、シャンディは動画を再生する。二人の顔と顔が触れ合うも、美琴の意識はミモザの愛らしい姿に向けられていた。


 ミモザの姿は、写真より一回り大きくなっていた。成猫になってからの姿なのだろう、瞳は琥珀色から美しい翠玉色に変わっている。元々ロシア王家に飼われていたという由来通り、気品と威厳を放ちながら我が物顔でフローリングを歩いている。

『ふふ、今日もミモザは女王様ですねー?』

 スマホ片手に撮影していたであろうシャンディの声が聞こえた。いつもより若干声が高いのはネコ好きの証。にゃんこ様の前では皆こうなるものだ。

『いったー!?』

 珍しい、シャンディの悲鳴だ。それもそのはず。ミモザを撫でようと伸ばした指先が、かぷりと噛まれていた。

 動画はここで終わっていた。


「はあ、ミモザかわいい! ……けど、ゴキゲン斜めだったようですね」

「この子はいつもこんな調子ですよ。全然あたしに懐いてくれなくって」

「飼い主に似ると言いますからね」

「ええ。あたしも好きな人には噛みつきたくなりますものね」


 告げたシャンディに耳を甘噛みされた。歯の感触と、生暖かい吐息が吹きかけられる。

 ミモザに気を取られ、ここへ来てようやくシャンディが間近に迫っていることに気づいた美琴は、必死に平静を装う。


「おーよちよち」


 そして負けてなるものかと、シャンディの顎の下をネコをあやすようにくすぐった。琥珀色の瞳は、気持ちよさそうに閉じられる。死ぬほど恥ずかしいが、これくらいできないとシャンディには釣り合わない。


「ふふ。にゃおーう」

「可愛いネコね、シャンディは」

「ネコなのはどちらでしょうね?」

「うん……? それはどういう……?」

「子どもにはまだ早いお話ですよ」


 微笑んで、シャンディはアンティッカの証明を落とした。

 退店時刻だ。LEDライトで照らされた店内を手を引かれ、扉の向こう、早朝の六本木の空気を吸い込んだ。

 ビルの狭間から差し込む太陽がまぶしい。


「あ、そうです。美琴さん、これからお時間ありますか?」


 オールで体は鈍っていたし、眠気もあった。だが、仮にも昨晩告白しかけた相手からのせっかくのお誘いだ。断る選択肢は美琴の中にはない。


「休日ですからね。先ほど仰っていた買い出しのお手伝いですか?」

「ええ。それと……そうですね。ミモザに会いたくありません?」

「会いたいですにゃ!」


 ミモザに会うことは、想い人たるシャンディの家に行くということ。それがどういうことか理解していなかった訳ではないが、ミモザの前には判断も緩むばかりだ。

 シャンディは口元に指先を当てて苦笑した。


「ネコに釣られて誘い込まれるようでは、まだまだですね」


 *


 シャンディの住まう街、経堂。

 早朝からの買い出しは思ったよりもスムーズだった。シャンディが切らしたというカクテルの材料は、24時間営業のディスカウントストアにほぼ一式揃っていたからだ。

 シャンディがカートに入れた、ロンドンの町並みがプリントされたジンの瓶を見ながら美琴はつぶやく。


「業務用を使う訳ではないんですね」

「業者と小売店で容量に差はありますが、中身自体は同じですから。有名ホテルのオーセンティックバーでも、市販と同じものを使っているんです。例えばアンティッカの《マティーニ》は帝国ホテルと同じレシピなんですよ」


 曰く、ドライ・ジンとドライ・ベルモットの比率は5:1。それを基本に1ミリリットル単位でわずかに比を変えている。溶け出した氷で酒を加水し風味を変えるため、温度・湿度に応じて調整する必要があるらしいが、専門的過ぎて美琴にはよく分からなかった。


「要するに、バーテンダーの腕次第でカクテルは千変万化すると思ってくださいな」

「カクテルは繊細、ということですか……」

「ええ。女性だと思って機嫌を損ねないようにしなさいと、飯森さんに教わりましたね。あたしは『それは貴方が不器用なだけでしょう』と言ってやりましたけれど」

「シャンディさんらしいですね」


 修業時代のシャンディは、やはり今と何も変わらない減らず口を叩いていたらしい。

 バーテンダーとしてのこだわりやプライド、そして彼女の過去。

 謎がひとつ、またひとつと明らかになる。その瞬間が美琴には嬉しかった。


「あとはミモザ。あの子はあたしに似て、筋金入りの偏食家ですから」


 告げてシャンディは、ネコ缶コーナーで一番高い商品をカートに放り込んでいく。


「そして、困ったときの最後の手段」

「ネコ好きの必須アイテムですね」


 どんなネコでも虜にすると噂のチャオチュール。シャンディとミモザの仲を考えれば、必須アイテムなのだろう。

 それらを買い込んで、美琴とシャンディは一路マンションへ向かう。


 経堂駅近くの中層階、オートロック式。302号室。

 表札には当然、何も書かれていなかった。


「あたしの本名を詮索しようとしても無駄ですよ」

「でしょうね。シャンディさんは徹底していますから」

「よくご存じで。さあ、どうぞ。お入りくださいな」


 ドアが開いた。

 シャンディ宅は、まるでモデルルームのようだった。生活感が感じられないくらいに片付けられている。片付けてはいるがモノが多い美琴のワンルームとは大違いだ。

 部屋は、ひとり暮らしにしては広い。ルームシェアを薦めてくる理由も頷ける2LDK。曰く、ペット可で駅から近い物件がここしかなかったらしい。

 シャンディの謎を暴けるようなものはないか。目を皿にして部屋を探っていた美琴は、目的の女王様を見つけてそれどころではなくなった。


「うわあミモザ! あの子がミモザですよねシャンディさん!?」

「ホント、ネコの前だと性格変わりますね、美琴さんって」


 苦笑しつつも、シャンディはミモザに呼びかける。ミモザは一瞬振り向き、美琴を見て目を開いたが、興味なさそうにぷいっとそっぽを向く。


「シャンディさんそっくりですね?」

「あたしはもう少し愛想いいですよ」


 告げて、シャンディもそっぽを向いた。やはり飼い主に似るものなのだろう。


「ミモザ~?」


 普段よりいくぶん高い声で、美琴が呼びかける。視線をネコ並に下ろしてしばらく続けると、ミモザは美琴を見て「にゃおう」と鳴いてみせた。


「今、私の声に答えたよ!?」

「はいはい。遊んであげてくださいな」


 呆れ気味に買ってきたものを片付け始めたシャンディを気にせず、美琴はミモザの名を呼ぶ。身をかがめ、少しずつにじり寄るようにミモザに近づいていく。


「ミモザ~? 私は美琴って言うんだよ~? 覚えられるかな~?」

「にゃおう」


 シャンディの撮った動画では、近づかれた途端、見事に噛みつかれていた。飼い主に似て気位の高いミモザ相手なら仕方がないことだ。

 だが。

 どうしても。

 ネコが好きならば。


 ――かわいいにゃんこを撫で回したい!


 恐る恐る伸ばした手は見事、ミモザの両耳の間に着地した。


「触れた! 触らせてくれましたよシャンディさん!」


 シャンディの返事はないが気にならなかった。

 そのままミモザの両耳から後頭部をわしわしと撫でる。ロシアンブルー特有の、アッシュブルーの毛皮。絹糸のような手触りを味わいながら、やさしく。


「おーよちよち。おりこうでちゅね~」


 するとミモザは気持ちよさそうに瞳を閉じた。口角も柔らかく上がっている。そのまま近づき、今度はもう片方の手でネコのだいしゅきスポット、背中と尻尾の付け根に手を伸ばす。噛まれるかと身構えたが、ミモザは完全に美琴を受け容れていた。

 「にゃおう」と切なそうに鳴くと、もっと撫でてとばかりに体を美琴に寄せてくる。


「はわー!!!」


 美琴自身、どこから声を出したのか分からないような声が出た。

 その時だ。美琴の背後で、モノが床に落ちる音がした。


「ミモザをそこまで懐かせるなんて……!」


 琥珀色の瞳をミモザ以上に見開いて、シャンディが驚愕の表情を浮かべていた。美琴の隣に駆け寄って腰を下ろし、ミモザが蕩けている様子をスマホで撮影している。珍しくシャンディは必死だ。


「どうやったんですか、美琴さん!?」

「別に普通ですけど。ねー、ミモザ?」

「なあお」

「こんな鳴き声聞いたことありません……! み、美琴さん! 代わってください」

「ええ、どうぞ」


 名残惜しいが、ミモザのだいしゅきスポットをシャンディに譲った。恐る恐るシャンディが手を伸ばす。

 が、ミモザはシャンディの指先が迫ったと分かった途端、短く「シャー!」と吠えてネコパンチを食らわせ、キャットタワーに駆け上った。


「どうして美琴さんは良くてあたしはダメなんですか!?」

「飼い主に似たということなんでしょうねえ」

「ぶー」


 シャンディは唇をすぼませて抗議の声を上げた。美琴同様ネコ好きのシャンディも、ネコの前では性格が変わってしまうらしい。

 美琴はふと、昨晩は遊戯をしていないことを思い出した。そして悪いことを閃く。


「シャンディさん、昨晩の遊戯を今ここでしませんか?」

「何をなさるおつもりです?」

「ルールはシンプルに、私とシャンディさんで同時に呼びかけて、ミモザが寄ってきた方の勝ち」


 シャンディはミモザもかくやの勢いで瞳をぎらつかせた。


「……構いませんよ。飼い主に挑もうなんて思ったこと、後悔させてさしあげます」

「ええ、後悔させてください。では、始めますよ」


 かくして、ミモザを審判とした遊戯が始まった。


 二人並んで、ミモザを呼ぶ。甘く囁くような美琴と、少しひりつく声のシャンディ。土曜の朝から何をやっているのかと思ったが、それはそれだ。

 二人の様子をキャットタワーのてっぺんから見下ろしていたミモザは「にゃおう」と鳴いて、フローリングの上をゆっくりと歩いてくる。

 相手は女王様だ。この2LDK、302号室の中で自分がいちばん偉いと思っている。そんな彼女を振り向かせるには、高圧的な上から目線ではいけない。ひたすら下手に出る。女王様を気持ちよくさせる家来か道化であるように振る舞うのだ。

 そうすれば女王様は応えてくれる。


「よちよちー。ミモザはかわいいでちゅね~!」

「そんな、ミモザ……!」


 女王様ミモザが選んだのは、美琴の手だった。美琴はそのままミモザを撫で回し、とうとうお腹を見せるまでに懐柔させた。


「おやおや、私の勝ちみたいですね? どうやら飼い主に似て、ミモザも私が大好きなようですから」

「ぐぬ」


 シャンディは赤らめた頬を、ぷうっと膨らませた。怒っているし、すねている。普段は白のジャケットで覆い隠している、子どもじみた一面だ。


「……今のは偶然です。もう一回やりましょう」

「もう決着はついたと思いますけど?」

「いーえ。そもそもミモザはネコですもの。公正を期すために三番勝負とすべきではありません?」

「何度やっても同じだと思いますがね」

「……言いましたね?」


 シャンディはぎろりと下弦の瞳を作ると、買い物袋を漁って美琴の隣へとって返した。

 手に握られているのはネコ好き必須アイテム。どんなネコでも虜にすると噂のおやつ、チャオチュール。


「あたしは秘密兵器を使います」

「さすがにそれはズルくないですか?」

「道具を使っちゃダメとは言っていませんよね? それにチュールはあたしが買ったもの。つまりあたしの体の一部も同じ」

「そこまでして勝ちたいんですか……」

「あたしが負けず嫌いであることはご承知のはず。いいから、第二戦です」


 告げてチュールの封を切り、美琴とシャンディはミモザから離れた場所に移動した。そして再び、ミモザの名を呼ぶ。


「にゃおーう」


 さすがにまるで懐かないミモザも、チュールの匂いに鼻をひくつかせていた。呼ばれるままに、気品を漂わせながら女王様が一歩一歩しなやかに歩いてくる。

 美琴はふと、隣のシャンディの横顔を見た。


「ミモザ~? チュールですよ? 美味しいですよ~?」


 必死でミモザの名を呼ぶ彼女は、今まで見てきたものとはまるで違う、また別の一面だ。見とれてしまうほどに、可愛らしい。よりいっそう、シャンディのことが愛しくなる。

 それでも、勝負には負けられない。


「ほら、ミモザ? なでなでしてあげまちょーねー?」


 二人してそれぞれ別の方法で名を呼ばれ、ミモザは一瞬足を止めた。そして二人の顔を一瞥し、ミモザが今望んでいる方に歩みを進める。

 勝者は――


「どうしてですかー!?」


 ――美琴だった。

 悲鳴にも似たシャンディの落胆が部屋に響く一方、ミモザはカーペットの上で、気持ちよさそうに美琴の愛撫を受け容れている。立て膝をついていた美琴が正座を崩した姿勢で座ると、今度は足の上に乗ってきた。

 ミモザは完堕ちした。


「これで勝敗は決しましたね?」

「…………」


 誇らしげに微笑む美琴を、シャンディが下弦の瞳でにらみつけていた。


「では、今回の遊戯は私の勝ちということで」

「……分かりましたよ、あたしの負けです。じゃあ、遊戯の賞品は――」


 言いかけて、シャンディは突如ニヤリと微笑んだ。敗者にあるまじき余裕をたたえて、「ふふ」と勝ち気に笑っている。

 なぜだか嫌な予感がした。


「――賞品は、こちらです。返品不可。受け取ってくださいな、美琴さん?」


 金属のひやりとした質感が美琴に手渡された。白く細い指先の覆いが取れると、美琴の手のひらの上にあったのは。

 鍵だ。


「え、これ……」

「合鍵です」

「それは見れば分かりますが!」


 シャンディは途端、勝ち誇ったような妖艶な笑みを覗かせた。


「だって、他に最適なものがないんですもの。ミモザをプレゼントする訳にはいきませんし。となるとあたしが差し出すべきは、ミモザを好きな時に可愛がれる権利くらいしかありませんよね?」

「だからと言って気軽に差し出していいものでは――」


 シャンディに唇を塞がれる。有無を言わせぬつもりらしい。


「……あたしもミモザも、美琴さんと暮らしたいってことですよ」

「く、あ……!」

「ふふ。まあ、合鍵の意味をどう受け取るかは、美琴さんにお任せしますね? ルームシェアでも、同棲でも。はたまたミモザのお世話係でも」


 美琴は気づいた。遊戯に勝って、勝負に負けたことに。

 初めからシャンディとミモザが結託して、美琴に合鍵を渡そうとしていたのかもしれないということに。


「本当にそっくりですよ、シャンディさんとミモザは……」

「ふふ、とってもいい子でしょう? チュールの誘惑に負けずよく頑張りましたね。はい、ミモザ。よしよし――いったー!?」


 シャンディが伸ばした指先は、やはりかぷりと噛まれていた。

 どうやら結託はしていないようだった。

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