#27 : Devil
「黒須、資料は持った? 忘れ物はない? いつも使ってるブランケットは? マグカップは?」
「心配しすぎ。お母さんかアンタは」
日比谷への初出社を控えた3月、13日の金曜日。社命の週イチ出向を快諾した美琴は、必要な資料をまとめるため明治文具オフィスに立ち寄っていた。
「心配するに決まってんでしょ? アンタが日比谷でヘマしたら、ウチなんて簡単に潰れるんだから! でしょ、白井!」
「青海さん、専務がいる前でそれは……」
出向はプロジェクトの面々にも伝わっていた。初出社を控えた美琴の元に集まったのは、メンバーの青海椎菜と白井凛子、そして専務だ。
美琴が失敗する前提で気を揉んでいる椎菜とは対照的に、専務は「あはは」とあっけらかんと笑っている。
「黒須さん、今日はすごくオトナっぽいね。格好よくて似合ってる!」
「ありがとう、白井さん。私服勤務だと思うと気が抜けなくてね」
明治文具での服装は、基本的には作業服だ。どうせ着替えるからと私服に手を抜いている美琴だったが、私服勤務となると話は別。目立ちすぎず地味すぎない絶妙な塩梅を攻めるのは悩ましい。
たどり着いた結論は、トレンチにカットソー、パンツを合わせた簡素なもの。それも、たまたま買ったファッション誌に自分とよく似たモデル――黒須琴音――が載っていたので、そっくりパクったという方が正しい。
もっててよかった、女優の妹だ。
「黒須、餞別よ。ツボ押しと青竹踏み!」
「ああ、そうだ。ぼくからも菓子折があるよ。先方さんに配ってね」
椎菜と専務から紙袋を押しつけられた。専務の菓子折はともかく、椎菜の餞別はほとんど嫌がらせに近い。青竹が紙袋から飛び出している。
「ツボ押しに青竹って。おっさんか私は……」
「いいからおすそわけ! めっちゃ効くから!」
「はいはい……」
閉口しつつも一応受け取って、美琴はオフィスを後にした。仕事で使う一式を私物のキャリーケースに詰め込んでタクシーを待っていたところで、社屋から凛子が駆け寄ってくる。手には小瓶が握られていた。
「黒須さんっ。私からも、ちょっとおすそわけ……というか、おまじない。手を出して?」
「こう?」
凛子に手を取られ、手首に小瓶の中身――香水が吹きかけられた。数秒して、香りが美琴の鼻をくすぐる。
「これは何? ミカンみたいだけど……」
「《オレンジ・スイート》と《ネロリ》のミックス」
オレンジ。
それはシャンディは好んで身にまとうが、凛子は嫌っている香りだ。ネロリも、オレンジの花から採れる精油成分。いずれも凛子が持っているはずのないもの。
「オレンジは嫌いなんじゃなかった?」
「嫌いだけど……。それ以上にイヤな予感がしたから」
美琴の両手首をこすり合わせて香りを定着させると、凛子は重々しく口を開いた。
「……今の私じゃこれ以上は守れない。だからせめて、嫌いなオレンジの力も借りたいと思って」
「ただの仕事だよ?」
「これコロンだから、イヤなら洗い落としてね? 石けんで洗えば落ちるし、放っておいても夕方には消えてるから」
凛子が言い終わった直後、やってきたタクシーが美琴の前に滑り込んだ。後部座席に座って行き先を告げると、眉をハの字にして手を振る凛子と目が合う。
「……気をつけてね、黒須さん」
「考えすぎだと思うけど。行ってきます」
*
緊張していた。日比谷本社にたどり着いた美琴を待っていたのは、総務の猟犬こと柳瀬早苗と、その部下・飯田だった。
「日比谷へようこそ、黒須さん」
「ええ、お世話になり――」
「すみません。これから会議がありますので、飯田くんの案内に従ってください。日比谷の就業規則は会議後にお伝えします」
言い置いて、早苗は足早にエレベーターホールへ消えた。総務の猟犬は忙しいらしい。
飯田に案内され、美琴は総務部内の来客用スペースに通された。飲料用のウォーターサーバー、コンセント、化粧室の場所などなど、手の行き届いた説明をしてのける新入社員・飯田の所作は、早苗による調教――否、躾の賜物なのだろう。早苗の下で働くと苦労しそうだ。
彼女が現れたのは、そんなどうでもいいことに思いをはせている時のことだった。
「あぁ~! 貴女が黒須美琴さん? 初めましてぇ」
垂れ目がちで、はっきりした涙袋の女性。濃いめのメイクで最も目を引くのは、腫れぼったい真っ赤なリップ。若干派手ぎみの衣服は、彼女の見事なプロポーションを覆い隠すどころか逆に強調さえしている。
妖艶なオトナの女だ。即座に美琴はアンティッカで見せる自身を演出した。対等な存在として、引けを取らないために。
「初めまして。明治文具、黒須美琴と申します」
「ご丁寧にどうもぉ。あたしは秘書課の、赤澤来瞳って言いますぅ~。ふふっ、前評判通りにキレイな人ですねぇ~?」
「そちらもお綺麗ですよ」
「あらぁ。ありがとう~。さっそくだけどぉ、お友達になってくれるかしらぁ? あたしぃ? 社内に友達いなくてさみしいのよねぇ~?」
ひどく鼻にかかった言葉が、美琴の心をざわつかせていた。
彼女は――赤澤来瞳はシャンディ同様、真意が読めない。唯一感じられるのは、向けられている感情がシャンディとはまるで違うという点。
ひどく、寒気がする。
「……申し訳ありません。ありがたいご提案ですが、私は仕事とプライベートの人間関係は明確に区別しているものでして。プライベートで出会えていれば、無二の親友になれたかもしれませんね。残念です」
「ならぁ? プライベートな関係になっちゃえばいいだけよねぇ?」
「ですから――」
突然の事態に、美琴の思考は止まった。
来瞳に、唇を奪われた。来客スペースは死角だ。オフィス内の誰も見ていない。だからこそ、誰にとがめられることもない。舌を侵入させようとしてくるのを必死に押し留めることが、美琴に取ることのできた防衛策だった。
「はぁい。これでお友達ぃ」
「……どういうおつもりですか」
「あらぁ? 聞こえないわねぇ? もう一回、大きな声で言ってくれなぁい? 部内みーんなに聞こえるように」
「ですから……!」
手首につけたオレンジの香水が香った。瞬間、二人の女性が脳裏をよぎり、美琴は幾分落ち着きを取り戻す。
ここは日比谷社内だ。
事を荒立てるようなことがあれば、明治文具の看板に傷をつけてしまう。
静かに怒気を抑えるべく、手首を鼻先に近づけた。
「熱烈な歓迎、ありがとうございます。これが日比谷流の挨拶だというのでしたら謹んでお受けいたしますよ。赤澤さん」
「ふぅ~ん? 案外しっかりしてんのねぇ?」
来瞳は感情の読めないにやつきを浮かべる。強烈な嫌悪感が美琴の心で渦を巻いた。
「悪いけど、あたしも仕事なのよねぇ? だからぁ、一生懸命がんばってぇ――」
背筋を凍り付かせるほどの――まるで悪魔のような笑顔を見せて、来瞳は告げた。
「――貴女のこと、いじめてあげるからねぇ?」
悪魔は去った。入れ替わりに、怒りと言い返せなかった悔しさに震えていた美琴の元に早苗が現れる。
「先ほど秘書課の赤澤とすれ違いましたが、お知り合いですか?」
「…………」
「……黒須さん、私でよければ相談に乗ります。社内の調整を行うのが、私の仕事ですので」
*
「……申し訳ありません。一度ならず二度までも、弊社の社員がご迷惑をおかけしてしまいました」
「いえ、早苗さんが謝ることではありませんから」
「あたしは謝ってほしいんですけどねー? 人のお店を勝手に密会に使うだなんて」
六本木はずれ。密会にはうってつけのガールズバー《antiqua》。
今宵はバーテンダーのシャンディと美琴にくわえ、美琴の連れてきた早苗の三名のみだった。
「すみません、ここなら邪魔も入らないと思いまして」
「それ、アンティッカに対する当てつけです? 確かに普段は開店休業状態ですけれど」
シャンディは唇をすぼませてブー垂れた。彼女が不機嫌な理由は他にもある。
「しかも、《エックス・ワイ・ジー》をお出ししたい方までお連れになるだなんて」
「お酒は結構です。一滴も飲めませんので」
「頼まれたって出しませんよー」
「べー」と小さく舌を出し、シャンディは早苗からそっぽを向いた。
相当、早苗のことを根に持っているらしい。マーベリックでの出来事とその後の顛末を思うと、なんとなく納得する。
そう口では言いつつも饗したチェイサーを一口含んで、早苗は重い口を開いた。
「……秘書課が相手となると、私も手が出しにくいんです。あの部署は上といろいろな意味で繋がっている部署でして」
「いろいろな意味?」
「赤澤とかいう女は、上層部とカラダの関係にあるってところですよ? 違います?」
「ええ、おそらくは……」
シャンディの琥珀色の瞳は下弦だ。怒りを露わにするシャンディと、そして珍しく早苗も語調が弱い。ハッキリ言う早苗にしては、歯に物が挟まったような物言いだ。
「美琴さん? 前回は助けてもらえたでしょうけど、今回その人は使い物になりませんよ。猟犬なんて言ったって、所詮は首輪のついたワンちゃんです。ヘタに嗅ぎ回って保健所送りにはなりたくないでしょうから」
「違います。あくまで私は、秘書課を追い詰めるには根回しが不足しているからだと――」
「できないなら同じコトじゃありませんか。早苗ちゃん?」
「…………」
早苗を黙らせてようやく溜飲を下げたのか、シャンディは小さくため息をついた。
「美琴さん。あたし今から美琴さんにキスしようと思います。構いません?」
「確認が必要なことですか?」
「大切なことです。なんたって貴女は酷い目に遭ったんです。トラウマにでもなってしまったら、二度とできなくなってしまう。それに」
顔を近づけて、シャンディは告げる。
いつもの笑みではない。瞳を見開き、満月を浮かべる真剣な表情だった。
「薄汚い女と同じだなんて、貴女に思われたくありません」
これがシャンディなりの気遣いであることは、美琴には分かった。
「シャンディさんと彼女は違います」
「じゃあ、失礼しますね」
「いえあの、早苗さんが見て――」
告げて、シャンディは唇めがけ飛び込んできた。普段よりも強く押し当てられた唇の隙間を、舌が這う。早苗が隣で見ていることなど構うことなく、美琴の唇を丹念に舐め取るように、時間をかけた長いキス。
息を継ぎながらしばらく続けてようやく満足したのか、シャンディは唇を離した。
「……消毒完了です。まったく、普段のキスより全然気持ちよくありませんよ。貴女のせいですからね、早苗ちゃん」
「私も貴女同様憤っています。自身の不甲斐なさに」
早苗は小さな背を丸めてテーブルに顔を伏せた。覇気を放っている普段の彼女とはほど遠い姿に、美琴は自身の置かれた状況を再認識する。
――あの早苗でも歯が立たない秘書課の赤澤に、ケンカを売られた。
週イチの出向とは言え、日比谷で仕事をする間は危険と隣り合わせ。
「と、とにかく……私は大丈夫。突然キスされてケンカ売られて嫌な気持ちにはなったけど、今は平気だし、負ける気はないから」
「素に戻っていますよ、美琴さん。まあ、背伸びしてない本心で言っているのだとは思いますけれど。ご無理はなさらないでくださいね」
「え、ええ。分かっています! 私だって成長してます!」
「そういうことは、ロクでもない女に唇を奪われなくなってから仰ってくださいな。あたしの想い人は、ただでさえ隙の多い方ですから」
「はい……」
釘を刺されつつも、美琴は確信した。
赤澤来瞳は間違いなく美琴を、そして明治文具を潰そうとしている。あの場でキスという暴挙に出たのは、美琴を吊し上げるつもりだったのだろう。
あの場面で表立った行動に出ていれば、「突然キスされた!」と来瞳に騒ぎ立てられてしまっていたかもしれない。
「それにしても、黒須さんはよく耐えられましたね。赤澤来瞳を前にした人間の反応は、鼻の下を伸ばすか拳を見舞いたくなるかの二択しかありません」
早苗が出した顔写真にシャンディが見入っていた。
美琴も彼女を目にした時は、その美貌に驚いたものだ。鼻にかかった声や初手から暴挙に及ぶようなことがなければ、騙されていたかもしれない。
「早苗ちゃんはどっちです?」
「左フックからの右ストレートです」
「あたしも同じです。早苗さん」
シャンディの発言は意図が読めないことばかりだが、早苗の名誉回復がなされたことだけは美琴にも分かった。
「……すみません、今夜はこれで失礼します。家に帰って董子の肉じゃがを堪能しなければなりません」
「どうぞ、愛しい奥様の肉じゃがでも肉体でも存分に堪能なさってくださいな」
「そうします。そちらもお楽しみください」
口角を上げるだけの薄気味悪い笑みを見せて、早苗はアンティッカを後にした。いつもはドアまで見送るシャンディも、早苗相手だと見向きもしない。
二人は本当に仲が悪い、というよりソリが合わないらしい。
「まったく」
「……シャンディさん、ありがとうございます」
「あら? 感謝されるようなことしましたっけ?」
アンティッカ店内はいつもの二人きりだ。
きょとんとした様子のシャンディに、美琴は先の気遣いのことを思い出す。
「キスする時、確認してくださったので。あの時、いつものようにいきなりされていたら私は、赤澤来瞳のことを思い出してしまったかもしれません」
「……怖かったですよね、あんなことされたら」
「……はい」
シャンディはバーテンダーの聖域から、客席へ。そして、特等席に座る美琴を背後から抱きしめる。
彼女に抱かれたぬくもりは何よりも温かく、柔らかく、愛しかった。
「シャンディさん……」
「ごめんなさい。傷ついた人を優しく慰めるのって、なんていうか下心丸出しでとてもズルいこと。だとは分かっているんですけど、こうしたくなっちゃったもので」
「そんな人じゃないことは分かっていますから」
「信用されてますね、あたし。オオカミみたいに襲っちゃいますよ?」
「……ネコ派でしょう、シャンディさんは」
「じゃあライオンにしておきましょう。にゃおーう」
「ふふふっ……」
シャンディの優しさが、ひび割れた美琴の心を満たしていく。
相変わらず謎は多いままだが、ひとつだけ確かなことを美琴は知った。
――シャンディは決して、美琴を傷つけようとはしない。
怒っていてもスネていても、それはすべて形だけのもの。赤澤来瞳や早苗に怒ったのは、美琴の心を代弁してくれたからだ。キスを確認したのも美琴を思ってのこと。
「……好きです、シャンディさんのこと」
「あら。こんな時に告白ですか。そこそこ待ったつもりですけど、ずいぶんあっけない結末ですね?」
「いや、もう……本当はずっと好きだったんです……。ただ、言い出す機会がなくて。それにシャンディさんもプレッシャーをかけてきますし」
「ええ、横浜を超える理想のデートとやらを愉しみに待ってましたもの」
「ですから、その。私と――」
付き合ってほしい。
その一言を喉から絞り出そうとした瞬間、シャンディは美琴の背から離れた。
幸せな体温とオレンジの安らぎがふと消えて、美琴は言いかけた言葉を飲み込む。
「ふふ、今宵はまだお預けです」
いつもと同じイタズラな上弦の瞳を見せて、シャンディは笑っていた。
「ど、どうしてですか……!?」
「あたし言いましたよ? 今の状況は下心丸出しでとてもズルいって。優しく慰めて告白させるのってある意味恋愛の王道ですけど、人の弱みにつけこむ外道なんですもの。あたし邪道は好きですけど、人道は踏み外さないので」
「それはそう……かもしれませんけど! 私は今ここで――」
唇は唇で塞ぐ。マーベリックの夜の一件以来、それが美琴とシャンディの間の不文律になりつつあった。
「だーめ」
朗らかに微笑んで、シャンディはウインクをしてみせた。
あまりに可愛らしい彼女の仕草に、美琴の鼓動はもう止められなかった。全身が燃えるように熱い。まだ一杯も飲んでいないのに、強烈な恋の炎熱に体を焼き尽くされているようで。
「あたしは脇目も振らず気も衒わず、恥ずかしげもなく正々堂々向かってくる美琴さんが好きなんです。だからあたしにイエスと言わせたければ、王道でお願いしますね」
「そ、そんなこと私にできると思いますか!?」
「できますよ、美琴さんなら。またいつかのようにデートして、あたしを酔わせてくださいな」
「くう……!」
美琴はカウンターに突っ伏した。
どうにかシャンディにイエスと言わせるべく、体の火照りを抑えるべく、王道のデートプランについて考えを巡らせる。
いつしか美琴は、赤澤来瞳のことなどすっかり忘れていた。それすらもシャンディなりの気遣いだと気づくのは、しばらく経ってからだった。
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