#12 : Aroma Trap

「なーんにもアイデア出ませんねー……」


 明治文具オフィス。デジタルメモに続く新企画のブレストは、何ひとつ成果らしい成果が上がらないまま終わった。

 顔を付き合わせていた凛子とふたりしてため息をついて、美琴は時計に目をやる。時刻は17時過ぎ。チャイムと西日が退社を促していた。


「週明け、もう一度考えてみましょうか、明日は日曜日ですし」


 昭和感漂う木造のオフィスには、美琴と凛子のふたりだけ。これだけ頭を捻っているのに、美琴の面倒事プロジェクトを手伝ってくれる人間は凛子を除いて他にはいない。君子は危うきに近寄らずだ。


「志願しておいてこんな体たらくですみません……」

「いえいえ。簡単に思いつくならプロジェクトの必要ありませんから」


 プロジェクトなんて言ったところで、予算は雀の涙だ。そんなわずかな投資だけで、凛子とまだ見ぬ3人目とともに、傾きつつある明治文具の未来を救わなければならない。

 最初から負け戦だ。万策尽きかけている。

 項垂れてOAチェアの背もたれに身を預けると、不思議な香りが鼻をついた。凛子の香水だろう。


「白井さん、今日の香水は何ですか?」

「イランイランです。気分転換にいいかなと思って、さっきつけたんですよ」

「気分転換ですか……」


 気晴らしはいつでもしたかった。先の見えない憂鬱な気分を忘れるべく、美琴はスマホに指先を滑らせる。

 イランイラン。

 萌葱色の細長い花弁が特徴の《花の中の花》。抽出したオイルの効能は不安を取り除き、自信を取り戻させてくれることとある。

 そして、


 美琴の脳裏に、シャンディの推理が蘇った。

 ――好かれているんですよ、《ピーチ・レディ》に。


 危うく導きかけた結論を否定して、美琴は別の質問をする。


「白井さんって、アロマに詳しいですよね?」

「え、ええ。いちおう資格は持ってます。それが何か?」

「だったら、たとえばの話なんですけど。ずっとオレンジの香りを身にまとってる人って、どんなことを考えてる人だと思いますか?」

「ずっとオレンジですか? オレンジと言ってもいろいろあるから……」

「簡単でいいんです。白井さんだったら、どんな人だと考えますか?」


 凛子は眉間を指で摘まみながら続けた。


「んー、そうですね……。たとえば、オレンジ・スイートを気に入ってる人はストレスを貯め込みやすいかもしれません。オレンジにはイライラを鎮める効果があるので、本能的にそれを求めてる、のかも?」

「いつも気を張ってる、完璧主義者とか?」

「まあ、そうなるのかもしれません……」


 「当てずっぽうですけど」と凛子は自信なさげに苦笑した。

 シャンディは完璧主義者でストレスを貯め込みがちだから、オレンジの香りが好き。言いがかりにも近い結論だが、彼女は店をひとりで切り盛りしているのだ。苦労を考えると納得はできた。


「白井さんだったらどんな時にオレンジを嗅ぎたくなります?」


 せっかくなら他の情報が欲しい。だが返ってきた答えは――。


「私、オレンジ嫌いなんです」

「え……?」

「ええと、大した理由じゃないんですけど……」


 あはは、と笑って凛子は続けた。


「昔、給食で出たみかんを机にしまったことがあったんです。あとで食べようと思って。だけどそのことすっかり忘れちゃって……」


 よくある話だ。クラスにはひとりやふたり、給食のコッペパンを抹茶パンに変えてしまううっかり者がいる。凛子もその類だったのだろう。

 だが、シャンディの推理がいやに現実味を帯びてくる。

 《ピーチ・レディ》は、《シャンディ・ガフ》の匂いが嫌いなのだ。


「……でも、えへへ。黒須さんとこんなにお話できたの初めてです。普段は緊張しちゃうから」

「すみません。昔からよく、話しかけづらいと言われてて」


 シャンディにはからかわれてばかりだが、美琴は「きれい」や「大人っぽい」という好悪嫉妬入り混じった言葉をかけられて生きてきた。美人ゆえの苦労は贅沢な悩みだ。誰にも相談できない。

 凛子は曖昧に笑っていた。それは美琴が、人生で嫌というほど見てきた反応。シャンディから向けられるものとは違っている。


「やっぱ気を遣いますよぉ。あと私、地方出身なので敬語がキツく感じちゃって」

「だったらやめてみますか? お互い、同い年ですし」


 何気なく告げた言葉に反応はなかった。トゲのある言葉で刺してしまったかもしれない。それが気になって凛子の顔を見上げる。

 西日で顔色は伺えなかった。それでも彼女は絞り出すような声で告げる。


「……普通に話していいですか、友達みたいに」

「ええまあ、気疲れしてしまうくらいなら」

「……じゃあ、お言葉に甘えて! あ、これじゃ敬語だった」


 バツが悪そうに笑って、凛子は大げさに深呼吸する。気恥ずかしくてごまかそうとしているのだろう。それくらいは美琴にも分かった。


「落ちついた?」

「はい……いえ、うん。イランイランのおかげかも。黒須さんは?」

「そうねー。鉛筆作りの仕事よりアロマの話してるほうがよっぽど気晴らしに――」


 言いかけて、美琴の脳内に渦巻いていた要素が繋がった。

 偶然の閃きというものは、考えに考え抜いて凝り固まった頭が緩んだ一瞬の隙を突いて訪れる。


「……鉛筆とアロマだ!」

「く、黒須さんっ!?」


 美琴は凛子に抱きついていた。今まで思いつきもしなかった名案が浮かんだことが嬉しくて止められなかった。

 凛子のまとうイランイランの香りが心身を一気に高揚させた。その鎮静作用などどこ吹く風とばかりに叫んでいた。


「鉛筆とアロマの組み合わせだ! これならウチのノウハウも活かせるし、新商品になる! ありがとう全部白井さんのおかげ!」

「ど、どうもありがとう……ございます……?」


 狂喜した美琴には、不意に抱きつかれ混乱した凛子の早すぎる鼓動を感じることなどできなかった。


 *


「当ててさしあげましょうか。いいアイデアが浮かびましたね?」


 六本木の路地裏、雑居ビル3階にあるガールズバー《antiqua》。

 特等席に腰を落ち着けた美琴へ、シャンディはにんまり笑って言い当てた。


「何もかもお見通しですね」

「ええ、お顔に出やすい方ですもの」

 

 有線放送のクラシックの中に、空気が漏れる笑いが混じる。先日と違って今宵のアンティッカには閑古鳥が鳴いていた。客は美琴ただひとり。


「なら私が今、何を考えているか分かります?」

「そんなに構ってほしいんですか。さみしがり屋の美琴さん?」

「寂しいですよ。毎晩会っても足りないくらいです」

「ふふ、お上手」


 琥珀色の瞳を細めて、シャンディは笑った。

 やはり手強いと美琴は思う。押せば押した以上の言葉が、シャンディから返ってくる。同じような態度で凛子に接すれば、こうも上手くかわされたりはしないだろう。


「では、忘れられない夜にしましょうか」

「忘れたりしませんよ。シャンディさんを独占できるんですから」

「だけどあたしは、美琴さんをひとり占めできないようなんですよねー」


 そして追い打ちをかけるかのように、シャンディが見つめてくる。

 彼女が仄めかしているのは、プロジェクトチームの一員。ピーチ・レディこと、オレンジが嫌いな白井凛子のこと。


「ピーチ・レディとは特に何もありませんよ?」

「シラを切るんですね。悪い美琴さん」


 「ふふ」と妖しい笑みを浮かべ、シャンディは頼んでもいないのにカクテル作りにスイッチを切り替えた。

 酒が計量されシェイカーが振られている間、美琴は職場での出来事を振り返る。

 凛子と打ち解けたおかげで、新商品のアイディアを出すことができた。今日はそれだけだ。以前のように香水をおすそ分けされてなどいないはず。

 グラスを出したシャンディの笑顔が消えた。

 ――瞳は下弦だ。怒っている。


「今宵の1杯目はお仕置きの、《アロマ・トラップ》です」


 恨めしい相手を射貫くような目つきで、シャンディは美琴の心臓を刺してきた。

 《アロマ・トラップ》。

 グラスに敷き詰められたクラッシュドアイスの水面が揺れる、爽やかな見た目の逸品。ただ何よりも気を――嗅覚を惹くのが、混ざり合ったアロマ。桃の甘さにオレンジの酸っぱさ、パイナップルとグレナデンが混ざり合って、早く味わいたいと心を逸らせる。

 が、侮るなかれ。このカクテルはウォッカベース。甘い香りに惑わされた者の足元を掬う、カクテルの罠。


香りの罠アロマ・トラップには気をつけるよう、釘を刺したつもりですが?」


 なぜシャンディが怒っているのか、美琴には分からない。

 それでも刺々しい口調の彼女をなだめようと、どうにか言葉を探した。


「い、いや。私はシャンディさん一筋ですよ。浮気なんてしてませんって」

「あたしは浮気なんて一言も言っていませんけど」

「うぐ……」


 言葉に窮した美琴を見るや否や、シャンディは相好を崩した。

 琥珀色の瞳は上弦に切り替わり、いつものようにころころと笑ってみせる。


「わるーいバーテンダーのわるーい冗談ですよ。だって美琴さんは、正直者ですから」

「冗談って……。まあ、誤解が解けて安心しましたけど……」


 「ふふ」とグラスを饗した時とは真逆の勝ち誇った笑みを浮かべるも、シャンディは自身の顎に指先を押し当てる。彼女が推理を披露するときのサインだ。


「とはいえ。浮気じゃないとすれば冗談ではすまない大問題ですよ」

「え?」

「コートを預かった時、香りがしたんです。イランイランですね?」


 アンティッカでは、入店時にシャンディにコートを預ける決まりがある。もし匂いがついていればその場でバレてしまうはずだ。おまけに、香りの名前も言い当てられた。


「ええ、お察しの通りです。でもどうして……あ」


 そこまで言って、美琴は思い出した。

 おすそ分けはされていないが、それに近いことをしてしまっている――


「まあ? 美琴さんの会社にハグの文化があるのなら、偶然匂いが移ったと言い訳できなくもないですけれど」


 ――白井凛子とハグをした。

 あのときに、凛子のまとった香りが移ってしまったのかもしれない。


「ああ、その……。あまりにいいアイディアが浮かんだのが嬉しくて、つい抱きついてしまったんでした……」

「それで抱き合っちゃった訳ですか。はあ……」


 シャンディはイタズラな少女らしい笑みをやめてため息をつく。そして真剣な眼差しを向けてきた。


「無責任な行動は、ピーチ・レディに失礼ですよ。美琴さん」


 いつものような冗談めかした軽さはなかった。厳しく諫めるような口調で、妙に後ろめたい気分になる。


「無責任って。ハグくらいは普通にしますよね?」

「ええ、でも。相手がよくないんですよ」


 言い置くと、シャンディはカウンターを去って特等席まで歩いてきた。「立て」ということだろうと悟った美琴は、何が起こるか分からないまま鰻の寝床のように細長いアンティッカに立つ。

 目の前の彼女の顔色は暗くて見えない。ただ彼女の放つ気配がひりついていることだけが分かった。

 シャンディが口を開く。


「今宵の遊戯ゲームは、美琴さんがハグをするかどうか。あたしはハグする方に賭けます」

「じゃあ、私はハグしなければ――」


 言い終わるより早く、シャンディが抱きついてきた。

 背中に回された腕は硬い。挨拶としてのハグではなかった。「絶対に離さない」と心と心を繋ぎ止めるときのような、堅い抱擁。

 彼女の温度と吐息を感じた。オレンジの香りが身体を貫く。そして小柄な彼女の顎が、美琴の鎖骨に突き刺さっていた。痛い。


「……シャンディさん、それで勝利宣言はナシですよ?」

「美琴さん、今どんな気持ちですか?」

「え、と……?」

「勝ち負けじゃなく。あたしにハグされてどんな気持ちになりました?」


 美琴は彼女の背に腕を回さなかった。ハグをすれば、遊戯に負けるからだ。

 負けを認めたくない気持ちが半分と、彼女を抱くことがになってしまうという危惧が半分。

 つまり、勝負の残り半分の気持ちを、口にすることはできない。

 告げる度胸など持ち得なかった。


「……うまくは言えませんね」

「なら、好きか嫌いかで答えてくださいな? 3秒以内。2……1……」


 二択を急かされて、美琴は言葉を弄ぶ余裕を無くす。


「……好き、です」

「ありがとうございます」


 答えを聞いて満足したのか、シャンディに解放された。

 彼女に触れていた部分が熱い。ハグが終わった途端、美琴の心臓が早鐘を打つ。全身の血液が――まだ1杯目も味わっていないのに――暴れている。


「あたしはなぜ、こんなことをしたのだと思います?」

「なぜって……」


 シャンディは申し訳なさそうに苦笑して、よれた美琴の衣服を整える。同じように自身の居住まいを正し、続けた。


「今の美琴さんと同じ気持ちを、ピーチ・レディも抱いたんです。それって無責任だと思いませんか?」

「シャンディさんはなぜ白井さん……いえ、ピーチ・レディを気遣っているんでしょう?」

「それはですね、美琴さん」


 シャンディは言いかけて、言葉を止めた。

 そして美琴の頬に口づけをして、「ふふ」と空気を漏らす。


「……ご自分で気づかないといけないことですよ」

「いや、そこまで言って言わないって……!?」


 謎めいたシャンディが、今宵は輪を掛けて謎めいている。琥珀色の瞳は何も語らないばかりか、より一層その真意を深めていた。彼女のハグの真相も、言いかけた言葉も、何ひとつ分からない。

 シャンディはいつものように笑って、カウンターへと戻った。そして、クラッシュドアイスが溶けて薄まった《アロマ・トラップ》を下げて、新たなカクテルを作り始める。

 改めて出されたのは《シャンディ・ガフ》。彼女と美琴お気に入りのカクテルだった。


「さて、こちらが1杯目です」


 これ以上の情報は望めないだろう。美琴は特等席に舞い戻り、琥珀色が鮮やかなグラスに口づけする。

 今宵の《シャンディ・ガフ》は少しだけ辛かった。


「そうそう、遊戯に勝ったご褒美のことを忘れていましたね?」


 「何がいいかしら」と呟いて、シャンディはくすくす笑う。

 どこか危険な香りがした。これ以上踏み込むと戻れないのではないかと、美琴の理性が告げていた。

 だが本能は――早鐘を打って血潮を回す本心は、アロマをまとう凛子とは別の、危ない罠に引き込まれることを望んでいる。


「……美琴さん、明日は仕事お休みですか?」

「日曜ですからね。アンティッカもお休みだし、のんびりしようかなと」

「なら明日、あたしに付き合ってください。ご褒美として」

「え……?」


 シャンディはカウンターに頬杖をついて、瞳を甘く優しく歪めた。


「あたしと店外、してくださいな」


 ――本日の遊戯、美琴の完敗。

 ただし、店外デートつき。

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