quiet talk #2 : Hot Chocolate
「いらっしゃいませ。いえ、今宵はお帰りなさいませの方がよいですか?」
六本木、裏路地沿いのオーセンティックなガールズバー《antiqua》。
ざらりとしたアンティークドアの先には今宵も暗闇――と、普段とは異なる濃密な甘い薫りが重く漂っている。そして気がかりなのは、妙な出迎えの冗句。
「お帰りなさいませ、ですか?」
「さあ、いつものお席へどうぞ。ちょうど団体さんが帰った後でヒマしていましたので」
分厚いカーテンで区切られた入口そばの暗闇には、仄明かりすらも届かない。カーテンを開けたシャンディに誘われ、店内へと案内される。
いつもの壁際の特等席に腰を落ち着けたところで、美琴は思わず声を上げた。
「あ、れ……?」
「ふふ、いかがですか?」
美琴が驚いたのも当然だ。アンティッカをひとりで切り盛りするシャンディは今宵、普段のジャケット姿ではなかった。
パフスリーブにエプロン、フリルにリボン。純白の甘さを黒で引き締めた、清楚で貞淑、そして従順な女性の象徴。
メイド服。
ロングスカートの裾を持ち上げて
「バーテンダーは廃業ですか、シャンディさん?」
「あら、いきなり皮肉ですか。そんなご主人様にはご奉仕いたしません」
不満そうに唇をすぼめて、ぷいっとそっぽを向く。ひっつめている髪も今宵は下ろされて、柔らかにカールした金色の髪が肩口で揺れていた。
損ねてしまった機嫌をとらなければ、と美琴はスカした冗句を繰り出す。
「すみません、愛らしいメイドさんを見ると責めてみたくなりまして」
「なら今宵は、責められることを愉しみましょうか。ご主人様に」
満月の瞳をわずかに欠けさせて、普段とは異なる淑やかな微笑みを見せる。今宵は妖艶な美女でもなければ、イタズラな少女でもない。美を塗り込めた愛玩人形たる佇まいで、彼女はカウンターの内側、バーテンダーの聖域に収まっていた。
「さて、今宵の1杯目はあたしからのプレゼント。少し変わったカクテル……ですが、匂いで分かってしまったかもしれませんね」
「ええ、チョコレートですね」
足元の鞄に隠したそれに意識を向けて、美琴はカクテルの正体を看破した。
今宵のアンティッカにはチョコレートの匂いが立ちこめている。この数日間どこへ立ち寄ってもチョコレートに出遭うのは、今日がバレンタインデーがゆえ。
だから、1杯目がチョコレートカクテルであることは理解できた。本命か義理か友チョコか何かは知らないが、悪い気はしない。が、問題は別にある。
「でも、バレンタインデーとメイド服に何の関係が?」
「その謎が解けるかどうかを今宵の遊戯といたしましょう。賞品はメイドさんとの2ショットチェキでいかがですか?」
「いよいよガールズバーみたいですね」
「だってうち、ガールズバーですもの」
そう言えばそうだった、と思い出す。
薄暗い静寂に満ちているが、アンティッカはあくまでガールズバーだ。オーセンティックやショットとの大きな違いは、バーテンダーとのチェキを頼めること――頼んでいる客を見たことはないが。
「それでは遊戯をはじめましょう。なぜあたしは、バレンタインデーにメイド服を着ているのでしょうか」
美琴はありったけの知識を動員して、ふたつの共通点を探した。2月14日、聖バレンティヌスに由来する贈り物の日。日本ではチョコレート業界が販促活動のために定着させた文化。一方でメイド服は欧州にルーツをもつ女子使用人の衣服。現在のメイド服は日本のオタク文化の中で成熟したもの。考えてみても共通点は見当たらない。
「ヒントはいただけるんですか?」
「ええ、ヒントはご主人様との愉しいひとときの中に」
これから起こることすべてがヒントかもしれない。美琴はシャンディの一挙手一投足に集中した。
眼前に、白い円形の紙コースターが置かれる。だが、その上に乗るのはグラスではない。バーカウンターの作業スペース、フェルト製のクロスに出されたのはマグカップだった。
「まさかホットチョコレート……?」
「正解です。正しくは、リキュールを用いたホット・ドリンクとしての《ホット・チョコレート》ですね」
マグカップの中に、甘い薫りの正体、チョコレートが割り入れられる。続いてチョコレートとコーヒー2種のリキュールが計量。軽くステアされた後、IHヒーターで温めていた牛乳が注がれ、酒とチョコレートを熱で繋ぎ合わせる。マグカップから湯気と、チョコレートの匂いが立ち上る。
さらに湯気に蓋をするように生クリームが浮かび、ココアパウダーの化粧が施された。
まるでバーで飲むものとは思えない。実家やカフェのような安心感すら覚えるほどである。
「ご主人様、ハッピーバレンタイン。《ホット・チョコレート》でございます。お熱いのでお気をつけて」
「ええと、ヒントは……?」
饗されたカクテルとメイド服を繋ぐヒントはまるで見当たらなかった。ただ《ホット・チョコレート》が作られる様を見せられていただけだ。美琴は再び尋ねるが、シャンディは何食わぬ顔で白い頬を綻ばせる。
「今この瞬間もヒントにあふれているのに?」
「まるで分かりませんね。シャンディさんは謎がお好きなようですから」
「あたしは謎多き女を演じているワケではありませんよ。お客様がたが勝手に夢を見ているだけです」
謎が多すぎる。普段のようなやりとりではこれ以上のヒントは望めないだろう。何か、シャンディの意表を突く行動をしなければならない。
――だけど、鞄の中のアレを出すタイミングは今じゃない。
別案はないか。美琴はシャンディが責められたいと言っていたことを思い出す。メイドの彼女を責めることができれば、うっかりヒントを口走るかもしれない。
そろそろ遊戯での勝利が欲しいところだ。美琴はせいいっぱい背伸びして、シャンディを責め立てる。
「つまり私は眠り姫という訳ですね」
「ふふ、なんですかそれ」
「素敵な女性、シャンディさんという夢を見ているんです」
「うわー……さすがにヒキますね……」
美琴はカウンターに突っ伏した。攻勢に出たつもりが盛大に自爆してしまったのだ。恥のかき損である。
「……も、もう少し手心を加えてください」
「だって責められていませんもの。ああ、責められたいなあ。ご主人様に」
「……ならせめて、どう責めればシャンディさんが悦ぶのか手本を見せてほしいものですね」
「ふふ、いつも誘うのだけはお上手ですよね?」
くすくす笑って、シャンディはおつまみとして出していたチョコレート菓子を摘まみ上げた。棒状のビスケットにチョコレートがコーディングされているそれを、美琴の前でひらひらと動かす。
「ありきたりですが、こういうのはいかがですか?」
シャンディはスティック菓子の端を口にくわえた。そしてもう片方をくわえろとばかりに、美琴の前で動かす。
両端から食べて、キスするかしないかを愉しむ遊戯。ポッキーゲーム。
「……分かりました」
スティック菓子のもう片方を唇で挟んで、美琴はシャンディと目を合わせた。琥珀色の瞳は上弦、変わらず勝ち気なままだ。
負けられない。どちらからともなく、スティック菓子をかじっていく。菓子が短くなるにつれて、シャンディの瞳が近づいてくる。
瞳に映った自身の影が見えた。どんな表情をしているかは見えないが、見えなくてよかったと美琴は思う。こんな恥ずかしいことをしている自分の顔は見たくないし、誰にも見られたくない。
「んふ」
鼻で笑ったシャンディの鼻息すら感じる距離。ふたりの距離は数センチまで迫る。これまで何度もキスされ、キスしてきたというのに、美琴の心臓は高鳴った。キスを焦らされているような気さえしてきて、血液が暴れている。
シャンディは、菓子をくわえたまま囁いてくる。
「……ご主人様?」
「あんですか?」
「こうするんです」
まだスティック菓子は残っていた。美琴にとって猶予が残っていたというのに、シャンディは突如菓子を丸呑みし、美琴の唇を塞ぎにかかる。
不意打ちのキス。
思わず菓子を噛み切ってしまった美琴の唇は奪われ、さらに唇についたチョコレートが舐め取られる。柔らかな舌の感触が美琴の記憶に刻まれた。
「仕上げにこうです」
一閃。まばゆいストロボが胡乱な美琴を貫いた。視界が捉えたのは、インスタントカメラを構えたシャンディの姿だ。2ショットチェキ用のカメラが吐き出したポラをぱたぱた扇いで、くすくす笑っている。
「いい顔してますよ、ご主人様」
「ちょっ――!」
咄嗟に伸ばした手は空を切った。慌てた美琴の無様な顔が、しっかり捉えられている。美琴が認めたくない自身――オトナびていない、子どもじみた顔。特にシャンディにだけは見られたくない姿だ。
「この写真は本命チョコの代わりに戴いておきますね?」
「い、いやそれは勘弁して……!」
「あら、あたしはご主人様の言いつけ通り、お手本を見せたまでですよ?」
「ぐう……っ!」
「ふふ」と笑うシャンディは、どこまでも付けいる隙がない。
どうにかあられもない姿が映った写真だけでも取り戻すべく、美琴はようやく覚悟を決めた。
「……なら、チョコを渡せば写真は返していただけますね?」
「え?」
美琴は足元の鞄の中を漁り、綺麗にラッピングされた箱を取り出した。有名ブランドのロゴ、トリュフ6個入り。
「……ハッピーバレンタインです、シャンディさん」
「まあ、ありがとうございます。本命ですか?」
「本命として受け取るかどうかはシャンディさんにお任せします」
「駆け引きのおつもりかしら?」
ニヤリとほくそ笑む彼女を、どうにか動揺させたかった。
その場で包装を解き、美琴はトリュフを摘まみ上げる。遊戯のヒントを得るため、恥ずかしい写真を取り戻すため。そして日頃の感謝を伝えるためには、思いつく限りの責めの一手。トリュフを食べさせること。
指先は震えていた。それでも声だけは震えないように。かつ、メイドを責め立てたい強気な自分自身を振り絞って告げる。
「さあ、口を開けなさい。主人の愛が欲しいのでしょう?」
「……どういう心境の変化です?」
「あら、ご主人様の言うことが聞けないというのかしら?」
慣れないセリフだ。顔面の引きつりをなんとか堪えながら、美琴はご主人様らしきものを必死で演じる。
「ふふ。では……憐れなあたしにお恵みをいただけますか、ご主人様」
「……目を瞑りなさい」
「ふふ、何されちゃうんでしょう」
琥珀色の瞳が閉じられた。白磁のごとき肌のメイドが、口を開けたまま主人の与えるトリュフを待っている。
美琴は覚悟を決めた。指先で摘まんでいたトリュフをシャンディの口元へゆっくり近づけて気配を感じさせてから。自身の口に放り込みそして――
――シャンディの口を、自らの唇で塞いだ。
咥内が繋がった。舌を使ってトリュフを押し出す。ふたつの舌が触れ合う。甘ったるいチョコレートの中に、彼女が直前まで口にしていたであろう《シャンディ・ガフ》の苦みを感じた。
唇を離し、目を凝らす。アンティッカの暗闇で、どうにかシャンディの顔色を窺おうとする。顔に出にくいと語る通りだ、美琴のように分かりやすく赤らむことはない。
だから美琴はその表情を見る。普段のなみなみと湛えた余裕が、グラスからこぼれ落ちるその瞬間を。
「美味しかったですか。私の愛は?」
シャンディの瞳は、丸く見開かれていた。
「……上手くなりましたね?」
「上手い方から学んでいますから」
「残念」そう呟いて、例の写真が美琴に返却される。ポラには自身の焦った顔と、丸っこい字で『愛を込めて』と書かれてある。油断も隙もない。
「さて、ご予約のお客様が見えますので、そろそろ
「いや、ヒントらしいヒントもいただけてない――」
折良く、来客を知らせる軋みが響く。シャンディはエントランスの暗闇に消え、入れ違いに女性客がカーテンをくぐった。あちらも常連客なのだろう、目が合って軽く会釈する。
常連客はカウンターに戻ったシャンディの姿を一瞥し、「あー」と納得したような声をあげた。
「今月のコスプレデーはメイドなんだ、かわいー!」
「ええ、メイドの気分だったので。お褒めにあずかり光栄です、ご主人様」
シャンディのよこした視線とウインクが、遊戯の終わりを物語っていた。
答えはあまりに単純なもの。
毎月14日は、ガールズバー《アンティッカ》のコスプレデー。
つまり、バレンタインが偶然コスプレデーだったから、シャンディは気分でメイド服を着た。
それだけだ。
「そんなオチ……!?」
「あたしのご主人様はまだまだですね、ふふ」
やってきた客に給仕する可愛らしい小悪魔メイドに、まんまと恥をかかされた。責めると言ったそばから責められて、深読みした挙句に自爆だ。
飲まなきゃやっていられない。そうでもないと赤っ恥を抑えられない。美琴は温くなった《ホット・チョコレート》を流し込む。ほろ苦く甘い、シャンディのチョコレートが熱くなった心身に染みこんでいった。
――本日の恋愛遊戯、美琴の完敗。
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