#11 : Bellini

 普段より早く出社した美琴を出迎えたのは、着替え中の事務員・白井凛子だった。会社支給の制服しか見たことがなかった凛子の姿は、世間的には男好きのする体系に分類されうるもの。出るとこ出ている。


「く、黒須さん!?」

「ああ、ごめんなさい」


 明治文具・女子更衣室。明治文具の女性社員には、試着室ほどの大きさの更衣室を順番に使うという不文律がある。

 その暗黙の了解を忘れて普段通りに扉を開けたら失敗した。凛子の下着姿だ。なんとなく居心地が悪くなって、美琴はいそいそと自席へ向かう。

 机の上には、昨日はなかったはずの書類が置かれていた。


「あの、黒須さん。更衣室空きました」

「ああ、えっと。ごめんなさい、ノックもせずに。早く着いたの忘れてて、いつもの感覚で開けちゃいまして」

「い、いえいえそんな気にすることじゃありませんから! ていうか私の下着姿なんて黒須さんの目に毒で! ああ、私何言っちゃってんだろう!?」


 凛子が焦っているのはなんとなく分かった。こういう反応を見せられると、つい美琴の中の――アンティッカで発揮されるオトナびた自分が目を覚ます。


「いえ、お綺麗でしたよ?」

「おっ……! お恥ずかしい限りです……」


 あえてスカした発言をキメてみると、凛子は縮こまった。

 これがシャンディ相手なら、こうはならないだろうと美琴は思う。むしろそのまま迫って美琴を挑発してくるに違いない。たとえば――

 ――想像してしまった途端、血液が一点に集中した。頭をぶんぶん振って空想をかき消す。


「……あ、そうそう! 昨日頼まれたアンケートの素案作ってみたんです。確認いただけますか?」

「もう作ったんですか?」


 机の上の書類は、凛子の用意した素案だ。美琴は着替えも忘れ、素案に目を通す。いくつか修正が必要だが、一日ちょっとで作り上げたとは思えない。よく練られている。


「……すごいですね、ほとんどそのまま使えそうです。やっぱり経験者がいてくれると心強いなあ」

「そんな、とんでもないですよ。私なんてちょっと勉強しただけで――あれ?」

「どうかしました? 白井さん」


 美琴の隣に立つ凛子が、くんくんと鼻をひくつかせている。


「いえその、全然関係ない話なんですが……黒須さん、今日は香水つけてますか? なんとなく柑橘系の……」

「柑橘……」


 しばし考えて、思い当たった。シャンディに借りたシャンプーの匂い。

 そのまま喋ると要らぬ誤解を与えてしまうと即座に気づき、適当にウソをつく。


「ああ、いえ。シャンプーを変えたんです。それが理由では?」

「なるほど、納得です! 黒須さんが香水なんて珍しいなと思ったので」

「いくつか持ってはいるんですが、合う合わないって自分では分からないじゃないですか」

「分かります、香水あるあるですね」


 美琴はデートや女友達と会う日、あるいは匂う日に申し訳程度に付ける程度だった。どちらかと言えばエチケット感覚で、さほどおしゃれのために香水を身にまとうことはない。


「私は結構、その日の気分でつけますよ。気分を上げたい時はピーチとか、落ちつきたい時はイランイランとか。匂いませんか?」


 凛子が頭を近づけてくる。耳の後ろに付けているのだろう、甘い桃の香りを感じた。淡く薫るだけなのに、鼻腔から後頭部へ突き抜けて脳を揺らすようで、くらくらする。


「……いい香りですね。桃ですか?」

「そうなんです! 桃が好きで! 実はこの香水、私のオリジナルブレンドでして」

「白井さんは詳しいんですね。私はこういうの不勉強で」

「なら、あのっ!」


 凛子は耳の後ろを人差し指でなぞると、美琴の耳元へ指を擦りつけた。ややあって、美琴の鼻腔にふんわりと、凛子と同じ桃の香りが漂ってくる。


「香りのおすそ分け、です」


 どこか照れくさそうに凛子は表情を綻ばせた。

 甘い桃の香りが、これまで単なる同僚としか思っていなかった凛子への認識を塗り替えていく。


「……ええと、黒須さん。じゃあ、素案の修正はお仕事始まってからでいいですか?」

「そうですね。更衣室も空いたことだし、着替えてきます」

「はいっ!」


 自席を後にして、美琴は更衣室の扉を開けた。

 更衣室の中にはほのかに、凛子のまとった桃の残り香が漂っていた。


 *


 六本木、裏路地のガールズバー《antiqua》。重たいドアを押し開けると、エントランスそばの暗闇にシャンディの気配を感じた。


「いらっしゃいませ……と言いたいところなのですが」


 申し訳なさそうな声でシャンディは続ける。


「実は本日、珍しく満員でして。少々お待ち戴けますか?」

「構いませんよ。アンティッカが繁盛するのは喜ばしいことですから」

「ええ、潰れちゃったら黒須様もお困りでしょうから――あら?」


 暗闇の中で気配が動いた。美琴の耳元に、熱い吐息を感じる。そして数度、鼻から息を吸い込むような音が聞こえてくる。


「……この香りは、香水ですね?」

「ああ、はい。桃ですね」


 凛子のおすそ分けを指摘されて美琴はどきりとした。

 ふと動いた時に薫るのが愉しくて、例の桃の香りをそのままにしておいたのだ。ほとんど消えたものだと思っていたのに、シャンディはしっかり気づいたらしい。


「珍しいですね、普段はお付けにならないのに」

「着替えていませんからね。シャンディさんに嫌われたくない、乙女心ですよ」

「ふーん?」


 どこか勘ぐるような声色で、シャンディは唸る。

 白井凛子の名前は出さないほうがいいだろう、なんとなくそう思った美琴の耳元でシャンディは囁いた。


「……積極的ですね?」

「え?」


 答えたところで、店内から椅子を引く音が聞こえた。ちょうど客が退席するのだろう。シャンディは会計を済ませた客を店外へエスコートする。


「いつもの席へどうぞ、黒須様」


 暗闇での声は、どこかひりついていた。それは店内の定位置――カウンター席最端の壁際に着いてからも変わらない。

 あいにく本日のアンティッカは満席で、シャンディの意識は他の客のグラスへ注がれている。まとう緊張感は、忙しくて余裕がないからだろう。ようやく手が空いて注文を取りにきたシャンディは「疲れた」とでも言いたげに苦笑を浮かべていた。


「さて、お待たせしました。今宵の1杯目はいかがしましょう」

「そうですね、オススメを。手がかからないもので」

「ふふ、お気遣いありがとうございます」


 シャンディはしばし考えると、冷蔵庫から桃のコンポートを取り出した。ミキサーでピューレ状にした後、すりこぎのような棒――ペストル――で果実の塊がなくなるよう潰していく。


「桃のカクテルですか」

「ええ、黒須様に合わせてお作りしようと思いまして」


 美琴は怪しまれないよう頭を振って、香水の気配を探った。耳の後ろに付けられた凛子の残り香はもう消えている。むしろ、アンティッカ店内に漂うアルコールの香りと、シガー特有の甘ったるい薫香しか感じない。


「いま、確認なさいましたね? 香水が残っているかどうか」

「シャンディさんはごまかせませんね」

「人間観察が趣味ですから」


 「ふふ」と妖しげに笑い、取り出したのは胴の長いグラス。炭酸の泡が綺麗に上るそれに、桃のピューレとネクター、そしてざくろグレナデンのジュースを注ぐ。

 仕上げはスパークリングワインだ。気泡が壊れないよう軽くステアして、グラスが饗された。


「こちら、《ベリーニ》です」


 《ベリーニ》。

 以前飲んだ《レオナルド》と同じ、画家の名を冠したカクテルだ。《レオナルド》含む《ラファエロ》、《ティツィアーノ》などは、このカクテルから派生したもの。

 グラスから漂う桃とワインのわずかな酒精を愉しんでいると、シャンディが他の客に聞こえないよう耳元で囁いてくる。


「……黒須様に忍び寄るピーチ・レディをイメージして作りました」


 思わずシャンディの顔色を窺った。アンティッカの薄明かりの中で、彼女の琥珀色の瞳は上弦に歪んでいる。まるで「何もかも見通している」とでも言うような笑顔だ。

 美琴はとっさに話題を逸らした。


「そう言えば《ピーチ・レディ》というカクテルがありましたね」

「ええ。桃と苺に牛乳、白ワインをシェイクしたものです。ただ、は黒須様には似合わないと思いまして」


 いったい、シャンディはどこまで勘づいているのだろう。

 美琴は駆け引きのテーブルにつこうとして、諦めた。言葉を弄してごまかすよりも、素直に話した方が被害が少ない。


「さすがですね、香水を借りたことを言い当てられるとは思いませんでした」

「あら、早々に白状しちゃうんですね。今宵は黒須様が正直に話してくれるかどうかを遊戯にしようと思っていたのですが」


 恐ろしい遊戯だ。駆け引きに出なくて正解だと美琴は胸をなで下ろす。

 そもそも凛子はただの同僚だ。話してしまってもよかったが、美琴はアンティッカではシャンディだけを愛すると誓いを立てたばかり。他人の話は避けるべきだろう。


「ええ、残念ながら勝負は不成立です。それにしても、よく分かりましたね」


 彼女いわくの「人間観察が趣味」というのは、アンティッカ流の冗句でもないのだろう。仕事柄、いろいろな人間を見ている分、洞察力と推理力がずば抜けているのかもしれない。

 シャンディは他の客と軽く談笑してから、再び美琴の前に舞い戻った。


「あたしの推理を聞きたいですか?」

「ええ、ぜひとも拝聴したいですね」


 微笑むと、探偵のように顎に指を掛けて続ける。


「簡単ですよ、普段香水を使わない人が香水をつけているから。今は2月、エチケットとも考えにくい時期。香水を貸してくれたピーチ・レディの正体は、黒須様のご同僚の女性社員。例のプロジェクトがらみでは?」

「ええ、その人です。根拠は?」

「自分のスタイルを曲げない黒須様が変わったとなれば、置かれた環境が変化したから。そこで以前なさったご同僚さんのお話を思い出しました。桃の香水なんてものを使っているのは9割がた女性でしょうし」

「なるほど」

「ですがひとつ、解せないことがありますね」


 半分程度になった《ベリーニ》のグラスを一瞥して、シャンディは問いかける。


「……なぜピーチ・レディは、黒須様に香水を薦めたのでしょう?」


 美琴は息を呑んだ。

 白井凛子に桃の香りをおすそ分けしてもらったことを見抜かれている。

 平然とした風を装って、悟られないよう美琴は言葉を探した。


「ああ、いえ。昨晩はご存じの通りオールでしたから、匂いが気になると同僚に相談したまでですよ」

「ですが黒須様は、何度かアンティッカでのオールを体験なさっていますね? その時は特に、気になさっていない様子でしたが」


 記憶力の観察眼の鋭さに美琴は驚いた。以前美琴の読んだバーデンダーの教本にも《客をつぶさに観察せよ》という文言があるにはあった。

 オーセンティックやショットバーとはやや格が落ちるガールズバーと言えど、バーテンダーとしての矜持がそうさせるのかもしれない。


「まあ、その。気になってしまったもので。今朝は普段とは違うシャンプーを使ったから余計に」

「あら、あたしとお揃いはイヤだと?」

「それはありませんね。シャンディさんと同じ香りをまとえて光栄ですから」

「そこなんですよ、黒須様」

「え?」


 シャンディは顎の辺りで丸めていた人差し指を「閃いた」とばかりにピンと伸ばす。


「本日の黒須様がまとっていたのは、あたしのオレンジ。なのに、ピーチ・レディは桃の香りでそれを塗り替えた。なぜだと思います?」

「なぜって……?」


 美琴はすっとぼけた訳ではない。純粋にシャンディの推理が理解できなかったのだ。

 聞き返すとシャンディはカウンターに身を乗り出し、美琴の耳元で囁く。


「……好かれているんですよ、ピーチ・レディに」

「はあ……?」

「それにどうやらあたし、嫉妬されちゃってますね、ふふ」


 思わず地の性格――子どもっぽく聞き返してしまう。一方でシャンディの琥珀色の瞳は満月のように強く輝いていた。


「おそらくピーチ・レディは香りに敏感なのでしょう。普段から香水を使うくらいですし」

「え、ええまあ。気分次第で桃とかイランイランだとか言っていましたが」

「ですが、今の今までピーチ・レディは、香水を勧めるようなことはなかった。つまり、たとえオールした直後の黒須様の匂いでも、さほど気にはならなかったのでしょうね」


 洗ったグラスの水気を拭きながら、シャンディは続ける。


「ですが、あたしと同じシャンプーを使った途端、匂いを塗り替えてきた。考えられるのは、黒須様の香りが変わったのが嫌なのか、オレンジの香りが嫌いだからか。もしくは、オレンジの背後にいる人間……あたしを嫌っているか、ですね」


 当然ながら、毎晩アンティッカに通っていることを凛子は知らないはずだ。だから仮に、美琴からオレンジの匂いがしたとしても、凛子がシャンディの存在に気づくことはない。


「……考えすぎだと思いますよ? 彼女にはシャンディさんのことを話していませんから」

「ええ、そうだったら面白いのになと思っただけですよ」

「面白いですか……?」

「ええ、とても。状況が複雑になればなるほど、駆け引きも愉しくなりますから」


 笑みを残して、シャンディは他の客の注文を受けにいく。バーテンダーの表情に切り替えて、メジャーカップで計量した酒をシェイカーで振るう。クラシックの音色と氷の音、そして珍しく客の談笑が聞こえる店内で、美琴は空になった《ベリーニ》のグラスを持ち上げた。


「おすそ分け、かあ……」


 グラスに残った桃の残り香が、甘ったるく薫った。

 本日の恋愛遊戯、無効試合。

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