#10 : Bloody Mary

「黒須様」


 美琴を呼ぶ声が聞こえた。小鳥がさえずるような、愛らしい音色。

 そんな小さなささやきは、まどろみの中に消えていく。


「美琴さん」


 今度は名前だ。いったい誰が、自分の名を呼んでいるというのだろう。

 ひとり暮らしをはじめてそろそろ十年。両親や妹とも離れ、今は交際相手もいないから、名前を呼んで起こそうとしてくる人物に心当たりはない。


「……美琴」


 優しくて甘くて、心地よい声。

 こんな声の主と朝を迎えられたら素敵だろう、美琴は思う。

 そう思った矢先、背中に感触を感じた。衣服と素肌のあいだに――


「冷たッ!?」


 ――美琴の背を、冷たい手が這っていた。

 冷たい一撃に重たい瞼をこじ開けられ、オレンジの光で目が眩む。瞼を細めて目が慣れるのを待つと、見えるのはカウンターテーブルと酒瓶の並んだバートップ。そして――


「目が覚めました?」


 ――オレンジの照明に照らされたシャンディが笑っていた。


 ここは六本木の路地裏沿い、正統派なガールズバー《antiqua》。

 自らの居場所からようやく状況を理解して、美琴はカウンターに伏していた上体を起こした。座ったまま寝ていたからか、関節がズキズキ痛む。さらには、ものの見事に二日酔いだ。


「おはようございます、美琴さん」

「……おはようございます。すみません私、酔い潰れたんですね……」

「覚えていないのですか?」


 痛む頭を回しても、思い出されるのは《イエス・アンド・ノー》の結末だけだ。盛大に墓穴を掘って、ひた隠しにしていた本性を暴かれて、挙げ句の『はい』しか言えない拷問。

 あの顔から火が出るような恥ずかしさを忘れようとして《マティーニ》を頼んだところまでは覚えている。が、そこから先の記憶はない。


「……何にも覚えてません」

「あら、愉しかった遊戯もお忘れですか? ご説明しますよ?」


 シャンディの瞳は上弦の月だ。にんまりと微笑んでいる。


「い、いやそれは大丈夫です。素敵な夜だったことは覚えていますから」

「ふふ、そうですね。お互いを深く知り合えたいい夜でした」


 せいいっぱいの虚勢を張って美琴は告げた。シャンディの意味深な含み笑いは見なかったことにして、手首の腕時計を見やる。

 時刻は午前6時、アンティッカの閉店時刻だ。


「ああ、すみません。もう閉店でしたね、帰ります」

「帰るって家にですか?」

「そうしたいのは山々ですけど。近くのネカフェでシャワーだけ浴びて出社ですね」

「シャワーなら貸しますよ」

「え?」


 シャンディに手招きされてアンティッカ入口の暗闇に向かう。壁だと思っていた場所が彼女のLEDハンドライトで照らされた。扉だ。

 シャンディはハンドライトを顔の真下に当てて――怪談話をする小学生みたいに不気味に笑った。


「シャワーを浴びたいですか~……?」

「……幽霊でも出るんですか?」

「いえ、出ません。ふざけてみただけです」


 肩の力が抜けた。


「ビルの供用スペースにシャワールームがあるんです。好きに使ってくださいな」

「ありがたいですが、構わないんですか?」

「ええ、あたしとお揃いのシャンプーでよければ。その他、各種アメニティもお貸ししますよ、100円で」

「ちゃっかりしてますね……」

「もちろん無料でもいいですよ? 代わりに、おカネ以外のモノで払ってもらうことになるかもしれませんが」


 美琴の唇に指先をあてがって彼女は笑う。対価とはすなわち――。


「払います、おカネで」


 美琴は迷わなかった。たった100円で心の安寧とせめてもの尊厳を保てるなら、支払ったほうが気が楽だ。それにこれ以上、無様な姿を晒したくもない。


「あら、残念です」


 くすりと笑われ、カゴを託される。シャンディ私物の洗面道具一式だ。

 そして扉の向こう、雑居ビル内へ。指示された場所には電話ボックスのようなシャワールームがあった。

 カギを掛け、蛇口を捻る。

 ザアア、と。熱いシャワーがオールで冷え固まった身体を温める。

 美琴の脳裏をよぎるのはシャンディとの遊戯だ。しかも《イエス・アンド・ノー》を飲ませるに至った、あの質問。


 ――本音を知られたら嫌われてしまうかもしれないなんて思っていませんか?


 誰だって、腹の奥底に飼っている本音を知られたくはないだろう。

 だからあの質問には「イエス」と答えておけばよい。わざわざ《イエス・アンド・ノー》を飲んで回答を保留する必要はなかったのだ。


 美琴は考える。

 シャンディのような――美琴が思うに、ドSを自称しながらも優しい――人物が、なぜあんな反応をしたのだろう。


「本音を知られたくないのか、逆に知られたいのか。それとも本音がバレても嫌われないと思っているのか。もしくはそれすらも駆け引き……? ううん……?」


 謎を暴こうとして、シャンディのことばかり考えてしまう。

 だがいくら考えてみても、真意は分からない。


「また謎が深まった気がする……」


 力なく壁にもたれ、シャワーに身を委ねる。

 閉店後は彼女もここで疲れを流すのだろう。そう意識した途端、浴室を視線が行き来した。無意識のうちに痕跡を探してしまっている。視線の暴走を止めたくて瞳を閉じても、浮かび上がるのは彼女の瞳、指先。そして唇の感触。

 不意に身体が疼いた。久しく抱いてなかった

 下腹部を虫が這い回るような悩ましいそれに、理性が持っていかれそうになる。


「はは、なに考えてんだろ私……」


 シャンディに悟られぬよう念入りに洗い流し、美琴は湯気の中を後にした。


 *


「濡れ髪の美琴さんも美しいですね」

「ええ、水もしたたるなんとやらです」


 店内に戻るなり告げられた口説き文句に冗句を返し、美琴は特等席に舞い戻った。カウンターの上には、ご丁寧にもドライヤーが置かれている。


「アンティッカに住んでるみたいですね、シャンディさんは」

「ええ、たまにここで寝ています。寝袋も用意していますし」


 ドライヤーの駆動音が、有線放送の音をかき消した。鼻腔をくすぐるのはシャンディと同じシャンプーの、ほのかなオレンジの香り。


「美琴さんもホテル代わりに利用していただいて結構ですよ? もちろん、浮気なはお断りですけれど」

「いえ、シャンディさんだけを愛すると証を立てましたから」


 虚勢を張っているだけとバレているのに、美琴はキラリと歯を見せる。さもトレンディドラマの俳優のように、格好つけたスカした仕草で。

 それを見たシャンディは口元に手を当てて、くすくす笑った。


「ええ、愛してくださいな。あたしとのひとときを」


 琥珀色の微笑みとともに、タンブラーグラスが美琴の眼前に現れた。営業終了後にも関わらず、真っ赤なカクテルが注がれる。


「いや、これから仕事なので朝からカクテルは……」

「平気ですよ。マジメな美琴さんでも飲める、《ブラッディ・メアリー》、ノンアルコール仕立てです」

「わあ……!」


 思わず子どもみたいに喜んでしまったのが恥ずかしくなって、コホンと小さく咳をした。

 《ブラッディ・メアリー》。

 プロテスタント教徒を殺戮した英国の処刑女王血まみれメアリーの名を冠したこのカクテルは、その恐ろしい名前とは正反対の健康志向な逸品だ。

 基本レシピはウォッカとトマトジュース。そこへ好みに応じて、レモンやライム、ウスターソースやタバスコが混ぜられる。


「……いや、ウォッカ抜きだとトマトジュースですよね?」

「美琴さん、セロリは食べられますか?」

「そりゃあ、まあ。でもなんでセロリ?」

「こうするんです」


 シャンディはグラスの中にセロリスティックを突き刺した。そして、ウォッカの代わりだろう、トニックウォーターが注がれる。


「《ブラッディ・メアリー》は飲むサラダ。セロリの他、様々なお野菜を入れて提供するお店もあるくらいです。居酒屋の野菜スティックみたいなものですね」

「健康によさそうです」

「ええ。お店のためにも美琴さんには長生きしてもらわないと」

「その健康も、シャンディさんに台無しにされますけれどね」

「当店のモットーは、生かさず殺さずですから」


 「ふふ」と影のある笑みとともに、《ブラッディ・メアリー》が饗された。そしてすぐさまシャンディは、カウンター下のキッチンで何やら作業を始める。


「そちらを食前酒アペリティフ代わりに、少々お待ちくださいな」

「食前……?」


 のんきにセロリを囓っていた美琴のテーブルにサンドイッチが現れた。


「《アンティッカ流サンドイッチ》です。召し上がれ」

「わあ……! 朝ごはん……ということですか?」

「美琴さんにとっては。あたしにとってはお夜食です」


 眠たそうに欠伸をひとつして、シャンディは白のジャケットを脱いだ。カウンターとバートップの間――バーテンダーの聖域を抜けて、美琴の隣の席に収まる。


「アンティッカにもフードメニューがあったんですね」

「ただのまかないですよ。余った食材で作るからアンティッカ流です」


 ふたり揃って「いただきます」と手を合わせ、サンドイッチを頬張った。

 アンティッカ流サンドイッチ。

 ひとつはおつまみとして出される生ハムに、《モスコー・ミュール》に使うキュウリ、《マティーニ》などで使うオリーブのスライスをサンドしたもの。

 もう片方はおつまみのナッツを砕いたものとスクランブルエッグ。おそらく《イエス・アンド・ノー》で残った卵黄が入っているのだろう。

 シャンディが言うとおり、まさに余り物。アンティッカ流と呼ぶ訳だ。


「あたしの手料理はいかがですか?」

「美味しいですよ。お店で出せばいいのに」

「カクテルで手一杯ですよ。それにあたし料理はニガテですし」


 琥珀色の瞳を気だるげに細め、舌を出してシャンディは苦笑した。彼女が食べるサンドイッチの断面には生ハムだけ。さらには《ブラッディ・メアリー》のグラスにセロリは入っていない。


 ――ああ、なるほど。そういうことか。


 思いも寄らぬところで彼女のに気づいた美琴は、こらえ切れず噴き出してしまった。


「シャンディさんの弱点は野菜ですね?」

「いいえ? 野菜ジュースは飲めますよ?」


 しれっと嘯いて、彼女は《ブラッディ・メアリー》を飲んでみせる。飲めるとは言いつつも、眉間にはシワが寄っている。野菜ジュースすら無理しないと飲めないのだろう。


「野菜、どれがダメなんです?」

「野菜ジュース以外全部です。あたしは肉食系なので」

「筋金入りの野菜嫌いですね」

「あ、いま子どもっぽいって思いましたね?」


 あれだけ大人の女性然とした彼女が、愛らしい少女のように尋ねてくる。

 まさに変幻自在だ。手を変え品を変え、美琴の理性や判断力を奪おうとする。


「いいえ。かわいいなって思いました」

「バカにしてますね? もう二度と作りませんから」

「バカにしてませんって。新たな一面を知れて幸せです」

「はいはい、そーですかそーですか」


 隣に座るシャンディの瞳は下弦の月だ。不機嫌そうな顔で、野菜がいっさい使われていないサンドイッチをもくもくと食べている。その一方で、美琴はシャンディの余り物が詰まったサンドイッチを味わう。

 久しぶりの、誰かと食べる朝食だった。


「……なんだかいいですね、こういうの」


 ぽつりと呟いた美琴の言葉に、シャンディは顔を上げた。


「こういうのって?」

「や、手作りの朝ごはんを肩を並べて食べるなんて久しぶりで。まるで一緒に暮らしてるみたいだなって」


 自分で言っておいて恥ずかしくなった。

 冗句めかしてシャンディに笑いかけた美琴は、彼女を見て驚いた。


「シャンディさん……?」


 彼女の白い頬に、ほんのり朱が指していた。琥珀色の瞳は丸く見開かれ、サンドイッチを持ったままの姿勢で固まっている。

 あのシャンディが、動揺している――?


「あの、顔に出てません?」

「……いいえ、出ていませんよ? 気のせいじゃないですか?」

「いやでも頬が朱くなって」

「《ブラッディ・メアリー》のせいですね」

「それノンアルコールでは――」


 美琴の言を遮って、シャンディは表情をいつもの笑顔に切り替えた。有無を言わせないとばかりに美琴へ微笑んで《ブラッディ・メアリー》を呷ると、冷蔵庫からビールとジンジャーエールを持ち出した。


「……あたしは飲みますので、美琴さんも出社までゆっくりしてくださいな」

「ええ、お言葉に甘えさせていただきます」


 シャンディが見せた反応が可笑しくて、美琴は笑っていた。


 食事を取って、化粧室で最低限のメイクをする。出社準備を済ませて時計を見ると午前8時。

 アンティッカ玄関口の暗闇を抜け、重たい木の扉を開ける。雑居ビルの外階段から見える眩い朝の日差しが、美琴と見送りに出ていたシャンディの顔を照らした。


「じゃあ、そろそろお暇します」

「ええ、お気をつけて。本日もご来店お待ちしておりますね。……あ、美琴さん」

「なん――」


 唇が塞がれた。以前よりも長いキスだった。

 完全な不意打ちに動揺した美琴の顔色を窺い、シャンディは頬を緩めていた。


「……さっきのお返しです。行ってらっしゃいませ、美琴さん」

「い、い……行ってきます……」


 恥ずかしさのあまり目を背けて、美琴はアンティッカの入る雑居ビルを後にした。

 日差しを浴びて、朝の空気を肺いっぱいに吸い込む。気分を酔客から会社員に切り替えて、そして――。


「今日もがんばるかー!」


 意気込む。疲れているはずの美琴の身体は、軽やかに動き出した。

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