#7 : Yes and No / ep.1

「あー黒須さん黒須さん。お仕事中悪いけど、ちょっといいかい?」


 企画案をひねり出そうと唸っていた美琴は顔を上げた。昭和ドラマの職員室みたいなオフィスの戸を開けて、好々爺――専務が、ちょいちょいとおちゃめに手招きしている。

 なんとなくイヤな予感がしたが、心配は杞憂に終わった。むしろ《次期主力商品開発プロジェクト》的には僥倖だ。


「ひとりでプロジェクトは大変だろうということで、新たに白井さんにも加わってもらうことになってね」

「事務作業の片手間ではありますけど、よろしくお願いしますっ」


 明治文具事務員の白井凛子はぺこりと頭を下げた。


「実はなんと、自らと志願してくれたんだよ。ねえ、白井さん」

「せ、専務! それはナイショにしてくださいと……!」


 好々爺は、刻み込まれた笑い皺を浮かべてふぉふぉふぉと笑った。

 凛子は美琴と同い年の27歳。生え抜き5年目の美琴と違って、凛子は中途入社の2年目社員だ。ただ、短大卒である凛子のほうが社会人経験は長い。

 つまり凛子は、社内では後輩、社会人経験では先輩だ。


「いやあ、この間の企画を社長が気に入ってね。いろいろと便宜を図ってもらえるようになったんだよ。やるねえ室長!」

「助かります。が、プレッシャーですね……」

「ごめんごめん! 近々もうひとり加わる予定だからね。じゃあこれからも頼むよー!」


 どうやら美琴はいきなり2名の上司になるらしい。ありがたいんだか迷惑だか分からないが、猫の手も借りたい修羅場なのは確かだ。それを知りながら志願してくれた凛子には感謝しかない。


「白井さん、ありがとうございます」

「いえそんな全然ですっ。私も前職で似たようなことをした経験がありまして」

「だとすると至らぬ点ばかりお見せしてたかも……。何か、私が見落としている点とかありますか? 忌憚なく発言していただけると」

「あの、では。差し出がましいようですが――」


 遠慮がちに前置きして凛子が提案したのは、ユーザーへの意識調査だった。昨今はネットのおかげで市場調査も簡単だ。生の声を聴けないデメリットはあるが、自前でこなすより遥かに省力化できる。

 理路整然とした提案を聞く限り、凛子は本当に企画経験者なのだろう。後回しにしていたタスクを指摘されて胃が痛んだが、彼女はもう犠牲者なかまなのだ。

 ネギと土鍋を背負ってやってきた可愛らしい鴨を逃してなるものか。美琴は白井の両肩をガッシリ掴んだ。


「その市場調査、白井さんにお願いしていいですか!?」

「黒須さんのお役に立てるなら、喜んでっ!」


 *


「それで今日の黒須様はご機嫌なのですね」


 六本木のガールズバー《antiqua》。

 バーテンダーのシャンディに開口一番「いいことありました?」と尋ねられ、職場での出来事を語った直後のこと。


「だって、忙しいと知りながら志願してくれたんですよ? しかも手が回ってなかったリサーチを担当してくれるなんて!」

「つまり、その方とお近づきになれて黒須様は嬉しいのですね?」


 チームメンバーの凛子の話題になった途端、シャンディはジトリとした恨めしそうな目で見つめてくる。琥珀色の瞳は下弦だ。

 つい凛子のことを褒めちぎりすぎて、シャンディの機嫌を損ねてしまったかもしれない。美琴はどうにか場を取り繕う言葉を探す。


「私はシャンディさん一筋ですよ」

「はいはい、浮気屋さんの常套句クリシェですね。信じられませんよ」

「いや、本当ですから」

「なら、あたしにキスできますか?」

「う……」


 以前の出来事を思い出して、動揺してしまう。

 前回の勝負の際、シャンディは結局、《キス・ミー・クイック》を3杯おかわりした。提供したのはカクテルのみならず、の物も含めてである。負けてしまったのだからしょうがない。


「ほら、できないってことは一筋じゃないんですよ。浮気だー」

「いや、あの。キスは互いをよく知り合ってからの方がよいと思いまして。遊びのキスでシャンディさんを傷つけたくありませんし」

「言葉だけは誠実ですよねー。あれだけあたしにキスしといて」

「そ、それはシャンディさんが注文したからで」

「ふふっ」


 うろたえる美琴の姿にこらえ切れなかったのか、シャンディは空気を漏らした。アンティッカに漂うひりついた空気を、軽やかな笑い声が変える。


「冗談ですよ。ちょっとからかってみただけです」

「人が悪いですね……」

「でも、他の方の話をされて嫉妬したのは本当ですよ?」


 カウンターにぐいと身を預けて、シャンディが眼前に迫る。はっきりとした琥珀色の瞳の輪郭が、仄暗い店内でもよく見てとれた。


「アンティッカでは、あたしだけを愛してくださいな」

「シャンディさんを悲しませるようなことはしませんよ」

「……60点というところですね、まあいいでしょう」


 告げて、おつまみのお代わりを差し出される。《エックス・ワイ・ジー》を出されたらどうしよう、と内心ヒヤヒヤしていた美琴は、残り少ない1杯目のシャンディガフを干して、生ハムのマリアージュを心ゆくまで愉しむ。

 ただし、おつまみを追加したということは――


「では、お詫びの意味も兼ねて2杯目を」

「ふふ。あたしのことが分かってきたみたいですね」

「ええ、そのつもりで……」


 美琴は、最後まで自信を持って言い切ることができなかった。

 シャンディのことをほとんど知らなかったからだ。

 すでに片手を超える数アンティッカの扉をくぐっているのに、シャンディについての情報があまりに少ない、深刻なリサーチ不足だ。知っていることなどせいぜい《シャンディ・ガフ》が好きで、客を選んでいることくらい。

 はじめ西洋人形ビスクドールのようだと思い、西洋人の血が流れているのかとさえ疑った白皙も琥珀色の瞳も似た色の髪の毛も謎のまま。

 なぜアンティッカをやろうと思ったのか、なぜガールズバーなのか。

 そして、シャンディという源氏名なまえで覆い隠した本当の彼女の姿とは。

 彼女は謎が多い。謎が多いからこそ解き明かしたくなってくる。


「……そうだ、シャンディさん。今宵の遊戯ゲームなのですが、提案があります」

「ええ、どうぞ」

「勝負の内容はお任せします。が、『敗者はどんな質問にも答える』というのはいかがでしょう」

「ふふ、そんなにあたしのことが気になるんですか?」

「負けっぱなしですから。シャンディさんの秘密の一つや二つ聞き出さないとバランスが取れないもので」

「まあ、どんなことを聞かれちゃうんでしょう?」

「それは負かされてからのお楽しみです」


 シャンディは瞳を上弦に変えた。勝負を受けるという合図だろう。

 勝負内容を考えていたのだろう、シャンディはしばらく手を止める。そして小さく微笑んで、持ち出したシェイカーをカウンターに置いた。


「では、こうしましょう。黒須様の提案そのものを遊戯ゲームにします」

「どういうことでしょう……?」

「まあ、まずは今宵2杯目のカクテルからです。黒須様に当てられるでしょうか?」


 疑問符を浮かべる美琴の眼前に、シャンディは今宵のカクテルの材料を出して見せた。

 ――生卵だ。


「え、卵を使うんですか?」

「ええ、アレルギーの心配はありませんか?」

「大丈夫ですが、何をどうやって……」


 付け焼き刃のカクテル知識を紐解いても、使カクテルなんて聞いたことがなかった。美琴は身を乗り出して、彼女の細い指先に注目する。

 シャンディは卵を真っ二つのカップ状にすると、殻と殻との間で卵黄を右へ左へ。細い指先を器用に動かして卵黄と卵白を綺麗に分けてみせる。


「ヒントその1。このカクテルには卵白を使います。黒須様はお菓子作りの経験はありますか?」

「お恥ずかしながら、家庭科の授業程度です。卵白ということはメレンゲですか?」

「ええ、黒須様は口当たりのよいものをお好みですので」


 「例えばキスとか」と笑って、シャンディはハンドブレンダーで卵白を泡立て始めた。有線放送のアリアの調べに、モーターの回転音が加わる。幸いにして、本日のアンティッカは開店休業状態だ。耳障りなモーター音に気分を害する客は居ない。

 数分泡立ててメレンゲにした後、グラニュー糖を加えてさらに仕上げていく。容器の中のメレンゲは艶めき、あわ雪のように膨らんでいた。


「さて、ヒントその2。このカクテルはブランデーベース……というより、ほぼブランデーと言ってもよいものです」


 カクテルのベースとして重用される酒は、やはりジンとウォッカだろう。《ジン・トニック》や《マティーニ》、《モスコー・ミュール》や《バラライカ》など、スタンダードカクテルの大部分はこの系統に属している。

 もちろん、それ以外の材料でもカクテルは作られる。シャンディが好きな《シャンディ・ガフ》はビールだし、以前飲んだ《レオナルド》はシャンパンだ。

 ブランデーベースのカクテルも知識としては知っていた美琴だったが、問題はさきの卵白メレンゲだ。まるで思い当たる節がない。


「すみません、まったく分かりません」

「まあ、少しマイナーではありますからね」


 シャンディはシェイカーにブランデーを計り終えると、見覚えのある角瓶――ホワイト・キュラソーをバースプーン一杯注ぐ。あとは手早く氷を入れて、酒を冷やしながら角を取り、混ぜ合わせるシェイク。

 2つのショットグラスにカクテルを等量注いで、メレンゲをグラスの上に浮かべた。茶褐色のカクテルの上に、真白いメレンゲがゆらゆらと漂っている。


「こちら、《イエス・アンド・ノー》です。黒須様のための、メレンゲを使ったスペシャルレシピです」

「《イエス・アンド・ノー》……?」


 ただ復唱してしまった美琴に微笑みかけ、シャンディはカウンターに肘を突いた。ふたりの手前にはそれぞれ、《イエス・アンド・ノー》のショットグラスが置かれている。


このカクテルを使って、交互に質問をぶつけ合うのが今宵の遊戯。先に答えられなくなった方が負けですが、《イエス・アンド・ノー》を飲み干せば質問をなかったことにできます」

「なるほど、《イエス・アンド・ノー》は1回きりの切り札というワケですか」

「そういうことです」


 琥珀色の瞳を上弦にして、シャンディは頷いた。

 今回の遊戯、《イエス・アンド・ノー》は、シャンディの言うとおり質問合戦だ。いかに際どい質問を相手にぶつけるかが勝負のカギになる。

 シャンディの謎を暴きたい美琴にとっては、願ってもないチャンスだ。なぜならこの勝負であれば、勝とうが負けようがシャンディに質問をぶつけることができるのだから。


「よいのですか? シャンディさんが纏った美しい謎をはぎ取って、丸裸にしてしまうかもしれませんよ」

「質問の答えはイエスです。あたしにたくさん質問してくださいな。ただし――」


 シャンディはグラスを持ち上げた。勝負開始の合図――乾杯の催促だろう。

 同じくグラスを持ち上げた美琴の前で、彼女はころころと笑う。


「あたしも美琴さんに質問するということをお忘れなく」

「イエス」

「ふふ、遊戯のルールはバッチリ頭に入ったようですね」

「ええ、では始めましょうか、シャンディさん」

「ええ、イエスです」


 ショットグラスを触れ合わせ、乾杯。

 《イエス・アンド・ノー》対決の始まりだ。


「さて、順番的にはあたしからですね。早々に決着がついてもつまらないですし、ゆったり愉しみましょうか」


 「今のは質問じゃないですよ?」と告げて、シャンディは唇に人差し指を当てて、思案するような仕草を取る。そしておもむろに口を開き、笑顔で尋ねてきた。


「黒須様、質問です。あたしに勝つ気はありますか?」

「イエス。そちらも負ける気はありませんよね?」

「当然、イエスです」


 琥珀色の瞳は、自信に満ちて輝いていた。その双眸に見つめられる美琴の心にも、謎を解き明かして勝利したいという意欲が湧いてくる。

 美琴はもちろん、シャンディにも負けるつもりなどない。真剣勝負だ。


「このお店、アンティッカは気に入っていだだけました?」

「イエス。美味しいお酒と、美しいバーテンダーさんが味わえますから」

「ふふ、ありがとうございます。さて、お次は黒須様のターン」

「ええと……では。私はシャンディさんにとってよい客ですか?」

「イエスです。黒須様がお見えにならないと退屈ですよ。黒須様にとってはいかがです?」

「イエス。いつもシャンディさんに癒やされていますよ。お財布にはちょっと痛いですが」

「それだけの価値をあたしに見いだしてくれて感謝ですね」


 シャンディは名役者だ。表情や語調を微妙に変えながら、美琴の反応を伺おうとしているのだろう。普段の腹の探り合い以上に心地よい緊迫感が、美琴の心臓を高鳴らせていく。

 このままのペースで、甘い言葉を投げ合ってもよかった。だが、こんな表層的な質問の応酬では、シャンディの謎の奥深くにはまるで届きそうもない。

 なら、勝負に出るべきだ。美琴は掘り下げた質問にかかる。


「もっと踏み込んだ質問をしてもよいですか?」

「ふふ、イエスです。がっつきますね? あ、今のは質問です」

「イエス。ウソをつかず答えていただけますか?」

「さあ、どうでしょう」

「質問に答えてください。ウソをつかず、はぐらかさず。本当のシャンディさんを知りたいので」

「ではイエスとしておきましょう。黒須様もウソはつかないと約束していただけるなら。いかがです?」

「イエス。望むところです」


 シャンディはウソをつかないことを確約した。

 ここからは美琴のターンだ。余裕にあふれた適当な質問を繰り返す彼女をひと泡吹かせようと、思いきって踏み込んでいく。


「……シャンディさんに恋人は居ますか?」

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