#6 : Kiss Me Quick

「《今すぐキスして》」


 琥珀色の瞳が美琴を見つめていた。普段のアンティッカとは違う、オレンジの明かりに照らされたシャンディの白い肌には朱が指している。

 1杯目のパナシェの為せる技だろうか。ビールとサイダーで作った、度数にして2パーセント程度のカクテルで、バーテンダーの彼女がここまで頬を朱く染めるものだろうか。


「シャンディさん……?」

「《今すぐキスして》ほしいの」


 シャンディがじわりと美琴との距離を詰めてくる。パナシェで潤った唇が間近に迫る。

 別段、キスなんて恥じ入ることではないはずだ。周りには誰も居ないし、すでに二度唇を――本意ではないが――合わせたこともある。さらに過去を振り返れば、異性とも同性とも普通に経験していることなのに。

 なぜこうも心臓を鷲掴みにされるのだろう。美琴には分からない。

 そして分からないのは、そのについて。


「……《キス・ミー・クイック》をご所望ということでよろしいですか」

「なーんだ、知ってたんですか。カクテルの名前だって」

「ええ、名前だけは」


 ネタをバラされたからだろう、シャンディは即座に居住まいを正し、酒瓶のいくつかを美琴の前に並べていく。先ほどまでの蠱惑的な仕草はどこへやら、普段通りの笑顔を見せて立ち上がった。


「手取り足取り教えてあげますよ。せっかく作っていただくのなら、美味しいを愉しみたいですから」


 告げてシャンディは、椅子に座る美琴の後ろに回った。そして美琴の脇腹から手折れそうなほどに細い腕が伸ばされ、手と触れ合う。

 まさに手取り足取りだ。美琴の手の甲に触れたシャンディの指先は温かかった。


「言葉通りの手取り足取りですね」

「お嫌いですか? こういうの」


 背中と両手、右耳にシャンディの温もりを感じる。例のオレンジの香りが、まるで自身から立ち上ってくるようだ。

 うかつに返事をしたら負けてしまう。悟った美琴は、グラスのパナシェを干して自身で口を封じた。


「ではレッスンを始めましょうか、美琴さん」

「……お願いします、シャンディ先生」


 美琴の指の間に、シャンディの指が絡む。絹のような感触と温かさが、美琴の手を火照らせる。自身の身に起こるすべてを酒のせいにして、シャンディの導きのままに、酒瓶とメジャーカップを掴んだ。

 カクテル《キス・ミー・クイック》勝負の始まりだ。


「まずはメインの《アニスリキュール》です。当店では《ペルノ》を使います。これを60ml。メジャーカップの大きい方でなみなみと、小さい方で3分の1くらい計量してください」

「アニスのリキュールですか?」

「香草を漬け込んだお酒ですよ。アニシードの他、十数種類のハーブが奏でる、独特な草の風味と爽やかな味わいが特徴です」


 シャンディに手を添えられて、美琴はリキュールをカップで都合二度計量する。メジャーカップに注ぎ、手首を返してシェイカーの中へ。美琴の動きに寄り添うように、シャンディが器用にリードする。


「……計り終えました」

「上手いものですね。指導がいいのでしょう」

「よい指導者は、生徒の耳に息を吹きかけないと思いますが」

「普通に話しかけているだけですよ?」


 耳元で囁かれるたびに、シャンディの吐息多めの笑い声が美琴の脳を揺らす。付き合いで飲んだマズい酒と、パナシェが回っているらしい。


「次は《オレンジキュラソー》をバースプーン1杯。そして《ビターズ》を2振り」


 柄がくるくると螺旋を描く細長いバースプーンをふたりして摘まみ、角瓶のキュラソーを計量。ビターズは醤油差しにも似た小瓶に収まっているため、それを2振り。手元の震えを悟られぬよう、言いつけ通りにシェイカーに注ぎ、スプーンで軽くステアする。


「軽く味見をしておきましょう。スプーンをひと舐めしてくださいな」


 スプーンの背に舌を伸ばし、まだ知らぬ3種の酒を味わう。舌を刺すアルコールの強さ。それを追いかけて、キュラソーの柑橘香に、草原を思わせるアニスリキュールの薫りが鼻を抜けていく。後に残るのはビターズのはっきりした苦みだ。


「これもまた複雑な味ですね。そして濃い……」

「甘いキスができるのは、子どものうちだけですから」


 スプーンを握っていた美琴の手が、背中に密着したシャンディに引っ張られる。先ほど美琴の舐めたスプーンは彼女の口元に吸い寄せられていた。間接キス。


「悪くありませんね。最終的に炭酸で割りますし、あたしは濃いめが好きなので」

「では次はいよいよ」

「お待ちかねのシェイクですよ」


 持ち出したアイスペールに、美琴はトングを突き刺した。氷を溶かしてしまうくらいに熱ばった右手で、手早くシェイカーに氷を入れていく。


「よくお勉強なさっていますね。液体に浸した瞬間から、氷は溶け始めます。美味しいカクテルを作るコツは、いかに氷を溶かさずに早く仕上げるか」


 饒舌なシャンディは、普段の何倍も吐息を多めにして美琴に背後から語りかける。

 耳に息が掛かり、集中の糸が何度となく途切れる。自分が何をしているのかさえも朧気だ。ぼうっとしてくる。すべてを酒のせいにして、美琴はなんとか自己を保つ。

 カクテルすら作れないようでは、完全なる不戦敗だ。シャンディに何をされるか分かったものじゃない。

 美琴はどうにか工程を終えた。氷を詰めたシェイカーの上半分――ストレーナーとトップ――でカッチリと蓋をする。


「蓋をする時は、シェイカーの中の空気を抜くように。そしてシェイクの際は、カクテルの中に空気がたくさん含まれるように。バーテンダーは空気を読むことが大切です」


 ふっと、背後に回っていたシャンディが離れた。隣席で肘を突き、美琴のシェイクを見物するつもりなのだろう。

 美琴はかつてシャンディに作ってもらったマティーニを思い出し、銀色のシェイカーを両手で持ち上げた。


「シェイクの技法にはいくつか流派がありますが、とやかくは言いません。あたしはバーテンダーの美琴さんに注文をしたのですから、美琴さんの思うままにどうぞ」

「……いきます」


 無心で腕を振った。シャカ、と氷の音がする。シェイカーの中で、氷が動くのが手のひらにかかる圧で分かる。そこからは見よう見まねで、卵型の容器を振る。

 液体と氷の奏でる、リズミカルな音。振れば振るほどシェイカーが冷たくなっていく。酒が満遍なく冷やされ、混ざり合い、そして空気が含まれて角が取れて丸くなっているのだ。

 以前、シャンディが言っていたことを美琴は思い出す。


 ――どんな個性を持つ者でも、混ぜ合って溶け合えばおいしいカクテルになる。あたしはそう思いますよ。


 アニスリキュール、オレンジキュラソー、ビターズ。

 3種の細かい性質のことまでは美琴には分からない。ただ無心に、混ざり合え、溶け合えと念じながら、不格好なシェイクを繰り返す。

 当初抱いていた『あえてダメなカクテルを作って遊戯に負ける』などという考えは、いつの間にか消えていた。

 今の美琴が抱くのはただひとつ。


 ――美味しい《キス・ミー・クイック》で、シャンディを唸らせる。

 そう考えていないと、シャンディの体温を、耳にかかる吐息を思い出して、恥ずかしくて死んでしまいそうだったから。


「……そろそろよいでしょうか?」

「さほど混ざりにくい材料でもありませんし、20回も振れば充分ですよ。さあ、仕上げです」


 シャンディが出したタンブラーグラスは既に冷やされていた。《キス・ミー・クイック》は、シェイクした酒を炭酸水で割ることで完成する。

 シェイカーのトップを外し、淡い黄色に濁った酒をグラスに注ぐ。氷が溶け出さないように手早く中身を注ぎ終えたら、仕上げの炭酸水をゆっくりと。最後にスプーンで本当に軽く――炭酸の気泡を壊さないように――ステアして、美琴はスプーンの背を舐めた。


「……会心の出来です」

「では、美琴さんらしい気の利いた一言とともに、提供してくださいな」


 小さく息を吸って気恥ずかしさを押し込めて、美琴はグラスをシャンディの前に置いた。


「《キス・ミー・クイック》です。私からさしあげる、貴女好みの濃厚なキス。唸っていただけますか?」

「ええ、唸りたいです」


 ころころと微笑み、シャンディはグラスを持ち上げた。

 冷やされて水滴のついたグラスの中は、淡い黄色に濁っている。加水されると色が変わるのはアニスリキュール――ペルノの特徴だ。

 彼女の琥珀色の瞳は、新月に変わった。まぶたを閉じ、静かにグラスに口づけする。まずは一口軽く含んで、シャンディはほうっと息を吐く。


「……いかがですか?」

「どちらだと思います?」

「はぐらかすのがお好きですね、シャンディさんは」

「やりとりが好きなんですよ。本音を隠しつつも、あえて隠しきらない。美琴さんとの、そんな言葉の応酬が」

「私もですよ」


 シャンディは二口目に掛かった。今度は先ほどよりも長く口づけして、黄色の液体を吸い込んでいく。彼女の頬に掛かる髪の毛が、わずかに覗く耳が、その横顔が、この世のどんなものよりも美しかった。


「……おいしいですね。美琴さんが作ったという事実のおかげでしょうか」

「それはということでよろしいですか?」


 彼女はグラスを置き、苦笑した。


「ええ、あたしの負けです。初めて負かされちゃいました」

「やった……!」


 とうとう、長い連敗続きの遊戯で勝ち星をもぎ取れた。

 美琴は思わず手を握りしめ、小さく震わせた。何故なら、美琴はとうの昔に忘れていたのだ。

 この遊戯は負けるが勝ちの逆転試合。シャンディを唸らせて勝ってしまえば、先に待ち受けるものは――


「ということは、敗者のあたしは勝者に命令できるワケですね」

「え? あ……!」


 カクテル試合に夢中になりすぎた。気づいた時には、すべてが遅きに失している。

 美琴は試合に勝って勝負に負けたのだ。

 これにはさすがに抗議のひとつもしたくなる。


「いや、待ってくださいよ。すべてはシャンディさん次第じゃないですか。どんなにマズいカクテルを作っても判定を下すのはシャンディさんでしょう?」

「だって本当に美味しいんですもの。美琴さんもいかがです?」


 わざわざグロスがついた方を向けて、シャンディがグラスを差し出す。くつくつとイタズラに笑うシャンディに負けたくなくて、美琴は間接キスも厭わずグラスに口づけした。


「お味の方はいかがですか?」

「……おいしい、です」

「才能を感じる味ですよね」


 美琴はビギナーズラックの恐ろしさに項垂れた。そもそもレシピも材料の計量もシャンディに手取り足取り教えてもらったのだ。シェイクこそひとりで行ったが、それも彼女に指示を仰いだもの。マズく作れようはずがない。


「せっかく勝ったのに、負けた……」

「ふふ。じゃあ約束通り、お願いを聞いてもらいましょうか」


 上弦の瞳が、美琴を見上げていた。

 もう逃げられないだろう。そもそもこれは美琴とシャンディふたりの遊戯。一度受けた勝負から逃げるようでは、シャンディに挑む資格もない。美琴は覚悟を決めた。


「私にできることなら、ですよ?」

「大丈夫です。簡単なことですから」


 言うなり、シャンディは美琴に抱きついた。美しい人形のような白い顔が、美琴の眼前に迫る。

 反射的にシャンディを抱き止めてしまった美琴は、大人びた冗句で必死に動揺を隠す。


「酔ってしまったようですね?」

「ええ、酔わされました。美琴さんに」


 つうっ、と。美琴の背をシャンディの指先が伝う。着込んだ冬服の上からでも分かる、やさしい感触。こそばゆさと気恥ずかしさと――わずかな心地よさを抑えて、美琴はシャンディの言葉を待つ。


「……あたしからのお願いです、構いませんか?」

「ええ、なんでしょう」

「《キス・ミー・クイック》」


 流暢な英語でシャンディが告げたのは、先ほど作ったカクテルの名前だ。

 その意味するところは《今すぐキスして》。


「……おかわりが欲しいということでしょうか?」

「ええ、次はを戴きたくて」

「以前のように、奪ってはいかがです?」

「奪われたいんですよ、美琴さんに」


 琥珀色の瞳が閉じられ、シャンディは唇を閉じた。

 美琴の心臓が、血管がひどく脈打つ。視界が明滅を繰り返す。吐息が掛かるほど近くに、美しくも愛らしい彼女の顔が迫っている。背中には両手が回され、さらに美琴自身も、彼女を抱き止めている。シャンディの纏うオレンジの薫りには、もう鼻が慣れてしまった。いや、きっと麻痺してしまった。

 美琴に感じられるのは、自身があまりにも動揺しているということだけ。

 理由はわからない。

 過去に二度奪われた相手の唇を奪うだけのことなのに。

 それまでにも異性や同性とキスしてきたことはあるというのに。

 しかもこれは、単なる遊びのキスだというのに。


「……あまり待たせないでください。あたしも恥ずかしいですから」


 瞳を閉じたまま、シャンディが急かす。

 美琴は脳裏をよぎったひとつの可能性を。自身がシャンディを欲しがっているのかもしれないという気の迷いを、アルコールのせいにしてかき消した。


「下手だったらすみません」

「上手過ぎるよりいいですよ」


 美琴は静かに、シャンディの唇を奪った。

 短く。小鳥がさえずるような、触れ合うだけのキス。

 その間のわずかな沈黙が、遥かに永い時のように感じられた。


「……終わりました」

「ええ」


 シャンディは満月を覗かせた。潤んだ瞳はすぐ、上弦に変わる。


「……子どもみたいなキスでしたね?」

「き、キスの品評はやめてください」

「いえ、甘くておいしいと言う意味ですよ」


 とうとうこらえ切れず、美琴は顔を伏せた。動揺して恥ずかしさで死にそうになっている真っ赤な顔をシャンディにだけは見られたくなかったから。


「今日の遊戯も、あたしの勝ちでいいですね?」

「はい……。私の完敗です……」

「ふふ。でも、よく頑張りました。健闘を讃えて、タダにしておきます」

「それはありがたい限りですね」

「ええ、じゃあ。お代わりをいただけますか。《キス・ミー・クイック》の」

「……どちらをお出ししましょう?」


 シャンディはイタズラっぽく微笑んだ。


「あたしはよくばりなので、両方です」


 ――本日の遊戯、美琴の完敗。

 ただし五千円は浮いた。

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