#5 : Panache
――シャンディにキスをされた。
昨晩のアンティッカで起こった事件が、美琴の頭の中に残っていた。
帰宅する最中も、眠る時も。起きて出社する時も出社してからも。シャンディの声と明かりに照らされた白い肌と、そして唇同士が触れ合った柔らかな感触がこびり付いて離れない。まるで二日酔いだ。
「いや、あれは全部
光景がフラッシュバックするたびに、ぶつぶつ小声で呪詛を吐く。シャンディにとって自身は『選ばれたただの客』に過ぎず、『特別な客』なんかではない。むしろシャンディが客を選んでいるかどうかすら真実とは限らない。
すべては、シャンディが美琴を陥れるために仕掛けた恋の罠。手を変え品を変え、お店にお金を落とさせよう、散財させようと企む商売女のリップサービスに過ぎない。
そう、まさしくリップサービスだ。
甘い言葉の弾丸のみならず、甘酸っぱい唇さえ使ってくるような――
――あたしとの《キス・イン・ザ・ダーク》。こんなカクテル未満のものをお出しするのは美琴さんだけ。
「あれは単なる遊びのキスだから……」
思い起こされるのは、意味深なシャンディの言葉ばかり。そのたびに琥珀色の瞳が脳裏に浮かぶ。十五夜の満月と上弦を繰り返す満ち欠け自在の名月がふたつ、美琴を捉えて離さない。
「あれは単なる遊びのキスだから……!」
事あるごとに呪詛を吐いていると、いつの間にか仕事は終わっていた。先の新商品アイディアを他社に譲り渡すため、資料を営業社員に渡す手筈になっていたのだ。なんとも虚しい業務ではある。
社内での書類の往来に使う紙袋に――IT化の波に溺れる明治文具では、ペーパーレス社会などどこ吹く風である――資料と新商品のモックを詰め込んで、事務員に手渡した。
「これ、営業の青海さんに送付お願いします!」
「あの、どうかしました? 黒須さん」
「どうかって、何がですか?」
「いえその、大変そうだと思って」
事務員が言葉を濁したのは、暗に美琴の置かれた状況を察しているからだろう。あるいは、心の浮き沈みが激しい周期の中にあると思われたのやもしれない。
もちろん正確には昨晩のシャンディが原因だが、訂正するのももどかしい。美琴は、素直に彼女の勘繰りに乗ることにした。
「すみません。ちょっと思い通りにいかないことがあって、気が立ってまして。気をつけます」
「プロジェクトのことですよね、分かります。無理難題ですよね、あれ」
「無理難題……」
プロジェクト外の人間からも、美琴には分不相応な仕事だと思われている。自身の身に余る仕事であることは百も承知だ、むしろ考えないようにしていた真実を思わぬ人物に突きつけられて、美琴はがっくりと肩を落とした。
「……あ! い、いえ違うんです。黒須さんが能力不足って言ってる訳じゃなくて」
「大丈夫です。実際、私だけじゃ時間も能力も足りないと痛感しているので。もう何人か人員を割いてくれればいいんですが、それも難しそうですから」
「なんだか、すみません……」
事務員の言葉を聞き流し、美琴は自席に取って返す。手早く帰り支度を整えると、オフィス――と言っても昭和の中小企業感漂う木造の掘っ立て小屋だが――の出入り口側にあるホワイトボードに、これからの予定を書き込んだ。
――社外打ち合わせ・直帰。
「じゃあ白井さん。書類送付お願いします! お疲れさまです!」
「お、お疲れさまです」
ヒールを鳴らして駆けて行った美琴から視線を下げて、事務員・白井凛子は受け取った封筒のラベルを見た。
《次期主力商品開発プロジェクト 資料一式在中 取扱注意》
走り書きのラベルに書かれた《黒須美琴》の名前を指先でなぞり、凛子は静かに、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……手伝いたいな、黒須さんの仕事」
*
営業本部長に随伴し訪れた大企業・日比谷商事の接待がその日の美琴の仕事だった。明治文具が誇る女性プロジェクト室長という要らぬ肩書きを押しつけられ、優秀な女性を演じながらも酌をして担当者を褒めそやすという死ぬほどどうでもいい業務である。
しかも仕事の話は最初だけ。その後は今年のペナントレースの予想や、共通の趣味であるらしいキャンプの話、果てはワイドショーを賑わせている日比谷社員3名の集団自殺事件について、不謹慎にも面白おかしく語り始める始末だ。どの話題にもまるで興味のない美琴は、ずっと適当に相づちを打っていた。
仕事の付き合いで飲むお酒は、本当に美味しくない。
どうせ飲むなら、アンティッカで飲みたい。
美琴の脳裏をシャンディの声、顔、そして唇の感触がよぎる。
――キスしてはいけないなんてルールはどこにもありませんから。
「シャンディさんに会いたい……」
ふと口を突いて出た言葉に、美琴自身驚いた。
ようやくにして開放された頃には、時刻は23時を回っていた。仕事中も接待の席でも、今日一日シャンディのことばかり考えている。彼女にキスされた真意は? 答えは、遊戯の一環だ。彼女はリピーターになりそうな客を選んで、リップサービスをしているだけ。
でも、あのキスはただの遊びなのだろうか。いや、遊びに違いないことは分かっている。だけど遊びだとは思えない――思いたくない自分が、美琴の心の中に居る。
なぜ、そんなことを考えてしまうのか。なぜ、こんなにも焦がれているのか。
これがもしや――恋というものなのだろうか。
「なワケないからー! あははははー!」
イヤイヤ飲み会に付き合ったとは言え、酔いはしっかり回っていた。
美琴はひとしきりケタケタ笑うと、終電間際にも関わらず自宅とは正反対の六本木へと向かっていた。
*
「あれ、閉まってる……」
六本木の路地裏。雑居ビルの3階に位置する《antiqua》のドアは固く閉ざされていた。
アンティッカで夜を明かせばいいと考えていた美琴を待っていたのはシャンディではなく、酔いすら醒ます真冬の寒さだ。
日付変わって土曜日の零時過ぎに、一夜を明かせる場所がそう簡単に見つかるだろうか。途端にあの日――初めてシャンディと出逢った日の記憶を思い出す。シャンディに会えたから、多少高くついても一夜を明かせたのだ。だが今日は、夜を明かす場所はどこにもない。
「最悪だ……」
「本当ですよ。今日はもう来ないと思って閉めたところだったのに」
声に振り向くと、わずかに開けられたドアの隙間から覗く琥珀色の瞳が見えた。シャンディだ。
閉店直後に半ば押しかけてしまったらしい。申し訳なくなって、美琴は思わず謝ってしまう。
「すみません、今日は帰ります」
「終電もないのに?」
「いえまあ、タクシーでも拾って帰ればよいので……」
「ちょっと待ってください」
ドアを閉めて数秒後、シャンディは再び美琴の前に現れた。
今宵の彼女は、白のジャケットとスーツではない。膝丈まであるダウンコートにくわえ、普段は結わえている髪の毛を無造作に降ろしている。
「ここから黒須様の家まで、タクシーで帰るといくら掛かりますか?」
「五千円くらいですね」
「タクシーにお金使うくらいなら、ウチで飲みましょう。五千円分」
「え」
思わぬ提案に、美琴は固まった。
「……シャンディさんの
「違いますよ。
「あ……」
恥ずかしい勘違いをしてしまった美琴は、急に縮こまりたくなってしまった。
そんな美琴の羞恥心を敏感に察知して、シャンディは当然のように満月の瞳を上弦にする。体のいいオモチャを見つけた少女のように、からかいがいのある子供を見つけた妖艶な美女のように微笑んでいる。
「あたしの家に上がり込んで、何をするおつもりなのかしら?」
「な、何をするつもりだと思います? シャンディさんは何をされたいですか?」
「慌ててオトナっぽく振る舞ってもダメですよ。かわいい黒須様」
「いえあの、振る舞ってる訳ではなくて」
「ええ、そうですね。黒須様は、あたしの前ではクールキャラです。クールキャラですとも」
こらえられないとばかりに口元に細い指を当ててシャンディは笑った。
勘違いを晒し、さらにはシャンディと逢う時の大人びたクールな女性の雰囲気すらもウソであると見抜かれてしまった。
これでは
「立ち話もなんですから、店内で温まりましょう」
「つ、つまり今宵はシャンディさんを貸し切りですね」
「ええ、邪魔も入りません。貴女に酔わせてくださいますか」
「お任せを」
「よくできました。期待していますね」
いつもの含み笑いとともに、美琴はシャンディに手を引かれた。昨晩、キスをされた半畳ほどの暗闇、玄関ポーチと店内を隔てるカーテンを抜けると、普段とは異なる煌々と照らされたアンティッカが広がっていた。
「この距離感で飲むのは初めてですね」
コートを脱いで例の壁際の特等席に案内された美琴の隣に、グラスと酒を携えてシャンディが座る。
今宵のバーテンダー・シャンディは完全にオフの出で立ちだ。髪は重力に逆らうことなく緩やかに下りて、コートを脱げばグレーのパーカー。手元には一応カクテルを作る道具があるが、美琴の知る限り必要最低限といった様相だ。
「では、1杯目は何にいたしましょう」
「まずはシャンディさんで酔いたいですね」
「あたしも同じでしたけど、ジンジャーエールを切らしてまして」
軽く眉をハの字に曲げて、シャンディは缶ビールと三ツ矢サイダーの栓を開けた。ふたり分のピルスナーグラスに材料を等量ずつ注ぎ、淡い琥珀色のカクテルを作る。
「今宵は代わりに《パナシェ》で」
「乾杯」
静かにグラス同士でキスをする。
横顔を見ながら味わう2種の炭酸の刺激は格別のものだ。シャンディ・ガフよりも淡い色のパナシェのグラスには、美しいシャンディの姿が映っている。しばらくその様子に見とれていると、グラスの中の女性がゆっくりと口を開いた。
「お客様とカウンターで飲むなんて初めてですよ。それもふたりきりでなんて」
「私は特別な、選ばれしお客ということですね?」
「自分で言っちゃうんですね」
例の自惚れを冗句に変えて、二人してひとしきり笑う。
シャンディはよく笑う女性だ。含み笑いや、意味深な微笑み、敢えての苦笑いなど、いくつもの笑みを使い分けている。スマイルはゼロ円と言っていた以上、それらはすべて営業用のものだ。
だが、今のシャンディはオフの姿。白のジャケットを脱いで髪を解くと、彼女の笑顔がまるでウソには見えなくなる。
「でも、そうですね。黒須様は特別です。特別じゃなきゃ、ホンモノの《キス・イン・ザ・ダーク》をお出ししたりしませんもの」
昨晩、暗闇の中でキスされた記憶がよぎる。
あれは遊びのキスで遊戯の延長上に過ぎない。むしろ必要以上に狼狽えては、またしてもシャンディに付けいる隙を与えてしまう。
美琴はそう自身に言い聞かせ、キスのことには触れず続けた。
「素敵な名前ですね、《暗闇でのキス》でしたっけ」
「ええ。由来をご存じですか?」
シャンディはグラスを置き、美琴の肩に身体を預けてくる。彼女の付けている香水か、はたまた使っているシャンプーかは分からない、オレンジの薫りが美琴の鼻腔と心臓を刺した。
高鳴る鼓動を1杯目のパナシェのせいにして、美琴は尋ねる。
「すみません、由来までは」
「元々は、禁断の恋に焦がれたご婦人の使う暗号だったんです。それをどこかの気が利きすぎるバーテンダーが複雑な味のカクテルに変えた。『《暗闇でのキス》をせがむのは、貴方と火遊びしたいから』だと、意中の人にそれとなく伝えられるように」
「ロマンティックなお話ですね」
「ええ、いま考えました」
アンティッカ流の冗句だ。ころころ笑うと、シャンディは空になったグラスの縁を細い指でなぞる。
「でも、信じちゃいましたよね。それがカクテルの魔法なんです。カクテルのある場では、普段とは違う自分を演じられる。ありたいと思う自分で居られる。そう思いませんか?」
「私は……」
上目遣いで見つめられ、美琴は答えに窮する。シャンディが突然露わにした店では見せない顔だ。そんな彼女を綻ばせるための正解を探す。
「シャンディさんの前だけですよ、こんな私で居られるのは」
「鼻の下伸びてますよ?」
「えっ……!」
思わず口元に手を当ててしまい、美琴は術中にハマったことに気づく。
「ウソですよ。ほんのり赤く染まった、愛らしいお顔です」
「……悪いバーテンダーさんですね」
「今宵はバーテンダーじゃありません。黒須様……いえ、美琴さんと同じ酔客です」
「なら、
「それとこれとは別ですよ。今宵は……そうですね、勝者が敗者の言うことを聞く、でどうですか?」
「勝った方が言うことを聞くんですか?」
「だって美琴さん負け続けですし。どうせ今宵もあたしに負けるんですから、このくらいのハンデは必要ですよね」
「むう……」
じっとりとした上弦の瞳で見つめてから、シャンディは酒瓶と副材料をカウンターに置く。くわえてグラスにシェイカー、メジャーカップと、ほとんど営業中と遜色ない品々が現れた。
これからシャンディがどんな勝負をけしかけてくるか。美琴の酔った頭でも察しはついた。
「美琴さんはカクテルをお勉強中だそうですので、あたしが
「無理難題ですね……」
「ええ、あたし相手にカクテル勝負だなんて敗北は必至。ですが美琴さんにとってはこれ以上ないチャンスですよ。あたしを言いなりにしたいなら」
シャンディの言う通りだ。今回の遊戯は、負けるが勝ち。
カクテルを作って彼女を唸らせれば美琴の勝利だが、勝利すれば彼女の言うことを聞かねばならない。シャンディの言いなりになるようなことがあれば、冷静では居られなくなるだろう。それは何としても避けたかった。
つまり美琴が取るべき勝ち筋は、彼女が「要らない」と突き返すようなカクテルを作って敗北すること。すなわち、負けるが勝ち。
敢えてダメなカクテルを作ることに抵抗はあったものの、ようやく巡ってきた勝ち星のチャンスだ。美琴の奥底にふつふつと闘志がみなぎってくる。
「……分かりました、ハンデをつけたことを後悔させてさしあげましょう」
「後悔させてくださいな」
美琴はシャンディがしていたように見よう見まねでシェイカーとメジャーカップを取り、威厳たっぷりに告げた。
「では、シャンディ様。ご注文は?」
「そうですねえ……じゃあ」
告げた途端、美琴の目と鼻の先にシャンディが顔を近づける。彼女のオレンジと、干したパナシェの酒精の薫りが顔面と美琴の心臓を殴りつける。
「《今すぐキスして》」
幼気な少女のようで、妖艶な美女のようで、はたまた美意識の集大成たる人形のようなシャンディの顔が、至近距離に迫る。
美琴は再び、固まった。
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