#4 : Kiss in the Dark

「購買層がズレてるんじゃないかなあ」


 会議室。美琴のプレゼンの直後、議場に同席していた専務がいの一番に声を上げた。

 明治文具・次期主力商品開発プロジェクト。会社役員たちから若さと女性ならではの視点を期待されてしまった美琴がなんとかまとめ上げた新商品、初お披露目の場での出来事だ。

 新商品は、文庫本サイズの薄型モノクロタッチ液晶にBlueToothを搭載したもの。付属のペンを使ってタッチパネルにメモをすると、本体と連携しているスマホやタブレット、PCなどと半自動的に同期し、メモのバックアップが行われる。いわゆるデジタルメモ機能ガジェットだ。


「確かにデジタルガジェットの購買層は男性顧客でしょう。女性にウケない理由としては4つ、《設定に手間がかかること》、《可愛げがないこと》、《日々のお手入れが面倒であること》、《価格帯》です」


 プレゼンの最中も、美琴はずっと――決裁権を持つ――専務の顔色を窺っていた。最後まで口を挟まずプレゼンを聞いてはいたものの、専務の反応はあまり芳しいものではなかったのだ。

 だがこの企画は美琴が悩み抜いて産み出した虎の子だ。みすみす我が子を殺されてなるものかと態勢が決しかけた現状を打開すべく、説明にも熱が入る。


「ですが、こちらの新商品は近年主流の無線イヤフォンと同じく、面倒な設定は一度きりのBlueTooth端末です。また文庫本サイズにしたことで市販のブックカバーで好きにアレンジできますし、バッテリーで20時間駆動、無接触給電にも対応しています。価格帯もモノクロ液晶を採用したことで、実売価格も抑えてあります」

「うん、それは素晴らしいことだとは思うんだよ黒須さん。ただねえ……」


 専務は、ほとんど髪の毛の残っていない頭を掻いた。

 穏やかな人徳者、好々爺として知られる専務は、明治文具でずっと鉛筆とメモ帳を作り続けてきたアナログ人間だ。そんな彼にデジタルメモをプレゼンするのは美琴としても気が引ける部分はあったが、そうでもしないと改革などできるはずもない。


「この企画はウチの強みを活かせないんだよ。もちろん、とてもよく考えてもらえているし、黒須さんの想いは伝わるよ。頑張ってくれたね」


 専務は穏やかな笑顔を見せる。ただ、それがこの先の発言の前フリであることは美琴も分かっていた。


「だがね。経営判断の立場から言わせてもらうと、この企画を次期主力商品として推すのは難しいんだ」

「では――」


 ボツという言葉を呑み込んだ美琴に、専務は「いやいや」と手を左右に振った。


「この案は提携会社に持ち込んでみよう。ウチじゃ本体は作れなくとも、タッチパネル用のペンとか本体カバーなんかは作らせてもらえるんじゃないかな」

「そう、ですね」


 曖昧に笑って、美琴はムリヤリ自分を納得させた。

 確かに、明治文具にはデジタル製品のノウハウがない。改革を謳っているとは言え、強みを活かせない企画案を作ってしまったのは美琴自身のミスだ。

 だが、無茶ブリされてもイヤイヤでも、腐ることなく考え抜いた虎の子の企画案なのだ。それがみすみす自分の手を離れ、作れたとしても周辺の細々したパーツだけというのはつらく、むごい。心にぽっかりと穴が空く。


「じゃあ、引き続き別案を頼むね。黒須さん」

「分かりました……」


 これならば、すべての努力が水泡に帰した方がまだマシだ。

 会議室の後片付けをしていた美琴に、定時を告げるチャイムの音が「もう1回頑張ってみよう」と語りかけていた。


 *


「へえ。お仕事で失敗しちゃったワケですか」

「恥ずかしながら、です。失敗していた方がマシな結果でしたが」


 傷心した美琴の足は、六本木の路地裏にあるガールズバー《antiqua》に向いていた。出迎えと共に繰り出されるシャンディの小粋な冗句にすら対応できず、今日の会議のことを――社外秘を伏した上で――洗いざらいぶちまけた直後のこと。


「さて。そんなお仕事のツラさを一瞬でも忘れる方法があるんです。ご存じですか、黒須様」

「ええ、注文オーダーですよね」


 シャンディは短く笑って、カウンターに肘を突いた。美琴の眼前まで迫った琥珀色の瞳が、今宵1杯目のオーダーを今か今かと待ち構えている。

 美琴が少し身体を傾ければ、シャンディと口づけできるほどの距離。アンティッカの薄明かりの中でも、彼女の艶やかな唇に挿した光が見てとれる。

 その時、美琴はふと思い出した。


「そう言えば、マティーニ勝負がうやむやになっていましたね」

「そうでしたっけ?」


 シャンディは何食わぬ顔で笑いかける。先日の互いの唇を賭けたマティーニ勝負は、敗者が勝者に唇を捧げるというどちらが勝ってもキスをする出来レースじみたものだ。違いと言えば、どちらから捧げるか程度のことでしかない。


「眠ってしまいましたし、前回は私の負けでいいです。ですのでさっそく、シャンディさんに唇を捧げようと思いまして」

「構いませんよ、黒須様だったら。まあ、キスができるものならですけど」


 シャンディは挑発的な物言いとともに口角を上げた。余裕を湛えた艶やかな唇に、視線が吸い寄せられそうになる。

 美琴はカウンターに身を乗り出して、シャンディに1杯目を捧げることにした。


「ええ。なら本日の1杯目はシャンディさんとのキス――」


 と言いかけてから、シャンディの耳元に息を吐いた。


「――ではなく、《キス・イン・ザ・ダーク》をお願いします」

「……っ!」


 思わず仰け反ったシャンディの顔色は、アンティッカの暗闇の中では窺えない。それでも、反応を見るに一矢報いることができたのは事実だろうと美琴は内心で満足した。


「せっかく捧げたの注文です。おいしく作ってください、シャンディさん」

「……悪いお客様ですね、黒須様は」

「そちらも悪いバーテンダーさんでは?」

「悪いあたしのほうがお好きみたいですから」


 言って、シャンディはいつものように満月の瞳を上弦に変えてみせた。それにつられて美琴も笑みを返す。

 これは美琴とシャンディの遊戯ゲーム。本気にしてしまった方の負けの、悪い客と悪いバーテンダーが夜な夜な繰り返す危ない遊びだ。


「では、お作りいたします。とびっきりダーティーで、意味深なキスを」


 シャンディは手早く、1杯目に取りかかった。

 《キス・イン・ザ・ダーク》は先のマティーニと似たカクテルだ。マティーニとの違いはジンとベルモットの配合比と、追加でチェリーブランデーを使用することにある。

 それらすべての材料を冷凍庫からテーブルに並べ、シャンディはメジャーカップで計量を始めた。


「さすがはバーデンターですね。素人の私の注文を確認もせず作れるだなんて」

「レシピと材料の比重、味の系統を覚えていれば、製法は自ずと絞られますよ。相性の悪いものを混ぜ合わせるならシェイク、相性がいいものはステアで充分、と言った具合に」

「私とシャンディさんはシェイクの関係ですか? それともステア?」

「ふふ、今日は攻めますね? 黒須様」

「シャンディさんの可愛らしい顔が見たいと思いまして」

「こうですか?」


 シャンディはふくれっ面を晒してみせた。イタズラで捻くれた少女の顔だが、今宵の美琴はそんなものでは誤魔化されない。

 シャンディがあえておどけてみせたのは、本心を悟られるのが恥ずかしいから。だからもうひと押しすれば今日こそは遊戯ゲームに勝てる。そう考え、美琴はシャンディの鼻をどうにかして明かすべく、言葉の弾丸を放つ。


「質問に答えてくださいませんか、シャンディさん。私と貴女の関係は?」

「さて、どちらでしょうね」

「今夜は強気に攻めますから、言い逃れはできませんよ?」

「ではひとつ確認を。相性の悪い人間同士と、相性のいい人間同士なら、どちらがおいしい関係になるでしょう?」

「それは……」


 予想外の質問に美琴は言葉を継げなくなった。「質問に質問を返すな」と言おうにも、シャンディの問いには考えさせられるものがあったからだ。

 酒と酒に相性があるように、人と人にも相性がある。カクテルも人間関係も、様々な個性を持つ単一のモノが、相性のいい・悪いを抜きにして混ぜ合わされている。


「どんな個性を持つ者でも、混ぜ合って溶け合えばおいしいカクテルになる。あたしはそう思いますよ、黒須様」

「なるほど……」

「まあ、本当にソリが合わない組み合わせもあります。アンティッカの場合、そういったお客様にはお帰りいただくので……そうですね、『この人になら、あたしがお酒を出してもいいと思えたこと』。それが黒須様とあたしの関係です」


 美琴は静かに店内を見渡した。壁際の特等席から伺った店内には、男性客がひとりと、奥のテーブルに団体客が3人。彼ら彼女らもまた、シャンディに選ばれた者だ。そう考えると、なぜだか胸騒ぎがする。


「あたしに選ばれたのが自分ひとりじゃなくて、残念に思いました?」


 シャンディはイタズラっぽく笑う。同時に、胸騒ぎの正体を見抜かれ、美琴は追及の機会を失ってしまった。

 当然だ。アンティッカは、路地裏と言えど駅から近い一等地にある。店の賃料はおそらく高く、酒の仕入れ価格も上がる一方だ。それでも経営が立ち行くのは、美琴以外にも――シャンディを目当てに来店する客が居るから。

 シャンディが自分だけを見ているはずはない。むしろ、自分だけを見ているだなんて思い上がりも甚だしいことだ。


「私だけを見ていてほしいものでしたね」

「ふふ」


 普段通りの冗句のつもりで口にした言葉が、美琴には少しだけ痛く、虚しかった。自嘲じみた言葉に混ざり込んでしまった本音をかき消すべく、美琴は急いで言葉を継ぐ。


「えっと、私のはまだですか?」

「ただいま。仕上げに入りますね」


 シャンディは脚の長いカクテルグラスに敷き詰めた氷を捨てて、3種の酒をステアしたカクテルを注いだ。水滴の付いたグラスが、ブランデーで色づいた赤褐色に満たされていく。


「お待たせしました。アンティッカの暗闇と黒須様との口づけをイメージしたカクテル、《キス・イン・ザ・ダーク》です」


 《キス・イン・ザ・ダーク》。

 名前の由来は不明だが、その名が示すのは《暗闇でのキス》。照度の低いアンティッカの暗闇に、これ以上ないほどにマッチしたカクテルだ。


「いただきます」


 先の恥ずかしい思い上がりを忘れるように、美琴はグラスに口づけした。

 まず舌が感じたのは、ベルモット由来の柑橘の酸味だ。ファーストキスを思わせる酸っぱさの奥から、チェリーブランデーの甘さと薫りが口の中に広がる。先のマティーニであれだけ存在を主張していたジンは今回は脇役に徹し、残りの2種の酒が持つ複雑な個性をうまく取り持っているようだった。


「いかがですか、あたしとのキスの味は」

「……複雑ですね。酸味もあり、甘くもあり。だけど焦げたような薫りもあり。3つのお酒の個性がそれぞれに溶け合っているみたいです」

「それがカクテルの醍醐味です。個性の違うもの同士が混ざり合って複雑に溶け合う。黒須様とあたしがキスすれば、こんな味わいになるでしょうね」

「ただ甘いキスではないんですね。どこか複雑な味わいです」


 シャンディは静かに息を吐いて告げた。


「オトナのキスには、純粋な本音とは裏腹な建前が混ざり合うものです。それは様々な思惑だったりしがらみだったり。《キス・イン・ザ・ダーク》、つまり暗闇でのキスとは、明るみにできない関係ということ」

「深いですね」

「ええ。深みの中に、あたしは本音を隠しているので」


 普段なら笑みを絶やさないシャンディが、この夜は――《キス・イン・ザ・ダーク》を提供してからはずっと、真剣な表情を見せていた。まなじりは満月のように丸く、琥珀色の瞳は店内を縦横無尽に忙しなく動き回る。

 なぜなら、今日はアンティッカにしては珍しく客が多かった。5席あるカウンターはほぼ埋まり、シャンディの視線は客のグラスの空き具合に注がれている。次から次に来る注文に端から対処し、時には他の客とも談笑する。


 ――オトナのキスには、純粋な本音とは裏腹な建前が混ざり合うもの。

 ――深みの中に、あたしは本音を隠しているので。


 美琴はシャンディの発言の意図を考えようとしたが、ひとたびアルコールが回ればもう思考は散り散りだ。今ほど自身のアルコールへの弱さを恨んだことはない。

 結局美琴は、ただシャンディとのキスを夢想しながら、複雑な味わいのカクテルを干してチェックを頼んだ。


 支払いを済ませ、離席する。

 アンティッカの玄関と店内を繋ぐ半畳ほどの小さなポーチには、真の暗闇が広がっている。来店したばかりの客に店内の様子を伺わせない――つまり、イヤな客を「満員です」と嘯いて体よく追い返すための――作りになっているのだろう。


「本日もありがとうございました、黒須様」


 店内の仄明かりも届かない暗闇で、美琴はシャンディの声を聞いた。来店時に預けた上着を手渡された手前、そばに彼女が居ることは分かるが、顔色までは窺えない。


「ええ、また来ます。追い返されない限り」

「追い返しませんよ。そうそう、お忘れ物です」

「え?」


 受け取った上着を羽織った所でシャンディに指摘される。美琴はバッグの中を手探りして、財布やスマホを忘れていないか確かめた。それ以外のものは、アンティッカで出していないからだ。


「何も忘れていないと思うのですが……」

「いえ、忘れてらっしゃいますよ」


 ふっ、と美琴の鼻を柑橘の薫りがくすぐった。その直後、唇に柔らかいものが押し当てられる。

 玄関と店内の間に作られた暗闇では、自分の目と鼻の先で起こっていることなど分からない。どれだけ美琴が見たいと願っても、暗闇に目が慣れていない限り見えないのだ。

 だが、見えなくたって推察はできる。をしてくるのはこの場において、美琴が立ち呆けている暗闇にはひとりしか居ない。

 唇が開放された。心地よい酔いが一気に醒めて、美琴はひどく動転する。


「え、な……?」

「先ほどあたしは『選ばれたのは黒須様だけじゃない』みたいなことを言いましたが、その中に特別なお客様が居ることを伝え忘れてしまいました」

「そ、それはどういうことで――」


 美琴の唇が再び塞がれた。「それ以上言わせない」という彼女の思惑を、美琴は感じる。


「……あたしとの《キス・イン・ザ・ダーク》。こんなカクテル未満のものをお出しするのは美琴さんだけ」

「え……?」

「……なーんて言ったらどうしますか? 黒須様」


 そして、シャンディはいつものようにころころと笑った。

 ――すべてはアンティッカ流の冗句。

 そんなことを言いたげに笑うと、ざらついた店の扉を開く。六本木の街灯とネオンサインが暗闇を制し、眼前に迫ったシャンディの白い肌を照らした。


「黒須様も大いにドキドキしたようですし、今宵の遊戯ゲームの勝者はあたしでいいですか?」

「……今のは反則だと思いますけど」

なんてルールはどこにもありませんから」


 意味深に微笑むシャンディを見て、美琴は敗北を悟った。鼻を明かそうとしてみても、結局最後まで手のひらの上で転がされている。それどころかキスまでされて、美琴は動揺を隠しきれない。

 これはただの遊戯ゲームなのに。本気にした方が負けの、悪いお遊びなのに。

 美琴は湧き上がる感情にフタをして、扉をくぐった。その感情を認めてしまっては、勝負にすらならなくなってしまうから。


「……次こそは勝ちます」

「ええ、再戦をお待ちしています」


 ――本日の恋愛遊戯、美琴の完敗。

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