#3 : Martini,Shaken not Stirred

「いらっしゃいませ、黒須様」


 ざらりとしたアンティークドアの先には、今宵も心地よい薄明かりがたゆたっていた。

 六本木、路地裏沿いのオーセンティックなガールズバー《antiqua》。

 時刻は午後10時。通常のバーならピークタイムにあたる時間帯だが、店内を見回してみても客の姿はない。バーカウンターと酒瓶が綺麗に陳列されたバートップの間――バーテンダーの特等席――にシャンディの影があるだけだ。


「お休み中でしたか、シャンディさん」

「ええ、ずいぶんと。暇すぎて映画を見ていたところです」


 美琴の気遣いめいた皮肉に、シャンディも同じ調子で自嘲する。アンティッカは席数が少ないとは言え、深夜営業するナイトバーだ。以前の美琴のように終電を逃した客を受け容れるため、本当のピークタイムはこれから後になる。

 コートをシャンディに預けていつもの壁際の席に案内された美琴は、いそいそと準備を始めたシャンディの小さな背中に声をかけた。


「映画ですか。ちなみに何を?」

「さて、あたしは何を見ていたでしょう。そちらを今宵の勝負としませんか?」


 生ハムとチョコレート、ナッツからなる簡単なつまみを出して、シャンディは勝ち気な笑顔を覗かせる。言葉の通り充分に休息を満喫したのだろう、彼女の満月のような琥珀色の双眸はいつにも増して輝いて見えた。

 しかし、勝負。

 美琴はこれまでシャンディのシャンディとの勝敗を思い出す。

 1戦目であるシャンディ・ガフ対決では見事に翻弄されて敗北を喫し、2戦目に至ってはぐうの音も出ない完全敗北だった。2連敗中、そろそろ勝ち星が欲しいところではある。


「受けて立ちましょう。と言いたいところですが、ヒントが欲しいですね。映画なんて無数にありますから」

「あたしが作るカクテルがヒントです。ちゃーんとカクテルをお勉強してる黒須様なら、分かって当然だと思いますよ?」


 挑発的でいて、煽るような語調。曲がりなりにも客に対する態度としては逸脱しているが、美琴はそんなことなどまるで気にならない。むしろ、遊戯ゲームを用意してくれたのだから、乗らない方が非礼というもの。

 ちょうど勝ち星もほしかったし、カクテルの勉強も続けているのだ。ここで見事勝利して、シャンディの鼻を明かしてみたい。美琴の返答は決まっていた。


「私が勝ったらどうします?」

「何が欲しいですか? あたしにできることでしたら、何でも」


 少し、揺さぶりをかけてみよう。

 美琴はふつふつ湧き上がる可笑しさを抑えつけて、澄まし顔で告げた。


「シャンディさんの唇を賭けましょう」

「ふふ、面白いですね」


 当然、シャンディはこの程度の揺さぶりではビクともしない。両の瞳の満月は陰りなく、逸れることもなく、美琴をしっかりと見据えている。


「ならフェアにいきましょう。あたしが勝ったら、黒須様の唇です」


 確かにフェアだと思った矢先、美琴は勝負の意味合いに気づいた。

 この条件では、どちらが勝とうとキスすることになってしまう。


「えっ、と……?」


 動揺を隠しきれない美琴に対し、シャンディは例の「してやったり」とでも言いたげな笑みを浮かべる。

 またしても、してやられた。気恥ずかしさを悟られないように、美琴はどうにかこうにか言葉をたぐり寄せる。


「勝ち負け関係なくキスをすることになりますけど?」

「あら、怖じ気づきました?」

「いえ、でしたら……濃密なのを頼みます」

「ええ、忘れられない夜にしましょう」


 シャンディは柔らかく微笑んだ。余裕を讃えた琥珀色の瞳は、上弦の月を形取る。


「製法にもヒントがあります。ひとつひとつ解説しますから、頑張って当ててくださいね」


 告げると、美琴の眼前、カウンターテーブルの向かいにシェイカーが置かれた。滑らかな銀色のボディにシャンディのの細く白い指が這わされている。思わず見とれてしまった美琴は、甘い声でちくりと刺された。


「ふふ。手フェチですか、黒須様」

「あ、いえ。初めて生でシェイカーを見たもので」

「いいところに気づきましたね。のが今回のポイントです」


 シェイクで作るカクテル。その情報を頼りに、美琴は付け焼き刃の知識を反芻した。

 カクテルの製法には、主に4つの種類がある。いわゆる「これぞバーデンダー」と連想されがちな卵型容器をシャカシャカ振る技法は《シェイク》。シェイクには混ざりにくい材料を混ぜる効果、氷で液体を冷やす効果、そしてドリンクに空気を含ませて角を取る効果がある――と知識だけは美琴も知っている。


「黒須様がお勉強している手前、今日は手抜きはしませんよ」


 いつもは手抜きだったのか。指摘しようとした美琴は、薄明かりの中に浮かぶシャンディの顔を見て言葉を呑み込んだ。

 あれだけ蕩々と湛えていたシャンディの笑みが消えている。それはアンティッカの主たるバーテンダーの顔だ。

 今回の遊戯はまさに真剣勝負。美琴も思わず背筋を伸ばし、彼女の一挙手一投足に意識を集中する。


「まずはカクテルグラスを冷やします。これからお作りするカクテルは、シェイカーの中で冷やすのみ。つまりドリンクに氷を浮かべない《ショートドリンク》です」


 小粒のクラッシュドアイスをいっぱいに敷き詰めたカクテルグラスが置かれる。低温を逃さない、細く長い脚が特徴的なものだ。

 次にシャンディが取り出したるは、緑色のずんぐりしたボトル。その中身を、三角コーンを二つくっつけたようなカップ――メジャーカップ――で手早く計りながらシェイカーに注ぐ。


「メインは《ドライ・ジン》。そして《ドライ・ベルモット》。比率は5:1ですね」


 材料を注いだシェイカーに手早く氷を入れてフタをし、シェイクする。手折れそうなほどに細いシャンディの手首が、銀の容器を身体の前後と上下に揺らす。そのたびに氷がぶつかる小気味よい音がアンティッカに響いた。

 シェイクを披露するシャンディの立ち居振る舞いは、バーに似つかわしい凛としたものだった。斜めに構えた姿に、思わず美琴は息を呑む。


「ふふ、視線を感じますね」

「あまりに美しいものですから」

「あら、もう酔っちゃいましたか?」

「シャンディさんには酔わされてばかりです」

「いくらでもどうぞ。スマイルはゼロ円ですので」


 これもまたシャンディの顔なのだと美琴は思う。

 毒を塗り込まれた甘い言葉の弾丸を交わし合う時の妖艶な顔も、バーカウンターにひとり佇む主なき人形のような姿も。そして、流麗な仕草でカクテルをビルドする姿も。


「さて。ここで取り出したるは大ヒントの《スタッフド・オリーブ》。これだけで分かる方もいらっしゃるほどですよ」


 いつの間にやらカクテルグラスに敷き詰められていた氷はなくなっていた。よく冷やされ結露したグラスの中には、ピックに刺さったオリーブの実が入っている。


「では、仕上げです」


 そこへシェイクされたドリンクが流れ込む。ほんのり薄く、白く濁った液体がオリーブ入りのグラスを満たしていく。いかにもバーテンダーの作るカクテルといった様相だ。

 中身を注ぎ切ると同時に、シャンディはシェイカーを真一文字に勢いよく動かした。容器の中に残った氷がカシャンと音を立てる。視覚的にも音響的にも完成が分かる演出だ。


「本当は《レモンピール》を加えることもあるのですが、今回は基本のレシピ……いえ、あたしの見ていた映画の主役である彼の注文通りにお作りいたしました」


 シャンディの白い手が、コースターとグラスを美琴の眼前にサーブした。

 完成したカクテルは、氷で薄まることのない《ショートドリンク》。材料の《ドライ・ジン》と《ドライ・ベルモット》は薫り高いが、どちらも強烈な辛口だ。グラスの底に沈んだ《スタッフド・オリーブ》からはエキスが溶け出し、風味をさらに格別なものにしている。

 実は美琴は、このカクテルの正体に思い当たる節があった。


「材料だけなら、見当はつくんです。マティーニですよね」

「ええ、その通りです。バーテンダーなら作れて当然、カクテルの帝王とさえ呼ばれる代物ですね」


 シャンディは満月のような瞳を綻ばせる。その反応を伺うに、自身の読みは正しいはずだと美琴は感じる。

 だが、彼女が作ったカクテルがマティーニだとすれば、一つだけ符号しない点がある。美琴が勉強してきた製法ではないのだ。


「ですが、マティーニはたしか《ステア》で作るはず。私が読んだ本には《シェイク》とは書いていなかったんですよね」

「よくお勉強していますね。ですが、製法やレシピ、処方を覚えるだけがカクテルではないんです」


 シャンディに「冷たいうちにどうぞ」と勧められ、美琴は眼前の《ステアではなくシェイクしたマティーニ》に唇をつけた。

 強烈な辛口。舌に針を刺したかのような刺激に、ほろ苦いオリーブの味が口いっぱいに広がる。途端、ジンとベルモットの薫りが鼻から抜ける。目が覚めるような一撃だ。

 それでも、酒精の薫りはそれほど尖っていない。シャンディの腕がいいのかどうなのかは分からないがどこかまろやかで、苦くて辛いのに次の一口が欲しくなる。


「カクテルを作るバーテンダーは、お客様を愉しませることがお仕事です。お酒を出すだけじゃなく、オマケの知識や気の利いた会話。それに黒須様との遊戯ゲームみたいに」

「奥が深いですね」

「まあ、奥が深いように見せてるだけの人も居ますけどね」

「シャンディさんはどちらですか?」

「どちらが黒須様の好みですか? 詳しいマニアか、にわかファンか」


 美琴はシャンディ流の質問返しには答えないことにした。どちらが好きかなんて決められないし、決めてしまうと彼女を枠にはめてしまう気がした。


「どんなシャンディさんも好きですよ」


 シャンディは小さく微笑んで、カウンターに肘をついた。琥珀色の瞳が至近距離に迫る。目を背けた方が負けのにらめっこだ。


「では問題です。このマティーニが好きな映画の主人公は誰でしょう?」

「あー、すみません。映画の知識はさほどなくて……」


 だが、それ以上美琴に思い当たる節はなかった。《マティーニ》だということまでは分かったが、映画のトリビアまでは勉強不足だ。結果、素直に負けを認めざるを得ない。

 負けを認めた先にあるのは、シャンディ曰く『黒須様の唇』だ。とは言え、実際にキスされることはないだろうとも思う。


「まあ、映画に関してはあたしもにわかですけどね」


 言ってシャンディはスマートフォンを取り出した。画面に映っているのは、スーツを着こなした清潔感漂う英国紳士だ。バーテンダーに対して告げたオーダーは『マティーニ、ステアでなくシェイクで』。


「正解はジェームス・ボンド。ミステリアスなスパイです」

「なるほど……」


 美琴は欠伸を噛み殺しながら告げた。眠気がすぐそばまで迫っていた。

 それもそのはず。美琴の飲んだマティーニは、アルコール度数にして40度程度。カクテルの総量自体は100ミリリットルにも満たないものの、缶ビール一本分に相当する。それをショートドリンクの作法――冷たいうちに愉しむ――に則って10分程度で干してしまったのだ。


「あらあら。ハイペースでグラスを干したりするからですよ?」


 どこか諫めるような口調の苦笑が聞こえる。どうにか瞼だけでも開けようとする美琴だったが、心地よい眠気に呑み込まれそうになる。


「あたしとお話してくれないんですか、黒須様?」

「そう……れす……ねぇ…………」

「勝負はあたしの勝ちでいいですか?」

「……あい…………」


 美琴の視界がぼやけ始めた。瞼が重い。アンティッカをくぐる前に直したマスカラすらも、重たく感じてしまうほど。

 意識が徐々に遠のいていく。うつらうつら、店内の薄明かりと流れるクラシックの音色がよい子守歌になって、美琴の身体は自然とバーカウンターに吸い寄せられていった。


「……おやすみなさい、美琴さん」


 唇に、何か柔らかいものが触れるのを感じた。

 それが現実のものか夢での出来事か、美琴には分からない。ただ柔らかでいて温かい琥珀色の眠りの中に意識が落ちていった――。


 ――本日の恋愛遊戯、美琴の完敗。

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