#2 : Leonard

 ありがたい愛の鞭とやらで、コッテリしぼられた。


「なんで私が……」


 普段使いの「最悪」に代わって美琴から出るのは、不条理への怨嗟の声だった。

 事の次第はこうだ――

 美琴の職場である老舗文具メーカー《明治文具》は、旬をすぎた文具ブームに今さら乗っかるべく重い腰をようやく上げて、新たなプロジェクトを発足させた。

 その名は、《次期主力商品開発プロジェクト》。

 仰々しい名前が指し示す通り、上層部の熱意だけは相当に高かった。商品アイディアを全社員はおろかパートのおばちゃん達にまで募り、作るものも決まっていないのに広告代理店を接待し、東南アジアのOEM企業との提携を模索し、はては企業公式ゆるキャラとバーチャルユーチューバーの作成を目下計画中である。

 はっきり言えば迷走しているが、時代の流れに取り残された老舗企業の涙ぐましい努力だと讃えることもできよう。日本のある一定以上の世代はそういった美談が大好きだ。

 だが。


「なんで私がプロジェクト室長なの……」


 美琴を悩ませるのは、上層部から熱望に焦がされ、現場からは冷ややかな視線を向けられる役職――という望まぬ肩書きのせいだった。

 別段仕事ができる訳ではない。美琴はどこにでもいる、企画広報課5年目の若手だ。彼女に白羽の矢が立ったのは、を買われたため。要は、掴み所のない理由で貧乏くじを引かされたのだ。当然、やる気も成果も上がるはずもなく、冒頭の言葉に繋がる。

 上層部に怠慢を指摘され、コッテリとしぼられたのである。

 ご指導ご鞭撻のムチを振るうなら、せめてアメを用意してほしい。


「口で指示したら仕事したことになる連中がうらやましい……」


 呪詛を吐くたびに、恨み辛みで胃がキリキリとすり潰されていくのを感じる。

 こうなったら今日は一日定時までトイレで籠城を決め込もう。見たくない現実にフタをして逃げ出す勇気も時には必要だ。

 社命で受けさせられたメンタルケア研修の講師の言葉を逆手にとって、美琴は自己を正当化する。その指は無意識に、まだ知らぬカクテルのレシピを検索し始めていた。


 *


「……という具合に、今日は散々だったというわけです」


 就業後。

 美琴はそそくさと退社し、その足で六本木のガールズバー《antiqua》に向かった。酒とシャンディで気を紛らわせたかったのである。

 開店直後の店内はがらんどうとしていた。糸の切れたマリオネットのように留まるバーデンダー、シャンディの姿があるばかりだ。

 一言二言、例のアンティッカ流の冗句を交わしあった直後の「どうかなさいました、黒須様?」を呼び水に、美琴が怨嗟をぶちまけたところである。


「それはご愁傷様です、黒須様。いえ、室長さんとお呼びしたほうがいいですか?」

「普段通りでお願いします。シャンディさんに逢いに来ただけですから」

「あら、先ほどとはまるで別人ですね。どちらが本当の黒須様でしょう」

「どちらの私がシャンディさんは好みですか?」

「それを聞いてどうなさるおつもりかしら?」


 質問に質問を返す、シャンディ流の駆け引き。それがあまりにこなれてきてしまって、ふたりはまったく同時に口元をゆるめる。


「シャンディさんは負けず嫌いですね」

「黒須様が負かされたがっているようですから」

「もう完敗です。間を開けず3度も、同じ店に通ったことなどありませんから」

「ふふ」


 挑発的な、鼻にかかった少女の声でシャンディは微笑んだ。

 次の句を――意味深な言葉の弾丸を継ぐより早く、彼女がつぶやく。


「今日は負けたい気分ですね、に」

「あ、え」


 予想外の方向から飛んできた不意打ち名前呼びに対応できず、美琴は思わず無様を晒した。

 開店直後だったこともあり、今宵のアンティッカは明るかった。普段はほの暗さを演出するオレンジの間接照明が煌々と焚かれているためか、シャンディの姿がよく見える。

 美琴から彼女がよく見えるということは、その逆もまたしかり。美琴が言葉を詰まらせて頬を紅潮させたと見るや、シャンディは悪戯な少女のように勝ち誇った笑みを浮かべる。


「負かされたいなあ、あたしも。ふふ」


 六本木駅のそば、街灯のたもとで初めて彼女を見た時の衝撃が、美琴の脳裏に鮮明に思い起こされる。

 細い足首、白い肌。そして、ネオンサインの光にも穢されない、満月のような琥珀色の瞳。

 ゆるやかな所作で準備を続ける彼女の瞳は、手元へ降ろした下弦の月だ。それをぼんやり眺めていると、はたと視線が合う。

 下弦の月は、上弦に様変わりする。


「好きなんですか? あたしのこと」

「月がきれいだと思いまして」

常套句クリシェがお好きですね。以前にも教えたとおりです、黒須様。バーテンダーを口説くには?」

「分かっていますよ。ご準備は?」

「ええ、普段より楽しく終わりました。今宵の1杯目もあたしシャンディでよろしいですか?」

「あ、いえ。今日は、少し変わったものを味わいたいと思いまして」


 アンティッカに通うようになってから、美琴には趣味がひとつ増えた。

 ――カクテル。

 お酒を混ぜ合わせ、新たな味わいのお酒を生む技術。

 カクテルと言えば居酒屋のカシスオレンジやピーチフィズばかりだと思っていた美琴にとって、アンティッカのシャンディ・ガフは衝撃だった。どこが美味いかさっぱり分からない苦い汁ビールを、爽やかで軽やかな琥珀色の甘露に変えてしまったのだ。ほとんど魔法と言ってもいい。


「黒須様は浮気者ですね。あたしというものがありながら」

「私には手が届かない高嶺の花ですから」

「ふうん? そういうこと言っちゃうんですね」


 不服さを隠さないじっとりとした瞳でシャンディが見つめてくる。やおらカウンターに身を乗り出し、美琴に吐息が掛かる距離まで顔を近づけてきた。


「これで近くの花ですね」


 もうすでに恋愛遊戯は始まっている。先に本気になった方が負けの、甘い言葉の殴り合いだ。

 同じ手は食わないとばかりに美琴も反撃する。


「ええ、摘み取って帰りたいです」

「っ……!」


 シャンディは美琴に背を向けて、背後のバートップに飾られたウイスキーボトルの埃を払った。綺麗に磨かれたボトルには元々、埃ひとつついていないというのに。


「シャンディさん、オーダーをいいですか?」


 先ほどの揺さぶりが効いている証拠だ。自らの甘い言葉はしっかりと通用している。喜びたい気持ちを抑え、美琴はシャンディの赤面した顔を待ち侘びる。

 だが、一筋縄ではいかないのがシャンディだ。彼女はけろりとした顔で振り向いた。例の美を濃縮した人形らしい白い頬には、朱の一点も差していない。


「ええ、どうぞ」


 彼女はきっと、そう易々とは負けを認めないつもりだろう。

 ならば、焦らずじっくり味わいたい。

 あの日――人生最悪の日に終電を逃して迷い込んだバーで出逢った謎多き美女・シャンディとの遊戯ゲームを。


「今日はイヤというほど愛の鞭を味わったので、私を唸らせる甘い飴を作っていただけますか?」

「ふふ、勝負ということですね。では……《レオナルド》にしましょうか」

「レオナルド……?」


 聞き慣れない名前のカクテルに、美琴は身を乗り出した。「勉強熱心ですね」と笑われるが構うことなく、シャンディの手元を見つめた。


「ディカプリオのことではありませんよ。もう一人の、世界的に有名なレオナルドです」

「ダヴィンチのことですか?」

「ええ。芸術家として知られていますが、その専門領域は多岐に渡るまさしく多芸の天才」

「ではカクテルを作ったのも?」


 彼女は「どうでしょうね?」と意味深に笑い、バーテンダーの顔になった。

 カクテル《レオナルド》の製作が始まった。

 カウンター下の冷蔵庫からシャンディが取り出したのは苺だった。それをミキシンググラスの中でピューレ状に潰していく。取り出したハンドブレンダーのモーター音が無音のアンティッカに響いた。


「果物そのものを使うカクテルもあるんですね」

「ええ、レオナルド一派は――いえ、イタリア画家カクテル一派と言いましょうか。苺を使うとレオナルド、桃だとベリーニ、マスカットだとラファエロ。混ぜ合わせる果物によって名前が変わるんです」


 雑学を披露しながらも、彼女の手はなめらかに動く。グラスの中にはピューレにした苺と氷だ。そこへ赤い苺のリキュールと数滴のレモン汁を落とし、柄の長いバースプーンでよくステアする。


「さて、黒須様。刺激の強い火遊びか、まろやかな純愛。あたしとするならどちらがお好き?」

「え……?」


 すっかりカクテル作りの行程に夢中になっていて、質問の意図を汲み取れなかった。手元から顔を上げると、シャンディがころころと鈴を転がすように笑っている。


「これで2勝1敗。ふふ、炭酸の好みを聞いただけですよ? まさか本気にしましたか?」

「……今のは少しズルくないですか? カクテルが好きで見てたのに」

「あたしだけを見ていてくださいな」

「うぐ」


 「3勝目」と微笑まれ、美琴はがっくり頭を垂れた。シャンディをじっくり味わいたいなどと思った直後に、さんざん味わわれている気がしてくる。


「……微炭酸でお願いします」

「かしこまりました」


 妖艶な美女のごとく意味深に口元を緩ませて、彼女h手早く作業に戻った。

 今宵、饗されるカクテルは《レオナルド》。基本は苺のリキュールとスパークリングワインのステアで作られるが、バリエーションとして苺のピューレや、酸で甘さを引き立たせるためレモン汁を落とすこともある。

 そればかりか彼女はレオナルドに更なる手を加えていく。持ち出した胴長のフルートグラスの縁にシロップを馴染ませて、グラスの縁に雪のような砂糖を積もらせる。《ソルティ・ドッグ》などで用いられる、スノー・スタイルと呼ばれる技法だ。


「仕上げますよ」


 スノー・スタイルに仕上げたグラスにピューレを注ぐ。次いで、主役であるスパークリング・ワインを半分程度注ぎ、軽くステア。2度に分けて注いだことで、ピューレとワインがよく混ざり、さらには炭酸も強く残る。


「どうぞ、《レオナルド》、スノースタイルです」

「わあ……」


 レオナルド。それは宝石ルビーのようなカクテルだった。

 苺ピューレと苺のリキュール、2種の苺を贅沢に混ぜ込んだグラスの底からは、スパークリングワインの細かい泡がふつふつと立ち上っている。


「照明を落としますね」


 彼女はアンティッカの照明を普段の薄明かりに変えた。手元のグラスを浮かび上がらせるオレンジのピンスポットライトが降り注いだ時、それは起こった。


「いかがでしょう、黒須様」


 スノースタイル――すなわち、グラスの縁についた砂糖粒が光を受けてキラキラと瞬いている。宝石のようだったレオナルドが、その秘めたる輝きを放つ。

 美しい芸術品が燦然とその姿を現した。


「実はこのカクテル《レオナルド》は、ダヴィンチにあやかってつけられただけで、彼が作ったものではないんです。ですがこれを見せつけられると」

「ですね、いただくのが惜しいくらいです」

「あら、普段はやらない、特別レシピなんですよ?」


 カウンターの奥から、シャンディの手が伸びた。

 また負かされるかもしれない。

 思わず身構えた美琴だったが、杞憂に終わった。グラスの縁に、先ほどまではなかった大粒の苺が刺さっている。


「多芸の天才に肖って名付けられたカクテル、レオナルド。これを飲めば、上手くいかないお仕事も、レオナルドのように片付けられちゃうかもしれませんね」


 美琴ははたと気づいた。思い出したのだ。

 シャンディとの会話が楽しくて忘れていた、プロジェクト室長の件。仕事が上手くいかない話を聞き覚えていたシャンディは、「甘いカクテル」というオーダーを満たすだけではなく、美琴のことまで気遣ったカクテルを出してみせたのだ。

 勝敗は決した。


「完敗ですね……」

「じゃあ、乾杯です。お仕事で疲れた黒須様の心に染みこむ、あたしからの甘~い飴で」


 本日の恋愛遊戯、美琴の1勝4敗。

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