chapter #1 : In vino veritas

#1 : Shandy Gaff

 六本木の路地裏に、その正統派なオーセンティックバーはある。

 手狭な店内には、カウンターが5席とテーブルが1席。仄暗い室内を満たすのは、アルコールと葉巻シガーの薫香と、落ちついた有線放送のクラシック。


 ガールズバー《antiqua アンティッカ》。

 ――そこはガールズバーとは名ばかりの、酒と煙草と――恋の鞘当てを愉しむ大人の隠れ家。


「あら、初めましてのお客様ですね?」

「ええ。そのご挨拶を戴くのは二度目です」

「ふふ。存じ上げておりますとも。黒須くろす様」


 黒須美琴みことは、ギャルソン姿のバーテンダーが飛ばす冗句を受け流し、カウンター席の壁際に腰を落ち着けた。

 店内は静けさに満ちていた。目を凝らせばテーブル席とカウンターの端に他の客の姿は見えるが、彼らの存在を意識することはまずない。法律で決められた照度ギリギリの店内照明は、美琴の手元以外を背景に変えてしまうからだ。

 この店に集まる客は皆、邪魔をすることも入ることも嫌う。騒々しいはずのガールズバーとは違う、誰にも邪魔されない大人の隠れ家だ。


「今日もまた終電を逃したんですか?」


 バーテンダーの《シャンディ》が、投げやりな問いとともにコースターを置く。さも美琴には興味がない、などとでも言いたげなあっさりした態度だ。

 そのつれない態度を変えてみたくて、美琴は指先でコースターを弄びながら気の利いた返しを探る。


「シャンディさんに逢いたくなりまして」

「いつもそうやって口説くんですか?」

「少し常套句クリシェが過ぎましたかね」

「ええ。バーテンダーのオトし方は以前教えた通りですよ」


 薄明かりの中では、彼女の顔をはっきりと伺うことはできない。幽かに聞き取れるのは、空気の漏れるような笑みだけだ。


 ――シャンディには無数の顔がある。

 無論、スパイ映画に登場する変装の名手としてのものではない。

 彼女はこの店をひとりで切り盛りしている大人の女性であり、時にワガママで愛らしく振る舞う少女であり、または俗世間から外れた美の、究極の到達点たる西洋人形ビスクドールである。


「なら、《シャンディ・ガフ》を戴けますか?」

「お好きなんですね、シャンディが」


 目を合わさずとも美琴には想像がついた。

 彼女は敢えて、シャンディ・ガフを自分の源氏名なまえに絡めたのだ。

 彼女は、美琴を試している。

 満月を模倣まねたシャンディの瞳は、今は上弦の月を象っているだろう。その美に触れたい者のことなど露知らず、ひとりぷかぷかと夜空であざ笑っている。

 その美の真相、いくつもの顔の奥に潜むシャンディの本当の顔が知りたくて、美琴は再びアンティッカのドアを開いたのだ。周辺の居酒屋とは一線を画すチャージ料も、それが月に浮かされた末路なら安いものだ。


「まだ分かりません。何度も試して好きになっていくものでしょうから」

「では、夢中になっていただこうかしら」


 月は妖しくも艶やかに嗤った。

 口の細いカクテルグラスが眼前に現れる。美琴の頼んだ《シャンディ・ガフ》はエールビールとジンジャーエールを1:1で合わせた低度数のショートドリンク。おなじみの銀色の卵型容器――シェイカーで作られることはなく、バースプーンで軽く攪拌ステアして提供されるものだ。刺激的な炭酸を殺さず、余すところなく味わうためである。


「あたしの手元が気になるようですね」

「ちょっと囓ってみたもので。何も知らずに飲み干すなんて、お酒にも悪いですから」

「お酒は生き物ですからね。それぞれに個性があるんです」

「私にはまだ、分からない世界の話ですね」

「お勉強ならお付き合いしますよ、足を運んでいただければ」


 シャンディの声はどこか弾んでいた。バーテンダーとしての矜持が垣間見える顔を引き出すことができて、美琴は心を躍らせる。

 もちろんと言えど、ネットで調べた付け焼き刃に過ぎない雑学だ。試しにレシピ通りに作ってみたが結果は明らかだ。シャンディの作るシャンディ・ガフには遠く及ばない。


「なら、お尋ねしてもよいですか? シャンディのことについて」

「ふふ、意味深ですね。お酒の、シャンディのことでしたら答えられる範囲で」


 軽く笑って了承しつつも、深入りはさせないと予防線を張られる。

 『琥珀色の月は、裏側を見せないからこそ美しく輝く』。

 そう言っているのだろうと美琴は受け取る。


「以前作ってみたんですが美味しくなくて。シャンディさんはどう作っているのかなと思いまして」

「バーテンダーにレシピを聞くのはマナー違反ですよ?」

「あ、すみません……」


 シャンディは唇をすぼめて釘を刺してくる。

 言われてみればその通り。企業秘密を明かせと言っているようなものだ。

 言い訳を継ぐべきかと逡巡していた美琴の耳に、空気が漏れる音が聞こえてくる。シャンディの微笑みだった。


「……冗談ですよ。大したレシピでもありませんから」

「本当に冗談がお好きですね、シャンディさんは」

「冗談が好きなんじゃないですよ?」


 シャンディ流の冗句と分かり、ほっと胸をなで下ろす。すくみ上がった心臓の緊張はほどけたが、その隙を突くかのように彼女がカウンターに身を乗り出してくる。

 ぼんやりとしか窺うことのできなかった真白い素肌が、カウンターテーブルの向こうに現れた。淡いピンスポット照明に照らされた琥珀色の瞳が、視線をはっきりと美琴に合わせてくる。


「美しい方とのひとときが嫌いな人はいませんよ、黒須様」


 諫められて肝を冷やした直後に、口説き文句を飛ばされる。

 鼓動が高鳴った。瞬間、全身の血液が顔に集中するのが分かる。それをシャンディに悟られる訳にはいかない。

 もし視線を外して目を背ければ、この恋愛遊戯に負けてしまうのだ。


「ええ、私もです」


 極めて平静を装い、美琴は――シャンディがするように――微笑んだ。そうしてしばらく笑い合ったまま、目を背けては負けのを続ける。勝敗はドローだ。


「さて、シャンディ・ガフのレシピの話ですが……せっかくですし、企業秘密を特別にお教えします」


 事もなげに告げると、美琴の眼前に缶と小瓶が差し出される。「ラベルがよく見えるように」とハンドライトで照らされたそれらには、商品名がプリントされていた。市販のものらしい。


「ビールはホワイトエール《水曜日のネコ》、ジンジャーエールは《ウィルキンソン》。どちらも品揃えのよいスーパーなら手に入るものです。これを1:1でステアするだけ、簡単でしょう?」

「ありがたいですけど、明かしてもいいんですか?」

「では、試しに作ってみては? 勝負しましょう、勝てば1杯無料です」


 これは挑戦状だ。やはり彼女は、美琴を試している。

 美琴は逡巡した。が、製法もレシピも明かされたのだ。ここで戦わずして引いてしまうようでは、シャンディの鼻を明かすことはできない。


「後悔しても知りませんよ?」

「後悔させてくださいな」


 コースターの上に、冷やされた空のグラスが置かれる。

 《シャンディ・ガフ》勝負の始まりだ。

 美琴は付け焼き刃の知識通りに、まずはビールを慎重に注ぐ。ビールの泡が立ちすぎないようにグラスを傾け、側面を沿わせるように。ジンジャーエールも同様に注ぎ、二種の酒を混ぜ合わせる。

 「さあ、ステアをどうぞ」。手渡された細いバースプーンを差し込んで、炭酸が出ていかないように、かつ2種の琥珀色の酒が混ざり合って溶け合うように、ひと混ぜ。


「これで完成、でよろしいですか? 黒須様?」


 できあがったシャンディ・ガフは、以前にシャンディに作ってもらったものとなんら遜色がないように見えた。美琴が目指した通りの、シャンディの瞳のような琥珀色だ。

 その健闘をたたえるように、炭酸がパチパチと拍手を送っている。


「どうぞ。お口に合いますかどうか」

「ふふ、お客様に作っていただくなんて初めてです。仕事中ですので、では、少しだけ」


 カクテルグラスに彼女が口づけする。わずかに美琴作のシャンディ・ガフを口に含むと、そのままグラスをコースターに戻した。


「……どうでしたか、シャンディさん?」

「そうですね。どちらだと思います?」

「あまりに私の腕がよくて、びっくりしてしまったとか?」


 再びカウンターに身を乗り出した彼女は、悪戯な少女を思わせる顔で笑っていた。

 バーデンダー・シャンディとの、シャンディ・ガフ勝負。

 その勝敗にばかり意識を向けていた美琴は、彼女が仕掛けた本当の勝負にまるで気づけていなかった。


「いえ、カクテルグラスですよ」

「グラスですか? それはどういう……?」


 美琴は、シャンディが口づけしたグラスを一瞥する。

 よく磨かれ、手入れが行き届いたグラスには、水滴はほとんど残らない。グラスの縁に口付けて中身を飲んだとしても、その雫は数秒経てば琥珀色の液面に戻っていく。

 すると、どうなるか。


「さて、黒須様の手元にあるグラスは、先ほどあたしがキスしたもの。黒須様は無事、あたしと間接キスできるでしょうか?」

「え……?」

「あたしは何も、美味しいシャンディ・ガフを作れるか勝負、とは言っていませんから」


 悪戯な琥珀色の上弦の瞳に見つめられて、美琴はようやく勝負の真相を悟った。

 別に間接キスがしたいとか、したくないという話ではない。自身が月に浮かされて、シャンディの手のひらの上で転がされていたことに気づけなかったのだ。


「……私の負けですね」

「あら、あたしとキスはしたくないと?」

「いえ、シャンディさんには敵わないなあと思っただけです」

「ふふ。では、黒須様のシャンディ・ガフは、あたしがお作りいたしますね」


 コースターごとグラスを仕舞って、シャンディはカクテルを作り始めた。

 缶ビールとジンジャーエールを美琴と同じように注ぎ、軽くステアする。動作の流麗さこそ月とスッポンだが、やっていることは何ひとつ変わらない。

 シャンディの所作を注意深く見つめていた美琴の前に、コースターとカクテルグラスが饗された。炭酸の泡がはじけては消える琥珀色の液面には、満月を思わせるピンスポット照明が輝いていた。


「こちら、あたし特製レシピで作ったシャンディ・ガフです」

「特製レシピ? ですがさっきレシピは――」

「企業秘密はってことです。黒須様には絶対にマネできません」

「……なるほど」


 美琴は笑ってしまった。納得せざるを得なかったのだ。

 きっと彼女の言うレシピ通りに材料を買い揃えても、ステアの技術をマスターしても、再現はできないだろう。

 バーテンダー・シャンディの作るシャンディ・ガフと、それにまつわる物語は、決してこのアンティッカの外では味わえないのだ。


「隠し味は、このお店と、シャンディさん自身」

「そして黒須様と愉しむ、このひととき」


 美琴はシャンディの作ったカクテルを、シャンディは美琴の作ったカクテルを。ふたりしてグラスを持ち上げ、乾杯の姿勢のまま柔らかに微笑む。

 気の利いた台詞は、常套句しか思い浮かばなかった。だが、それでも――いや、こういう時だからこそ常套句を使うべきだと美琴は口を動かした。


「ふたりの出逢いに乾杯、といきますか」

「たまには常套句クリシェもいいものですね」


 軽く、触れるように。グラス同士でキスをした。

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