第2話 孕み男

 朝起きると、妻はいつもより早起きしていて、豪勢な朝御飯を用意してくれた。

 きっと、昨日のことが嬉しかったのだろう。それはそうだ。ずっと欲しがっていた、本当だったら結婚してすぐに欲しかったはずの子供を手に入れることが約束されたのだから。


 疑いようもなく、確実に孕んだ。射精したと言うことは、卵子が俺の精巣に入って受精し、いらなくなった精子が外に出たと言うことなのだから。

 ただ今のところ、これといった実感はない。自分の精巣に受精卵が二つ在るという実感が。


 妻が作ってくれた美味しいご飯食べ、二人で家を出た。二人とも同じ方向の駅へ向かう。


「今度、産夫人さんふじん科に行きましょう」

「やってるかな」

「夜までやってるところ見つけたから、大丈夫よ」

「そっか、ありがとう」


 妻とは、駅のホームで別れる。それぞれ務め先が違うからだ。


 人とすれ違う度、自分のタマが気になって仕方がない。なにか当たったりしないだろうか。普段気にもしないようなハンドバッグの角が気になって仕方ない。


 会社に着く手前、良く面倒を見ている後輩と一緒になったので、孕んだことを話した。エレベーターで二人っきりになったとき後輩が恭しく頭を下げた。


「おめでとうございます」

「ありがとう」


 と、お互いに定型の挨拶をしながらも、どこかぎこちない空気に包まれる。


「え、と。先輩、まだしばらくはあとで良いって言っていたので、びっくりしました」

「そうだな。まあでも、妻のためだ」

「そう、ですよね。いつか、そうなるんですもんね」

「ああ。早くお前に俺の仕事を覚えて貰わないとな」

十月十日とつきとおかの内に、ですか?」

「バカを言うな。実際そんなに時間は残ってない半年弱で全部詰め込むぞ」

「うへぇ! 勘弁してくださいよぉ!」

「うるせぇ、嫌だったらお前も子供を授かってみろ」

「僕まだ独身でーす」

「まったく呑気な奴だ」




 家に帰ると妻はまだ帰ってきてなかった。

 遅くなるって言って無かったのにな。

 リビングでくつろいでいると、妻が帰って来た。なにか荷物を抱えている。


「ごめんなさい遅くなって。はいこれプレゼント」

「ありがとう。なんだろう」


 渡されたショッピングバッグから白の不織布に包まれたものを取り出すと、それはスラックスだった。

 広げてみると、股上と股下の布地が異様に広く取ってあることが解った。


「マタニティスラックスよ。あと、下着のマタニティパンツと普段履き用のマタニティデニムも、マタニティナイトウェアも買ってきたの。全部ストレッチが効いているから、とっても履き心地が良いんだってお店の人が言ってたわ」

「へえ、そうなんだ」


 しかしそれにしても……。


「大きすぎないかな?」


 大玉のスイカを二つ股下に入れても問題なく運べそうな大きさだ。


「これくらいにはなるって、お店の人が」


 そうか。話には聞いていたけれど、そんなにデカくなるのか。




 日を追うごとに俺のタマはどんどんでかくなっていった。ちょうど鶏の卵くらいに膨らんだときに、産夫人科に行った。順調だそうだ。ちゃんと両タマに男の子と女の子が一人ずつ居て、すくすく育っている。


 名前を決めたいなと思ったが、それを妻に言うと、もう良いのを決めてあるのだそうだ。少しは自分の意見も聞いてほしいとは思ったが、しかし妻が欲しいと言った子だし、育てるのも妻なのだからと思い、それ以上は口を噤んだ。


 ちょうどその時期に悪阻つわりが始まり、金的を蹴り上げられたような鈍痛が、一時間に一回というハイペースで起きた。痛すぎて気持ち悪くなり、胃に何も入っていないのに何度も何度も吐いた。そんな状態だったので、食欲もなかったが、タマの子たちのために、無理矢理ご飯を胃に詰め込んだ。

 ご飯と言えば、好みが随分変わった。別にあっても無くてもいいやくらいに考えていたカイワレ大根が無性に食べたくなり、なんにでもカイワレ大根を掛けて食べた。味噌汁や卵焼きの上は当たり前。ご飯の上にもかけた。たまにコーヒーに入れることもあった。




 タマの子たちがさらに育ち、ソフトボールくらいの大きさになった頃、マタニティウェアのありがたさを知った。最初はデカすぎるだろうと思っていたが、今ではこれでないと入らない。

 今まで穿いていたズボンたちはお役御免となった。妻は容赦なくビニール袋にそれらを入れていった。なにも全部処分することないんじゃないかと思ったが、残しておいても仕方がないという妻の意見は極めて合理的だったし、生まれ来る赤ちゃんが着るものやオムツのためにスペースを開ける必要があるというのもその通りだった。




 マスクメロンくらいだろうか、この大きさは。最初に比べると随分大きい。だがまだまだこれから大きくなるらしい。


 その頃になると会社への出勤もかなりきつくなる。仕事内容云々の前に、そもそも行くまでの電車がきつい。満員電車で押し潰されそうになりながら、なんとかタマの子を死守するためにちょっと大股を開いてパーソナルスペースを広めに取るのだが、世は任夫 にんぷに対して風当たりが強い。舌打ちされたり、面と向かって「邪魔だ」と言われたりすることさえあった。優しい女性が席を譲ってくれたこともあったが、正直ありがた迷惑だった。肥大化したタマの状態では、座った方が苦しいのだ。なによりタマのスペースを確保するため、大股を開いて座らないといけない。必然的に、二人分のスペースを取ってしまう。そんなの気にせず座ればいいと言うのがSNS上の風潮だが、それを許さないのが現実社会の風潮だ。どれだけファボとRTリツイートを押されようが、俺のタマはフォロワーが守ってくれるわけじゃあない。自分自身で守らなきゃならなかった。だから結局毎日吊革に掴まり、大股を開き、舌打ちをされながら、出勤するのだった。


 会社に行っても、デスクに向かって中腰で何時間もデータを撃ち込む激務が待っている。仕事量自体は全盛期よりは減っている。後輩への引継ぎが恙無つつがなく進んだからだ。だが、自分の仕事のペースそのものが遅くなっているので、結局フルタイムで働かされることになる。残業は後輩が代わってくれた。持つべきものは、優秀な後輩だと思った。だがなにもかもすべて後輩が引き継ぐわけでは無い。もともと彼が受け持っている仕事があるのだから当たり前だ。溢れた仕事は、別の人のところへ回る。正直申し訳なかった。ほとんどの人が気にするなと優しい言葉を掛けてくれたが、中には冷たい人もいた。


「良いよな。もう後先考えなくていいんだから」


 心がとても傷付けられたが、自分が我慢すればいいと、抑え込んだ。

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